ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

ボストンで出会った「サムライ」

2013-07-17 | 日本のこと


昔ボストンに住んでいた頃、ここ、ボストン美術館の会員資格を持っていました。
下は75ドルから上は天井知らず?のメンバーシップを得ると、
会員証とともに車のウィンドウに貼るシールが送られて来て、
それを内側に貼っておくと駐車場のフィーが無料になり、なんといっても
一年以内であればたとえ毎日来ても無料というシステムでした。

結局思ったほど頻繁には来られなかったので、お得だったかどうかは微妙でしたが。


日本では必ずしもそうではありませんが、一般に美術館というのはどこでも、
広くて明るい空間の広がりが精神をのびやかにさせてくれる効果があります。
このボストン美術館もまさにそのとおりの癒しの空間で、日本に帰ってからも
ボストン滞在の折には必ず一度は訪れて、おなじみの作品を観ることにしています。

世界有数の規模とコレクションを誇るこの美術館は、一日だけではとても回りきれず、
毎年のように来ても「今回も全部観られなかった」と残念な思いが残るのですが。


さて、今年の楽しみは、新しくオープンしたSAMURAI! というコーナーでした。
この、タイトルにわざわざエクスクラメーションが付けられているのは、ほかでもない、
アメリカ人に有名な坂井三郎原作の同タイトル小説「SAMURAI!」からの引用でしょう。


フェノロサとビゲローという日本美術の偉大なコレクターによる収集品が
ここでは「ボストン美術館所蔵」として展示されており、なかでも浮世絵の圧倒的なコレクションが有名です。
今回は侍の鎧、甲冑のコレクションを一挙に公開するとのことでしたが、どうやらコレクションではなく
日本から借りてきたものであるということ。

果たしてアメリカの美術館が「サムライ」をどう展示するのか。

非常に興味深くこの予告を見ていたので着いてすぐに行ってきました。



ナビゲーションが裏道を示したので裏玄関に到着。
勿論ここからでも徒歩で入館することはできます。



メンバーになれば入館料はいらないですよ、と告知するお知らせの横に、
企画展である「SAMURAI!」の幟が。

パーキングは満車だったので迷わず正面玄関のヴァレーサービスを頼みました。
このあたりは都心なので駐車場代が非常に高く、美術館併設の安いパーキングが
もし空いていなかった場合、一律25ドルの民間駐車場しかありません。

それなら最初から同じ料金のヴァレーを利用するのがお得。
このヴァレーサービス、アメリカでは病院、ホテル、レストラン、どこにでもあって、
大抵、独自の業者がやっています。
美術館の真ん前に車を停めるだけで、持って行ってくれ、帰りは同じところまで持ってきてくれます。

駐車場の無い日本の施設でもこれをやればきっと流行るだろうなと思うのですが、
日本は駐車場を確保するのが大変なのか、いまだに見たことがありません。



正面玄関にはもっと大々的に広告。



美術館併設のカフェ。
ここにも「サムライ!」がありますが、ここが特別展の入り口です。



エレベーターは地下に降りる専用。
ここにも「サムライ!」。



 

なんだか不思議なノリのキャラクターが・・・・・・。
アメリカには「萌え」が浸透していないので、どうしてもこういう
かわいくないウサギになってしまうわけですが、
これ、よく見てください。

USAGIMFA

これは「ボストン美術館のウサギ」(Museum of Fine Artsが正式名、略称MFA)
と書いてありますね。
上は

「封印が解かれた侍の秘密」

とでも訳しておきましょうか。
下に何が書いてあるかというと。

伝説のサムライウサギがビデオゲームになって帰ってきた。

「ウサギ・ヨウジンボウ ロウニンの道」

現役合格を目指す学生にはお勧めしたくない縁起の悪い題名ですが、
なにしろこのフリーゲームが右下からダウンロードできるようです。
ボストン美術館にはゲームプログラマーもいるんですね。



階段を下りていくと、スクリーンにはかっこいいビジュアルアートで
サムライのイメージ映像が流されていました。
下のロゴの前ではしゃぎつつ写真を撮っているのは、どうも
台湾からの学生ではないかという気がしました。

美術館というのはいつ来ても他の観光地よりも中国韓国人は少ないものですが、
もし彼らが来ていたとしてもこの企画展には足を運ばないのではないか、と
何となく思ったからです。

我々日本人は、自国の文化がどのように異国で受け入れられているか、
という興味からこういうものを積極的に見る傾向がありますが、中国人は

「よく知っているし、日本の文化は中国が伝えたものだから」(本当にこう言うらしい)

韓国人は

「サムライの起源は韓国だから」(それを主張するために『サウラビ』という映画も作られたことがある)

という具合なので、どちらもこのような企画で日本文化が扱われていること自体、
「面白くない」という感情を無条件に持つのではないかと思われます。

日本憎けりゃ文化も憎い、サムライをアメリカ人が称えるのは面白くない、
そういった低レベルの僻み根性を、全員とは言いませんが多くが持っているということですね。


余談ですが、話のついでに。
中国人観光客は最近世界中で評判が悪いのですが、なかでも美術館での態度が悪く、

「フラッシュ禁止なのに無視してフラッシュをたく」
「展示物の前で写真を撮りあって、いっこうにどかない」
「美術品を触る」
「人を押しのける」
「ガイドの説明を聞かず『中国文明の方がすごい』と大きな声で言ったりする」
「美術品の鑑賞の意味が分からず、難でも金に換算していくらくらいだときいたりする」

という、あいかわらず世界の田舎者ぶりを発揮しているといいます。

とにかくこの日、展示室ではこの台湾の学生以外は東洋系がおらず、
不愉快なものを見ずに済みました。


 

写真にとると大したことはありませんが、実際にはもっと鮮やかで綺麗でした。
「サムライ=ライジングサン」のイメージはここでも健在です。



すべてがガラスケースに納められています。
鎧を全方向から、しかも至近から矯めつ眇めつ見ることが可能。





陣羽織、刀かけ、乗馬用鐙、鉄の笠など。



言わずと知れた宇治川の源平合戦

川に馬で我先にと歩み入っているのが、佐々木高綱と梶原景季の二人。
二人の乗るのは頼朝から与えられていたいずれも名馬です。
この二人が「宇治川の先陣争い」と言われる競争によって突破口を開き
その働きによって義経軍は勝利をおさめたわけですね。

この時に義経軍が戦っていたのが、木曽義仲です。

(と、ここの説明にそう書いてありました)




各種サムライ・ヘルメット。

どうということのない展示ですが、ライトの当て方が素晴らしく、
展示台の下にできる影がまるでアートのようです。

左から二番目はいわゆる義経型の兜ですね。

 

ちゃんと顎紐まで保存されている、状態のいい兜。

この顎紐を「兜の緒」、または忍緒」(しのびのお)と言います。
勝って兜の緒を締める、とは顎紐のことです。



この展示の圧巻は、実物大の馬で駈ける三人の侍。
蹄の音も聞こえてきそうなこの迫力の展示に、アメリカ人たちは皆真剣に見入っていました。

この女の子は、終始弟と一緒に「Cool! Cool!」を連発していました。




馬にもちゃんと鎧を付けてやっています。
因みに、義経の時代、馬にどういう名前を付けていたかですが、
宇治川の先陣争いをした二人の武士の馬は「スルスミ」「イケヅキ」といったそうです。

「アオ」とか言う名前を付けるのは農民だけだったようですね。



向こうにある兜が中世ヨーロッパのもののようで面白いですね。
大将ではなく、一般兵の兜かもしれませんが、
取りあえず武器が無ければ頭突きをすればダメージを与えることが出来そう。

この鎧のタイプは「最上胴」といい、鉄板を矧(は)ぎ合わせた四枚の板を
蝶番(ちようつがい)でつないだ胴を持つ鎧のことです。
金銅(かなどう)とも言います。



面白いので、英語で紹介しましょう。
左から

STANDARD (騎兵連隊旗)=幟(のぼり)

WAR DRUM =陣太鼓

BATTLE STANDARD=戦陣幟

FOLDING WAR FAN=扇子

SURCOAT(中世騎士が鎖帷子のうえに着た羽織)=陣羽織



ここで圧巻その2。
鎧兜で練り歩くサムライ達。



日本でもしこのような展示があったとしても、決してこのような演出はしない気がします。
顔の全く見えないこの侍の一群が、実に生き生きと、
かつての姿を彷彿とさせるかのように再現されているのには、日本人として心底から感動しました。



彼らが歩みを進めるときに立てる、鎧の触れ合う音さえ聴こえてきそうです。



そして、変わり兜の数々。



日根野兜といわれるもの。

後ろの羽は、鷹の羽を模しているそうです。
車状のモチーフは、解説によると「仏教に関するもの」ということですが、
説明がいまひとつ良くわかりませんでした。ORZ



右はどう見てもホタテガイですね。
左は正面にイチョウ(長寿の象徴)をあしらった、
「三日月タイプ」の兜。



左の兜はどう見てもシカですが、ちゃんと「耳」があるのがかわいい。

しかし、このようなものをずっと被っているのはさぞ首が疲れたでしょうね。



おまけにこんなマスクまで被って・・・・。
兜の内側には布が貼って痛くないようになっていたそうですが、
このマスクは本当に戦闘中しか着用できなかったのではないかしら。



兜には鳥獣のモチーフをあしらったものが多かったのですが、この羽はなんと
「天狗」。
天狗の羽を使用している、とどうも言い張っていた(笑)ようです。

まあ、お殿様の趣味ってやつだったんでしょうね。



そして、これ。
ひときわ小さい鎧兜は「子供用」。
ここの説明が面白かったので、文章を写真に撮ってきました。



12歳近くに男子は元服すること、そして成長を祝う「端午の節句」は、
今日でも日本で受け継がれており、その期間、男子のいる家庭は

フルアーマーを付け、スウォードやスピアーなどのウェポンを携えたたサムライ・ドール

を飾るということが書かれています。

というあたりで展示を皆観終わり、出たところにはミュージアムショップがありました。
ここではサムライグッズとでも言うのか、プラスチックの刀とか、なぜか
「ゼン」という名の、小さな箱庭で、備え付けの小さな熊手で白砂に模様を付けて楽しむ
「ヒーリンググッズ」、クロサワの「羅生門」「三匹の侍」「隠し砦の三悪人」などのDVD,
侍やニンジャについて書かれた本、あるいはソーセキ・ナツメの「I'm A Cat」、
和風のアクセサリーやなどなど、
サムライの、というより日本文化についての商品が売られていたのですが。
わたしはうちの「本来ならば元服の済んだばかりの息子」のために、
少しばかり本を買い求めることにしました。

かれは誰に似たのか、(ってわたしですが)本を読むのが非常に早く、
三センチくらいの厚みの本でも一日で読んでしまいます。

キンドルも持っているのですが「印刷の匂いがしないからあんまり」と
生意気なことを言って、本をしょっちゅう買わせます。
今回もボストンに来て10冊ほど買ってやったのですがもうほとんど読んでしまいそうな勢い。

そんな彼の何かの役に立つかとここではこんな本を買ってみました。



さっそく扉絵の日本人らしい少女の格好が中国風ですが(笑)



日本人がイラスト、監修を手掛けているので、あまり間違ったことも書いていないだろうと。
題名だけ見て、中をぱらぱら見ていたら、



宮本武蔵のページ。

「武蔵はニンジャじゃないんだけどな」とわたしがいうと息子、
「よく見て。表紙に、ちゃんとアサシン、サムライ、アウトローって書いてあるでしょ」

そういえばそうですね。(-_-)



というわけで、ボストンでであった「サムライ文化」。
「アメリカ人目線」で見る侍の姿は、ここにいた女の子のセリフではありませんが実に「クール」でした。

誇らしいというのは少し大げさですが、
あらためてこんなクールな文化を持つ国、日本に生まれて良かったと思ったものです。
そして、わたしの横で目を輝かせて鎧兜を見ている女の子に、もし

「わたしのアンセスターはサムライなのよ」

と言ったら、彼女はどんな顔をするだろうか、などと少し夢想してしまいました。








アシアナ航空・「差別的名前報道」でテレビ局訴訟の斜め上

2013-07-16 | 日本のこと

サンフランシスコ空港で墜落したアシアナ航空機事故から一週間。
三人目の犠牲者が出ました。

この間、事故調NTSBとのやり取りを巡って、

「調査内容を公表しないように」

と異例の申し出を非公開にしたアシアナ航空側ですが、その依頼を
また公開されてしまい、この事実に呆れる声も上がっているようです。


そんな中、最新のニュースが飛び込んできました。

Asiana Airlines confirms it will sue KTVU-TV
over broadcast of racist fake pilot names

(アシアナ航空は架空のパイロットの名前(を報道した件)で
レイシストの報道をしたとしてKTVUを訴えることを確定した)


「斜め上のニュースが飛び込んで来たらまた書きます」

と前回この件について書いたときに予告したのですが、
こんな早くにその機会がやって来るとは(笑)

事の起こりは、この事故を報じるサンフランシスコ地元のテレビ局
KTVUが、字幕で事故機のパイロットの名前を

「ありそうなコリアンネーム(だが英語読みすると爆笑)」

に、適当に変えたものが何の手違いかオンエアされてしまったこと。
いずれも報道では、

「どう不謹慎だったのか」

具体的にどういう名前にしてしまったのかを伏せているのですが、
こういうことには一生懸命になるエリス中尉、英語のネットを検索して、
冒頭のキャプチャ画像を拾ってきました。



あははは。

こりゃはっきり言って「ネットネタ」ですわ。

Something  wrong (なんか変だぞ)
We're too low (俺ら低過ぎるし)
Holy F○○○(説明なし)
Bang Ding Ow(バン!ドン!わー!)

うーん。

ちゃんと上から読むと事故の展開に合わせてストーリー仕立てなのね。
しかし、この名前はどちらかというと三番目を除いて中国系だな。
4番目はどちらかというとベトナム人の名前ですね。
やっぱりアメリカ人はアジアンの名前の違いなんてわかってないらしい。

ツッコみどころはそこじゃないだろって?

この衝撃的な(笑)放送事故は、ネットで拡散され、不謹慎だと非難する声が上がり、
さっそく指摘を受けたテレビ局側は公式に謝罪。

夏の間勤務しているインターンが、権限なしで電波に乗せてしまったこと、
そしてワシントンの事故調報道部関係者が伝えた名前も正確ではなかったと弁明しました。

ところが、これを「レイシズム」であるとし、アシアナ航空は本日付けで
KTVUを訴訟する決定をしたというのです。

いやー、予想を上回る斜め上です。
やってくれるとは思っていましたが、ここまで予想外の展開が来るとは(わくわく)


ところで事故後、韓国国内のテレビキャスターが

「亡くなったのが中国人で幸いだった」

として舌禍を巻き起こし、さらにその言い訳で

「韓国人でなくてよかったという意味だ」

と言ってしまい火消しどころかガソリンをぶっかけてしまったということがありました。
その後、件のキャスターではなくテレビ局がそれを謝罪したのですが、
その謝罪後も批難が収まらないことに対し

「謝罪を受け入れなければいけない」

と上から目線で余計なことを言って今も全く騒ぎは収まる様子がないわけです。


確かにこのような悪ふざけは仲間内でやるもので、公共の電波に乗せた
KTVUは放送局として責任を問われるのが当然ですし、
この件で悪戯をしたインターンはすでに処分されていることと思われます。

しかし(とあえて言います)。


このおふざけと「中国人が死んで幸いだった」という発言。
比べられるものではありませんがあえて比べます。
どちらが倫理的に悪質かというと、圧倒的に後者でしょう。

しかも韓国のテレビ局はこのキャスターを処分したわけではなく、
「謝罪したのだから受け入れてほしい」
などと、押し付けがましくアナウンスしてさらに中国人を怒らせました。

翻って不祥事に対し、KTVUは関係者処分、即座に謝罪、しかもNTSBまでが
「謝った報道をさせてしまったこと」を直接の関係もないのに謝罪しているわけですが、
アシアナ航空は謝罪を受け入れるどころが、今のこの時点で告訴に踏み切ったと。

テレビ局と航空会社とは別の企業体であるとはいえ、この事故を見る世界の目は
どちらがいったことも「韓国というひとつの国の発言」であると捉えるでしょう。
そのうえで言うと

「自分のミスは謝罪したから受け入れろと高圧的にいい、その一方
自国の飛行機を落とした国のテレビ局に対して謝罪を受け入れずいきなり訴える」

これは、どう考えてもダブルスタンダードです。

冒頭の、NTSBに「調査結果を公表するな」と申し入れたという件もそうです。

自分は勝手に機長の談話を発表し、CAを事故早々カメラの前に立たせてインタビューさせ、
あれこれと勝手な行動をとるので、事故調から「独自にいろんなことをするな」
とクギを刺された当事者が言うことでしょうか。

自分がやるのはいいが相手がやるのは(たとえ正規の業務でも)許さない。

これも立派なダブルスタンダードです。

そして、もう一つ。

「中国人で幸い」

という発言は、拡大解釈すればこれも立派なレイシズムだと思うのですが、
テレビ局のアルバイトの悪ふざけに、たとえば
「事故で亡くなっている人もいるのに不謹慎」という理由ではなく、

「レイシズムであるから」

とレッテルを貼る、これもダブルスタンダードではないのでしょうか。


現在日本国内でも、自分に都合の悪い、あるいは不愉快な言論は
「レイシズム」「ヘイトスピーチ」とまずレッテルを貼り、その言論そのものを封じたり、
非難する過程で相手にその「レイシズム」「ヘイトスピーチ」を弄する民族団体があります。

自分が陥っているのがダブルスタンダードであるという認識に決して立てない。
自分側に理があるということに毫も疑いを持たない、

共通するこれらはもしかしたらこの「民族」の特性なのでしょうか。


この報道に対するアメリカのネット言論は、たとえばニュースサイトに併設された
公式のコメント欄においても、否定的なものがほとんどです。

彼らの声を少し抜粋してみましょう。

「わたしの予想では0だと思うが、もしアシアナがこの裁判でいくらか賠償を手にしても、
そんなの他国の空港で250万ドルの飛行機を落として壊し、大勢の人を負傷させ、
3人も殺したことに対して償わなければならない賠償金には遠く及ばないよ」

So let me get this straight: some joke names damaged their reputation
more than actually crashing a plane?

(じゃはっきりいわせてもらうよ。
この冗談ネームが彼らの評判を害したっていっても
飛行機墜落させたのにはとても及ばないでしょ)

Good luck with that!

(頑張ってね!《棒》)

They have hired and attorney: We Su Yu

(そして彼らが雇った弁護士の名前はWe Su Yu《We sue you・訴えるぞ》だった)

Asiana's announcement appears to indicate
Asiana is more concerned with its reputation
(which ironically they have already damaged on their in a huge way)
than with the lives and well-being of their passengers.

(広報は今回の訴訟を、アシアナの評判を考慮したためだと言ってるね
《もっとも強烈なやりかたですでに自分で評判をズタズタにしているっていうのに皮肉だな》
乗客の命や安全より大事なことなのかね)

もちろん「差別は許せない!」とただひたすら息巻く人もいますが、
大抵は

●こんなことで訴えて自分たちの起こした事故への非難をそらそうとしているのか

●乗客のことより自分の会社の評判のためにこんなことを訴えるとは

という批判的な意見で占められています。


そして中には、

「黙ってやり過ごしていれば誰も知らなかったのに、こんな大騒ぎするから
この『差別的な』ネームが有名になっていつまでも取りざたされるな!」

という意見もあります。

わたしはこの件を日本語でも検索してみましたが、出てきたのは
「東亜日報」(韓国の新聞)の記事でした。

そこでもドン引き。

アメリカのメディアがこの件を報道するのに、その肝心の「差別ネーム」を
具体的に全く明らかにせずに訴訟についてだけを述べているのに対し、
この韓国の国内紙は本日このエントリで挙げたすべてを原文で報じ、
ご丁寧にもどういう差別的な意味があるかまでを細かく説明しているのです。

そして、

在米韓国人をはじめ、多くの米国人も、明白な人種差別であり、
悲劇的事故への侮辱だと、憤りをあらわにした。
アジア系のジャーナリストの連合体「米国アジア系記者協会(AAJA)」は、
「言葉では言い表せないほどの激しい憤りを感じている」と明らかにした。

怒っているのは韓国人だけじゃない!
多くのアメリカ人もこんなにこの差別に対して怒っているぞ!

と、言っているわけですが、これ、何かに似ていますね。
そう、在米韓国人がアメリカで起こしている日本の慰安婦問題に対する非難決議です。

実際公的にはともかく、アメリカ人はほとんどが上のような意見のようですけどね。


それにしても、今回のことや、あるいは日本国内で戦後行われてきた
「人権」を楯にしたあれこれを見ていると、まさにこの「人権」という言葉は
時としてどんな犯罪者にとっても、本来なら権利を享受できないはずの外国人にとっても
自分の立場を正当化する実に便利な万能の呪文だと言えます。

これを使えば昨日までの加害者も被害者となって、
それを武器に相手を刺すことすらできるのですから。


人権とは実はそれを使用する側の意図によっては
いかようにも悪用できる、取扱注意の危険物でもあるのです。

悪名高い人権法案が、民主党政権下で閣議決定されていたというのを聞いて
背筋を寒くした人はおそらくたくさんおられるでしょう。
その人権法案を通すことを外国人参政権の成立とともに強く推していたのが、
やはりこのアシアナ航空と同じ国の民族団体であったことがわかっています。

この、見事なまでに同じ戦い方。
やはり同じ民族だからですか?



追記:

記事中、名前を創作したのがテレビ局のインターンだと書いていますが、
テレビ局ではなくNTSBのインターンだったことがわかりました。
NTSBが謝罪したのは妥当であったということです。
今日付けのニュースでNTSBはこのインターンを解雇処分にしたことが報じられていますが、
アシアナ航空は当初このインターンを訴訟することを検討していたそうで、
処分決定を受けて直接報道したKTVUのみを対象にする予定だそうです。

Good luck with that!:)


目黒・防衛省~海軍技研跡潜入記

2013-07-15 | 自衛隊

目黒の防衛省には防衛研究所図書館資料閲覧室があって、
オンラインで公開されていない資料を見に、何回か来たことがあります。

勿論そのときは、全く私用での資料利用が目的ですので、
周辺駐車場に車を停めてから歩いていくわけですが、
この目黒区近辺、何しろ駐車事情が劣悪なのです。

狭くて高い(青山近辺より高い)コインパーキングにやっと空きを見つけたら
不可解な場所にわざわざ立てられた鉄の柵に開けたドアをぶつけたり、
超絶狭い路地奥の駐車場で、車の角をこすったり、何しろ今までにしたことのないような
過酷な駐車体験を強いられる「魔のゾーン」でした。

「関係者」となってこの広大そうな敷地に車のまま入っていけたらいいのになあ、などと、
一度はこのブログでもそんな実現性のなさそうな願望を語ったものです。

しかしながら、願望というものはなんでもとりあえず口にしてみるものですね。

このたび、ある事情で、目黒の防衛省の中に許可を得て車のまま浸入するという、
エリス中尉的には「アガリ」ともいうべき僥倖に恵まれたのでございます。


その主眼たる主な目的については、おいおいお話していくつもりですが、
今日は、せっかく潜入したので、車を走らせながら撮ってきた写真をご紹介しつつ、
ここに昔あった海軍技術研究所について調べたことを書いていこうと思います。



まずは入口から。
ここは公道に面した一つしかない正門なので、誰でも見ることができる部分。
資料室に来るときには、もちろん歩いてここまでやってきて、



この右側にある守衛室で入館許可を書くわけです。
そうすると、入館者にはもれなく首からかけるタグを渡されるので、
それを付けて入口近くの資料室に向かいます。
ちなみに、一般利用者は、他のところに行くことは許されません。

しかし、一度ですが、資料室に行ったときに自衛官対象の講演があるのを知り、
一般人も聴講が可能であると確かめて、別の棟にもぐりこんだことがあります。
ハーヴァードで講師をしていたとかそういう人物の日米安保についての講義でした。

かなり期待して聴講するもこの講義、はっきり言って突っ込みどころが多すぎ、
もし時間があれば全く部外者であるのも忘れて実際に突っ込んでしまうところでしたが、
まあその話はどうでもいいのでさておき。

要するに一般人が入り込んで、たとえ他のところにいたとしても咎められるような
そういった厳重な警戒をしているような雰囲気ではなかったということです。

何が言いたいかというと、こうやって内部の写真を公開しても、いいよね?
この内部、軍秘とか部外秘じゃないよね?ということです。



映画に出てきそうな雰囲気の、時間が止まったような建物。

ペリーの浦賀来航をきっかけに「外敵」に対抗する、つまり「国防」にいきなり目覚めた幕府は、
ここ目黒の「おとめ山」に砲薬製造所を作りました。
明治政府になってから、ここは目黒火薬製造所として、黒色火薬(火縄銃に使う)
が作られていましたが、何年か後に海軍の火薬製造所となります。

海軍は当初築地に技術研究所を持っていたのですが、関東大震災で被害を受けたため、
その後、この目黒の地に組織を移転させます。
そのときに海軍唯一の統一技術研究所がここに誕生したのでした。


ここには当初

理学研究部

電気研究部

造船研究部

の部門があり、たとえば昭和11年現在、理学研究部では
 暗視装置、つまり暗中測距装置などの開発や熱線応用観測装置の研究。
電気研究部では電波伝播(シャレ?)を逓信省と協力して研究していたようです。

この資料(海軍技術研究所資料一般・防衛研究所図書館資料閲覧室所蔵)では

「三菱水槽」「逓信省水槽」

と帝大の船舶工学科が協力して、などという文言が見えます。

しかし、ここにも水槽がありました。



グーグルアースでキャプチャーした目黒防衛省の俯瞰図です。

画面上に見えている口の形の建物が幹部学校。
緑の長い長い屋根は、グーグルアースで見てもすぐにここの所在が分かるくらい
目立っているのですが、「よく養鶏場でもあるのかと聞かれる」というこれ、
「目黒水槽」といいまして、1930年には完成していたという船形実験のための水槽です。

本土空襲のときにこの水槽は破壊されてしまったということですが、
B-29のパイロットもこの海軍技研は見つけやすかっただろうなあ・・・・。
この長い屋根(360mあるらしい)のおかげで。

円形水槽など、いろいろな形の水槽があったらしい、ということはわかりましたが、
戦後、1956年(昭和31年)、この長い水槽が復元されたときに、
こちらも同じように復旧され、ほとんど当時の形のまま現在も使われているということです。

空から見た写真だと、どこが水槽だかわかりませんね。




こんな看板を発見!

船形試験水槽は1909年にはすでに築地に設置されていましたが、
この水槽の設置と同時に海軍技研が成立しました。

「実験水槽」の歴史は海軍技研の歴史でもあったというわけです。

ここである人物を紹介しましょう。


「造船の神様」とまで言われ、戦艦大和の設計にもかかわった、
初代海軍技研造船研究部長、平賀譲です。

平賀が目黒に設置されて最初の造船研究部長になったのは1925年のことですが、
このときの最初の仕事というのが、震災で壊滅した艦艇型試験水槽を
ここ目黒に再建することでした。

目黒水槽が完成するのは5年後の1930年のことです。
しかし、平賀は、このブランクの期間、

「大水槽完成迄数年間を空しく拱手するの不利を慮り、
且つ研究に従事するものの士気振興の良策たらしめんと思ひ」、

研究所内に「平賀水槽」と呼ぶ仮設の水槽を早くも一年後には作ってしまいます。
そしてそこで船舶流体力学の専門家である徳川武定(とくがわ・たけさだ)らとともに、
船体模型の動揺試験、抵抗試験などで一定の成果をあげました。


ちなみにこの徳川武定は、水戸徳川家の男爵ですが、のちに自費でロンドンに留学し、
潜水艦について研究し、また技研を平賀とともに世界有数の海軍研究所に育てました。

築地に技研があったころ、徳川は毎日のように魚市場で魚を眺め、
新造艦についてのアイデアをそこから得ようとしていたということです。

昭和の初期に日本が潜水艦の分野において非常に優れていたというのは、
この徳川の働きによるところが大であるということです。

1930年に目黒水槽が完成すると、主要船型に対する旋回実験や
各種の系統模型実験など行われるようになります。

その成果の一部は赤崎繁によって学会誌に発表され,なかでも蛇圧お
よびその中心位置を求める実験式は広く用いられるようになりました。

赤崎繁「船の直圧力とその中心に就て」




この、いかにも昔に作られたような、歴史の重みを感じる看板。
この右上の「何かを外した跡」は・・・・・・。


この錨のシルエットが微かに見える部分には、斜めになった錨にロープ、という
以前の技研のマークに見えるのですが。

因みに現在のはこれ。



フローノイズシミュレータにおける流体計測技術論文

この論文の頭に、この「外した跡」のマークが残っています。
上マークと併用しているようですが、今では使用されていないということでしょうか。



というわけで、目黒の海軍技研について、また近いうちに続きをお話しします。
水槽内部の写真を発見しましたので、次回の「予告編」として最後に貼っておきます。





 


辛坊氏救出事件~自衛隊は表彰されるべきか

2013-07-14 | 自衛隊

つい最近、二式大艇について集中的に記事を書き、
最後に「二式大艇物語~The Descendants of Emily」(エミリーの系譜)
という、二式大艇の孫娘であるところのUS-2を盛大に讃えたところ、
ほどなくあの辛坊治郎氏のヨット遭難事故が起こりました。

当ブログは毎日エントリをアップしているということもあって、
大抵の記事は10日もすると閲覧記録のランキングから姿を消すのですが、
ある日突然この記事の閲覧数が上位に挙がってきたので、
辛坊氏らを救出した救難飛行艇US-2に皆の関心が集まっていることを知ったわけです。




youtubeに上がっていたドキュメンタリーより。

US-2の利点はこう言ったことに加え、波高計を自動にしたりグラスコクピット
(コンピュータ液晶画面)を採用したり、「姉」であるUS‐1Aより大幅に進化しています。

なかでもフライ・バイ・ワイヤ(操縦性能をコンピュータの介在によってアシストする)
の搭載によって、より安全に、負担を減らした着水が可能になっています。

また、機体をアルミ合金に頼っていたUS‐1と違い、新素材の炭素系複合素材にし、
軽量化したため、その分2トンもの燃料が増加されることになり、
航続距離もUS-1より700Km増え、4700Kmまで伸びました。



現在、海上自衛隊所属の5機のUS-2は、岩国と厚木基地にに配備されています。



乗り込むクルーの数は11名。

US-1は12名でしたが、この機体になって任務が簡略化され、
通信士が航法士を兼務することになっています。

コクピットにいるのは主操縦者である機長、整備員。
機体の後方には4人の見張り員、そしてレスキュー、メディックが配置されます。

探索はレーダーですが、基本的にこの4人が目視で行います。
「見張り能力」という話題がパイロットの話にはよく出てくるわけですが、
この4人こそ「昼間に星が見える」レベルの視力がないと務まらないでしょう。
おまけに、このうちの二人はスキューバで救助を行う隊員なのです。
潜水士の体力にパイロットの視力。
どんな超人だよ、と思ってしまうわけですが。

しかも海上の船を探すのではなく、小さなラフト、場合によっては人一人を、
文字通り太平洋の(日本海かもしれませんが)広大な海原の中から見つけ出すのです。

そして4人の見張り員が救助対象を補足したら、その情報は即座に
「スポット」と言われるヘッドギアのような装置で捕捉され、装着者全員の
視界に共有されます。



この眼鏡の十字中央でターゲットを補足し、手許の送信機でキャプチャー。

これ、便利ですね。

「海上」「全員が持ち場についている」「飛行機の轟音」
そんなハードシチュエーションの中も伝達は一瞬です。

そしてこの情報はSARC(救難航空士)に即座に送られます。
そして、他の見張り員にはターゲットの方向が矢印で示されるのです。

スポットとは、目標位置指示装置
Survivor Position On Target、でスポットです。

皆さん、このスポット、どこが作っていると思いますか?
日露戦争でも海軍の通信技術を支える鉛蓄電池の開発に成功し
大いにその勝利に貢献した島津製作所なんですよ。



その情報はこのようにディスプレイに表示されます。

このように遭難者を捜索するとき、通常の飛行機では速すぎて
目視で対象を見つけることができなかったりしますが、
このUS-2は時速90mの「低速走行」が可能です。

これは世界で唯一実用化された
BLC(Boundary Layer Control:境界層制御)
と呼ばれる動力式高揚力装置の採用によって実現した特殊技術です。


見張り員はこののち目標海域に近づいても、あくまで目視で対象を探します。

(しかし、最近は捜索装備として、新たに三菱製の前方監視赤外線
(FLIR) 装置が設置されることになりました。
これは前部胴体左舷のドアに、引き込み式ターレットで装着されており、
ドアを開けて外に出し、ターレットを回転させて探査する仕組みです)


見張り員はターゲットが視認できたら

「遭難者インサイト(視認)」

とコール。
同時に再びスポットで情報を送信します。
そののち、着色マーカーと発煙筒を海面に投下。

そして着水のために波高の計測を行います。


この着水というのが困難な危険を伴うもので、20年以上経験のある
ベテランパイロットでも、着水のときにはいつも緊張がマックスになるそうです。

いくらそのための安全性が高まったと言っても、相手は自然の作る波。
いわば波打つ地面にヘリで降りるようなもので、失敗すれば機体損傷の可能性もあります。

辛坊氏救助に出動したUS-2は、4発あるエンジンの一つが停止して帰ってきたそうですが、
それほどこの機体で救難活動するということは難易度が高く、
練度の高い海自であるからこそ運用していけると言えるのです。



着水のとき、機長は自動操縦装置飛行経路制御 (FPC) オートスロットルによって
態勢を保持することに集中することができるようになりました。



見張りをしていたレスキュースキューバの隊員たちが準備を始めます。
耐水スーツを着用し、救助ボートを素早く組立て、それに乗って揚収に向かいます。
そして収容した遭難者は、機内に待機していたメディック(医療班)にすぐさま応急手当を受けます。

このドキュメンタリーは訓練の様子を撮影していたのですが、
訓練に際しては実際に一人で海面に浮き輪だけで漂って、
救助されるのを待つ役目の隊員がいるんですよね。

いかに日頃鍛えている自衛官でも、「太平洋一人ぼっち」状態で波間に漂っている間、
ちゃんと無事に見つけてくれるだろうかとか、鱶が出ないだろうかとか、
いくら同僚の技量を信用していてもさすがに心細く、不安でたまらないのではないかと思うのです。

こういう役目の隊員さんも含めて、自衛隊の日頃のたゆまぬ訓練に本当に頭が下がります。




今回、US-2が注目を浴びたことで

「海自と新明和のいい宣伝になった」

などという声もあります。

確かにそういう面もあるのかもしれませんが、たとえばこれが「宣伝」になったとして、
US-2を今後何機も増やして誰でも運用できるような生易しい飛行艇かというと、
決してそうではないことを我々は知っておいた方がいいでしょう。



この前段階であるPS-1について書いたときに、開発段階から運用まで、
事故によるあまりの殉職隊員の多さに、暗然とする思いでした。

このPS-1が制式になった1970年から84年までの間に、
23機製作されたうちの6機が事故で失われ、37名の自衛官が殉職しています。

(ちなみにウィキペディアでは殉職者が30名となっていますが、これは
他の事故資料と合わせて考えても間違いであると思われます)

とにかくその後のUS-1を含めて殉職隊員の総数は40人に上ります。


おりしも海上自衛隊が新しく導入した哨戒機P1のエンジントラブルが、
案の定厳しい論調でマスコミに取り上げられていました。
現在のP1の姿は、その昔、あまりにも事故を多く出し「欠陥機ではないか」と
国会で取り上げられたPS-1の姿に重なります。



今回の辛坊氏の救出海保が断念し、二機出動したUS-2のうち一機は
波の高さに救出は無理と判断し、帰投。
当時海域は着水限度波高に近いと推定される波高3~4m、風速16~18mでした。

決死の、と言いますが、文字通りクルーは覚悟を決めて臨んだのではなかったでしょうか。


ところで、このブログの読者の一人である婆沙羅大将が、少し前に、
ご自分の「救助体験」を描いたブログエントリを送ってきてくださっていました。
本題とは少し違う内容ですが、よろしければ読んでみてください。

http://plaza.rakuten.co.jp/vajra33/diary/200802280000/

http://plaza.rakuten.co.jp/vajra33/diary/200802280001/

http://plaza.rakuten.co.jp/vajra33/diary/200802290000/


別に表彰して欲しいとも 謝礼が欲しいとも思いませんが、
家族なり友人から「ありがとう」の一言は欲しかったかな。


壮絶な救助行をこのように締めくくっておられます。
このような思いをして、さらに感謝もされず、それでも黙々と人命を救う人々がいます。



事故直後、政府から「辛坊氏を救ったUS-2のクルーに表彰を」という話が出ました。
その後の経過が全く聞こえないので、やはり世間の辛坊氏たちに対する批判や、
また「有名人だから表彰するのか」などという声が出ることを憂慮したのかもしれません。

自衛隊の救難部隊の仕事は人命救助です。
そのために彼らは恒常的な厳しい訓練に耐え、事あれば命を張って現場に向かいます。
任務として当たり前と彼ら自身思っていても、やはり人間ですから
婆沙羅大将ではありませんが、「ありがとう」の一言は心に沁みるでしょう。


しかし、国からの表彰。
これはいかがなものでしょうか。

もし彼らだけが表彰されることになったとしたら、最初に救助を断念した海保や、
あるいは波が高くて救助をあきらめたもう一機のUS-2の隊員たちは、どう思うでしょうか。

そして、救助に成功した隊員たちもまた、救助に当たったのは自分たちだけではない、
とそのように思うでしょう。

今回の成功は、このUS-2にかかわった先人たちの努力と涙と、文字通りの血すなわち犠牲、
さらに自衛官たちの、厳しい日頃の訓練と現場でみせた勇気のうえに初めて成り立った、
いわば奇跡中の奇跡のようなものだったのだとわたしは思います。

成功の陰に斃れていった幾多の人々のことを思うとき、
このクルーたちの勇気と技量を誉めることにやぶさかではありませんが、
彼らだけを表彰することは決して自衛官たちの本意ではないような気がするのです。

辛坊氏が救出した隊員に名前を聞いたところ、その自衛官は
「チームでやっていることなので名前を教えることはできません」と答えたそうです。

この話を知ってからわたしはそう確信したのですが、皆さまはどうお考えですか。








自民党の参院選の勝ち方で日本が変わる

2013-07-13 | 日本のこと

タイトルと画像が合ってませんよ、とおっしゃるあなた、
あなたは正しい。
先日「ボストンいろいろ」でアップしそびれた、アメリカ式の
カラフルなケーキ画像、せっかくなのでお見せしたくて。

 

ついでにこんなのもあります。
しかし彼らはどうしてケーキに「青」を使いたがるのか。


というわけで唐突に本題です。
アメリカ出国前に告示がされず、旅行なので在外投票もできず、
従って今回の参院選挙には国民の義務を果たすことができないエリス中尉です。
日頃ブログで政治への参加と、参加しなければ政治を語ることを許さず、
みたいなことを言っておきながらこの様です。

命が二つあったらこの腹掻き切ってお詫びするところです。


さて。

このたびの選挙はインターネットでの選挙運動が初めて解禁され、
そのために禁止行為もいくつか規定されたようですね。

電子メールを使っての選挙運動禁止、HPやeメールの印刷禁止、
未成年の運動禁止、もちろん成りすましやHPの改竄も罰せられます。

勿論のこと、元からですが、外国人による選挙運動も禁止です。


ところで先日、香港で、「自民党に投票しないように」というデモが行われました。

2013年7月6日、中国新聞網は香港メディアの報道として、
香港において、香港保釣(尖閣防衛)行動委員会の20数名のメンバーが
在香港日本領事館前までデモを行い、日本国民に対し
参院選で自民党に投票しないように求めたと伝えた。

デモは尖閣諸島の主権を訴えるとともに、安倍首相による憲法改正と国防軍創設を危惧。
参加者は「打倒日本軍国主義」「自民党への投票反対」といったスローガンを叫び、
領事館前で旭日旗を燃やすなどのパフォーマンスを行った。
同委員会は8月に尖閣諸島への上陸を計画しており、他団体へも参加を呼びかけている


ほらー。

こういうのを禁止しているんですよね。外国人の選挙運動。
ちょっと違うかな。
しかし、他の国に対して特定の政党に投票しないように呼びかけるのに
デモを起こして旗を焼くとは・・・・。

このようなニュースにも覗えるように、安倍政権発足後、
周辺東アジアの「反日三兄弟」のうち二兄弟は浮足立っている感があります。

尖閣、竹島の領土の所有を主張する中国と韓国は、恫喝のみならず
それぞれがオバマ大統領との会談で「日本への制裁」を訴えてどちらも釘をさされるなど、
手段を択ばないところまで来た感があり、その結果非常に稚拙で拙速な動きが目立ちます。

こうなると冗談抜きで、一番北朝鮮が「まとも」であるという印象です。

ここまで両国が「焦っている」のはなぜでしょうか。

先日、安倍首相が、その理由を端的に説明していると思われるこんな発言をしました。


「どの国にも自分たちの誇れる歴史がある。
互いに尊重していくことが最も重要だ。歴史問題を外交カードとして、
首脳会談の開催に条件を付けてくるのは間違っている」


正論だと思います。

日本の首相が、中国、韓国に対してここまで正論をはっきり言ってくれたのは、
もしかしたらこれが初めてではなかったでしょうか。
わたしはこの発言に対し、新鮮な?驚きを感じずにはいられませんでした。

こういう正論を言うと、必ずそれを取り上げて野党やマスコミが大騒ぎ、
中韓の視点からバッシングしてきたため、どの保守派政治家も、ましてや与党首相は、
いつも慎重にそういう発言を避けてきたからです。

しかし、今回この発言に「不快感」を感じる中韓の立場からの報道に対し、
思ったほど国内左派の批判は伸びなかった印象があります。
民主党が崩壊した今、「あちら寄り」の発言は参院選を控えた今、
不利であると空気を読む政治家が多く、そのため
さすがのマスコミも焚きつけることに消極的だったのかもしれません。



また自民政権発足直後のことですが、麻生太郎財務相が、

「米国は南と北が分かれて激しく戦った。
しかし南北戦争をめぐり北部の学校では相変わらず“市民戦争”
と表現するところがある一方、南部では“北部の侵略”と教える。
このように同じ国、民族でも歴史認識は一致しないものだ。
異なる国の間ではなおさらそうだ。日韓関係も同じだ。
それを前提に歴史認識を論じるべきではないだろうか」

と発言し、これを韓国が批難したのが記憶に新しいところです。

中国もまたこのときの韓国と同じく、安倍首相の発言に反発。
中国の華報道官(いつものお姉さん)は「自国の歴史に誇り」という部分に対し

「日本が歴史に誇りを持つことは許されない」

とまで言いきっています。

「互いに尊重しあうことが重要」
「首脳会談に条件を付けるのは間違っている」


という発言の主眼には全く触れず、

「侵略戦争をしておいて日本は自国の歴史に誇りを持つのか」。

つまり揚げ足取りです。


それでは文革で何十万、何百万もの自国民を殺害したり、朝鮮戦争で韓国人を殺したり、
現在進行形でチベットやウィグル人を虐殺している中国にその資格はあるのか、
とぜひこの華とかいう報道官に聞いてみたいものです。

「韓国と共通の歴史認識を持って、日本はそれに謝罪し続けろ」

と日本に一方的な要求を突き付ける韓国の朴大統領にもです。

そもそも、中国が日本に「侵略」を言うのは百歩譲ってわからないでもありませんが、
韓国はその当時「日本」であったわけですね。
そして日本と一緒にいわゆる「侵略戦争」をしていた側なのですが、
それでは韓国は中国に謝らなければいけないということになりますね。


就任早々、戦争したわけでもないのに日本を千年恨むと言い放った朴大統領。
アメリカでは日本バッシングをして同調を求めたものの軽くあしらわれたので、
こんどは中国に対し、伊藤博文を暗殺した安重昆の銅像を建てることを要請しました。
この暴挙に日本人はまさにドン引きです。

韓国という国もまたベトナム戦争のときには、アメリカに協力して参戦、
戦闘行為のみならず、ベトナム住民の虐殺事件も起こしているわけで、そんな国が
どの面下げて日本に「残虐行為を反省」など言えるのか、って感じです。



戦争、国土支配、分割、およそ国という境界を持ち、存亡をかけて国家の利益を
常に追及するというこの世界の構図の中で、同じ事象を両岸から眺めたとき
それが全く同じ価値観で捉えられるなどということは、物理の法則から言ってもありえないのです。

「二国の間に共通の歴史認識など存在しない」

どうしてこんな子供にも分かる簡単なことが、この両国にはわからないのでしょうか。
(中国の場合はわかっていっていると思われますが)


「敵国」に徹している北朝鮮と違って、この両国は友好、互恵的利益関係の「条件」として
これらを楯に脅迫しているようなもので、その恫喝によって自国の利益を得ようというのがタチが悪い。

今回の中国にもこんな偽善的な発言が・・・・。

「安倍首相の発言が日中両国の友情を打ち砕き」

なーにが友情だよ、と、思わず苦笑いしてしまうわけですが、
このあたりも「北朝鮮の方がマシ」と思うゆえんです。

この両国の言う「友情」「友好」とは、必ず日本は卑屈に土下座しながら、
こちらに無条件で金や領土を寄越すアル(ニダ)という意味ですからね。


さて、先日、日本の国防白書が閣議決定されました。
さっそく両国が文句をつけています。
以下、TBSニュースより。

閣議で了承された今年の「防衛白書」について、中国や韓国が反発しています。
「防衛白書」が、尖閣諸島周辺での中国による領海侵入などについて
「不測の事態を招きかねない危険な行動もあり、極めて遺憾」としたことに対して、
中国外務省は「正常な海洋活動で非難されるべきではない」と反発。
「日本は絶えず中国の脅威を誇張している」と述べて、日本をけん制しました。
一方、韓国は、日韓双方が領有権を主張する竹島について
「日本固有の領土」と記されたことに対し、
韓国外務省は日本大使館の倉井高志総括公使を呼び抗議しました。


現実に領土を巡って侵略をしようとしている&侵略している両国に
配慮した防衛白書を日本は作らねばならない、と言っているわけですか。

この報道もどことなく中韓よりの視点がさすがはTBSのニュース、と言った感がありますね。
TBSは気に入らないかもしれないけど、そもそも、
この両国が反発するようでないと防衛白書として成り立たんだろっていう。
それともTBSさんは、中韓が大歓迎するような防衛白書を作るべきだと?


しかし、こう思いませんか?

このような論調のニュースを見て不快感を感じた日本人は、今回の安倍総理のように
「はっきりと両国に向かって正論を言ってくれるリーダー」を歓迎するでしょう。

そもそも民主党が壊滅したのも、中国船の尖閣での威嚇や李明博の竹島への上陸などで、
国民の危機感、ないし国家意識に火がついてしまったからと言えます。

ですから両国が日本をこうやってあの手この手で恫喝すればするほど、
ましてや中国人が「自民党に入れるな」などと言えば言うほど
「中国人が嫌がるということは、これが日本にとっての利益になるのだ。よしそうしよう」
となっていくというわけです。

つまりおそらくこれが、参院選での「追い風」となって自民党は圧勝するに違いありません。

両国とも、どうしてこんな簡単なことがわからないのでしょうか。
わりとマジで聞いてみたいです。


ところで、安倍総理を口を極めて罵っているのは中国共産党の外交部。
しかし、中国の人民は、必ずしも共産党の意見そのままを鵜呑みにしていないようです。
最近、中国で、近年の日本の首相のうち誰を一番評価するかというネット調査が行われました。
その結果、一番評価が高かったのは小泉純一郎氏。
靖国参拝の件なども中国は国を挙げて反発していたという印象がありますが、
この評価をしたある人物によると「自分の意見があり、言うべきことは主張した」。


、『兄弟牆に鬩げども、外その務りを禦ぐ』というエントリでこのように述べました。

皆さんは、南京にある「南京大記念館」が、どんな経緯で建てられたかご存知でしょうか。
日本を貶めるのを第一義としていた旧社会党の、田邊誠の提言と出資によるものです。
この田邉誠に限らず、戦後社会党の大物は、朝鮮、そして中国に行っては、
己の思想のために、祖国への非難を倦まず繰り返しててきました。

マスコミもこれを大きく報道し、むしろそれを応援するような言論を展開していたそうです。

ところが、中国共産党はともかくとして、
実は当時、当の中国人たちは、これら一連の売国日本人の行為を、
「上下の別なく嗤っていた」と言う話があるのです。
曰く、

「日本人は詩経の故事『兄弟牆に鬩げども、外その務りを禦ぐ』を忘れている」

けいていかきにせめげども、外そのあなどりをふせぐ

兄弟は、ふだんは家の中で喧嘩ばかりしても、外から屈辱を受ければ、
力を合わせてそれを防ぐものであるということ

「牆」=垣根 家などの外側の仕切り 「禦ぐ」=争い合う 「務り」=侮り


中国人というのはしたたかではあっても決して馬鹿ではありません。
「祖国を裏切る薄汚いやつらだ」と、つまり売国日本人を軽蔑していたというわけです。


そして、評価の高かった小泉氏に反して、中国人が今回「売国奴大賞」の名を進呈した首相は・・・
そう、鳩山由紀夫元首相でしたとさ。どっとはらい。


さて、タイトルを放置してはいけないので最後に一言。

自民党の勝利は動かないとされる今回の参院選ですが、このようになったとき
「抑止力が必要」などというバランス感覚から共産党などに票を入れる人がいます。
(わたしもそういう人をひとり周りに知っています)
都議選での共産党の「躍進」は、このバランス感覚の賜物だったとわたしは思っているのですが、
民主党政権の三年三か月の恐怖を体験した今では、むしろそのような
抑止力なら、自民党の内部に求めるべきだとすら思っております。

抑止力となるのは健全な野党であることが必須ですが、
脚を引っ張ることしか考えていなかった民主党の「野党ぶり」は健全な抑止力と言えたかどうか。

わたしは選挙運動をしているわけではないので、どこに入れろなどとは言いませんが、
「バランス派」の方々は、こういう意見もあることをご考慮くだされば幸いです。


まあ、単に「民主党より共産党の方がずっとまとも」である、と東京都民は判断したのかもしれませんが。






アシアナ航空機事故でCAの「英雄譚」はどう報じられているか

2013-07-12 | 日本のこと

単なる飛行機事故としては、あまりにその後の展開が迷走しているかに思える
今回のアシアナ航空機墜落事故。

かつて住んだこともあり何回も訪れているサンフランシスコ空港で起こった事故だけに
かなりの関心を持ってこちらでもニュースをキャッチアップしています。

日本でもリアルタイムで情報が伝わっていることとは思いますが、ここで
今までの調査で分かってきたことをおもに事故後の対応についてまとめておきます。


●ボイスレコーダーが解析された結果、副操縦士が機長に着陸の際助言を求めていた
 操縦していた副機長はB777での飛行時間は46時間で、機長は教官としては初フライト
 しかし、操縦士は適切な指示を何もしていない

●管制塔からの通信を受け、初めて着陸態勢が正常でないことに気付き、
 やりなおそうとしたがすでに高度が落ちていて岸壁に機体後部が接触。衝突

●管制塔からはレスキューを向かわせると通信があるも、コクピットからの返答はなし
 機長は乗客にその場にいるようにとアナウンスしたまま放置

●機内で火災発生
 火災をCAの一人がコクピットに伝え、避難の指示を仰いたときには、乗客は
 我先にと避難を始めていた

●CAは半数近くの7名が墜落のショックで失神。
 最新のニュースによると、さらに2人が機外に放り出され、滑走路で発見されている。
 (二人とも無事)
 大混乱の機内の中で脱出用のシューターが膨らんでしまい、さらに阿鼻叫喚

●乗客が別のシューターを展開、肋骨を折る負傷をしていた乗客が非常ドアを開ける
 CAの指示がなく、皆手荷物やトランクを持って脱出

●CAは乗客の安全確認を行わず、そのため一時行方不明者が40人に上った
 CAが外に出ているにもかかわらず機内に取り残された乗客が多数いた
 それらの乗客は空港のレスキュー隊によって救出された
 最後に機内に乗客が残されていないか確認したのはサンフランシスコ消防局の職員であった


墜落の原因が操縦ミスであることはほぼ確定しているようですが、
墜落後の乗務員の対応があまりにも不適切であると言わざるを得ません。


今回の死亡者は二名で、破孔からショックで外に投げ出されたのが死因だそうですが、
あの機体を見る限り、二名の死者ですんだのは奇跡的なことに思われます。


ところが、そのことを「韓国人でなくて幸い」とニュースキャスターが言ったことや
死者数の少なさを「CAの働き」「乗客が冷静」と讃美する事故当事国である韓国の動きが
特に中国から反発されていることを前回この事故についてのエントリでお話ししました。


こちらでは一度、一人のCAが記者会見で、自らが骨折しながらも
最後まで乗客の救助に尽力したと自分の功績を語る様子が放映されていました。

今日のCBSニュースでも、

「最初に応答した人たち(つまり自力で逃げた人達)はヒーローとして称えられている」

というタイトルで、このLee Yoon-hyeというCAが乗客を背中に背負って
脱出したことを始め、機内の指示に従わずに自分で行動した人たちが
「英雄的であった」とされていることを報じています。

しかし、このニュースを仔細に見ると、韓国国内の無条件で彼らを褒め称える論調とは違い、

Many passengers climbed out of the plane unaided.
But some were unable to escape on their own.

多数の乗客が自力で外に出たが、何人かは自力では出られなかった)

また、サンフランシスコ消防局のLt. Dave Monteverdiは、最後に
シューターをよじ登って機内に入り、機内に取り残されていた負傷者を発見しました。

"He was just moaning and moaning," he said.
"We were hoping to get a back board and clear him out.
And that's when you could see the dark smoke was coming toward us.
And we pretty much just had to grab him and go."

(かれはただひたすらうめいていた。
そのまま機内に居させてあげたかったが、その時に黒煙が迫ってきた。
それで、彼をひっつかむようにして行かせるしかなかった)


ちょっと待ってください。

この人は、自力で動けずに機内でうめいていたと。
その時にはアシアナ航空のクルーは全員脱出してしまっていたってことですね。

乗客を背負って果敢にも任務を果たし、英雄的ともてはやされているLeeさん以外の
他のCAはいったい何をしていたんですか?
客室内の人員を一人残らず脱出させずに、サンフランシスコ消防がくるまで
その人を放置していたということですか?

日本でも、このCAが得意げに自分の大活躍を語る映像は放映されたでしょうか。
一度書いたようにこの「英雄的」という言葉を額面通りに受け取って、
涙を流してまで感動しているのは、どうやら韓国とそして日本のマスコミだけみたいですよ。

事故直後の写真では、無傷のCAが何人も立ったまま、倒れているCAのそばにいたり、
救急車のヘリに二人で座り込んだりしていて、とても乗客の安全に
任務を果たしている様子には見えません。
しかも、そのとき、まだ機内には負傷者が取り残されていたというのにです。

少なくともわたしの見たCBSニュースでは、Ms. Leeの会見と共に、
abandon(見捨てられた)された乗客について同時に報じており、明言はしないものの
暗に「まともに仕事をしたのは一人じゃないか」と言っているように見えます。

まあ、わたしがそう思っただけなのでもしそうでなかったらすみません。


アシアナ航空の社長が早々に「全責任は機長にある」という発言をしたことは
かなりショッキングでしたが、その機長はじめコクピットの発言も要領を得ず、
しかも事故調は「パイロットたちは英語があまりできなくて聞き取りに苦労している」


うーん。

英語下手でもパイロットになれちゃうんですね。
機長は空軍上がりだと聞きましたが、そのような場合は英語力は甘く見てもらえるのかな。

事故調NTSBはいまのところ結論を出していないものの、ヒューマンエラーであるとの
見方を強めていると言いますが、これに対し、韓国側は激しく反発しています。

「管制塔からの7秒前の警告が遅かった」
「空港が工事中で熟練のパイロットでも着陸は困難である」
「シューターが中で展開した。ボーイングのせいだ」
「速度が落ちているのは知っていたがオートスロットルが作動すると思っていた。
またオートスロットルが切られていても速度が低下したのはおかしい。
つまりボーイングが悪い」

補償金の問題もあるのでしょうが、強弁ともいえる弁明を繰り返し、
今日にいたっては



「謎の閃光があり目が見えなくなった」(byパイロット)


これは無理がありすぎる。
言わない方がよかったかも・・・・・・・。

というか、どいつもこいつも、亡くなった二人の犠牲者を悼む言葉が一言もないのは
どういうわけだ。
特に「英雄」気取りのアシアナCA。
犠牲者に一言も触れず、うす笑いさえときどき浮かべ、自画自賛のコメントをする様子は、
遺族から見ればさぞ苦々しいものに見えたに違いありません。


因みに、たった今、NTSB の委員長 Deborah Hersmanが、
「我々は科学的調査によって(明らかにはできないが)たくさんの情報を得た」
と、自信に満ちた口調で記者会見しています。

こういう経過を見ているせいか、この委員長がいい加減支離滅裂な韓国側の
言い訳に内心キレつつ、

「どんな言い訳をしてもこちらには科学的な言い逃れのできない証拠があるんだからね!」

とあらかじめ釘を刺しているように見えました。

たまたまこんな事案のときにアメリカでその空気を感じることができるのも
何かのご縁。
もしこれから斜め上展開が起こるようでしたら、また続報をお届けするかもしれません。

(わくわく





ボストン生活いろいろ

2013-07-11 | アメリカ

今いる町は、ボストンを国道90(マサチューセッツ・ターンパイク、略称マス・パイク)
で30分ほど西に向かって行った、フラミンガムというところです。

例年ボストンは6月がベストシーズンと言われ、あまり雨も降らず、
暑くも寒くもない日が続きますが、何年に一回かは日本の梅雨のように雨の日が続きます。

今年は朝の間蒸し暑い曇天で、ときどきシャワーを降らせて夕方には晴れる
気まぐれなお天気が続きました。
しかし、例年独立記念日の日は今まで一度も不思議なくらい雨が降ったことがありません。

TOは東部の大学に留学していたのですが、卒業式の日、開校以来一度も卒業式に
降ったことがなかった雨が朝から降り続き、卒業生が集まると「あれは酷い卒業式だった」
と話のタネになるくらいの大雨の荒天となってしまいました。

卒業生のかぶる四角い学帽は雨を吸って四方が垂れ下がり、ガウンは鉛のように重くなり、
おかげで卒業式の後写真を撮りに行く計画も中止です。
学生の家族は、この日のために全米どころか世界中から集結してきているのに、
雨を避けて学内の校舎に避難し、何が起こっているかわからないまま無為な時間を潰しました。

何百年も降らなかったのになぜその一回が我々の年なのか、
と当事者たちは案外あとから笑い話にしていますが。

さて、今年、日本は記録的な暑い夏に突入しているようですね。
皆さまお元気にお過ごしでしょうか。

ここボストンもヒートウェイブで、7月になるなり日中は陽射しが照り付け、
昼間外を歩くのは自殺行為というくらいの暑さです。

ただ、蒸し暑くなると必ず雨が降り、多少は湿度が下がるので、
特に夜などは涼しく、その点マシと言えばマシです。

ボストンに着いて二週間が経過。
すでに予定の半分が過ぎました。

今日はこのあたりの街とここで見たものをご紹介します。



息子の学校の向かいにある図書館。
なんだかやたらと風格があります。



と思ったら、なんと1852年(息子の学校は1866年創立)設立でした。
もちろん、この建物も、です。
1852年ったらあなた、ペリーの黒船来航の年ですからね。
嘉永5年に作られた建物を展示以外で利用している例が、日本にあります?


この裏手に、去年写真を挙げた独立戦争戦士の碑と、墓所があります。



広い道に広い空。
買い物によく行くウェルズリーという町の商店街です。



町の中心にある立派な教会。
この前には古い墓石だけがあるグレイブヤードがあり、
独立戦争の戦死者の墓石には7月4日になると国旗が立てられます。



全米でも有名な超難関女子大学、ウェルズリー大学の正門。
ラドクリフ、ヴァッサー、スミス、バーナード、ブリン・モア、マウント・ホリヨーク。
これらと並ぶ「セブン・シスターズ」の一員です。

気のせいか、このあたりを歩いているお嬢さん方はタンクトップにショートパンツという
女子大生定番のラフなスタイルにもかかわらず、知的な雰囲気を持っています。

ヒラリークリントン、マデレーン・オルブライト(元国務長官)、ついでにあの宋美齢という、
錚々たる卒業生を輩出しており、学生のほとんどが5位以内の成績で高校を卒業しているとか。



成績と言えば、公文(笑)。
公文式学習が日本発祥であることを知らない人は多いです。
KUMONというロゴの下には、

Math. Reading. Success.

と書かれています。
公文学習をするのはアメリカでも東洋系、特に中国系の子供が多いとか。
しかしこのあたりはボストンのシリコンバレーというべき地域なので、
一度こことは別の公文教室を覗いてみたら、インド人も多数でした。



ここにはこのような企業本社もあります。




エリス中尉のメインお買いものスポット、ニューベリーストリート。



大昔はすべて民家だったのだろうと思うのですが、今では通りに面した一階、
そして正面から上がっていける二階まではすべて店舗が入っています。

ただし、一階といってもすべてのお店が「半地下」にあるのが特徴。
二階は階段を数段上がったところにある「半一階」です。



前面は所有者のセンスでこのように緑をアレンジして往く人の目を楽しませてくれます。
ここは「ヘンプ」(麻の原材料)というオーガニック系のクロスの店なので、
特にこのような自然っぽい演出をしていると思われます。



眼鏡屋さん。

三階から上は正面から入ることはできず、裏にある居住区入口から入ります。
この辺に住むのはボストニアンのちょっとしたステイタスで、たとえビルが
100年前のもので排水管はしょっちゅう詰まり、猫の大きさのネズミが大きな顔をしていても
この街並みを壊すことになる改築は絶対にしようとしません。

ボストン弁護士事務所で働く若い女性が主人公だった「アリー・マクビール」(アリー・マイラブ)
では、最後にアリーがこのニューベリーストリートのアパートメントを購入し、
同僚弁護士が皆で手伝ってペンキを塗るシーンがありました。

というわけで、週末ならずともいつも人でにぎわっているこの周辺、
車で来ると駐車スペースを見つけるのが大変です。



スペースを見つけ空いている!と思って止め、チケットを買ったのに、
そこが「商業車用スペース」「この辺の居住者専用スペース」だったりすると
あっという間に警察が来てチケットを貼っていきます。

このスバルは、どうもパーキングチケットすら貼っていなかったので切符を切られたようでした。

わたしはこのあたりに来るときは最初から民間のパーキングに入れてしまいます。
昔、商業車スペースと知らず停めて、やられたことがあるからです。

歩いていると、すずめがいたので「すずめ食堂ボストン支店」。
餌やってませんが。



こうして見ると、比較的きれいだと言われるこの通りも、吸い殻のポイ捨てが酷い。
銀座などに行くと、世界の人が清潔なのに驚愕すると言いますが、
アメリカでこれなのだからそれも当然かもしれませんね。

で、ボストンのすずめさんなのですが、



びっくり。頭が・・・・・・・・・グレーです。

すずめには違いないんですが、見慣れた日本のすずめとはずいぶん違いますね。
彼らは動きが素早いので、わたしも写真を撮ってみて初めて
こちらのすずめがこんな羽色をしていることを知りました。

調べたところ、もともとアメリカ大陸にスズメはいなかったのですが、
ニューヨークにイギリスから害虫駆除の目的で持ち込まれたスズメの子孫で、
「イエスズメ」(House Sparrow)という種類なのだそうです。
喉に黒い模様があり、色がはっきりしているのでこれはオス。

このスズメさん、いまは全米展開しているのですが、どうやって広がったかというと、
穀物を運ぶ汽車に便乗していったのだそうですよ。
自力で飛ぶより、そちらの方が楽ですよね。

都会では人間の出したごみで生きているため、feathered mouse(羽ねずみ)とか
Hamburger sparrow(ハンバーガースズメ)などと不名誉な名前も持っているそうです。

アメリカでは大抵の鳥を法律で保護していますが、このイエスズメだけが保護されていない
唯一の鳥なのだということです。
なんだか勝手に連れてきてそれはないんじゃないか?という気もしますが、それだけ
繁殖力が強く、ほっといても増えるっていうことなんでしょうね。



鳥が出ついでに、公園の水際でカニを取ろうとしていた鳥。
カラスみたいですが、大きさはせいぜいツグミくらいです。



くちばしも脚もこれだけ真っ黒なのだから、ブラックバードというのではないかと
検索してみたら、出てくるのはSR-71戦闘機の写真ばかり・・・・。

確かに似てますが、この愛嬌のある顔の鳥さん、なんだろう。
大きさはスズメと鳩の間くらいです。



そして、おなじみホプキントン州立公園のガチョウ艦隊。



立ち止まって写真を撮っていると、一羽が振り向き・・・



皆でガン見。
写真に撮るまでこんなに見られているとは気づきませんでした。


 

ついでに、公園の松林で見つけたキノコ。
松林にこうやって生えているんだから、これ、マツタケっていうのかしら。



ニューベリーストリートに戻ります。
古い建物が延々とつ続くこの通りの端が奥に見える建物。
昔バークリー音楽院の何かの部門が入っていたと思うのですが、
今は知りません。



息子の学校の近くの家。
いかにも「アメリカ!」って感じの家。
国旗掲揚台まであって、ポーチにはこれでもかと国旗風の飾りがありますが、
長年の観察によるとここの主人は単に「熱烈なパトリオット」らしい。
夕方になるとポーチのロッキングチェアで新聞を読んでいるおじさんが見えます。


日本の感覚で言うと豪邸ですが、このあたりでは「普通」です。
もっとも、ダウンタウン近くの街に行くともっと家が小さいですし。低所得層のアパートもあり、
ボストン郊外のこの地域は中流層以上が多く住んでいるのかとも思われます。

それにしても、このあたり(しかも広大な地域が)みんなこのレベルの家なので嫌になってしまいます。
アメリカはもうだめだとか経済がとかひとくくりにいうことがいかに馬鹿馬鹿しいか。
庶民の暮らしは豊かで、その中間層は決して貧弱ではないことを、ここにしばらくいるといやでも理解します。

やはり世界一の大国だと、こういう部分で納得せざるを得ません。



完全に入り口を木の枝が塞いでしまうほど放置された廃墟。
ドアは一番左の木のところにあるはずなんですが・・。

ボストンという町は、1852年の建物が現役であることからわかるように保守的で、
とくにここ郊外は変化が少なく、何年来ても廃墟や閉店した店舗が放置されていたりします。
10年間ずっと閉店したっきりのレストランが9号線沿いにあるのですが、今年もやはりそのままでした。

独立記念日と言えば、先日(というか一年前の記事ですが)、独立記念日と
序曲1812年の記事の最後に、「独立記念ケーキ」の写真を出しましたが、
「ここアメリカではこんなケーキが売られています」画像。



素材にこだわっています、

ということで「ケージフリー」すなわち放し飼いの鶏の卵を使っていますよ、と。

ただなあ・・・・いくら放し飼いの鶏の卵でもなんでも、
ケーキそのものにこれだけ色を使うのもどうなのよ、と。

しかもスイカ。
なぜケーキなのにスイカ。
夏だから?



まあ・・・・ほとんどがチョコレートの色だし、
てんとう「虫」がモチーフ、ということを除けば、不思議はないかな。

こちらには「ケーキ・ボス」という、連続ドキュメンタリーものがあって、
主人公はニューヨークかどこかのイタリア系のケーキ職人の家。

ピアノや自動車、ボーリングのピンとボール、草木は勿論銅像ならぬ「ケーキ像」。
「美味しいかどうかより、いかに受けるかだぜ!」
みたいなケーキを作っている職人一家の周辺を描くシリーズなのですが、
この番組、いつ見ても作っている肝心のケーキが全く美味しそうに見えないのが問題です。

こういう普通のお店のケーキを見てもわかるように、こちらの人は基本的に
味というものは「甘いか甘くないか」という判断しか無いようなので、
特にパーティなどでもこういう変わった形のケーキを択ぶ傾向にあります。

「ケーキ・ボス」も、味に全く言及はせず、ひたすらケーキという素材で森羅万象を
再現する、ということにのみ心血を注いでおります。

アメリカ人にとって、ケーキとはなんなのか。
こういったケーキを見ると、そんな疑問が湧いてくるのを抑えることができません。




比較的まともなケーキも少しはありますが、
まっ黄色のピースマークケーキなど、どこをどう見たら「美味しそう」に結びつくのか。

この写真を撮ったのは独立記念日の次の日だったので、まだケーキが残っていて、
赤と青のクリームというのは皆そのためにつくられたものです。

色もさることながら、どれもこれも日本人のセンスからはとても
プロの仕事とは言い難いものばかり。

しかし、ここはホールフーズ。
全米展開している「オーガニックスーパーマーケット」なのです。
そのホールフーズでこれなのですから、普通の、たとえばスターマーケットなんていう
ところのケーキになると、ショッキングピンクやグリーン、スカイブルーに写真の転写、
一層歯止めが利かなくなって、もうカオスといった状態になります。





そんな味音痴のアメリカ人に大人気のスシについて、
今年も突撃レポートをそのうちご報告しますので、お楽しみに。





アメリカの報道によるアシアナ航空墜落事故

2013-07-10 | アメリカ

7月8日、サンフランシスコ空港にアシアナ航空のボーイング777が墜落し、
乗客二人が死亡した事故は、ここアメリカでも連日報道されています。



事故後ほぼ1日、空港は使用禁止になり、空港で夜を明かした利用客もいたのとのこと。
この後われわれは後半西海岸で過ごすのですが、到着予定が
そのサンフランシスコ空港であるだけに、不謹慎かもしれませんが
そのときでなくてよかった、と胸をなでおろしながら繰り返される映像を見ています。

 

テレビでは事故当時の様子と、パイロットの飛行時間が43時間しかなかったことを
繰り返しており、また死亡したのが「チャイニーズ・スクールガール」であると言っています。

 

乗客がカートまで持ち出して避難している様子が、やはり避難する乗客の撮った
携帯メールでこれも流れていたのですが、現場はこれを制止する者もないほど
混乱していたということなのでしょう。


この事故を起こしたアシアナ航空は韓国の航空会社ですが、その韓国で
このニュースを伝えたキャスターがとんでもない非常識発言をしたことが、
ここアメリカでも話題になっています。

”Anger After Newscaster Calls Chinese Crash Deaths a ‘Relief’”

これがタイトル。
「ニュースキャスターが中国人の事故死亡者で『ほっとした』といって怒りを買う」

というところでしょうか。

“We just received an update that
the two dead are assumed to be Chinese….

We can say it is a relief at least for us,”

(たった今入った最新情報によると、二人の死者は中国人とのことです。
少なくとも私たちにとっては安心したといえるでしょう)

と言ってしまったというのです。


まあ、日本で地震が起これば「天罰」と号外をだし、不心得者の仕業とはいえ
「日本の地震をお祝い」し、日本人になりすまして「ボストンのテロをお祝い」する、
こういう前科のある国ですから、ニュースキャスターがこのような発言をしたとしても
実のところわたしはあまり驚きませんでしたけれど。

これを受けて勿論中国のネット利用者は皆激怒。

How dare they use such an expression?
They proved themselves to be extremely deplorable,”

(なんだってかれらはそんな表現をするんだ?
自分たちが悲惨なことを証明してるじゃないか)

 “ignorant and inhuman thinking."

(無知で非人間的な考えだ)

この件について、発言をしたニュースキャスターのした言い訳が、これ。

“The comment was made to emphasize the fact that there is
no Korean dead in the accident, which is a relief for us.
We apologize for not running the live show smoothly.”

(コメントは、事故によって韓国人が死ななかったという事実を強調したもので、
それが我々に安堵を与えたという意味です。
生放送を円滑に放送できなかったことを謝罪します)

いや・・・・これ、まったく説明になってませんわ。

最近まったくおんなじことを日本のアナウンサーに向かって言った気がするけど、
とにかく謝罪は『生放送でうっかり変なこといってしまったからそのことは謝る』
って、全然、何が問題だったのかわかってないじゃないですかー。

だいたい、それじゃ当初の「問題発言」と全く同じこといってるだけじゃないですかー。

案の定この言い訳に中国人はさらに激怒。

“Is he a human?”
(こいつ人間か?)

“brain-damaged,” “unethical”

(脳みそ腐ってる)(非倫理的)

まあ、このような激しい非難はとどまることなく、炎上の状態です。

自国の航空会社が起こした事故で亡くなったのが自国民でなくてよかった、
という考え自体が、わたしもですがおそらく日本人である皆さんには理解できないでしょう。
日本では海外での事故を報じるメディアが真っ先に
「日本人の関係者はいなかった模様です」
という事務的な「報道」をすることにすら、文句を言う人がいるくらいなのです。

しかし、こんなことを考えることすら不謹慎であるのに、ましてやそれを公言してしまう、
これがいかに非常識かということがこのキャスターも、テレビ局もわかっていないらしい。

もしかして、この国は日常的に日本に対して「愛国無罪」をしすぎて、
世界的な倫理的常識というべき線引きが全くできなくなったのでしょうか。




それにしても、円高による輸出業の壊滅的打撃と言い、日韓スワップ一部打ち切りにより
今後予想される経済的パニックと言い、IMFの査察(ストレステスト)と言い、ポスコ敗訴と言い、
ここのところ韓国には日本から盗んだ仏像の仏罰としかいいようのない試練が降りかかっていましたが、
ここに至ってこの事故です。

乗客の大半が他国人であったこと、事故原因はヒューマンエラーであることから
国家規模の賠償金の請求が予想されます。




しかしそういった、まず目を向けるべき部分を、どうもこの国の国民は直視できないらしい。
(あれ?最近日本のアナウンサーに対して全く同じようなことを書いた気が)

中国メディアを翻訳したこちらのニュースによると

On Monday, much of South Korean media and social networks
focused on the heroic efforts involved in evacuating the plane,
with headlines about how the crew and passengers reacted swiftly,
limiting further casualties.

(月曜日には多くの韓国メディアやソーシャルネットワークは、機内から脱出する際の
英雄的な努力にフォーカスし、ヘッドラインは乗務員や乗客が迅速に反応し、
負傷者を最小にとどめたかを伝えた)

“The 10-Minute Miracle,”
was the headline on South Korea’s biggest national daily newspaper,
The Chosun Ilbo.

(”10分間の軌跡”
これが韓国大手の新聞、朝鮮日報のヘッドラインである)

“Asiana cabin crew’s professionalism,
courage and sacrifice gave me warmth and made me cry.”

(《ある韓国人の感想》アシアナのクルーのプロ意識、
勇気と自己犠牲には心が熱くなり、涙せずにはいられなかった)

Only one major South Korean daily prominently raised the question
of potential pilot error in the crash,
with a headline on its front page that read:
“Pilot of Crashed Plane Only Had 43 Hours of Flight Experience on B777.”

(墜落事故原因ががパイロットの能力に起因しているという疑問を呈した新聞社は
たった一つで、そのヘッドラインと第一面で
『事故機のパイロットのB777の操縦経験はたった43時間だった』と報じている)


あまりきちんと訳せてないかもしれませんが、だいたいこんな感じです。




ここアメリカでのニュースは、パイロットの経験が非常に浅かったこと、そして、
自動着陸誘導装置(ILS)が切られて、手動で着陸することになっていたこと、
管制塔の呼びかけに対しパイロットの答えがほとんど聞き取れなかったことを言っています。

事故機を操縦していたのは副機長で、B777の操縦経験を積むための「慣熟飛行」、
さらには指導していた機長の方は先月15日に教官の資格を取ったばかりで
教官として乗務するのは初めてだったそうです。

事故の状況から、教官である機長が機体の速度が落ちていることに気付けず、
リカバーのための操作をできなかったのが最も重要な問題だという話もでているようです。


しかし、韓国国内のメディアと国民が、死亡者を「自国民でなくて良かった」とし、
「犠牲者がたった二人で済んだこと」を、乗務員の「勇気」のおかげ、と称えるのとは
全く別の話もちらほら聞こえてきています。


産経新聞はこの脱出の様子をこう報じています。

CNNテレビ(同)によると、乗客のエリオット・ストーンさんは、不時着直後に、機長から
「皆さん、落ち着いてください」というアナウンスがあったと振り返った。
しかし、多くの乗客は、すぐにベルトを外して、
緊急脱出用のシューターも配備されていないドアから一目散に外へ飛び出したという。


脱出時に荷物を持ち出すのは厳密に禁止されていると思うのですが、
荷物どころかカートまで乗客は引っ張っていましたからね。
そして、乗務員のうち「7人がショックで失神していた」
というニュースもどこかで見ましたし、
「ろっ骨を骨折しながら非常ドアを開けた乗客(アメリカ人)もいたということです。

しかし結果よければ、というのか、こちらのニュースでもどちらかというと
乗客乗務員に批判的な報道は抑えられ、「冷静に振る舞ったのでそれが幸いした」
という論調になってきています。


わたしはふと、911の同時多発テロのとき、みずほ銀行の行員たちが一階まで事故後
非常に迅速に避難したのに、ビルの警備員に「隣のビルだから戻れ」
と言われて「素直に従ってしまい、結局ビルが崩壊して殉難した」という話を思い出しました。

この事故がもし日本の航空会社で、乗客が日本人だったら、おそらく乗務員の指示に
おとなしく従って、ほとんどは座席にじっとしていたのではないでしょうか。
それが吉と出るか凶と出るかは、これまた仮定の話なので何とも言えませんが。



航空機事故は一般に「魔の11分」と言われ、そのほとんどが

離陸時の3分と着陸時の8分

に起きていると言われます。
そして、ひとたび事故が起こったとき、地上では90秒以内に全員を脱出させること
安全のために求められているそうです。

これを「90秒ルール」というのだそうですが、今回、乗客のほとんどが中国人で
「我先に」脱出したことが幸いして被害が少なかったと言えなくもありません。

まあもっとも、日本の航空会社だったら、おそらく乗務員は迅速に、かつ冷静に
乗客全てを90秒以内に脱出させることができたとわたしは信じていますし、
彼女らは少なくとも事故のショックで失神などしなかったであろうとも思っていますが。


これを書いている2時間くらい前に出されたロイター通信によると、同機は着陸時に
目標を25パーセント下回る速度で飛行し、機体後部が滑走路前の防波堤に衝突、
機体の破片は海に散乱している、ということを明らかにしたようです。

そして同ニュースでアシアナ航空の社長が会見をしたことも報じられていますが、なんと

「すべての運行責任は教官を務めた機長にある」

と明言したそうで。

どんな原因の事故でも、とにかく最高責任者が責任を負う発言に終始するのが日本企業です。

もし航空事故が起こったら、日本の企業ならとにかくトップが「申し訳ありませんでした」
と最初に会社として事故そのものに頭を下げたりするのですが、

・・・・・・・この国のトップは、こういうこと言っちゃうんですね。


どうしてなったばかりの教官と、機体に全く慣れていない副機長が組んだのかとか、
そのシフトに何か問題はなかったのかとか、そういう原因追及をすることなく、
まず一切会社は関係ない、と。


状況から見てこの事故の原因は副機長のミスとそれをリカバーできなかった機長であることは
ほぼ間違いないんでしょうが、このあたりも「死んだのが韓国人でなくてよかった」という
発言と同じく、我々からは少し理解しがたい感覚に思われます。

いや、決して嫌味とかではなく。



亡くなった中国人の16歳と17歳の少女たちは、サンフランシスコで
2週間の語学研修のためのサマーキャンプを予定していたのだそうです。

まだ人生これからというときに・・・。

心からご冥福をお祈りしたいと思います。


ところで日本のマスコミはほとんどが当初「事故原因は機体の不具合」という論調だったそうですが、
これはやはり、この間のB787と同じ構図と考えてOK?

この、アシアナ航空社長の
「全責任は機長にある」
という発言をメディア各位はちゃんと同じくらいの時間を割いて報道するんでしょうね?








「タスキーギ・エアメン」と「レッド・テイルズ」

2013-07-09 | 映画

夏前に読者の方々と「頭上の敵機」について会話していたところ、
鷲さんからこの「タスキーギ・エアメン」のことを聞き、
興味を持ってさっそくこの黒人ばかりの飛行部隊を描いた映画を二本取り寄せました。

ところが、この二本が二本とも、輸入版で、リージョンの関係でうちでは
携帯用の小さなプレイヤーでしか見ることができないのが判明。
せっかくの航空隊モノなのに、それはいかがなものか、と思い、
今回こちらで観るためにアメリカに持ってきました。

・・・・・どちらもこっちで買えばよかったですね。


日系アメリカ人ばかりの陸軍部隊、442についてはかつて何度も記事にしたのですが、
陸軍部隊にはほかに「バッファロー大隊」という、これも黒人ばかりの部隊がありました。
バッファロー大隊は、実のところ日系部隊ほどではなかった、という話もありますが、
こちらの第332戦闘機隊は、優秀な黒人青年を集め、アラバマ州タスキーギで試験を行い、
その合格者からなる飛行部隊だったので、精強であったという評価があります。


しかし、日系部隊については知っていても、この黒人飛行隊については知らない日本人は多く、
関心も持たれないので、ウィキペディアでもタスキーギ・エアメンを説明する日本語はありませんし、
なによりこの二本の映画が日本では公開されず、またDVDも発売されていません。


この映画をわざわざ輸入して観る日本人はよほどの

アメリカ空軍好き
プラモ好き
飛行機好き
歴史好き
モノ好き

のどれかではないかという気がします。

というわけで、どちらかというと後者二つにあてはまるエリス中尉、
「レッドテイルズ」と「タスキーギ・エアメン」をわざわざ取り寄せて観ました。

観る前は、2012年に公開されたジョージ・ルーカス総指揮の「レッドテイルズ」の方に
どちらかというと期待していたのですが、両者見比べると、この1996年制作、
HBO(アメリカの映画チャンネル)制作の「タスキーギ・エアメン」、悪くありません。
いやむしろわたしは、映像的にも一段劣る「タスキーギ」の方に軍配を上げます。

というわけで、こちらの映画を語りながら「タスキーギ・エアメン」のことをお話することにします。



黒人映画監督のスパイク・リーは、かつてクリント・イーストウッド監督作品の
「父親たちの星条旗」を批判しました。

その理由は「黒人兵が一人も出ていない」。

現代ものの映画には、必ず一定数黒人を出演させること、と決まっている(らしい)
アメリカの映画界ですが、こういうことを決めなければいけないというのも、
ともすれば制作側は黒人抜きで画面を作りたがる傾向にあったからということです。

こちらでTVショーを観ていると、ホームドラマやコメディで「黒人しか出てこない」
というものが時々あります。
白人が主人公の映画にも黒人が無理無理投入されている構図に対し、こちらは
「この世界には黒人しかいないという設定なのだろうか」
と勘繰りたくなるくらい、何から何までが黒人で占められているのです。
こういうのがあるのだから、白人だけのがあってもいいのではないか、という気もするのですが、
たぶんそういうことじゃないんでしょうね。

そのうち、中国系がいろいろとキャスティングに介入するようになってきたとしたら、
「ハリウッド映画っていったい何?」
状態になるとおもうのですが、これは心配し過ぎというものでしょうか。

とにかく、アフリカ系の団体がいかに権利を主張しようと、
黒人ばかりの映画では観客が呼べないというのもまたアメリカでの現実なのです。

ですから、ルーカスがこの題材を取り上げたということは黒人社会の大きな希望であり、
第332部隊のことを世に知らしめる意味でも、大きな期待が寄せられたようです。
実際はどうであったかということを述べる前に、HBOの「タスキーギ」から始めます。



ありがちなトップシーン(笑)
少年時代、飛行機に憧れる主人公のハンニバル。



彼は長じて、タスキーギ大学で行われた
「黒人でも飛行士になれるか」という試験に合格し、
アメリカ空軍の飛行部隊に赴任します。
これは近所の御婦人。



こちら、美人の母上。
彼らの様子をみてもわかるように、この試験を受けることができること自体、
黒人でも裕福な家庭の子息であるということで。さらに、優秀であったのですから
当然ながら家庭もまたインテリです。

主人公ハンニバルの出身はアイオワ。
そこからタスキーギのあるアラバマまで汽車の旅が始まります。



途中で乗り込んできた陽気な青年は自分を「Aトレインと呼んでくれ」と自己紹介。
これは、パール・ハーバーで、というか、「チームアメリカ」で、
「ベンアフラックには演技学校が必要だが、かれにはもっといい役が必要だ」
と言われていた、あのキューバ・グッディング・Jr.。

キューバは、約20年後制作のもう一つの映画「レッドテイルズ」にも出演していて、


こちらでは大出世。
少佐としてタスキーギの小隊長になって居ります。

しかし、こうして比べても全く歳を取っていない気がするんだが。
そもそも黒人さんて、年齢がわかりませんよね。

 

続いて乗ってきた、無口な伊達男、ウォルター。

 

タスキーギにつくなり檄を飛ばされる青年たち。
全員、びしい!とかっこいいスーツにコートできめています。
全員が「いいお家の出身」ですからこれも当然ですね。

右の奥にいるのがこの部隊の「一番偉い人」、ロジャーズ大佐。



右が二番目に偉いジョイ少佐。
黒人部隊の上に立つのは白人将校でした。
この構図は、日系部隊でも同じでしたね。



しょっぱなから「いつ帰ってもいいんだからな!」とねじを巻かれるハンニバル。

 

そして練習飛行が始まります。
最初は二枚羽の複葉機でスタート。

  

ところが、さっそく仲間の一人がストールして教官とともに練習中殉職。

ところで、この字幕、酷いでしょう・・・(-_-)

NOSUPって、ノーズアップのことなんですよ。
一事が万事この調子なので、まったくあてになりませんでした。



死んだ同期生の荷物を事務的に片付けに来る黒人兵。

 

早速起こった仲間の事故死に、落ち込むおデブのキャピー。
練習生たちもショックを隠せません。

 

動揺する練習生たちを叱咤する教官。
練習過程はバイプレインを卒業です。

「貴様らが次に乗るのはA-T6である

 

あらまあこれは最近当ブログ的に話題になっていたテキサンではありませぬか。
つまり初等から高等練習機に進んだってことですね。


ところが、初めて戦闘機に乗ってテンパったウォルター、
何を思ったかはしゃいで基地上空を勝手に低空飛行し、それを咎められ、
候補生から追放処分になってしまいます。



白人の上司から沙汰を言い渡され、部下を守ってやれなかった隊長、一言

「すまなんだ」

死刑宣告を涙を流しながら聞くウォルター。
なら最初から規則を守れっつうの。

 

それを聞いたウォルターは、上官が止めるのを振り切って滑走路の機に飛び乗ってしまいます。

 

最後の上昇に法悦の表情のウォルター。
息をのんで見守るハンニバル。
このあと、ウォルターは機を反転させ、地面に激突させて死んでしまいます。

 

飛行士官になれないのなら、元の「ただの黒人」に戻るなら、
飛行機と一緒にこの人生を終わらせてしまう。

この極端な行動の意味を理解するには、彼ら黒人たちが当時置かれていた
社会的地位のあまりに低かったことから考えねばならないでしょう。

 

この時にこのジョイ少佐が言ったのが

「Crazy nigger・・・・・」(あほ黒人・・・・・)←意訳

ウォルターの処分を軽くするために大佐にとりなそうとした、
その少佐ですら、こうです。

公民権運動が起こるまで「白人専用シート」「白人専用水飲み場」
なんていうのが普通にあったのがアメリカですからね。

「黒人ならではの差別と彼らがいかに戦ったか」という描写は、
それがいわば主題ですからどちらの映画にもあります。

「レッドテイルズ」では、士官専用のバーに入ったタスキーギの中尉が
「出て行けニガー」と言われて相手を殴って大騒ぎになるも、後半では、
護衛した爆撃機のクルーから同じバーに誘われて感謝されつつ仲良く一杯、
という風に、比較的さらっと軽く描かれていたのですが、
この映画ではこんなシーンがありました。

(・・・・・と、何でもかんでもネタばらししてしまいますが、そもそもこの映画、
もう20年近く前の映画でありながら日本でもDVDが出る気配がないので、
別にいいですよね?
レッドテイルズの方は、もしかしたら出る可能性もあるので、控えめにします)



飛行中、キャピーの機の調子が悪くなったので、適当な場所に不時着。
そこでは、白人の保安官が監督して黒人の囚人に野外作業をさせていました。
何をしていたのかは、わかりませんが、草刈り?

 

そこに着陸した空軍の飛行機。
颯爽、といった態で降りてきたのパイロットたちの背中を見つめる一同。



ふりむけば・・・・・・あら、皆さんと同じ黒人さんではありませんか。

「ニガーのパイロットなのか」

と思わず口走る白人の保安官。
飛行機が降りてくるときに囚人の群れを追い立てたりしただけに、ショックです。



その言葉に顔をゆがめるキャピー。
しかし、某然といった態で彼らを打ち眺める囚人たちは・・・・



「有色人種の飛行士だ・・・・・・・」(”Colored flyer・・・・”)

目に涙を浮かべてうっとりと呟く一人の囚人。


さて、彼らが訓練課程を終え、終了のセレモニーが行われます。

 

家族がずらりと見守る中、バッジの授与が行われるのです。
それにしても、家族の皆さん、男性はリュウとしたコートにハット、
女性陣は皆毛皮などをあしらったゴーヂャスなお洋服をお召しです。

アフリカ系アメリカ人の中にこのような上流階級は
この時代にも存在したということを必要以上に強調しています。

 

とても優秀な成績で(というか皆優秀だったらしいですが)課程を修了した
ハンニバル。
ちなみにかれは仲間からは「アイオワ」と呼ばれていました。

アメリカは広大なので、ときどき出身州が珍しいと、それがあだ名になるようです。
CSI:NYで、女性捜査官のリンジーが「モンタナ」と呼ばれていましたね。

ただし、「ニューヨーク」とか「カリフォルニア」「マサチューセッツ」などは
あまりそういう対象にならないようです。
つまりあだ名になるのは「”ど”のつく田舎であること」が条件らしい。

このストーリーは勿論事実がベースになっていますが、
実際の生存者から話を聞いた「レッドテイルズ」と同じように、
この「タスキーギ・エアメン」も、実際の人物、実際の逸話が挿入されています。



この、アンドレ・ブラウヒャー演じるのが、実在した黒人初の☆☆☆☆空将、
ベンジャミン・O・デイビス・Jr.

かっこよろしゅうございますなあ。小さくてわかりませんが。

それから、これも実話でもうひとつ。



お偉いさんがみな総出でお迎えしている、この女性はだあれ?



はい、あのエレノア・ルーズベルト
ファーストレディであるルーズベルト大統領夫人にあらせられます。

おばちゃん、ノリノリで

「カラードのパイロットがいるそうですね」
「はあ、あれはそのあのもごもご」
「ちゃんとわかるように言ったんさい」
「よくやっています」
「今日は飛行機に乗ってみたいわ」
「それなら今から乗る飛行機を用意させ・・・」
「そこの彼の操縦がいいわ」

すたすたと歩いて、ハンニバルのところに。

 

「こんにちはお若いかた。
今日は飛行機に乗るにはもってこいのいい天気ですこと」

てなことをいいつつ、飛行機に乗り込みます。
苦虫を噛み潰したような将校たちの表情(笑)



はい、笑ってくださーい。パチリ。

実際にはエレノア・ルーズベルトは、タスキーギの指導員である
アルフレッド・アンダーソンの操縦するwacoバイプレーンに30分乗り、
降りてから陽気に

"Well, you can fly all right."

と声をかけたということです。
「あら、ちゃんと飛べるじゃないの」ってとこですか。
だとしたらずいぶん見くびった発言じゃありませんかマダム。

アンダーソンはもうそのときには飛行歴は12年のベテランだったというのにですよ。

まあ、ともかく、ここでは美談チックにまとめられております。

  

全体的に、当然かもしれませんが、空戦シーンはレッドテイルズとは比べ物になりません。
右は、文字通り「レッド・テイルズ」塗装がされてからの機体。

左は・・・・P-51CマスタングでOK?
タスキーギはエアコブラ、カーチスウォーホークと使用機を変えましたが、
最終的にはこのマスタングを「レッドテイル」塗装していました。
敵からも味方からも識別されやすかったということです。



尾翼を赤に塗り、それが彼らのトレードマークになったのですね。

映画「レッドテイルズ」では、掩護される爆撃機のクルーが
そちらから近づいてきて友好を温めるとなっていますが、
こちらは、少し複雑です。

 

彼らが歩いていると、爆撃機クルーに呼び止められます。

「この間掩護してくれたパイロットにお礼を言いたいんだが・・・」
「そりゃどーも」
「いや、じゃなくて、そのパイロット、どこにいるか聞いてんだけど」
「あんたの目の前にいるしw」
「ぬあにー!」

 

「黒人に掩護されてたなんて、わろす」
「チョームカつく」

そんなことを言って、礼も言わずその場を後にした爆撃クルーですが、
次のベルリン爆撃で、タスキーギの実力を思い知ることになります。

 

爆撃機を守りきり、自分がやられるAトレイン。

 

墜落していくAトレインの掩護機を、涙を浮かべて見る爆撃機パイロット。
そしてその次のブリーフィング。

 

掩護部隊の変更を告げる爆撃隊の隊長に、彼らは思わず

「待ってください!僕らの掩護は変えないでください・・・
もし全く元の通りにしていただけるのなら、あのカラードの部隊に・・・」

 

そしてこれだけ戦果を上げました。
めでたしめでたし。

この映画にはところどころ、実写のフィルムが挿入されています。

 

 

 

 

タスキーギ・エアメン、レッドテイルズの勇姿。
何か皆かっこいいというか、男前が多いですね。



そしてこれ。
驚いたのですが、第332部隊は、援護した爆撃機を一機も失わなかった。

60人以上の戦死者、殉職者をだし、多くのメダルに輝いた332部隊、
通称レッドテイルズは、掛け値なしにアメリカの精鋭飛行隊だったのです。



ところで、この感動の史実に水を差すようですが、ルーカスが総指揮をしたにもかかわらず、
「レッドテイルズ」、興業的には全く振るわなかったようです。

歴代興行収入のランクには200位にも入っていませんでしたし、そもそも、
日本にも来なかったくらいですから、おそらくアメリカ国内の公開だけで終わってしまったのでしょう。

「黒人ばかりの映画は絶対に成功しない」

という予想そのままであったわけですが、ルーカスは、もしこれが成功したら、
三部作にして、「レッドテイルズ以前」「その後のレッドテイルズ」とするつもりだったようです。

どの辺をもって「成功」と判断するのかはわかりませんが、いまのところ三部作になる可能性は
あまりないような気もしないでもありません。

レッドテイルズは、確かに映像は素晴らしいのですが、話にあまり深みがないというか、
単純すぎるというか。

主人公の一人が飛行中に見かけたイタリア娘のところに押しかけて行って、
まったく言葉が通じないのにすることだけはして、アイラブユーも辞書を引きながらってレベルなのに
結婚しようとするんですね。
一緒に紙飛行機作って飛ばして、こういうのを「死亡フラグ」っていうのよね、と思いながら観ていたら
案の定最後は死んでしまう(あ、言っちゃった)みたいな。

あまりにもありがちな(コンバットにありそうな使い古された現地の娘との恋)ストーリーを
要にしてしまっているもので、子細に見なければ、こちらの方が古い映画だと
思ってしまうくらいなのです。

このあたりの甘さがちょっとなあ、という気がします。

というか、「タスキーギ」のローレンス・フィッシュバーンがいろいろと良すぎるんですよね。
「あんなごつい顔」なのに、見ていると役柄そのままに、だんだん繊細で優美にすら見えてくる、
実に不思議な俳優だと思います。

ルーカスはサミュエル・J・ジャクソンにオファーして断られています。
タスキーギのフィッシュバーンのような存在感が欲しかったのでしょう。
ルーカスは、いっそフィッシュバーンを使って三部作に挑戦してみてはどうでしょうか。
前作から20年経っていますが、なに、黒人は歳がわからないから、きっと大丈夫。(←適当)











辛坊氏救出事件~「自衛隊不要論」の真偽

2013-07-08 | 日本のこと

ところで、事故後、辛坊氏は「週刊新潮」のインタビューに答えて
税金を使って自分が助けられたことに対し申し訳ないと謝罪したうえで

「9年前、イラクで人質にされた高遠菜穂子さんたちに対し、
自己責任論を持ち出して批判しました。
これでは、言ってることとやってることが違うじゃないかと
厳しい指摘があるのも承知しています。
私には反論できません。」

とこちらに対してもきっちりと言及しているらしいことがわかりました。

ちゃんと、何を批判されているのか世間の声を受け止めて対処する。
このあたりはさすがに機を見るに敏なメディア関係者です。

ただ、ここまでにしておけばいいものを

「“払います”と言えば、助けてくれた自衛隊員が喜ぶと思いますか」

と言わなくてもいい(と思われる)ことを言って逆に炎上してしまったのは
計算違いというものだったかもしれません。

わたしは辛坊治郎という人を、所詮「アナウンサー」だと思っていますので
過去どんな発言をしていたとしても、現在起こっている事象だけを見て、
インターネットに溢れる「好き嫌い」からくる非難からはできるだけ中立でいようとしました。

しかし、そういう風に心がけても、今回の事件の個々の辛坊氏の発言に対しては、
どうしても、うっすらとした嫌悪感を持たずにはいられないのです。

これはどうしたことでしょうか。


「そりゃあ気分も沈みますよ…。
同行した岩本さんの夢をかなえるために出発したのに、
望みをかなえてあげられないばかりか、
(事故によって)マスコミの前に立たせることになってしまった。
申し訳ない気持ちで、いっぱいです」

本紙の直撃に辛坊氏は、力なく声も途絶えがちに答えた。
テレビで見せるテンポの良い語り口調は鳴りを潜め、
明らかに憔悴した様子だった。

救助されてから3日。九死に一生を得た辛坊氏のもとには激励の言葉とともに、
1000万円以上ともいわれる税金を投じた救出劇に批判の声も上がっている。

辛坊氏は現状を受け止め、こう話した。
「自分でけじめをつけようと思います。
ただ、助けてくださった自衛隊の方が私の出演する関西の番組のファンだそうで…。
『辛坊さん、頑張ってください!』とおっしゃってくれて。
彼らへの恩返しということなら、自分の頑張る姿を見せることも必要なのかな…と」

落胆、無念、感謝…。そして自らの“贖罪”“賠償”の仕方について、
しばらくは自問自答の日々が続きそうだが、
再び元気な姿が見られることを期待したい。


この企画は同行の岩本さんの夢をかなえてあげるためのものだと強調する辛坊氏。
まるでそのための慈善事業であったような言い方です。

成功後の名声、スポンサーからの有形無形の報償、
講演料の大幅な値上げ、全国区となるであろう知名度。
今回の事故で逸失したと見込まれる利益は一説には五億円とも言われ、
さらには氏はこの成功をバネに政治家への転身を目論んでいたという噂さえあります。

もちろんこうした功利目的の行為が悪いと言っているのではありません。

しかし、障害者への無償の善意であることをまず前面に出すには、
これら「取れなかったタヌキの皮算用」はあまりに大きくありませんか?


そして、この言葉。

「助けてくれた自衛隊の方が自分のファンだと言ってくれたので、
恩返しのために頑張る姿を見せることも云々」

事件の概要すらまだ総括もできていないこの時点で、
もう仕事に復帰することの意欲を覗かせているように見えます。


辛坊氏の周辺と関係者以外、世間とマスコミのほとんどは辛坊氏を非難しているこの状況で
「この件を本や映像にして儲けることは許さない」
「もう何を言ってもブーメランになるだけだから、潔く引退しろ」
という意見が少なからず氏の事務所に届いていると思われます。

ここでわたしが辛坊氏に「嫌な感じ」を持つのは、こういった「大多数の声」より、
自分を救ってくれた自衛官の一人がおそらく氏を励ますために言った「がんばってください」
を都合よく拾い上げ、ちゃっかり自分の復帰の正当化に利用しようとしていることです。


「エリス中尉は辛坊氏に厳しすぎる」とおっしゃる方もおられるかもしれません。


しかし、わたしはかつて辛坊氏が、謀略に嵌められた(とわたしは思っている)
故中川昭一氏の泥酔会見事件のときに

「あんだけ国際社会に恥かいてね、オメオメねぇ、
オメオメ有権者の前にもういっぺん出るなと!」

という言葉を投げつけ、さらに自殺するべきとまで公言したことを重く見ます。
もし、このような事件を起こしたのが別のアナウンサーであったなら、辛坊氏は間違いなく

「あんだけ世間に恥かいてね、おまけに税金の無駄遣いして、オメオメねえ、
オメオメ視聴者の前にもういっぺん出るなと!

と全く同じ言葉で非難したのに違いないと思います。

しかしこの「頑張る姿を見せることも恩返し」という調子のいい我田引水こそ
「おめおめ」という言葉そのものではありませんか。

(辛坊氏風に)はっきり言います。(笑)
吐き気がするほど厭らしいとわたしは思いました。



というわけで、辛坊治郎に対し最悪な心証を持ってしまうに至ったエリス中尉ですが、
しかしながら、そういう先入観から陥りがちな
「風評の盲目的容認の危険性」について考えさせられるこんなできごとがありました。


最初に書いたこの事件の顛末に対する感想に寄せられたコメントに
辛坊治郎氏が「自衛隊不要論」を唱えていた、という文があったのですが、
その部分に対して、非公開を希望にある読者からコメントが寄せられたのです。


「自衛隊不要論を辛坊氏が唱えたというのは本当でしょうか。

にわかには信じ難いです。
氏の父親は自衛官だったのに、そんなことがあるはずはありません」


要約すると、このような内容です。


辛坊氏を非難する意見の中に時々「自衛隊が不要とか税金の無駄とか言っていた」
というものあり、わたしも今回ことがことだけに注目していたのですが、
実際には具体的な証拠となる映像も文章も見当たらなかったので
前エントリにおいてもそのことについては触れておりません。

そしてさらに、このコメントを受けてかなり綿密に検索をしてみたのですが、
辛坊氏がはっきりとそう発言していたという記録を見つけることはできませんでした。

普通に考えても、もし本当にそのような発言を辛坊氏がしていたとしたら、
たとえばこんな風に自衛隊に救助されて感謝を述べるような事態になったときに
過去の発言とそれに対する批判があちらこちらからでてくるはずなのです。

ですからあくまで状況によるものですが、わたしは

「辛坊氏が自衛隊不要をとなえたという証拠はない」

と一応勝手にここで結論付けておきたいと思います。


実はこの読者の方からは辛坊氏の「自衛隊不要論」に対し、

「出典を明示するよう言っていただけないでしょうか」

と伝言を頼まれてもいるのですが、おそらく同じ結果(出典は出てこない)
となると思われるのでここでは敢えて聞きません。

勿論、ソース元をご存知の方がおられましたら、是非御一報ください。



ただ、辛坊氏が自衛隊不要など実際に言っていなかったとして、
どうしてそのように決めつける人が少なからずいるのか考える必要はあります。


それはおそらく辛坊氏の所属するマスコミという社会が、基本的に反体制、反保守、
そして反米で反自衛隊であるという傾向にあることからきているのでしょう。

そこで生きていくためには局是社是、スポンサーの意向に逆らうことはできないし、
ときには発信自体がすでに自分自身の思想信念と乖離している可能性もあります。

辛坊氏は例え身内が自衛隊にいても、そのこと自体を誇ったり、
自衛隊そのものを評価することにさえ、言論人として慎重であったでしょう。
そういったことへの「抗議」に対して、テレビというものはあくまでディフェンシブだからです。

辛坊氏はそこをそのほかの言動と合わせて「反自衛隊」とまで踏み込んだ、
いわば穿ったレッテルを貼られたのだと思うのです。

しかしながら、検索の過程で、或る番組で辛坊氏の父上の元部下と辛坊氏のやり取りがあり、
「厳しく指導していただいた」というその視聴者の話に、氏はそのとき非常に感激していた、
という話を見つけたことも言っておかねばなりません。

こんな逸話を見ても辛坊氏が自衛隊不要論者であったと決めつけるのは、
なんというか、心情的にもかなり無理があるという気がします。


とはいえ、父親が自衛官でも、野田佳彦前首相のように民主党などにいたばっかりに、
父のかつての職場を堂々と貶めるようなことを自分の所属する組織がしていても何もできなかったし、
また、全くする気もなさそうだった、という人もいます。

極端なのは共産党の志位委員長のように、祖父はビルマで戦った陸軍中将でありながら
「親子二代でああなってしまった」のもいるわけで・・・・。


つまり、親が自衛官や軍人だからといって必ずしも保守になるわけでもないし、
むしろ自分の職業やそこでの地位によっては切り捨てたり反対する側に廻ったり、
何の意味も持たないことが案外多いような気もします。
親の職業だからあくまでも反発する、という人たちもいるでしょうしね。


辛坊氏は、思想的には新自由主義とでもいう立場に立ち、
右であろうが左であろうが「違うと思えば叩く」のを身上としていたようで、さらに、、
マスコミ人種特有の極論と暴論、毒舌から反発を持たれやすく、それゆえ「アンチ」も多いようです。


しかし、だからといって憶測で決めつけ、それに基づいてこのような場合に
「坊主憎けりゃ」とばかりにそれを検証せず材料として非難することは慎むべきでしょう。

わたし自身、自戒としてこれを受け止めたいと思います。







辛坊治郎氏の手記に思うこと

2013-07-07 | 日本のこと

当ブログでこの話題について取り上げたばかりですが、
いま一度その後の経過と、この人物への非難というものを整理したいと思います。

当ブログで述べたことは

●確かに準備不足とコンセプトの甘さは責められるべきであるが、
事故はいわば不可抗力であり、これは仕方がない

●多額の税金が投入されたが、自衛隊はいかなる人物でも救出するのが是であり
辛坊氏にその金銭的負担を問うのは妥当ではない

しかし、辛坊氏本人が上記二点に対し弁明ないしこれを自己正当化として口にしても、
今までの氏の言動から、世間の賛同を得ることはできないのではないか、というものです。



命からがら生還し本来なら助かってよかったね、と言われるべきところを、
マスコミも、インターネットの一般言論も、珍しくも足並みそろえて個人非難の大合唱。
ただでさえ挫折感と恥ずかしさで消え入りそうにになっているところにもってきて
さぞこの展開は辛坊氏にとって不本意であり、二重に傷痕の思いでしょう。


前回わたしは、一般人の持つ視点でリスク回避できなかった辛坊氏には
むしろ同情的だったが、自己弁明と正当化の必要にかられて

「金払って自衛隊が喜びますか」

などと切り返してしまったことはいかがなものかと思う、と述べました。

なまじ言論で禄を食み、言論で世間を渡ってきた氏は、おそらく、
自分が今まで絶対的な安全圏に立って糾弾してきた「非難される側」になることを
条件反射のように逃れようとしたのでしょう。
これだけの非難を浴びても言い訳ひとつせずじっと嵐が過ぎるのを待つ、
というのはある意味誰にも、ましてや辛坊氏のような人種には不可能だと思われます。

同業者であるマスコミが、今は「非難するべき取材対象」として自分を扱っている。

辛坊氏が殊勝に世間への謝罪と助けてくれた人々への感謝を口にしつつも
非難に対しついつい自己弁護めいたことを言い募るのはしかたないことかもしれません。


しかしながら辛坊氏は、厳しく言うならば、こういった一連の言動によって
事態をより悪くしていっているとしかわたしには見えないのです。


まず、自衛隊に事情聴取されることになって、氏はまずブログ記事から、
このような部分を削除しました。


完璧に整備したと皆が思い込んでいたエオラス号に、

いくつかの問題点が見つかったんです。

まず一つは、船の舳先に突き出ている大きな棒、
これをバウスプリットって言うんですが、
この根元から少量の漏水が発見されました。 
エオラス号には既に太平洋横断用の資材をすべて積み込んでいたために
相当喫水が下がっていて、台風の余波のうねりに舳先から突っ込んで
派手に海水をすくい上げる局面が何回かあったんですが、

この時バウスプリットの止水に不具合があって、水が漏れることが分かったんです。
当初、この2日間で舳先をすべて解体して、充填剤を入れなおすことも計画されたんですが、
様々なリスクを計算した結果、内側からの充填で対処することになりました。 
余程荒れた海でない限り漏水しませんし、
エオラスの設備で簡単に排水できる程度のものですから、これで、まず大丈夫でしょう」



現実は全く、「まず大丈夫」ではなかった、ということになります。
ところが、辛坊氏、さらに広がる非難にいてもたってもいられなくなったのか、
今度は「FLASH」にこのような文章を公開しました。

はっきり言います。
出港時点でのエオラス号の整備は、
少なくとも「これ以上は無理」というくらいに完璧でした。


先の文でも思いましたが、失礼ながら辛坊氏、文章があまりお上手でない。
この文章も「少なくともこれ以上は無理」、と「完璧」が全く矛盾しているのですが、
まあ、言いたいことはよくわかります。

しかし、少なくとも自分が削除したブログからは「完璧」ではなく「間に合わせ」
という事実しか浮かび上がってこないのが現実です。

そして、辛坊氏は、

「24時間テレビとは関係ない」

ということをここで強調しています。
以下、その部分です。


まず、多くの週刊誌の記者さんが共通して私にぶつけた質問は
「『24時間テレビ』の放送に間に合わせるためにこのタイミングでの出港になったんでしょ?
で、急いだから準備が十分じゃなかったんじゃないですか?」というものでした。
複数の記者さんに同じことを聞かれました。

はっきり言います。
今回のプロジェクトと24時間テレビはまったく、完全に、なんの関係もありません。
じつは、このプロジェクトがスタートした去年の夏の時点で、
スタッフの共通見解として
「『24時間テレビ』とは別のコンセプトでプロジェクトを遂行する」
というのが合言葉だったんです。

私が感じる24時間テレビの「健常者が障害者の役に立ちたい」というコンセプトと、
HIROさんのチャレンジとは相容れないものがあると考えたんです。
HIROさんがイメージしていたのは、「障害者が健常者の役に立ちたい」ということでした。

私は玄関先に押し寄せてくる記者の皆さんに、
「24時間テレビ説」は完全なデマである旨を丁寧にお話しさせていただきました。
ところが、一部週刊誌の記者さんは、真実を知っていながら嘘を書いたんです。
もともとこのデマは、私たちの「準備不足」を言いたいがために生まれたようです。


「はっきり言う」のが好きな方ですね(笑)

この部分もとても「書いた文章」とは思えませんが、それはまあよろしい。

言わせていただけば、辛坊さんは大きな勘違いをしています。
「24時間テレビに関係がある」から、自分は非難されていると思っておられる。

そしてこの弁明によると、「24時間テレビとは別のコンセプト」でのプロジェクトだという。

プロジェクト。

プロジェクトということは、映像記録を取り、それで

「感動!盲目のセイラーが、ガン患者とはいえ健常者をアシストして太平洋横断成功!」

というテレビ特番を作るつもりだったということではないのですか?


台風が来るというのに、ヨットに不具合があったというのに、何が何でも出航した。

その理由が「テレビ番組の製作のスケジュールに合わせるため」であったらしい、
というのが、今回の非難の理由の一つです。
その目的が「24時間テレビ」でなかったとしても、別の「プロジェクト」を予定していて、
そのスケジュールのために無理な企画を強行したというのなら、全く同じことなのですが。



辛坊氏はこの文章でマスコミの「嘘」を非難しています。
人の話を自分たちの望む結論に誘導し、思う結果が得られなければ
ウソでもなんでもついて報道するのが自分の属するマスコミというものであることを、
辛坊氏は今まで全くしらなかったのでしょうか。

だとしたら、自分がこうなって今回初めて、自分の今まで見ていた景色を
「被害者側から」観ることになったわけですね。

辛坊氏がここまで同情されない理由は、今まで氏が

「マスメディアという常に正しい側」

から強権的に自分の意見(のつもりで実はマスコミの意見)を吐いてきたからで、
下世話な言い方をすると

「お前が言うな」「ブーメラン」「ざまあみろ」

と溜飲を下げた人間が多かったということなのでしょう。



辛坊氏の手記をもう少し続けます。


出港時点でのエオラス号の整備は、
少なくとも「これ以上は無理」というくらいに完璧でした。
こう書くと必ずこういう質問を受けます。
「じゃあなぜ事故を起こしたんだ?」。
この答えはただひとつです。
すべての責任は船長にあります。エオラス号の船長は私です。

6月16日午後1時に福島県のいわき市を出港したエオラス号は、
まる5日弱でおよそ1,500キロを東南東に走って、
金華山沖1,200キロの時点を時速7ノット(秒速約3.6メートル)で快走中でした。
もともとの予定では、一日180キロほどが目標でしたから、
エオラス同型艇の記録的水準だと思います。

ところがこの速力が災いしました。
6月21日午前、レーダーに周辺監視をまかせて私が寝入った直後、
水面下に潜む「何か」に激突し、
直後に浸水が始まったエオラス号を放棄して救命イカダに避難、
それからおよそ10時間後に海上自衛隊のレスキュー隊に救われたのです。

この間の海上保安庁、自衛隊の皆さんの献身と活躍については、
現在私のブログで無料公開中ですので、ぜひ一度目を通してみてください。


最後の「無料公開中ですので」に脱力感を感じてしまったのは
わたしだけでしょうか。

このひとは、なんというか・・・・とことん骨の髄まで「マスコミ人種」だなあ、と・・・・・・。

この答えはただひとつです。
すべての責任は船長にあります。エオラス号の船長は私です。

いや、辛坊さん。
陶酔しておられるところ大変失礼とは存じますが、それ、答えになってませんよ。
そもそも責任を取るのは船長であるあなたであることは当然じゃないですか。

準備不足だ!→違う!エオラス号は完璧だった!

24時間テレビのために無理をしたんだろう!→違う!別のプロジェクトだ!


こう言い訳をなさるということは、原因は他にあるということでしょうか。

実は我々はそれこそが事故の原因の一部だと思っているわけですが、
全責任を負うべき船長であるあなたが、なぜその原因を直視できないのか。

たとえば普通の会社で

「なぜ事故を起こしたんだ?」
「その理由は一つです。すべての責任は責任者にあります。責任者はわたしです」

で終わらせようとしてもおそらく通用しません。
通用しないどころか、これは『自分を無条件でクビにしてください』と同義の覚悟発言です。

根本の原因とされている事象ににあれこれ言い訳をしておいて
責任はわたしにあると居直られても、これでは誰も納得しますまい。

辛坊氏は、自分の感覚がかなりおかしいことを自覚するべきだと思います。


手記、最後の部分です。

盲目のセーラーの「太平洋横断をしたい」という夢の実現に私は失敗しました。
その責任は、すべて船長たる私にあります。
記者会見で「もう一度やるつもりは?」と聞かれて、
「これだけ迷惑かけて、やるとは言えない」と私は答えました。
HIROさんも間髪入れず、「私もそう思います」と言いました。

「FLASH」の賢明な読者を信頼して、あえて真意を言います。
これはつまり、「絶対に迷惑をかけない体勢、手段を考えて、
またいつの日かチャレンジする」という宣言です。
しかし、同時にこうも思います。
「何か」に当たったのは、海の神様が
「今のお前には、あの場所より東に進む資格はない」
と教えてくれたのだと思います。

他人様の命を危険にさらし、他人様の献身で私は今ここに生きています。
この命をどう使うか? 私に課せられた重い十字架です。


うーん。

失礼ついでに、あいかわらず文章が不自由で意味が分かりません。

「これだけ迷惑かけてまたやるとは言えない」と言ったその真意が、なぜ
「これはつまりいつの日かチャレンジする宣言」になるのですか?

これはつまり「迷惑さえかけなければいいんだろ」と言っているわけですか?
今度は何があっても自衛隊の出動要請をしない、という誓約書でも書くつもりですか?


最後の部分はおそらく氏の真摯な思いでしょう。
そこまで揶揄したり真意を疑うつもりはわたしには毛頭ありません。

しかし、全体としてこの手記を見たとき、やはり

「こんな言い訳ならしない方がマシではないのか」

という、他人事ながらおせっかいな心配をせずにはいられないのも事実です。




ところで、いま一度辛坊氏のこの事故について書く気になったきっかけは、
非公開希望で寄せられたある読者からのコメントでした。
長くなってしまったので、二部にわけてこの本題について次項で述べます。







 


「坂の上の雲」~ニコライ二世の憂鬱

2013-07-06 | 映画


意外とノリノリで「坂の上の雲」について何日も書いてしまうエリス中尉です。
今日は、あのドラマのロシア人たちについて少し。

自分が覚えていないからって、「今までロシア人俳優が日本海大戦映画で使われたことが無い」
と言い切ってしまい、さっそく間違いであると指摘をいただいたわけですが、
ロジェストベンスキーは配役されたことがあっても、この人はありませんよね?(小声で)

ロシア皇帝ニコライ二世。
しかもこの俳優がまたそっくりなんだ。本物に。


ニコライ二世ご尊顔。

額の禿げあがり具合まで同じ役者を使うあたりが、
ここだけ妙にリアリズム。
このニコライ二世の「対日本感情」を表すシーンもなかなかです。

渡欧した伊藤博文を宮殿に呼びつけ謁見したときに、まず

「そちには日本で会って居るか」

と聞いてから、無表情で

「日本での滞在は思い出深いことばかりであった」

と言うのを、伊藤は好意的に受け取り、ホテルに帰っても

こんなに皇帝が好意的であるとは」

と感激してはしゃいじゃったりするわけですが、実はニコライ二世、
伊藤と言葉を交わしながら、実はその脳裏に
皇太子時代に来日した時に滋賀県で警官に切り付けられ国際問題となった

「大津事件」

をフラッシュバックさせてるんですね~。
怖いですね~。


大津事件と言うのは、視察に大津を訪れたニコライ二世が、
津田三蔵という巡査に斬りかかられ、耳の上を負傷したという事件です。

この津田三蔵を死刑にするべきか否かで、日本政府の「司法介入」が起こった、と言う話は
別のエントリを立ち上げてお話しすることにして。

ここで少し気になることがあります。

この「坂の上の雲」(司馬廉太郎の小説)によると、日本国民の同情や政府、
ことに明治天皇の手厚いお気遣いが事態を収拾し、
ロシア側は国家としての抗議などの鉾は納めたものの、その後ニコライ二世は
拭いがたい日本と日本人への嫌悪を生涯持ち続けていたというのです。



「この事件から生まれたニコライ二世の日本に対する嫌悪が日露戦争を引き起こした」

とする歴史家もいるので、作家の司馬遼太郎が「坂の上の雲」で
こういうドラマとしての流れを補強してしまっても無理はないという気もしますが、
例によってこれも、あくまでも伝聞、「日本を恨んでいたに違いない」という憶測、
そのようなことから生まれてきたソースなしの単なる「噂」のような気がしないでもありません。


確かにニコライ二世が日本人を「サル」と言っていた、という証言などもあることはあるようですが、
少なくとも当人が残した書簡や日記には、そのような記述はないということです。

つまり、「わたしは聴いた」では証拠にならない、という法的解釈で言えば、シロです。


加えて事件後、大津事件の後に見舞いに来た日本人らに対し、ニコライ二世は非常に
紳士的に振舞い、日本側接客伴員を安心させようとつとめたという記録が残っていますし、
犯人の津田三蔵がもし死刑判決が出るようなことがあったら助命嘆願するつもりであった、
ということからも、この件でニコライ二世が日本を個人的な感情により
深く嫌悪していたという「証拠」はないのです。


まあ・・・・・もっとも、ニコライ二世はいやしくも大国であり文明国の皇太子ですし、
品性が上等であられたので、そのような私的感情を公に露わにしなかっただけで、
表向きたとえどのように振る舞っていたとしても、
内心実はどう感じていたかについては誰もわかりません。


大津事件のことをニコライ二世自身が記した文章には、

「振り返ると胸が悪くなるほど醜い顔をした巡査が
両手でサーベルを持って私を斬りつけようとしていた」

「醜い顔は私を追いかけてきたが」
(写真に残る津田はそれほど醜い顔ではない)

「日本の群衆は誰一人として私を助けようとしなかった」
(実際は二人の車夫が犯人の津田を押さえつけている)

という非常に感情的な文言があります。

さらに自分を救ったのは日本人ではなく同行のギリシャ国王子ゲオルギオスである、
との考えを最後まで固持し、後から二人の日本人車夫に勲章を与えたものの、
この事件のためで行われた礼拝で感謝を捧げたのは、常にゲオルギオスだけであったそうですし、
また、事件後、周りの日本人の気遣いには感謝の意を示しつつも、
日本人医師の手当ては断固として拒んだということです。


そして、こういったところから儀礼的な表面に隠された「想い」を
勝手に汲み取るのが、世間と司馬遼太郎というものなのですね。

普通に考えれば、殺されかけたのだから、嫌うなという方が間違っているし、
従って司馬があのように表現したとしても、当然かもしれませんけれど。


このニコライ二世、この「大津事件」に始まって、日露戦争には敗戦、
しかも即位記念の「庶民への大盤振る舞い会場」では、
詰めかけた群衆が将棋倒しで1400人が死亡、(ボディンカ事件)さらには
ラスプーチンなんかを信用したばかりにあちこちに敵を作り、民衆には恨まれて、
革命が起こり、流刑になったと思ったら、最終的には家族全員惨殺されて、
死体すら長い間隠匿されていたという・・・・・

・・・・なんというか、悲運としかいいようのない人物です。

もし、身の回りに居たら、ぜひお祓いしてもらうことを奨めたいくらいです。


「大津事件」はその悲劇の人生の前兆とでもいうべきものでしたが、
最終的に皇帝の命を奪うのは憎んでやまなかった(とされる)日本人ではなく、
自国のロシア国民であったというのが、皮肉と言えば皮肉ですね。


さて、絵を描いてしまったので順番に行くと、広瀬武夫とアリアズナを取り合った
ボリス・ビルキツキ

アリアズナを取られそうになったので、
公衆の面前で何の技もないのに講道館有段者の広瀬に挑み、
かかなくてもいい恥をかいたにもかかわらず、広瀬を嫌いにならなかったボリス。

そんな都合のいい「いい人」が本当に存在したのか?と思ったら、
やっぱりこのあたりはすべて司馬先生の創作でした。

ただ、広瀬の留学時代、広瀬のことを

「タケニイサン」

と呼ぶ「ボリス」という青年がいた、という事実はあるようです。



拾い物画像なので素性はわからないのですが、どうもあの「パブロフの犬」
で有名になった犬、じゃなくてパブロフ博士が真ん中の人物のようです。
この写真にロシア海軍の士官候補生であったボリス・ビルキツキとされる人物が
広瀬と並んで写っています。

この写真を見る限り広瀬さんと女性を取り合うには若すぎですね。


広瀬武夫ですが、実際の彼は非常に男っぷりがよく、たとえば「レス」などでも、
歌を歌うとそれが玄人はだしの巧みさでしかも美声。
芸者たちが「岡惚れ」せずにはいられないくらいの魅力に溢れた男であったそうです。

男にも女にも惚れられた広瀬。
ロシア人女性、しかも軍人の娘であるアリアズナが異国の人にもかかわらず
「心に決めた」
というのは、当時の東洋人全般に対する人種偏見や、さらに敵国軍人であること、
いろいろなものを跳ね返すに足る男であったということでしょう。

ボリスがその後どうなったのかは調べてもわかりませんでしたが
開戦時、広瀬が友人のロシア軍人に出したこの手紙がボリスに宛てたものとされ、
彼がロシア艦隊の一員として日本と戦ったらしいということにはなっているようです。


今度、不幸にもあなたの国と戦うことになった。
何とも いいようがないほど残念である。

しかし、これは国と国と の戦いで、あなたに対する個人の友情は
昔も今も少しも変 わらない。
いや、こんな境遇にいるからこそ、却って親し みも増してくる。
平和が回復するまでは、かねて申し上げ たように、
武人の本懐をお互いに守って戦い抜こう。
現に、武夫は9日の昼には戦艦「朝日」の12インチ砲を指 揮して、
旅順沖の貴艦隊を熱心に砲撃した。

それさえある に、今度は貴軍港を閉塞しようと願い、
「報国丸」を指揮 して、今、その途上にある。
さらば、わが親しき友よ、いつまでも健在なれ。


そしてご存知のように、この後の第二次閉塞作戦において、
広瀬武夫少佐は戦死します。

その広瀬少佐は「一片の肉塊だけを残して」海中に消えたのですが、
それは隣に座っていた兵すら気づかないほど一瞬の出来事でした。

爆死の状況を当時の新聞はこう伝えます。

『明治ニュース辞典』―(1904年4月11日付毎日新聞)

”死体を収容しロシア軍が葬儀を営む”

4月1日、旅順に於いて日本海軍将校のために葬儀を営めり。

当時将校及び水夫、これを見送り、かつ楽隊を附せり。

この将校の死体は、福井丸の船首なる海上に浮かびしものにて、

頭上に砲丸にての大疵あり、その深さ一寸、外套の袖に金線あり、

頚には革紐にて望遠鏡をかけ、ポケットには短剣を差し居れり。

電報によれば、露人は該死体の広瀬中佐たる事は、

知らずして、葬儀を営みたるものならんも、

その広瀬中佐たる事は、当時船上に留めたる肉片が、

電報に伝へる頭部の深さ一寸の大疵と、符号する事、

並びに、外套の袖に金筋の入り居りし事だけにても、

疑ひなきがごとし。


「坂の上の雲」では、広瀬少佐であることをロシア人が知ったうえで葬儀を営み、
なぜかそこにボリスが参列していて

「さようなら・・・・タケオ」

と呟き涙する、ということになっていましたが、実際は違います。
ボリスが出席しなかったのは勿論ですが、その日本人将校の遺体が
ロシア人に親しまれた広瀬武夫ののものであるということも、
ロシア人は知らずに、しかしながら丁重に葬ったということであったようです。


ところで、ちょっと変な感じがしたのですが、この毎日新聞の記事によると、

「遺された一片の肉片の大きさと情報による頭部の傷の深さが一致するから」

広瀬少佐であろう、などと書いているのですが・・・・。

パズルのピースじゃないんだから、
「傷と肉片の大きさが一致したから」
って、なんだか素直に「ああそうか」って言えないというか・・・

・・・・・まあ、広瀬少佐だったんでしょうけどね。


この時引き揚げられた広瀬少佐の遺体が船の甲板にそのまま置いてある写真、
さらに葬儀の様子も実は映像としてロシアには残されているようです。
写真は不鮮明ながらインターネット検索で見ることができます。


この件が閉塞作戦直後にこのように報道されていたにもかかわらず、
割と最近になって(2010年)、

広瀬中佐の遺体は海中から引き揚げられ、
ロシア艦船上で丁重な葬儀を営まれていたことが、
日露文化センター代表、川村秀さん(東京)のロシア国内での調査で分かった。

というニュースがありました。



ロシア艦船が発見して引き揚げ、軍外(がい)套(とう)を着た状態で収容した。
頭部以外はほとんど損傷はなかった。
遺体は、広瀬がロシア駐在武官のころ交際した令嬢アリアズナの兄らが確認
ロシア軍隊の軍旗、葬送曲を伴った完ぺきな栄誉礼をもって厳粛な葬儀が執り行われた。
遺体はその後、旅順のロシア海軍墓地に葬られた。
納棺の際にはアリアズナから贈られた懐中時計も発見された
また、川村さんは、露テレビ局が製作して2005年に放送したドキュメンタリー番組から、
ロシア戦艦上に横たわる広瀬の遺体と葬儀、旅順のロシア海軍墓地、
アリアズナの肖像などの写真も確認。この日、その一部を披露した。


川村さんの話 広瀬は弾丸に当たって消えたと信じていたので驚いた。
あの時代は敵に礼を尽くすという騎士道や武士道の精神が機能していたことに感銘した。

(大分合同新聞/2010年02月07日記事)


文句をつけるわけではありませんが、なんだかよくわからない「新発見」ですね。
第二次閉塞作戦直後(作戦は3月27日)四月の毎日新聞記事で、
すでに「頭の傷と肉片が一致」「ロシア軍が葬った」と歴史的には明らかになっているのに、

「弾丸に当って消えたと信じていたので」

って・・・・弾丸に当って消えたのに間違いはないと思うのですが。

「アリアズナから贈られた懐中時計も発見された」

・・・・いつ発見されて、今それはどこにあるんですか?


この調査でもし「新発見」があるとすれば、アリアズナの兄(海軍軍人)が遺体を確認、
ということと、懐中時計は広瀬と一緒に見つかった、と言うことでしょう。

さらに言えば、その写真が世に出たことが一番価値ある新発見だとは思います。









アメリカ独立記念日と序曲「1812年」

2013-07-05 | 音楽

昨日の閲覧履歴に上がってきた記事です。

ほとんど一年ぶりに自分の記事を読んだのですが、我ながらちゃんとしたことを書いているので、
感心(自画自賛)しついでに、現在アメリカでは7月4日の夕方で、
ジュライ・フォース真っ最中でもあるので、一部訂正してその記事を再掲することにします。



冒頭画像は息子の学校の道向かいにある独立戦争のときのキャノン砲。
7月4日が近づくと、いつもこのように周りに国旗が飾られます。
ここは街のタウンホール(市役所)の前なので、こういうものや地元出身の戦没者碑があり、
そこには勿論、通りにはこれでもかと星条旗がひるがえるのです。



夏の青空に三色のスターズ&ストライプス。
いつみても美しいなあと思います。(羨ましくもあります)



国民の祝日ですから、学校はお休み。
我々はいつもこの時期にはここにいるので、住んでいた時期も含めると10回以上は、
独立記念日をボストンで迎えていることになります。



なんといってもこの地域は「ニューイングランド」と言うくらいです。
独立のきっかけとなったボストン・ティーパーティー事件があり、独立戦争が始まったのは
レキシントン・コンコード。(以前住んでいた地域からはわりと近くです)
つまりアメリカ発祥の地と言うべき土地。

二年前の独立記念日にも確か書いたと思いますが、
ボストンに住んでいたときは、近くに「ここで当時戦闘が行われました」という一角がありました。
独立記念日には、そこで昔のコスプレ?をした人たちが、歴史に残る通りの戦闘を再現します。
いつもはTシャツと半ズボンのアメリカ人が当時の軍服を着ると、あら不思議、
あまりにも似合っており、迫真に迫った演技は映画を見ているような気分になったものです。

こういう衣装や銃、大砲って、普段はどこにしまってあるんだろうか、とふと疑問でした。

因みに、

「レキシントン」

「バンカーヒル」
「タイコンデロガ」

この時戦闘の行われたマサチューセッツ(最後はニューヨーク州側)の地名は、
そのままアメリカ軍の軍艦名になっています。
このブログの読者の方にはおなじみかもしれませんね。


そして、この日が近づくとラジオやテレビから「ハッピー・ジュライ・フォース」という言葉が聞かれ、
クラシックチャンネルではやたらチャイコフスキーの序曲「1812年」が流されます。

当日はチャールズ・リバーのほとりで花火の打ち上げを伴ったこの曲の演奏が行われます。
ボストン交響楽団の演奏、そして海軍の参加によるキャノン砲の伴奏に市民は酔いしれるのです。
首都ワシントンのポトマック川湖畔でも同じような趣向の演奏がされ、
ユーチューブで見ることができるので、ご存じの方もおられるでしょう。


すっかりアメリカの独立記念日の象徴になってしまったこの曲。
1812年、というのはナポレオンのロシア遠征が行われた年です。
もしかしたら勘違いしている方がおられるといけないので解説しておくと、
この音楽はロシア人によって書かれたものですから、ナポレオンのフランス軍は「悪役」です。


曲にはホルンによる「ラ・マルセイエーズ」がモチーフとして入ってくるので、何となく
「自由への戦い」を表わす効果のように思う人もいるかもしれませんが、
最初は元気の良かった「ラ・マルセイエーズ」は、だんだんと、ロシア民謡風のメロディを伴った
管楽器の咆哮にかき消され、切れ切れになっていきます。

この部分は、実際には「ラ・マルセイエーズ」のメロディを、単パートを転々をさせる形で、
「細々と貧弱に」聞えるように、さらにそれを管楽器を中心とした全楽器が凌駕するという方法で
「フランス軍が負けて駆逐されて行く様子」を表わしているのです。


これほど分かりやすい標題音楽でありながら、チャイコフスキー自身は
特に標題音楽であることを意識してもいなかったと言われています。

ロシアの勝利を心から寿ぐとか、我が軍を誇りにしてといった熱意も特になく、
それどころか、依頼に気乗りしなかったという理由で、仕事を放置していたそうです。

そして、依頼者にせっつかれたので、仕方なく、しかも一ヶ月くらいで仕上げた、という
(チャイコフスキーにしては)やっつけ的仕事ともいえる作品です。
にもかかわらずこういう名曲が書けてしまう、というのが、
だてに大作曲家ではないということでしょうか。



これもユーチューブでいくつでも出てくるので、もしご存じなかったら見ていただきたいのですが、
この音楽のクライマックスとフィナーレには、本物の大砲がよくつかわれます。
チャイコフスキー自身の指定で、楽譜に「大砲」と書いてあるためです。
しかし、チャイコフスキー本人は、どうも大砲によるバージョンを聴くことは無かったようです。


ホールで演奏するときには、この大砲発射音はバスドラムで代用されますが、
最近はシンセサイザーが使われることもあるようです。


そして、自衛隊ファンの方は、もしかしたら「富士総合火力演習」などの際、
これを大砲演習付きで(この場合は大砲が主役?)聴いたことがあるかもしれません。


旧日本軍では、日露戦争の頃はともかく、大東亜戦争中は
ロシアは敵国とされていなかったため、軍楽隊はこの曲を演奏したようです。
海軍軍楽隊の当時の演奏プログラムにはしばしばこの曲が見えます。

「戦意高揚」を煽るというのか、勇ましいことにおいては全くこの曲をこえるものはないでしょう。
軍楽隊が戦時に演奏するにはもってこいの曲であったとも言えます。



自衛隊も、勿論アメリカでも、大砲は空砲が使用されます。
しかし、自衛隊の「演奏」で、一発撃つたびに素早い動きで次の弾込めをしている様子は、
実戦さながらで、思わず食い入るように見入ってしまいます。

いつか、この大砲バージョンを自衛隊の実演で見てみたいなあ・・。
(と言っておけばまた叶うかもしれないので、ここで言ってみる)


ところで、こういう映像のユーチューブのコメントには、必ずと言っていいほど
「音楽で軍隊が実砲を撃つ」ということについて文句をいうものがあります。
アメリカの、今日画像のようなキャノンを使ったバージョンでさえそうなのですから、
自衛隊の「1812」には、なぜか日本人ではない英語のコメントが、(どこの国かわかりますが)
日本は過去の反省を云々とか、軍国主義がどうしたとかいう内容で入っています。

そもそも「士気高揚」「戦意高揚」として使われる曲ですから、
曲そのものに対してイチャモンをつける層はどこの世界にもいると思われます。



音楽に政治や思想を絡め出したら、確かに「これは禁止」「これはまずい」ということも、
国と政治形態によってはいくらでも起こってきます。

例えばこの曲は、「ロシアの勝利」を讃えるものですから、当然フランスでは、
どんなに勇壮でも、しかるべきセレモニーのときには絶対に演奏されない曲です。
何しろ、ラ・マルセイエーズがコテンパンにやられていくわけですから。
フランス人自身、やっていても聴いていても、どことなく面白くないでしょうし。


映画の「のだめ・カンタービレ」では、フランスのマルレという名のオーケストラで
主人公の指揮者千秋真一(玉木宏)がこの曲を振るシーンがあります。

余談ですが、この映像、やたら玉木くんの指揮ぶりが真に迫っています。
本人もかなり本物を見て研究したのではないでしょうか。

「おくりびと」の撮影のために指導を受けたら、ちょっとした曲は人前で弾けるようになってしまった、
というモッくんのチェロ並みに感心してしまったのですが、その話はさておき、
フランスのオケでは、基本この曲をやらない、と決めているところだってあるかもしれません。


日本の音楽界はある意味「ノンポリ」というか、ヨーロッパの歴史には無神経な立場でいられるので、
演奏に少なくとも「タブー」は存在しませんが、ヨーロッパのオケにはそれが多々存在します。

国家間のトラブルだったり、民族的な対立だったり、どういう理由かわかりませんが、
中村紘子さんの証言によると、中村氏が「ピアノ協奏曲三番をやりたい」というと
「うちではこれまでラフマニノフはやったことがないから」と渋ったオケもあったそうです。


実は、今でも、イスラエル・フィルハーモニーというユダヤ人ばかりのオーケストラは、
反ユダヤ主義でナチス帝国のテーマソングのようになっていたワーグナーを決して演奏しません。

常任指揮者であったインド人のズービン・メータ「トリスタンの愛の死」を演奏しようとしたら、
楽団員の拒否にあい、さらに演奏会では殴り合いが客席で発生する騒ぎになったそうです。

それではこの「1812年」は、ロシア人には無条件でOKなのかというとそうでもありません。
ロシア帝国を打倒したソビエト連邦時代には最後に出てくる「ロシア国歌」がタブーとされ、なんと、
「そこだけ違うメロディを挿入」という(勿論作曲者は死んでるので無許可で)
ご無体な編曲がなされたそうです。

こんなことをするなら、いっそ曲を演奏禁止にしてしまった方がましですね。


そこで、我らがアメリカ人に話を戻すと。

こういうこの曲のバックグラウンドを知ってしまうと、今さらながら、アメリカが
この曲を独立記念日のテーマにしてしまっていることは、
あまりにも無知で無神経なことに思えてきませんか。


アメリカの独立と言うのは、簡単に言うとイギリスと戦争して勝ち取ったものです。

フランスは当時それを義勇軍の派遣などでお手伝いしてくれていました。
そのフランスは、その後、この独立戦争に影響を受けて、

「アンシャン・レジームなんかもう古くね?アメリカみたいに今は革命がトレンドだし」

とかいう気運が高まった結果、フランス革命が起きたわけです。
だからこそ、アメリカはその後自由の女神をフランスからもらったりしているわけですよね?

いわばフランスは独立に関してはアメリカの協力者でお友達であったと。

そういう経緯があるのに、自分のところの独立記念日を祝うのに、よりによって
フランスがボコボコにされてめでたしめでたし、という内容の曲を使うアメリカ。

もしかしたらこいつらはそういうことを何も考えていないんじゃないか?



ただ考えられることは、

曲調が勇ましくて、アメリカ軍に大砲ガンガン撃たせれば、
またとない「パトリオティズム」の昂揚になるし、
自由への賛歌っぽいラ・マルセイエーズも入っていたりするし

ということだけを重視し、その曲の内容については

「細かいことはいいんだよ。昔のことだし」

という態度で、彼らは今日もこの曲を使い続けているのではないか、ということです。
そして、ほとんどのアメリカ人は、この曲の本当の内容を知らずに聴いているのでは?

(書いていてこの説が絶対正しいような気がしてきた)


全てにおいて、このように歴史におおざっぱすぎるアメリカ人もなんだかなあ、って感じですが、
フランスもロシアも全く関係ないここ日本で、自衛隊が大砲撃った!武器使用した!
というだけでヒステリックに文句を言う日本人というのも、これまたなんか違うような気がしますね。

そういうサヨな方にはこの一言を。

文句はチャイコフスキー自身に言ってくれ。

それでは、今年も恒例、「独立記念日ケーキ」画像を・・・。

 これは二年前撮った写真。

 カップケーキ。

独立記念日だから三色ケーキ。
国旗の色だから赤白青のクリーム。
食べ物にもおおざっぱなアメリカ人らしい考え方ですが、いずれにしても、まずそうです。







入間T-33A墜落事故~「コクピットの会話」

2013-07-04 | 自衛隊

浜松基地のエアーパークシリーズの途中ですが、
このT-33Aにはわたしは非常な思い入れがあります。

このT-33が墜落した事故について、かつて二編に分けて考察し、
エントリにまとめたことがありました。

流星になった男たち 入間T‐33墜落事故 前半

流星になった男たち 入間T‐33墜落事故 後半


いまだに毎日閲覧数の多いページなのですが、これはつまり、
今日もこの墜落事故に興味や関心を持つ人が多いということの表れだと思っています。

この飛行機を前にすると、この二人の自衛官たちのことを思わずにはいられません。
この事故をきっかけに、このT-33は飛行停止処分が出され、ほどなく全機退役しています。

この時には言及に至りませんでしたが、この事故原因は、

漏れた燃料に電気系統からの火花によって着火し、火災が発生したもの(ウィキぺディア)

とされ、パイロットは勿論のこと整備にも責任が無かったとして、
現地警察は容疑者不詳のまま航空危険容疑で書類送検されました。

T-33はロッキード社のジェット練習機で、初飛行が1948年、
墜落した機は航空自衛隊発足の1954年の製造と言いますから、すでに44年もが
経過していたのですが、機体そのものはモスボール(密封したうえ窒素充填し劣化を防ぐ)で
保存されていたため、まだ耐用年数に余裕があったということです。

しかし、この経年が事故原因何の関係もなかったのか、ということについて
わたし自身はかなり懐疑的にならざるを得ません。
当然整備がプリフライトチェックもしたはずなのに、「燃料漏れ」などを起こしているからです。


さて、この二人の自衛官についてのわたしの思いは、この、
特に後半のエントリに集約されていると思うのでそちらを読んでいただくとして。

この事故について色々調べる過程で、ひとつのうっすらとした疑問がわいてきました。

いろいろと資料を見ても、この時殉職した二人自衛官、どちらが主操縦していたかについては
全く言及されていません。
先日観た「タスキーギ・エアメン」では教官が前席に居ましたが、旧軍の練習過程では
必ず練習生が前席に坐り、「後ろから頭を棒でたたかれていた」といいますから、
もしその流れを汲んでいるとすると、「訓練対象」、つまりこの場合の年次飛行消化者は
前席に乗っていたと考えることができます。

(自衛隊の年次飛行についてわからなかったので、推論です)

練習機は前席後席共に操縦が可能なので、この事故を報じる際、「どちらの操縦が」
ということに全く言及されないのだと思いますが、実際はどちらか一人が操舵していたわけです。

ということで、操縦していたのは前席の中川二佐であると仮定して話を進めます。



日常的に操縦していないとはいえ、中川二佐はベテランで、だからこそ
全くバランスを崩し、高度を保つこともできなくなった機体を河原に墜落させるように
ぎりぎりまで操縦し続けることができたのだろうと思います。

わたしの疑問というのは、後席の門屋三佐の脱出の可能性でした。

機を操っている中川二佐はともかく、
門屋三佐はまだ高度があるときに脱出すれば命は助かったはず。
これを何よりも熟知してたであろう中川二佐は、もしかしたら最後の瞬間、
門屋三佐に脱出を促していたのではないか、という疑問です。


疑問が生じたきっかけは、ある元自衛官との会話でした。

管制塔と通信を開始してから、記録が残されているのはイマージェンシーのコールだけです。
わたしはこういう練習機についてその仕組みを知らなかったので、
当初二人は、事故後全くこの間私的な会話はしなかったのだと思っていました。

ところが、あるとき海自の元パイロットとお話しする機会があり、事故に話が及んだので、
このことを聞いてみたところ、この元パイロットは、管制塔との通信とは別に
彼らは同乗者同士で会話をしていたはずだ、とおっしゃるのです。


「その会話は記録に残らないのですか。ブラックボックスのようなレコーダーは」

「ありません」
「じゃあ・・・」
「当然相手に言ったと思いますよ。『先にベイルアウトしろ』と」


その時ふとこんなことを考えました。

二つのエントリで述べたように、事故機は二度のベイルアウト宣言をしています。
一度目は入間川に機首が差し掛かったときでした。

しかしこのときにベイルアウトは行われませんでした。
このことについてわたしは、

「目の前に広がる景色と機の角度から、パイロットが今は機を捨てられないと判断した」

という風に書いたのですが、もし二人の間にこのような会話があったとしたら、
あるいはこう云う風にも考えられないでしょうか。

「一度目のベイルアウトは、中川二佐が後席の門屋三佐に脱出を促すためだった」


高度はその時360m。射出できる高度の限界まであと60mです。
中川二佐はもしかしたらこう言ったのかもしれません。

「お前だけでもベイルアウトしろ。もうぎりぎりだ」

そして、門屋三佐の返事を聴く前に通信をオンにし、一度目のベイルアウト宣言をしたのではないでしょうか。

このときお話を伺った元パイロットは、やはり一人が「先にベイルアウトしろ」といい、
それに対してもう一人は

「そんなこと、できるか」

(実際は階級が下ですから「そんなことできません」だったのでしょうか)
と答えたと思う、とおっしゃっていました。

もしその通りで、なおかつわたしの推測もまた正しければ、ですが、
中川二佐が後席の部下だけを脱出させるためにベイルアウトをコールした後、
門屋三佐は、上官の命令にこれだけは「背いて」、
自分が一人だけ助かるために射出レバーを引くことはしなかったということになります。

ベイルアウトの衝撃が、推進力の失われていた事故機の操舵に与える影響を
あるいは考慮したためだったかもしれません。


そして、中川二佐は一度目のベイルアウトのとき、わたしが当初考えたように

いったんはベイルアウトしようと思ったが状況を見てやめた

のではなく、

門屋三佐だけを脱出させ、自分一人で最後まで機を操ろうとこのときすでに覚悟していた

ということになるのです。


実際は、コクピット内の最後の会話は誰にも聞かれることなく、二人は死亡しました。
最後に二人がどのような会話を交わしていたのかは永遠の謎となってしまいました。


しかし、考えれば考えるほど、わたしにはこの二人の自衛官が、
どちらもが死を覚悟の上でこのように・・・・・

一人は相手を生かそうとし、一人は相手だけを死なせまいと・・・・

振る舞ったのではなかったかと思えてきて仕方がないのです。



なお、事故機は最後の瞬間高圧送電線に接触し、これを切断したのですが、
これによって停電の大被害はあったものの、もしこの接触が無かったら、
機はその向こうの狭山大橋に激突したことになり、もしそうであれば
確実に通行中の人命が失われていたであろうということです。


中川二佐と門屋三佐は、殉職後すぐに一階級昇進しましたが、その後、
もう一階級ずつ特進して、それぞれ空将補と一等空佐になっています。









浜松基地エアーパーク~SVA-9 と「イタリア野郎気質」

2013-07-03 | 自衛隊

ここエアーパークには、空自の使用機が基本的に展示されていますが、
自衛隊とは全く関係ないけれど、成り行き上飾っている飛行機もあります。

それがこのアンサルドSVA-9で、ご覧になればお分かりのように、
これだけが飛行機黎明期のバイプレーン、つまり二枚羽。
二枚羽の水上機が使われた「紅の豚」の舞台が、イタリアっぽかったことを
つい思い出しますが、このポップな色使いもまた、いかにもイタリアという感じですね。

このアンサルド社は、もともと機械製造をしていたイタリアの会社。
飛行機だけでなく艦船も第二次世界大戦時には作っており、
海軍の「日新」「春日」という同型艦はこの会社の製品です。

1903年にライト兄弟がエンジン付きの飛行機を飛ばしてから、航空機は
まさに戦争の参加をきっかけに大きく進歩していくことになるのですが、
第一次世界大戦が終わり、アンサルドは、航空機の航続距離をさらに
延ばすための開発研究を重ねていました。
そして、その試飛行の目的地となったのが

・・・・・・・・そう、我が日本だったわけです。

実験、というより当時は「冒険飛行」と言った方が実態を表していたのでは
という気がするほどに、長距離を飛ぶのには若干、いやかなり不安を与える機体ですね。

1920年2月14日。

この日はセント・ヴァレンタインの日ですが、ローマから二機のアンサルド・SVA-9
(スヴァと読みます)がはるか極東の地、東京を目指して飛び立ちました。

二機の飛行機にはそれぞれ二人ずつ、フェラリン、カッパニーニ、マッシュロ、マレット
4人のパイロットが乗り込んでいました。

無線通信の無い時代、互いの連絡はいったいどうやったのかぜひ知りたいものですが、
それはともかく、二機のSVAは南回り、つまりインドを通過する航路で、
なんと16の中継地を転々としながら三か月後の5月11日、
この4人のイタリア人を乗せ、東京は代々木練兵場に無事到着したのでした。

うーん。

三か月で16都市。

この時の飛行距離は16万700キロm。
飛行時間にしておよそ100時間。

しかし、もう少し勤勉に、毎日たとえば6時間くらい飛んだとしたら、
たとえ何日間か休んだとしても

20日くらいで着かないかこれ?(笑)

エリス中尉の予想ですがね。
この4人のイタリア人パイロット、行く先々で大歓迎を受け、
地元の名士かなんかの開催するパーティに、これだけは勤勉に参加し、
その都度魅力的な女性にまめに声をかけ、
必ず4人のうちの一人が、甚だしきは4人全員がそれに成功したりなんかして、
そんなこんなでこんなに時間がかかったのではないのかと。

「お嬢さん。我が愛機の上から見た地中海の緑より、君の瞳は美しいベッラベリッシモ」
「あらアレッサンドロさん、いけません。わたしには夫がありますしそれに」
「いいではないですかいいではないですか。どうせ私はこのあと極東の、
地の果てのような辺境の地、日本に行ってしまう。(嘘泣き)
あなたとはきっと今夜限り二度と会うことはないでしょう。
それならばお互い運命の刹那を精一杯輝かしいものにしようではありませんかアモーレミオ」

てな感じで女性を口説きながら一都市二日滞在していたら、ちょうど三か月です。

イタリア人ですからね。

ある海自の自衛官から聞いた話ですが、イタリア海軍の制服を着てうろうろしている集団に
同じ水軍のよしみで声をかけ、自分の知っているところを案内し、最終的に

「女性のいる飲み屋」

に連れて行ったところ、彼らはもう水を得た魚となってそこの女性を口説く口説く。
口説いていなければお前らは死ぬのか?というくらいの勢いで、
その自衛官はお店のマダムから

「なんて人たちを連れてくるのよアナタは!」

と文句を言われたんだそうです。

まあ、つまりそういう文化の国の人が4人もいたら、当然そうなるのではないか、
つまりこの三か月は実質一か月半ではなかったのか?

と、たった今そう思っただけなので、この推論には何の根拠もございませんが。


しかも(笑)こんな歴史的な壮挙を為そうとしているわりには、
この人たち、ちゃんとした飛行記録も残さなかったらしく、飛行時間が
記述によって「95時間」「105時間」そして「100時間」とバラバラ。
最終的に「約100時間」としたのは「平均を取った」ということのようです。

さすがは今を生きるイタリア人のお仕事。
数々のヘタリア伝説を彷彿としてしまいますね。





翻って我が日本からの欧州への飛行はどうであったかというと、
こちらはこちらでいかにもお国柄というか、日本の「青雲の志」を地で行くような・・・・。

昭和6年といいますから、SVAの9年後、石川島R-3という民間機で、
なんと法政大学の学生が二名でローマまで126時間もかけて飛行しています。
中継地がどこでどのくらいの所要時間だったのかはわかりませんでしたが、
少なくとも中継地で女性を口説くなどということはなかったことだけは確かでしょう。


この立役者というか計画をしたのが「ノラや」などの著者、当時法政に奉職していた
小説、随筆家の内田百聞(けんは門構えに月)というから、世の中本当に面白いですね。
そのときの随筆を見つけましたのでULRを貼っておきます。

青年日本號


さて、ここでSVAに戻って、機体を見ていただきたいのですが、
なんとゴーヂャスな木目仕様です。

この1920年の飛行で、飛来してきた二機のSVA-9のうちの一機は、
日本に寄贈されました。(太っ腹!というか持って帰れなかったのか)

主翼が布であった、と記述されているものを読んだこともあるのですが、
これ、どう見ても「布」には見えないような・・・・。

その寄贈された一機がこれです、と言いたいところなのですが、
違います。
その寄贈されたSVA-9 は、戦前靖国神社の遊就館(当時からあったんですね)
に飾られていたというのですが、戦火で焼失してしまったのだそうです。

そして時は流れ、1970年。

「こんにちは~こんにちは~西の~国から~」

と、三波春夫大先生が歌った、あの大阪の万国博覧会。

あのときにはさりげなく目を見はるような文化事業が行われていたのですが、
(音楽で言うと、カラヤンもバーンスタインも、ロストロポービッチも来ていたらしい)
そのときこの万博でイタリア館に展示するためにこの焼失したSVA-9が復元されたのです。

それがこれ。

今、このエアーパークにあるのはそのモックアップなのです。
イタリア政府が「日本との最初の友好」の証であったこの複葉機を再現したことは、
何かとても意味のあることに思われます。

まあ、大阪万博当時、日本のイタリアとの共通の歴史的な思い出というと、

「今度はイタリア抜きでやろうぜ」

もう片方とこっそりこう言い合う「あれ」くらいですからね・・・・。



ところで、酒とバラの日々を満喫しながら三か月の冒険飛行を成功させた
(決めてかかってるし)4人のイタリア人。
日本で大歓迎されて、飛行機は一機寄贈し、帰りは船便だったわけですね。


その航路中、彼らは以前にもましてはりきって御婦人を口説いていたに違いない。
証拠もないのにそう決めつけるのは、彼らが「イタリア人の飛行機乗り」だから。

これ以上の理由はありませんでしょ?