海軍航空の黄金時代シリーズ、今日は攻撃機と戦闘機を挙げます。
■ 攻撃機
攻撃機の定義を改めて考えてみると、
「地上や洋上の目標の攻撃を主任務とする航空機」
ということになろうかと思います。
空対地、空対艦ミサイル、誘導爆弾、通常爆弾、ロケット弾などを搭載し、
任務や目標に応じて搭載兵装を変更できる多用途機を指します。
爆撃機との違いはというと、攻撃機が指向性のある武器を搭載し、
水平攻撃をするのに対し、爆撃機は自由落下する爆弾を落とすため、
自分が「ダイブ」する急降下爆撃をおこなうということでしょうか。
我が航空自衛隊では色々あって「攻撃」という表現が使えないので
支援戦闘機と呼ばれていたことがあったそうですが、
「攻撃」がダメで「戦闘」はいいってどういう基準なんだか・・・。
攻撃は最大の守備であるという言葉もあったかと思いますが、
専守防衛の旗印に忠実になるとこういう言葉さえ排除してしまうんでしょうか。
日本という国が陥っているこの自縄自縛(またはセルフ制裁)状態が
解けるには「先の戦争」から何年経過を待たなくてはいけないのでしょう。
さて、という枕詞(または繰り言)はいい加減にして、粛々と
アメリカ海軍初期の攻撃機を紹介していきます。
ダグラス Douglas DT-2 1922
ダグラス航空会社によって初めてプロデュースされた軍用機で、
特商的な魚雷爆撃機DTシリーズは、米海軍のために
様々な任務を遂行しただけでなく、有名な
「ダグラス・ワールド・クルーザー」Douglas world cruiser
の基本的なデザインを提供することになりました。↓
ダグラス・ワールド・クルーザーとは、1923年に、米陸軍航空局が
飛行機で地球を周回する最初のミッションのために製作した水上機です。
略称DWCは、ジャック・ノースロップが同社で行った最初のの主要プロジェクトでした。
デュアルコックピットは視認性を高め、乗員の意思疎通を容易にしていました。
世界一周は「ボストン」「シカゴ」「ニューオリンズ」「シアトル」
と名付けられた4機の飛行機で行われ、最初に墜落してしまった
「シアトル」以外は5ヶ月かけて平均速度時速70マイルで
無事世界一周して帰ってくることができたようです。
この後しばらく、ダグラスはこのロゴを使っていました。
やはり飛行機は3機しか描かれていません。(´・ω・`)
DT-2ですが、この写真で背景に写っている戦艦「アイダホ」に
魚雷攻撃部隊19(VT−19)として乗り組んでいました。
マーチン Martin BM-1 1930
454キロ爆弾を搭載することができたこの急降下爆撃機は、
海軍と海兵隊のために開発され、1930年代半ばには空母に搭載されました。
写真のBM-1はちょうどアレスティングにフックをかけるところで、
着艦しているのは初期の空母USS「サラトガ」です。
35機生産され、そのうち7機が事故で失われているのですが、
英語版wikiにはその事故状況が書かれているので理由だけ挙げておきます。
- 着艦のテスト中に墜落
- 燃料がなくなってから「ダラム」に着艦しようとした
- 悪天候時に「アリゾナ」に強制着陸し失敗、修理不能な損傷
- カリフォルニア沖で「レキシントン」から夜間作戦中落水
- 訓練中急降下からのリカバリーに失敗し、海につっこむ
- 「メリーランド」への着艦を誤って海に墜落
- 「バージニアビーチ」でオーバーランして横転
ほとんど全てが着艦の失敗ですね。
この頃の空母着艦はさぞ高度な操縦技術が要求されたという気がします。
今が簡単だと言っているわけではありませんが。
ヴォート Vought SBU-1 1934
ヴォートが手掛けた海軍のための最後の複葉機がこれです。
複座の哨戒爆撃機で、227kgの爆弾が搭載可能でした。
SBUは1930年代の後半から空母ベースの航空隊に採用されました。
この写真は哨戒部隊2B(VS-2B)が編隊飛行を行っています。
ダグラス Douglas TBD-1
デバステーター Devastator 1935
綺麗なフォーメーションを組んで飛んでいるのはUSS「レキシントン」所属の
第2魚雷部隊(Torpedo Squadron2VT-2)のデバステーターです。
デバステーターはアメリカ海軍最初のモノプレーン爆撃機で、
空母の格納庫に収納するために翼を折りたたむことができ、
半引き込み式のランディングギアを備えていました。
搭載可能な魚雷の重さは454kgと大重量も可でした。
ダグラス Douglas SBD-1
ドーントレス Dauntless 1938
「勇敢な」「怯まない」という意味のドーントレスをその名に持つ
第二次世界大戦前期の日本軍の強敵となった攻撃機。
ドーントレスは、空母ベースの急降下爆撃機として要求される要素を
全て兼ね備えていたといっても過言のない名機でした。
つまり、安定性、後続性、そして頑丈で頼もしいこと(ruggedness)です。
SBDシリーズの典型であるこのドーントレスは、海兵隊の第2爆撃部隊
(VMB-2)の所属で、通常とは違う発射メカニズムを持つ爆弾を持ち、
ダイブフラップには穴が開いているという画期的なデザインでした。
設計したのはその名を聞いて納得、エドワード・ハイネマンです。
■ 戦闘機
ヴォートVought VE-7SF 1918
VE-7は第一次世界大戦の期間、空戦のために製作された
アメリカン・デザインの戦闘機です。
完成したときには戦争が終わっており、参加はできませんでしたが、
海軍はこの設計を採用してさまざまなミッション、訓練、偵察、
そして戦闘用に投入しました。
空母運用機としてはVE-7シリーズは1920年代におけるパイオニアでもあります。
これら3タイプ、いずれも違う製造会社の飛行機は、
1920年代半ばごろ、戦闘任務の中心的役割を果たし続けました。
ボーイング Boeing F2B-1
駆動性に優れアクロバティックな動きが得意なF2B-1は、
当時の海軍のシンクロナイズドスタントチームだった
「スリー・シー・ホークス(Three Sea Hawks)」に使用され
一般に大変人気があったということです。
三鷹大将
おそらく彼らが米海軍に結成された最初の曲技飛行チームです。
このチームは1928年1月に最初のデモンストレーションを行いました。
危険なパフォーマンスで一般人からは「スーサイド(自殺)トリオ」という
縁起でもないあだ名が付けられたため、海軍としてはすぐ正式に
「スリー・シー・ホークス」(三海鷹)というチーム名を与えました。
F2B-1はエンジンを停止せずに倒立飛行を行うことができなかったので、
安全に逆さまに飛行できるようキャブレターが変更されています。
チームは1年間活動しましたが、 パイロットは新しい任務を命じられたため、
解散しました。
今でもそうですが、どこのアクロバットチームもそれが本職ではなく、
戦技を磨くためのトレーニングの精華としての技披露が目的なのです。
カーティス Curtiss F6C-3
1920年代後半のアメリカ海軍の複葉戦闘機です。
カーチスエアクラフトと同社自動車部門によって建造された
「カーチスホーク」飛行機の一つで、海軍以外には海兵隊で採用されました。
ヴォート Vought FU-1 1925
これは偵察を主目的とした戦闘機で、フロートをつけることもでき、
主に艦隊の戦艦に搭載されてオペレーションされました。
ボーイング Boeing F4-B-4 1928
F-4B-4は有名なボーイングの戦闘機シリーズ最後のバージョンです。
それまでの機のどれよりも大きな垂直尾翼と操縦席のヘッドレストが特徴で、
その頑丈さと優れた性能、機動性により、
海軍の空母パイロットに絶大な人気がありました。
この写真は第6戦闘機隊の記章であるあの有名な爆弾を抱えた
「フェリックス・ザ・キャット」のマークをつけた
(複葉機の頃からあったとは・・・・)F4-B -4が今まさに空母に着艦し、
アレスティングワイヤーにフックがかかった瞬間です。
グラマン Grumman XFF-1 1931
オリジナルの「フィフィ Fi-Fi」XFF-1は米海軍のための
その後継続する戦闘機ラインの最も最初のバージョンです。
航空機の歴史にとって重要なのは、この機体が史上初めて
ランディンギアを完全に引き込み収納することができたことで、
複座式にもかかわらず当時の多くの単座戦闘機の性能を上回っていました。
USS「レキシントン」の第5戦闘機隊はFF-1によって構成された唯一の部隊です。
従来のものに比べて燃料搭載量を増やしたSF-1は哨戒機として開発されました。
グラマン Grumman F3F-2 1935
「フライング・バレル(空飛ぶ樽)」という名前がぴったりの
ずんぐりとした機体はスマートさからは程遠いですが、頑丈そうです。
まさに樽
海軍と海兵隊で運用された艦上戦闘機です。
アメリカ海軍で運用された最後の複葉戦闘機となりました。
ブリュースター Brewter F2A-3
バッファロー Buffalo 1937
前にある模型が邪魔になってしまいましたが、
こちらに別の飛行機がいるつもりで見てください。
こちらにもフライング・バレルというあだ名がついていました。
F2Aはアメリカ海軍が初めて採用した単翼の戦闘機です。
製造にあたって多くの新機能が採用されたにもかかわらず、
戦闘という任務には失敗したと言われています。
というわけでアメリカでは目立った活躍はしていませんが、
輸出先のフィンランド空軍では(輸入にあたってあのノキア社が資金を出し、
機体に「NOKA」の銘が入れられた)冬戦争でソ連軍機を456機撃墜、
約21対1の圧倒的なキルレシオを挙げ、35人ものエースを生みました。
そのせいで空飛ぶ樽だったバッファローがフィンランド限定で
「タイバーン・ヘルミ(Taivaan helmi:「空の真珠」の意)」
とまで賞賛されました。
樽から真珠へ、えらい出世です。
日本軍機と交戦した機体は、空母運用のための様々な装備が付いており、
鈍重なため惨敗したが、こちらは軽かったから性能を発揮できた、
という説もあるようですが、フィンランド空軍型のエンジンは低馬力で、
いずれにしてもこれがフィンランド空軍でだけどうしてこんなに活躍できたのか、
今でも理由はよくわかっていないのだそうです。
というわけで、1930年代までの米海軍航空機の紹介でした。
続く。
航空機による魚雷攻撃というのは、魚雷という高価な精密機械を破損しないために①低高度で②低速で③進路をブレずに 投下する必要がありました。結果、戦闘機の援護でもなければきわめてリスクの高い攻撃法だったわけです。
この戦法を考案発展させた人達がそれをどこまで認識していたかは分かりませんが、結果「じばーく!(藤田進(''ω''))」というような場面が同盟国連合国を問わず各所で生起した訳で、そうであればこそこのような悲劇を負った機体にある種の魅力を感じるわけです('ω')
1916年竣工の2隻ですが、主砲を3連装4基とし、排水量が30,000トンを越えました。
機関はレシプロからようやくタービンとなり、歯車で減速するギヤード型となりましたが速力が遅く、21ktでした。
写真は1929年から2年を掛けて改装する前で艦首から1列に後部マスト前まで並んだ8門の副砲が目立ちます。なおこの改装で籠マストは3脚とされ、ボイラーも換装、副砲は舷側から上甲板に上げられ、減らされました。40,000トンをこえました。
ペンシルバニアは開戦時ハワイで入渠中で爆弾2発を受けましたが自力航行可能でした。修理と近代化を実施されアリューシャン、グアム島攻略の艦砲射撃を実施、沖縄で特攻機により損傷を受け、戦後ビキニ環礁で核実験で沈没せず、クエゼリン沖で砲爆撃で処分されました。
アリゾナはパールハーバーで魚雷1本、爆弾8発を受け、第1戦艦戦隊キッド司令官以下1,104名戦死、記念艦となっています。
要目 基準排水量31,400トン、全長185.4m、幅29.6m、吃水8.8m、主機タービン4基、4軸、26,500馬力、速力21kt、兵装356㎜3連装砲4基、127㎜単装砲22基、76㎜単装高角砲4基、装甲水線343㎜、甲板76㎜、乗員916名
参照海人社「世界の艦船」No417
雷撃機ダグラスDT
ダグラス社最初の米海軍機で1921年初飛行、海軍航空廠製造も含め80機製造。1920年代末まで就役、フロート付きもあり、主翼は折り畳み式でした。
幅15.2m、長さ11.5m、全備重量3.6t、出力400馬力、速力163キロ、魚雷1本、乗員2名
雷撃機マーチンT4M
T3Mから発達、フロート付きもありましたが多くは車輪式、空母に使用、1927~1931年150機製造(50機はグレート・レイクス社TGと呼ばれた)、1938年まで使用。
幅16.2m、長さ10.9m、全備重量3.6トン、出力525馬力、速力182キロ、魚雷1本、7.6㎜機銃1門、乗員3名
偵察・爆撃機カーチスSBC-4
最後の複葉機、計画は高翼単葉機でしたが、不成功で複葉機とされました。SBC-3と出力向上のSBC-4で260機製造、1937年から使用し、大戦開始時ホーネット等に搭載されていました。急速にSBDに換装されました。車輪格納
幅10.4m、長さ8.4m、全備重量2.8トン、出力950馬力、速力382キロ、爆弾0.5トン搭載、7.6㎜機銃2門、乗員2名
雷撃機ダグラスTBDデヴァステーター
米海軍初の全金属単葉機、1937年10月から就役、太平洋戦争初期の主力であり、130機製造、鈍足で防御が貧弱で消耗が激しく1942年TBFアベンジャーと交代、後半1線を退きました。
幅15.2m、長さ10.7m、全備重量4.3トン、出力900馬力、速力330キロ、魚雷1本または爆弾0.45t、7.7㎜機銃2門、乗員3名
偵察・爆撃機ダグラスSBD1~6ドーントレス
太平洋戦争全期間空母搭載機として活躍、ノースロップ社開発のBT爆撃機を1938年合併に引き続いて改良し生産、外形は変わらない、SBD1から6までバリエーションがあり1944年まで約6,000機製造。
幅12.7m、長さ10.0m、全備重量4.5t、出力1,000馬力、速力400キロ、爆弾1t搭載、固定12.7㎜機銃2門、旋回7.6㎜機銃2門、乗員2名
参照海人社「世界の艦船」No291、685
支援戦闘機という言い方は、自衛隊最初の戦闘機であるF-86の後継機としてF-104を導入した時に、まだまだ使えるF-86の位置付けをどうしようかという議論になった時に苦し紛れに「支援戦闘機」と名付けたのが発端です。
昨日まで「戦闘機」だったので、今日から「攻撃機」と言う訳にも行きません。とは言え、F-104「主力戦闘機」の後継としてF-4を導入しながら、F-86「支援戦闘機」の後継として、ちゃっかりF-1の国内開発を認めさせているので、しっかり実は取っている(珍妙な名前に甘んじながら機種は増やしている)と思います(笑)