代替案のための弁証法的空間  Dialectical Space for Alternatives

批判するだけでは未来は見えてこない。代替案を提示し、討論と実践を通して未来社会のあるべき姿を探りたい。

真田丸の次の上田の武将の物語は手塚治虫のご先祖?

2016年12月11日 | 真田戦記 その深層
 先月、東京新聞に面白い記事が載っていましたのでシェアします。
 大河ドラマ真田丸で盛り上がる信州上田。真田以外の上田の武将を主人公にした映画を作る構想が浮上しているという話です。その武将の名は、木曽義仲に仕えた平安末期の武将・手塚光盛。なんと、手塚治虫さんのご先祖。
 手塚光盛は、倶利伽羅峠の合戦で活躍するなど、木曽義仲を支えて戦い続けた、『平家物語』にも登場する有名な武将です。

 今回、手塚家に伝わる家系図と、上田市の安楽寺(国宝・八角三重塔で有名)に伝わる資料が一致し、手塚治虫さんのご先祖が上田の武将・手塚光盛であることが裏付けられたそうです。
 漫画『陽だまりの樹』に出てきた医師・手塚良仙は、先祖の位牌を上田の安楽寺に収めていたという資料があり、安楽寺で探したところ、その位牌も見つかったそうです。
 

 『東京新聞』2016年11月28日夕刊

 手塚治虫さんは、亡くなる前に先祖の光盛を主人公にした漫画を描こうという構想を温めていたそうです。長男の映画監督の手塚眞さんは、治虫さんの遺志を継いで、手塚光盛を主人公とする映画を作りたいという意欲を示しているとのことです。
 真田昌幸・信繁(幸村)の次に映像化される上田の武将は手塚光盛ということになりそうです。これは楽しみ。
 
 手塚治虫さんは、いちど、『火の鳥(乱世編)』で、先祖の手塚太郎光盛を登場させているそうです。私も『火の鳥(乱世編)』を読んでいますが、何せ読んだのが小学生の頃だったので、まったく気づきませんでした。

 上田には下の地図のように、別所温泉の近くに手塚という集落があります。手塚治虫さんのご先祖は、この村の武将・手塚光盛だったとのこと。おそらくは、最初にこの辺りを開墾して住み着いた一族の棟梁だったのでしょうか。この近くには、平安末期の建築物である中禅寺薬師堂がありますが、その薬師如来の台座には弓馬の鍛錬をする武士の姿の落書きが描かれていたそうです。ひょっとして、手塚光盛が自分の姿を描いた落書きだったりして・・・・。手塚一族にはその頃から漫画の才能があったのか? 
 私は地元の人間ですが、漠然とこの集落について、ああ「手塚治虫と同じ名前だなぁ」とは思っていても、まさか本当に手塚治虫のルーツの村だとは思いもしませんでした。

  

 上田市手塚周辺図 (この付近は、平安時代の重文・薬師堂がある中禅寺、国宝八角三重塔のある安楽寺など文化財の宝庫) 

    

 手塚家の位牌と資料が見つかった安楽寺 (日本唯一の八角三重塔が現存)


 上田小県地方は、真田軍が徳川軍を二度破ったのみならず、それ以外にも勇猛な武将を多数輩出しています。
 大河ドラマ「風林火山」で描かれたように、武田信玄が村上義清と戦って二度の敗戦を喫したのも上田でした。真田丸に登場する出浦昌相も室賀正武もその先代の頃は、村上家の重臣として武田軍と戦っていたのでした。室賀正武さんは、それゆえ、真田昌幸に対してライバル心が強かったわけです。

 さらに時代を遡ると、木曽義仲が平家打倒の旗揚げをしたのが、上田市(旧丸子町)の依田城でした。木曽義仲軍に馳せ参じたのは、上田小県地方など東信濃の武将たちでした。その上田の武将の一人が、手塚治虫さんのご先祖の手塚光盛だったわけです。

 木曽義仲の挙兵の地である依田城の城主は、依田実信でした。彼も手塚光盛などと共に、平家打倒の挙兵に参加し、自分の城を義仲のために提供したのでした。

 「依田」という名前で戦国ファンはオヤッとなる方も多いかと思います。天正壬午の乱の際に、信濃の武将で唯一徳川家康に付き、北条の大軍を相手に孤軍奮闘した依田信蕃は、木曽義仲に仕えた武将・依田実信の子孫です。
 残念ながら大河「真田丸」には登場しませんでしたが、依田信蕃が徳川家康を支えなかったら、徳川軍は天正壬午の乱のときに北条軍に敗れていたかも知れません。
 依田信蕃は真田昌幸を徳川方に誘い、依田=真田の連合軍で北条軍の糧道を寸断して、北条氏直軍を撤退に追い込み、窮地の家康を救ったわけです。
 大河「真田丸」で、いちばん残念だったのは、依田信蕃が登場しなかったことかも知れません。武田信玄、勝頼、徳川家康に仕え、忠義心厚く戦にも強い。依田信蕃も、いつかドラマや映画などでいちどキチンと描いて欲しい武将です。


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