ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

潜水艦レクィン〜最後の旅 フロリダからピッツバーグまで

2024-04-16 | 軍艦

潜水艦「レクィン」シリーズ、終わりに近づいてきました。



マニューバリングルームを出ると、そこはスターン(艦尾)ルームです。

何の前知識もなく見学したわたしにはこれは大変な違和感でした。
今までの潜水艦は、艦尾に必ず後部魚雷発射室があって、
退艦の時は必ず魚雷発射管の間に渡された梯子を上っていくものでしたから。



「レクィン」はこうなっていました。

お馴染みの魚雷発射管がなく、ただ広々とした部屋になっています。
これを言い表すには、「スターンルーム」としか適切な言葉がありません。

しかし「レクィン」艦尾が最初からこうだったわけではありません。
就役した1945年から1946年まで、ここは後部魚雷コンパートメントであり、
「レクィン」は従来の潜水艦同様、前部と後部から魚雷発射する仕組みでした。

しかし、「レクィン」がレーダーピケット艦構想により改装された結果、
ここは 1946 年に戦闘情報センター (CIC) になります。
そして様々なプランボードやレーダー機器、乗組員の寝台も設置されました。


「レクィン」航空管制室レイアウト図面

潜水艦の狭いスペースにあらたにCICを設置するには、
魚雷室の一つを潰すしかなかったのだということです。

コンパートメントは「レクィン」が任務が終了するまでCICのままでした。



CICになったかつての後部魚雷発射室コンパートメントのドア近く部分。
レーダー機器とジェネレーター、それまで必要なかったデスクがあります。



CICとなったスターンルームの壁には、今までの潜水艦見学で
見たこともないような鍵付きの扉が整然と並んでいました。

これらが何の収納場所だったかというと、レーダーです。
最初の改造が行われた時、彼女の艦種は「レーダー哨戒潜水艦」でした。

そして今ではそれが、資料展示ウィンドウになっています。

■ 海軍退役後の「レクィン」


ここにはカーネギー博物館に「レクィン」が展示されるようになるまでの
関係書類などが展示されています。

退役し、練習艦としての役目を終えたあと、「レクィン」は
1972年にタンパ市に移され、記念館や観光名所として利用されていました。

この潜水艦に対する地元の関心と支援は、その後15年間、
かなり高かったのですが、だんだん注目が薄れてきた頃、
ツァーガイドがスキャンダルをひきおこしました。(その内容は不明)

そしてその後公開はとりやめられて4年間桟橋で放置されていました。

タンパ市は1989年に海軍に「レクィン」の引き取りを要請しています。
公開が中止になり、維持できなくなったという理由のほかに、
タンパ市は1991年に開催するスーパーボウルを控えていて、
イメージアップを図りたいと考えていましたが、第二次世界大戦時の潜水艦が
それに「そぐわない」と判断したといわれています。

こういう考え方がアメリカ、しかもブルーオアレッドで言うと
「スウィングステート」のフロリダ(しかも当時ブッシュ押し)
で起こったのがちょっと意外。

■ 議会報告書(取得法案陳述)

その頃、ペンシルベニア州ピッツバーグのカーネギー博物館が、
オハイオ川岸に建設中の新しい科学センターに展示するために、
旧式艦の寄贈の可能性について海軍に問い合わせていました。

「レクィン」が取得可能であることを聞いたカーネギー博物館は、
海軍にコネのあるさまざまな地元関係者、そして
ジョン・ハインツ上院議員(共和党)に連絡を取ります。

その後飛行機事故で死亡

何度もここで述べているように、ハインツ議員は、地元産業である
ハインツの御曹司であり、力のある政治家でした。

このときのハインツ議員の出した
「レクィン」譲渡申請のための書類が右側に展示されています。

ちょっとした艦歴も書き添えられているので翻訳しておきます。


旧式潜水艦US.S.の譲渡を許可する法案

S2151にって、潜水艦「レクィン」をペンシルバニア州フィラデルフィアの
カーネギー研究所に移送する許可が与えられる。
譲渡に適用されるはずの60日間の待機期間が満了する前に、
軍事委員会に提出すること。


ハインツ上院議員による;

大統領、私は本日、潜水艦「レクィン」をペンシルバニア州ピッツバーグの
カーネギー研究所に移送するための60日間の議会待機期間を
免除する法案を提出するために立ち上がりました。

海軍長官はこの潜水艦の譲渡を最近承認しましたが、
「レクィン」をフロリダ州タンパからピッツバーグに移送するに際しては
この
60日間の待機期間を免除していただく必要があります。

その出発を早春に早めたい事情は、潜水艦の移送を、
ミシシッピ川とオハイオ川の
水位が最も高いときに行う必要
があるからです。

全長312フィートの潜水艦が川を上り、
メキシコ湾からオハイオ川の河口まで閘門を通過するには、
一年のうち唯一の時期に出発しなければなりません。

この迅速な通過の試みは「レクィン」がピッツバーグに到着する前に
通過しなければならなかったミシシッピ川の様々な区間の水位が、
タイミングを必要としたことから実行に移されました。

「レクィン」は 1972年以来タンパのヒルズボロ川に係留されており、
市はテンチ級潜水艦を維持することにもはや興味を持っていません。

カーネギー研究所が取得することによって、「レクィン」は
新しいカーネギー科学センターの一部としてオハイオ川に浮かび、
訪問者に第二次世界大戦の遺跡を見るユニークな機会を提供するでしょう。


「レクィン」は 1945年1月1日にニューハンプシャー州ポーツマス進水し、
その後 1945 年 4 月 28 日に就役しました。

グアムに向かう途中第二次世界大戦が終わり、大西洋に戻るよう命じられ、
キーウェスト近郊の第4潜水戦隊で数か月間療養した後、
彼女は1.3.5.レーダーピケット潜水艦に改造されました。

その後25年間、彼女は我が国の潜水艦として功績を残して活躍しました。

その後第 2 艦隊および第 6 艦隊と協力して広範な作戦を行い、
北極圏の北を航行し、カリブ海から地中海、
そして大西洋全体まで南アメリカ大陸を巡る巡航を行いました。

 1968 年 12 月 3 日、現役の任務を終えて退役し、
フロリダ州セントピーターズバーグに送られ、
そこで衝突事故が起こるまで海軍予備訓練艦として勤務しました。

そして現在、カーネギー科学センターの一部として
新たな役割で国家に奉仕し続ける機会を得たのです。

私は彼女がオハイオ川の岸辺に到着することを楽しみにしており、
間もなくカーネギー科学センターの一部となることを認める
彼の法案を支持するよう同僚議員に強く勧めるものであります。

大統領、法案の本文を記録に掲載することに全会一致の同意をお願いします。 


このとき、ハインツ上院議員は、海軍の60日間の審議期間
(博物館目的での旧式艦艇の譲渡に関する)を3週間に短縮するため、
必要な法案を比較的短期間で議会に通すことができました。


「レクィン」の移転を許可する法案は、1990年4月9日、
ブッシュ(父)大統領によって署名されました。

タンパ造船所で船体外板の交換を含む必要な修理が完了した後、
「レクィン」はルイジアナ州バトンルージュに移され、
ミシシッピ川を遡ってピッツバーグへの航海を開始します。


4隻のはしけの間に置かれた「レクィン」は、1日あたり

約120マイルを移動し、1990年9月4日にピッツバーグに到着しました。

そして、同年8 月7日、4 隻のバージに挟まれてタンパを出航し、
ミシシッピ川、オハイオ川を通って9月4日ピッツバーグに到着したのです。



フロリダからピッツバーグまで「レクィン」が通ってきた道(川)です。
その間経過した州は10にのぼりました。

カーネギー科学 センター (CSC) は、USS「レクィン」の航海を宣伝するため
マンガス-カタンツァーノという地元コンサル会社と協力して、
大々的にその宣伝を行いましたが、そんな彼らも、
蓋を開けるまで、多くの人々が潜水艦を一目見るために押しかけるとは
夢にも思っていなかったといいます。


曳航されて川を遡る「レクィン」

バトンルージュからビーバーフォールまで、どんなに蒸し暑い日でも、
雨が降りしきっている日でも、ミシシッピ川とオハイオ川を遡って
カーネギー科学センターの新居に向かう「レクィン」を一目見ようと、
たくさんの人々は熱心に川岸に並び、その遡上を見守りました。


オハイオ川を曳航されて通過する「レクィン」



そして最終的に「レクィン」がピッツバーグに到着したとき、
待ち構えていた2,000人以上の見物人が歓声を上げたと伝えられます。



「レクィン」を見るための観覧船特別チケットに記されている

1990年9月4日とは、彼女がピッツバーグに到着したその日です。

オハイオ川には、わたしのこれまでの写真にも写っていたように、
右上の遊覧船「ゲートウェイ クリッパー フリート」が就航していますが、
この日は、「レクィン」の到着を遊覧船の上から見るため、
特別チケットが販売されて、熱心なファンが買い求めたのでしょう。

続く。