ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

爆撃搭乗員を守る防具いろいろ〜国立アメリカ空軍博物艦

2024-04-26 | 博物館・資料館・テーマパーク

冒頭写真は、「メンフィス・ベル」のボムベイ、
爆撃槽を下に立って見上げたところとなります。



同じ部分の図解をご覧ください。
この絵でいうところの爆弾が収納されているラックを
ちょうど下に立って見るとこうなるわけです。

ラックと垂直に(機体と並行して)張り巡らされたレールは
上部を人が歩くことができるらしく、「キャットウォーク」となっています。
キャットウォークを歩く時に掴むロープも張ってありますが、
爆弾槽が開いている時ここを歩くことは死ぬほど怖かったでしょう。

実際に、先日終了したスピルバーグの「マスター・オブ・ザ・エア」でも

ここに立つシーンは何度か見たような気がしますし、
ある撃墜された爆撃機で、部下にパラシュートを譲った士官が、
最後にここに立っていたという証言を読んだ記憶もあります。

左上にはノートAとして

「B17Fには爆弾吊り上げ用ブラケットが1つしか付属していませんが、
左右どちらの爆弾ラックにも使用できます」


とあります。
左右は入れ替えることができたということでしょうか。





ボムベイは操縦席の後ろと、機体の比較的前部分に位置しています。



図を見ていただければわかりますが、ボムベイには
大きさの異なる爆弾を搭載することができました。


そして、これが爆撃手の配置するノーズ先端です。
爆撃任務を行っていない時のためにシートには銃が搭載されています。



爆撃の照準のため覗くボムサイトは床にあります。

動画を見ていただければわかりますが、
爆撃手は狙いをつけるときここに腹ばいになります。

B-17 Flight: Bombardier station

内部から見た飛行中のB-17爆撃手のポジション。

エポキシガラスに囲まれた非常に脆弱な、しかも狙われやすい場所で、
爆撃手はしばしば配置についたまま命を落として帰還することになりました。

さて本題、そんな爆撃手はもちろん、爆撃機のクルーの死傷については
連合軍としてはできるだけこれを避ける、

つまり死んだり怪我をしなくていいように手段を講じました。

Flak Training for Pilots in WW 2
まず、できるだけ対空砲を受けずに済む方法が研究されました。
対空砲回避の方法について解説する教育用ビデオが制作されます。

(途中で挟まれているのはディズニースタッフによるドナルドダック風味の絵)


任務中の負傷に備えて、爆撃機にはかならず
航空ファーストエイドキットが搭載されていました。

ここにあるのはサルファ剤(制菌効果)眼帯(アイドレッシング)止血帯、
ジョンソン&ジョンソンの表記が見える薬などキットの中身です。

飛行士が任務中に負傷した場合、利用できる唯一の医療支援は

当初こういった救急キットだけという時代がありました。

しかし爆撃任務の範囲拡大によってミッションにかかる時間も伸びていくと、
任務中もし乗組員が負傷するようなことがあっても、機が着陸し、
専門的な治療を受けるまでに最短でも4時間以上かかりました。

また、搭乗員の死傷について、1942年実態調査が行われ、
そしてその結果、偏向した対空砲火の破片や航空機構造の粉砕片など、
比較的低速の投射物が負傷原因の70%を占めることがわかりました。

その一例です。


1943年10月14日、シュヴァインフルト爆撃任務の際、
胴部銃手だったフィリップ・テイラー技術軍曹が受け、
命を落とすことになった対空砲の破片が展示されています。

これはおそらく軍曹の体内から摘出されたものでしょう。

対空砲を回避するのも大事ですが、受けてしまった時に
人体を守る手立てを早急に講じねばなりません。

この研究結果を受けて防護服とヘルメットの開発と普及が推進され、
何千人もの爆撃機乗組員が負傷や死から救われることになりました。


そのプロジェクトで大きな功績を上げたのが
マルコム・グロウ大佐 Col Dr. Malcolm Grow(後に少将)

第8空軍の外科医長で、米空軍の爆撃機乗組員のために防護服を開発し、
多くの命を救う成果を上げ、戦後、
米空軍の初代軍医総長に任命されています。

グロウは1909年にジェファーソン医科大学で医学の学位を取得し、
1917年に米陸軍に軍医として入隊。

陸軍航空隊の飛行外科医長時代(1934~39年)に、
オハイオ州ライト・パターソン空軍基地に航空医学研究所を設立し、
そこで戦闘乗員を保護する防護服の開発を行いました。

彼が開発した軽装甲冑と鋼鉄製ヘルメットによって
多くの爆撃機搭乗員の命が救われ、戦闘員の士気は著しく向上しました。

次いで1944年5月、グロウ大佐は、砲手を爆風から守る装置、
負傷者用の電気ヒーター付き衣服、手袋、ブーツ、ハンドウォーマー、
負傷者用バッグ、耐風性・耐火性の顔と首のプロテクター、
長時間の爆撃任務で使用する特別戦闘糧食を次々と開発しました。

凍傷患者(爆撃機搭乗中の凍傷罹患はよくあった)は減少し、
飛行効率が向上したことにより大佐は殊勲賞を受賞します。

戦闘が原因による精神的疾患について研究を進めたグロウ大佐は、
新しい軍人専門の保養所の設立に助力し、特別パスシステム、
また戦術部隊の医療将校のための特別訓練課程を制定し、その結果、
この種の負傷者をすべて任務に復帰させることに成功しています。

さて、そんな研究の結果生まれた防具を紹介していきましょう。



爆撃機乗組員の装甲

1944年初頭の着座型爆撃機搭乗員の典型的な防護服。 
衣服と装備の上に着用し、重さは約13ポンド(約6キロ)。  
緊急時には赤い解除ストラップを引っ張ればすぐに外すことができます。


この第8空軍爆撃機の乗組員は、ボディアーマーのおかげで
対空砲火を受けてもなお生きて帰ることができました。

彼の胸の白い丸の部分は、対空砲火が命中した跡であり、
彼はもしこれを着用していなければまず命はなかったことでしょう。

彼が身体に受けた弾丸はアーマーに跳ね返され床に落ちました。
彼が右手に持っているのは自分の身体が受けた弾丸です。


ボディアーマープレート

それではグロウ軍医考案のボディアーマーには何が仕込まれていたか。
というと、これです。

小さなタイルのように見えるこの物質は、厚さ1ミリのマンガン鋼板で、
この正方形が重なり合ってスーツに充填されていました。

布地に縫い付けることでアーマーは柔軟性を維持していました。
まあ、いうたら鎖帷子みたいなものと考えればいいでしょう。



20ミリの砲弾のかけらを受けた装甲ベストの中の
重なり合ったプレートが受けたダメージ。

装甲ベストを着用していたアーサー・ローゼンタール中尉は、
胸に軽傷を負っただけで済みました。

■爆撃手のヘルメットの変遷


爆撃クルーのヘルメットを見ていきます。
開発前のもの、開発後のグロウタイプ、戦争末期のものと色々。

M1歩兵ヘルメット

初期の爆撃機乗員は標準的なM1歩兵ヘルメットを着用していましたが、
ヘッドホンがヘルメットの下に収まりが悪く、具合が悪いと不評でした。
また、ボール砲塔砲手のように狭い場所にいる搭乗員は着用できません。


何しろこんなのですから

M3ヘルメット

標準的なM1歩兵用ヘルメットを搭乗員用に改良したものです。
1945年2月、オーストリアのウィーン上空で対空砲火の破片が命中したとき、
パイロットのフランク・リッグスはこのヘルメットを着用しており、
幸い大きな怪我はなく、数日後には飛行任務に復帰することができました。

M5ヘルメット

戦争末期に発行されたM5ヘルメットは、頬の保護を強化しています。


M4A2ヘルメット

1944年半ばに初めて生産されたモデル。
Growヘルメットを改良したもので、耳あてを追加し、
革のカバーを布に変えて装着感のアップを図りました。

戦時中に8万個以上のM4シリーズヘルメットが製造されています。




連合軍とルフトバッフェ非我で使用された爆撃手用のヘルメット各種。


「Grow Helmet」

1943年、英国のウィルキンソン・ソード社は、
標準的な革製フライトヘルメットの上にかぶる
「グロウ・ヘルメット」を製造しました。

「グロウ」はもちろんドクター・グロウのことです。

このヘルメットは、第44爆撃群司令官フレッド・デント大佐(後に少将)が
1944年3月8日、第8空軍の対ベルリン攻撃を指揮した際に着用したもの。

イケおじ デント少将

撃墜マークのように爆撃マークがペイントされています。

ヘルメット・アーマー

このグロウタイプとM4シリーズと呼ばれたヘルメットには、
マンガン鋼のストリップが5枚貼ってあります。
鋼鉄合金は特に衝撃に対する強度が高いということで採用されました。

ルフトバッフェ爆撃クルーヘルメット

こちらはドイツ空軍の防具です。
1941年のバトル・オブ・ブリテンの間、ドイツ空軍も
さらなる防護の必要性を認識し、
爆撃機乗組員に革張りの装甲ヘルメットを支給していました。


ルフトバッフェ爆撃クルーヘルメット

このヘルメットもスチールの装甲が施されています。
ルフトバッフェの爆撃機搭乗員の標準装備でした。

続く。