華やぐ時間

時の豊潤なイメージに惹かれて 。。。。

書評  『 いつか どこかで 』 アニータ・シュリーヴ

2005-09-09 20:08:34 | ★本
某誌に この本へのお奨め書評が載っていた
読んでいて タイトルのこの本には食指が動かなかったけれど 
書評を書いた翻訳家 鴻巣さんの文に共感するところがあり 丸写しで載せてみる

・・・略・・・
舞台は90年代初め。  ロードアイランドで不動産業をやっているチャールズと
ペンシルヴァニアの農場主の妻ショーンが再会し 31年前の初恋が再燃する。
お付き合いは文通から再開する。    ・・・・略・・・

手紙には、「間」の魔術がある。 投函した時から、テストの答案を提出したようにそわそわし、
相手の意図を正しく汲めただろうか、的外れなことを書かなかっただろうかと気を揉んで、
採点(返信)が返ってくるのをじっと待つ。         
たがいに家庭をもつふたりは、密かに届く手紙のことばを一語一語暗号でも解くように読み、
時には書き過ぎて後悔し、祈り、また次の連絡を待つ。      ・・・略・・・

これぞ恋愛ではないか。ほんの十年かそこら昔には、こういう風景が映画や本の中にあった。
待つ時間を失ったことで、わたしたちがなくしたものは確実にあるとつくづく思う。
わたしは、『いつか、どこかで』に、恋愛小説の原風景を見る思いすらする。

歳月を経て変わらない夫婦などいないだろう。  しかしそこには、年とともにほどよく
「枯れていく」夫婦と、 それとなく「腐食していく」夫婦の二通りがあるようだ。
ショーンに言わせれば、彼女の結婚生活は「それとわからない程度に、ごく微かに腐食して」
いるという。    なるほど、腐食の徴を感じる場面は、どちらの夫婦にもあった。
ひとつは、ショーンが上梓したばかりの詩集の上に、夫が何気なくワイングラスを置いて、
表紙を汚してしまうシーン。   もうひとつは、ある朝、チャールズが台所にいる妻に、
出がけのキスをしに行こうとするが、 そのわずか「七歩か八歩の距離を進むことが
自分にはもうできない」と感じるシーン。  長く連れ添っていれば、すれ違いぐらいある。
しかしこれらの場面は、夫婦がある「一線」を越えてしまったことを暗示する何かを
感じさせた。   こういう描写がシュリーヴは巧い。   ・・・略・・・

            鴻巣友季子(こうのす・ゆきこ  翻訳家・エッセイスト)

          * * * * 

手紙の「間」を この頃の電子メールのやり取りに置き換えることもできる
待つ時間は手紙やメールに限らず  いつもわたしをそわそわと落ち着かなくさせる
楽しみであり希望でもある  焦燥であり絶望でもある  杞憂であり深刻でもある
それでも わたしは待っている  待ち続けていたい
    



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