代替案のための弁証法的空間  Dialectical Space for Alternatives

批判するだけでは未来は見えてこない。代替案を提示し、討論と実践を通して未来社会のあるべき姿を探りたい。

真田丸 第7回「奪回」感想 

2016年02月22日 | 真田戦記 その深層
 今回は北条氏直軍と滝川一益軍が激突した神流川の合戦から始まりました。「神流川の合戦」って、これまで大河ドラマできちんと描かれたことがないような気がするのですが、一瞬で終わってしまって、ちょっと残念。
 ちなみに、神流川の合戦は戦国時代に関東地方で行われた野戦としては最大の戦いだったそうです。せっかく前回北条氏直が出てきたのですから、指揮を執る北条氏直の姿も少し映してほしかったような気がします・・・・。

 今回で滝川一益もドラマから退場のようです。明智光秀でも穴山梅雪でも、毎回、誰か退場していくごとに、「あー、もっと観たかった。退場なんて惜しい!」という思いにさせてくれます。
 一人ひとりの歴史上の人物に魂を入れて、それぞれの個性を三谷さんが丹念に描いているからですね。役者も、脚本がよいと自然に演技に魂も入るのでしょうか。
 明智光秀なんて本当にチョイ役だったのに、あれだけ強烈な印象を残したのは、本当にすごいことだと思いました。

 今回の強烈なゲストキャラは木曽義昌でした。たぶん、この後は木曽義昌が登場することってないと思うのですが、たった一回で強烈な印象でしたね。この義昌も記憶に残ります。

 「真田丸」の段田一益は、かつての大河ドラマ「秀吉」の段田一益とはずいぶん違った姿に描かれていました。あのお人好しで、はたして信長の家臣が務まるのか?と疑問にも思いましたが、逆にお人好しだったから務まったのかも・・・・・あり得ると、最後には思うようになっていました。

 ちなみに、滝川家と真田家はその後も因縁が深いのです。
 ドラマ「真田太平記」では描かれていましたが、真田昌幸は、後に、自分の娘(松ではなく、信幸・信繁の異母妹)を滝川一益の孫の滝川三九郎一積に嫁がせています。昌幸の娘の「お菊」役は、あの岡田有希子さんでした。(今回の大河では、その昌幸の娘は登場しないようです)。
 滝川三九郎は、大坂の夏の陣の後に義兄である真田幸村の娘たちを懸命にかくまい、生き延びさせようと尽力するのですが、これが涙なしでは語れないような数奇な物語なのです(詳しくは「真田太平記」等で)。孫の滝川三九郎は史実の上でも信じられないくらい良い人ですが、そのイメージから逆算すると、今回の一益像になるのかも。
 

<背景の史実>

(1)当時の沼田城の情勢

 ドラマでは、真田軍が沼田城を奪回したとき、当時の沼田城がどういう状況だったのか全く描写していませんでした。ちゃんと描こうとするとあまりにもややこしくなるのでスルーされたのだと思います。
 当時、藤田信吉(かつて北条家臣として沼田城代だった)が、本能寺の変を知って滝川軍に対して反乱を起こし、沼田城代の滝川義太夫と藤田信吉の反乱軍とのあいだで激しい戦いが展開されていました。ドラマでは何の説明もなく、沼田城に遺体が散乱している様子が映しだされていましたが、あれは滝川VS藤田の合戦で発生した死傷者と考えられます。
 史実では、滝川一益が大軍を派遣して藤田軍を包囲して、藤田を退去させ、昌幸に沼田城を返したというのが実態のようです。(平山優『天正壬午の乱』戎光祥出版より)
 昌幸が、一益をだまして沼田城を乗っ取ってしまったというのは、三谷さんの脚色です。

 この藤田信吉という武将、今回の大河ドラマでは残念ながらスルーされるようです。藤田は沼田から退去した後、越後の上杉景勝に仕え、後年、関ケ原の合戦の一因をつくることになる武将になります。今回の大河でも登場してもよいのでは・・・・と思うのですが、スルーされたのはちょっと残念。
 今回の大河ドラマ、視聴者が混乱しないように登場人物は相当に絞っています。しかし、絞っていますが、登場させる限りは、必ず役割を与え、その人となりが視聴者に印象として残るよう、三谷さんが思い入れをもって丹念に描いてくれています。それでよいと思います。
 他にも出してほしいと思う武将は多いのですが、さすがに登場人物が多くなりすぎるとドラマとして混乱するでしょう。あるていど絞るけどその代わり個性を丁寧に描くという方針に賛同します。
 
 また、神流川の合戦で、昌幸は滝川軍に一兵も援軍を出していなかったと描かれていましたが、『加沢記』には、真田昌幸も三百余騎を派遣し、滝川軍に合力したとあります。


(2)真田信繁が木曽に人質として留め置かれた件

 これは史実だそうです。もっとも、小諸城におばば様を救出に向かったところで取り押さえられて人質になったというのは三谷さんの脚色です。
 また、真田信繁が木曽義昌の人質になっていたことを確実な史料で証明したのは、真田丸の時代考証担当者でもある丸島和洋氏なのだそうです。
 木曽で人質になっていた真田信繁が真田家臣の河原綱家に出した手紙の写本が東京大学史料編纂所に保管されているそうですが、以前は差出人が特定されていなかったそうです。そこに「弁」と書かれているのを丸島氏が見つけ、この手紙の差出人が真田弁丸(つまり信繁)と特定されたとのこと。

 その木曽から出した信繁の手紙は「お手紙をもらってとってもうれしいです。私たちももうじき帰れそうです!」という内容。文面が子供っぽいことから、当時まだ信繁は本当に子供だったという説の根拠の一つとなっています。
 ドラマでは源次郎は1567年誕生説を採用しているので15歳ですが、1570年誕生説もあります。この弁丸の手紙は1570年誕生説を支持する一つの根拠となっているそうです。(平山優『真田信繁』角川選書、参照)
 いずれにせよこの木曽からの手紙は、天真爛漫な信繁の性格が垣間見える文面です。ドラマの堺信繁は、本人の実像に肉薄している人物描写ができていると思います。

 「弁丸」は、真田源次郎信繁の幼名です。ドラマでは、すでに元服して信繁と名乗っていますが、実際にはドラマの1582年の時点でまだ元服しておらず、まだ信繁ではなく「弁丸」のままでした。
 「信繁」という名前は、武田信玄の弟の典厩信繁からとったものですが、さすがに武田勝頼の存命中は、昌幸も主家に遠慮して、「信繁」という名前を自分の次男につけることは憚られたと思われます。


(3)姉の松の行方不明の件

 前回に描かれた織田信長のもとに人質になっていた松が、本能寺の変で行方不明になってしまったという件。史料的な根拠はない三谷さんの創作ではないかと思っていたのですが、『加沢記』をよく読んだら、ちゃんとその件も記載されていました。
 『加沢記』には、長女が行方不明になって「昌幸公御母公の御嘆き更に止むときなかりければ・・・」とあります。ドラマの昌幸は泣いていませんでしたが、大変な嘆きようだったと書かれています。家臣たちは手分けして尾張、遠江、三河、近江・・・・と探し回ったが手がかりがなくあきらめたとあります。
 その後の松がどうなったのかは、ネタバレになるので書きませんが、昔話の「安寿と厨子王」のようなミステリアスな話です。
 

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