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「坂の上の雲」~旅順港閉塞作戦の「広瀬少佐たち」

2013-07-24 | 海軍

この春、横須賀の米海軍スプリングフェスタに行ったときに、
初めてではありませんが、ついでに記念艦「三笠」の見学もしてきました。
上甲板にある部屋では常時映像が放映されており(これも前は無かった)
そのときは旅順閉塞作戦について詳しく説明するドキュメンタリー番組が流れていました。

フェスタの客が流れてきて、毎回部屋が満室になるくらいで、さらに
入れ代わり立ち代わり人が訪れていたのですが、これもまた「坂の上の雲」効果でしょう。

たとえばですが、日常会話において「リョジュンコーヘーソク」と口にしても
「何語ですか」
と聞かれることも無くなった(に違いない)今日この頃です。

ですので特にこのブログを読んでくださる方にとっては、知ってる知ってる、
ということばかりになるかもしれませんが、あらためてこの三次に亘る作戦について書いてみます。

ところで、冒頭の超のつく男前はいったい誰?

これは、かつてメンズノンノのモデルから俳優としてデビューした・・・

・・・・・じゃなくって、聯合艦隊参謀の有馬良橘(りょうきつ)
この旅順港閉塞作戦の立案者です。

まあ、別に映画だからいいんですけどね。
当時44歳の有馬参謀を加藤雅也が演じたって。

何しろ、山口多聞を阿部寛が演じるなんてことが許される世界ですからね。



こうして見るとそんなに似ていないってわけでもないし・・・。(無理やり)


さて。


日露戦争開戦後、ロシア艦隊はヨーロッパからの増援を待って
旅順港内にほとんど籠城の状態にありました。

聯合艦隊は二次にわたる旅順総攻撃を行いますが、戦果は上がりません。




こういう状態ですね。
周りの大砲マークは、それだけ陸が要塞で固められているという意味。

この旅順港から艦隊をおびき出して決戦を挑み、一挙に壊滅して
制海権を確保するつもりだった聯合艦隊は事態の膠着に次第に焦燥を深めます。
そこで、


ええい、おびき出すのがだめなら、この狭い湾口を塞いでロシア艦隊を外に出られなくしてしまえ!


という作戦を立案したのが、この有馬参謀だということになっています

・・・・・ここで少しお断りです。

実はエリス中尉、防衛省の資料と照らし合わせて
どうやらこの辺のいきさつ一切合財が
司馬遼太郎の「推測」「創作」ではないのだろうか
ということを勝手に突き止めたのですが
このあたりのことは、また別の日に稿をあらため、
ここでは「坂の上の雲」のストーリー通りに説明します。


さて、それではどうやってこの湾口を物理的に塞いでしまうかです。

有馬参謀の案とはこういうものでした。

老朽船に決死隊員が乗組み、夜間旅順港口に侵入した上で
船を自沈させ、
脱出した隊員を水雷艇によって収容する。


地図に見える湾口で大型船が航行できるのはわずかその幅91mでしたから、
上手くやればロシア艦隊を湾内に閉塞させ、バルチック艦隊の入港も不可能になります。

「坂の上の雲」では、これを説明する有馬中佐に向かって秋山真之が異論を唱えています。

「鎮遠くらいの大きなフネでないと無理ではないか」

これに対して、有馬は

「サンチャゴ湾閉塞作戦をレポートして、戦わずして勝つことのできる
効率的な方法やと秋山参謀も書いていたやないか」

と秋山が留学時代に見聞きした「米西戦争」の作戦を評価していたことを言い返すのですが、

「私はそのレポートで乗組員の生還率の低さも問題にしていたはずです。
旅順のロシア軍は100倍以上の火力を持っている。
やれば必ずようさんの人が死にます」

やたら「人を死なせない作戦を立てろ」と強調する秋山。
まあ、いいんですけどね。


くどいようですが、これはすべて司馬遼太郎とNHKの「創作」です。






こうして写真に撮ると、CG丸出しの旅順港(笑)

確かにこの狭さが現実のものであれば、横向きに3隻沈めれば
もう湾口は塞がってしまうと思われます。

この作戦が発令されたとき、生還を期し難いこの決死作戦に、
応募者が殺到しました。

 

血書をしたためる閉塞作戦の志願者とそんな彼らの志願書。

技量優秀、品行方正で家族の係累が少ないなどの選考基準を設け、
2千人のなかからようやく77人が選抜されました。

この志願者数の多さを見て、有馬が作戦の成功を確信した、
「坂の上の雲」ではそういうことになっています。
しつこいようですがこれはすべて司馬りょうたr(略)


■第一次閉塞作戦(1904年2月24日)


発案者有馬中佐自らが指揮官として乗り込む嚮導船、天津丸始め5隻の艦艇が出撃しました。
このうちの「報国丸」には、あの広瀬武夫少佐が部下15名と乗り込んでいます。

閉塞部隊は探照灯で照らされたうえ、山上の砲台の攻撃を受け、方角を失います。
自沈させてもそこは湾口から遠く離れていたり、
またそれを見てそこが湾口だと勘違いしたフネが後に続いて自沈してしまったり。

つまり、ほとんど探照灯と砲台の砲撃に敗北した、という状態です。
しかもこの攻撃を迎え撃ったロシア艦艇は「レトウィ」たった一隻だけ。


かろうじて湾口に自沈したのは広瀬率いる「報国丸」だけでした。
全作戦通じて、この「報国丸」だけが、湾口に沈められた日本側の艦船です。
しかし、小さな輸送船を、しかも一隻湾口と並行に沈めても何の役にも立ちません。

つまり、失敗です。

しかしこの作戦で戦死したのはわずか一名でした。


■第二次閉塞作戦(1904年3月27日)


輸送船4隻、隊員68名で組織されました。

このとき、第一次作戦の参加者の大半が再志願しましたが、
東郷長官の発令によると

「唯士官以上は其の請願の極めて切なると、
前回の経験により行動に利する」

つまり、指揮官は事情を良く知る経験者がいいだろうということになり、
士官は広瀬少佐を含む、第一次作戦従事者がもう一度参加することになりました。

そして、下士官兵については

「同一人を用ふるに忍びず」

つまり同じ人間を危険にさらすわけにはいかないとの考えから、
二等兵曹・林紋平を除き再任は却下されました。

林に関しては

「決心牢として抜く可らさるものある」

という報告書が残されています。

そして、その際新たに採用された下士官にあの杉野孫七兵曹がいました。


第二次作戦は千代丸、福井丸、弥彦丸、米山丸の順で旅順港口に突入開始。
この後、やはりロシア軍に発見され、砲撃を受けます。



第二次作戦で、探照灯に照らされる日本の輸送船の図。
第一次でもそうであったように、ロシア軍は探照灯を効果的に使い、
閉塞部隊の目をくらますことに成功しました。

またまた「坂の上の雲」では、広瀬少佐に

「探照灯に照らされると何もみえんようになって、
方角や距離も測定できんかった。
みんな自らの位置がわからんまま自沈してしもうた」

と述壊させています。

この作戦でもやはり単縦陣で侵入した4隻は、聯合艦隊の援護もかなわず、
第一次よりもはるか湾口から離れて爆沈されてしまいました。

唯一自沈させた船は広瀬少佐の「福井丸」でしたが、
ご存知のようにいざ退艦になったときに16名の部下の内の一人、
杉野孫七上等兵曹の行方が分からなくなります。
杉野兵曹を探すために最後の最後まで艦内を探した末、
退艦したのち福井丸は起爆装置で自沈させ避難する水艇に砲弾が炸裂。

広瀬少佐は「一片の肉塊を残して」海中に没し、
この作戦で戦死した四人のうちの一人となりました。



第三次閉塞作戦(1904年5月2日)


第一次、第二次の失敗にもめげず、東郷司令長官は
12隻もの閉塞船を用いて第三次作戦を決行します。

4隻で何とかいけそうだったのだから、12隻ならなんとかなるだろう、
いやなんとかせねば、そんな聯合艦隊の「焦り」のようなものが覗えます。

しかし、第一次、第二次と同じような作戦を尽く迎え撃ってきたロシア軍が、
この間それに備えて何らかの対策を取っていないわけはありません。
聯合艦隊の閉塞船の数が増えるであろうことも予想していたでしょうし。


というわけで、エリス中尉ですら「これはあかんのではないか」
と思える三度目の閉塞作戦、案の定結果からいうと失敗でした。



このブロンズ像の人物、林三子雄(はやし みねお)大佐。(戦死後)

「坂の上の雲」で、秋山真之がアメリカに、そして広瀬武夫がロシアに留学したとき、
他にも三人が同時に留学を命じられていたのを覚えておられますか?

その一人が広瀬と同期のハンモックナンバー1番、
財部彪(イギリス留学)、そしてこの林三子雄(ドイツ留学)でした。

この林中佐が総指揮を取り、出撃した閉塞部隊ですが、なんといきなり
悪天候に見舞われます。
一隻が機関故障のため帰投し、11隻で進んでいましたが、
林大佐は、作戦の成功もさることながら、この悪天候では

作戦決行後の人員の収容が困難になると判断し、

作戦中止を命じ、反転します。

しかし「行動中止」の連絡は荒天下のしかも深夜で行き渡らず、
中止の命令に従ったのが3隻。
閉塞船八隻及び収容隊は攻撃に向かってしまったのです。

林中佐はは後続船が少ないのに気づき、反転し他艦隊のあとを追います。
しかし中佐の乗った「新発田丸」は舵機が故障していました。

そしてこの後の熾烈なロシア軍の地上砲台からの砲撃と、
艦隊からの砲撃を見舞われた「新発田丸」で林大佐は戦死します。

享年39歳の若さでした。

このブロンズ像は、林中佐の乗っていた「新発田丸」の乗組員が、
中佐の家族に送ったものなのだそうです。



第三次閉塞作戦で攻撃に向かった八隻の乗員158名は戦死、行方不明
負傷及びロシア軍の捕虜となったものの合計は115名に及び、
無傷で生還した者はわずか43名でした。

しかも、ほとんどの船が第一次、第二次よりはるかに湾口より外で
皆爆沈させられてしまっています。


このとき一旦林中佐の「作戦中止」を聞いて帰投の路に就いていたのに、
僚船が向かったのだからと再び旅順港に向けて反転した船がいます。

戦前は船首に美しい女性を象った船首飾りを持っていた、「朝顔丸」です。
向菊太郎少佐率いる17名の部隊で、果敢にも単独突入を図りますが、
陸海からの集中砲撃を一身に受けて船は沈没。
結局「朝顔丸」の乗員は、向少佐始め全員が戦死しました。


この作戦後、東郷司令長官は

「第三次閉塞作戦ハ概ネ成功セリ」

と打電し、国民は閉塞部隊の勇敢さ、ことに部下を気遣って戦死した
広瀬中佐の物語に熱狂しました。
広瀬中佐は軍神となり、軍歌「広瀬中佐」でその勇を称えられます。

他にも「閉塞隊」「決死隊」などという、閉塞隊を称える歌も生まれました。

それにしても、指揮官として部下の命のためにあえて危険に飛び込み、
その末に自らが戦死した、という点において、この林大佐は広瀬武夫中佐と
全く同じであるのにもかかわらず、全く名前が残っていないのはどう言うわけでしょうか。

「朝顔丸」の向少佐もそうです。
当時はそれなりにその勇敢な戦死を謳われていたのでしょうが、いまとなっては
歴史を知ろうとする者にしかその名が目に留まることもありません。

思うに、この広瀬中佐は「勇敢なる水兵」の三浦虎二郎のような、
国民の士気鼓舞のために特に喧伝された「ヒーロー」だったのでしょう。
民衆はいつも、わかりやすく熱狂できるシンボルとしての英雄を求めているのです。


だからといって、広瀬中佐の「英雄的な死」と、万人に認められた人間的な魅力に
いささかの傷がつくわけではありませんが。



さて、これらの経緯を見る限り、当時の国内の熱狂とは裏腹にその実相は、
沈んだ閉塞船は艦隊を閉塞するに至らず、つまり多大な犠牲を出しながら、
閉塞作戦は失敗に終わった、ということになります。

しかしながらついでに言うと、

この作戦がはっきりと「失敗」ということに歴史認定されたのは、「司馬以降」である

と、ある当時の資料を読んで以降、わたしは思っています。(予告編)










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