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アメリア・イアハート(と上顎洞炎)〜スミソニアン航空博物館

2022-10-07 | 飛行家列伝

今日は久しぶりにスミソニアン航空宇宙博物館の展示をご紹介します。


国立航空宇宙博物館、通称スミソニアン博物館の航空界のレジェンド、
ミリタリーに対して一般の部の代表は以下の人々です。



リンドバーグ夫妻(夫婦でレジェンドってすごくない?)
ドーリトル、そしてアメリア・イアハート。

ちなみに、ここに挙げられているのは上段から下の通り。

アメリア・イアハート

ウィリアム・パイパー
(航空機メーカー、パイパーエアクラフト創業者)

ロバート・ゴダード
「ロケットの父」

ジミー・ドーリトル

ヘルマン・オーベルト(ドイツ)
ロケット工学者

チャールズ・リンドバーグ

コンスタンチン・ツィオルコフスキー(ロシア)

ロケット工学者「宇宙旅行の父」

クラレンス・ギルバート・テイラー
(初期の航空起業家 航空事故死)

アン・モロー・リンドバーグ

この中で、航空に詳しくなくとも写真だけで誰かわかるのは、
リンドバーグとアメリア・イアハートの二人でしょう。

今回は、スミソニアンの展示から、アメリア・イアハートを取り上げます。


■ アメリア・イアハートとロッキード・ヴェガ

スミソニアンには、彼女のトレードマークとなった真っ赤なヴェガが
そのまま展示されて実物を見ることができます。



「この飛行機で、アメリア・イアハートは二つの偉大な
航空記録を打ち立てました。
1932年の大西洋横断飛行とアメリカ大陸無着陸横断飛行で、
そのどちらもが女流飛行家としては初めての記録でした」

アメリア・イアハートってどんな人?

●当時最も有名だった飛行家の一人

●記録を打ち立てたパイロット

●航空業界のプロモーター

●メディア界のスター、セレブリティ

●女性にインスピレーションを与えるロールモデル

●永遠の謎の中心である悲劇の伝説のヒロイン

ロッキード5B ヴェガ

ヴェガはその後の偉大な航空機会社の一つとなった
ロッキードエアクロフトによって製造された最初のモデルです。

頑丈で、広い居住性を誇り、合理化されたシステム、高速で
革新的なヴェガは、速度、距離でさまざまな記録に挑戦していた
当時のパイロットたちに熱い支持を受けるようになりました。

イアハートは、1930年から1933年まで、
この真っ赤なヴェガを所有していました。

■ アメリア・イアハートのバイオグラフィ


アメリア・メアリー・イアハートは1897年カンザス州アチソン生まれ。

父親のエドウィン・イアハートは弁護士になろうとしていましたが、
元連邦判事で、アチソン貯蓄銀行の頭取であり、町の有力者という
母親の父は、当初娘とこの男性の結婚に賛成していなかったそうです。

一族の慣習により、2人の祖母の名前をとって
アメリア・メアリーと名付けられたイアハートですが、
そんな古き良き慣習を持つ家系でありながら、
母親は子供たちを「いい子」に育てようとは考えていなかったため、
例えば女の子がスカートを履くのが当たり前だった当時、
彼女ら姉妹は自由に動けるという理由でブルマーを穿かされていました。

祖母たちはもちろん孫のブルマーにはいたく不満だったようです。

【おてんばアメリア】


イアハート家の姉妹は冒険心いっぱいの幼少期を過ごしています。
毎日近所の探索に出かけて木に登り、ライフルでネズミを狩り
そりを「腹ばいにして」滑降して長時間遊び続けました。

まあ、この頃そういう幼少期を過ごす子供は珍しくもないと思いますが、
多くの伝記作家は幼いイヤーハートをおてんば娘と評したがるようです。

姉妹は「ミミズ、ガ、キリギリス、ヒキガエル」を飼い、
外出のたびにそのコレクションは増えていきました。

ある時彼女は、セントルイス旅行で見たジェットコースターを模して作り、
道具置き場の屋根にタラップを取り付けて、実験を行いました。

この「初飛行」はソリが破壊され、劇的な幕切れとなってしまいます。

しかし、彼女は唇に怪我をし、破れた服で、
ソリ代わりの壊れた木箱から「爽快な感覚」を味わいつつ、出るなり、

「ああ、ピッジ、まるで空を飛んでいるみたいだった!」

1907年、父親はロックアイランド鉄道の保険金支払担当者に転職したため、
家族はアイオワ州デモインに転勤したのですが、
ここで彼女は初めて複葉機を見ています。

父親が飛行機に興味を持たせるために載せようとしたのですが、
彼女はメリーゴーラウンドの方がいいと冷淡でした。

後に彼女は複葉機については

「錆びた針金と木のもので、全く面白くなかった」

としか思わなかったようです。
なんか思ってたのと違った、って感じだったのでしょうか。
飛行機に対してはそう過大な期待も持っていなかったようですね。


幸せな子供時代を過ごした彼女ですが、父親はアルコール依存症で
家計は困窮し、家と家財道具を売るまでになります。
そう言った家庭環境が影響したのか、彼女の高校の卒アルには、

「A.E・・・いつも一人で歩いている『茶色ばかり着ている子」

という、彼女の隠キャぶりが窺い知れる言葉が書き込まれています。

彼女は問題の多い子供時代を過ごしながも、決して自暴自棄にならず、
将来のキャリアについてはそれなりに夢を持っていました。

映画監督や制作、法律、広告、経営、機械工学など、
主に男性向けの分野で成功した女性について
新聞の切り抜きをスクラップブックにしていたということです。

【看護助手として】


第一次世界大戦が激化した頃、イヤハートは
帰還した傷病兵を目の当たりにして、赤十字で看護助手としての訓練を受け、
陸軍病院のヴォランタリー・エイド分遣隊で働き始めました。

仕事内容は、厨房で特別食の患者のために食事を用意したり、
病院の診療所で処方された薬を配るというものでしたが、
ここで彼女は将来を決定する大きな出来事に遭遇します。

帰還してきた軍のパイロットから話を聞き、
飛行に興味を持つようになるのです。


【スペイン風邪と上顎洞炎】

1918年にスペイン風邪が大流行した際、イヤハートは
陸軍病院での夜勤を含む過酷な看護業務のせいで、肺炎になり、
続いて上顎洞炎を経験しています。

ちょっと驚いたのは、何を隠そうこのわたしも、
歯性の上顎洞炎のため、帰国後に入院手術を予定しているってことです。


というか、皆様がこれを読んでいるときには、
手術が済んでいる頃となります。

今回、たまたまお中元のお礼の電話をかけてくれた知人の医師が
ほとんど同じ症状で今から病院に行くところだと聞き、
何たる偶然の一致、と驚いていたのですが、その後、まさか、
アメリア・イアハートと自分が同じ病気だったと知ることになろうとは。

彼女がこの症状を発症した原因は 1918年11月初旬にかかった肺炎でした。

発病から2ヶ月後の12月には退院したのですが、副鼻腔炎を併発してしまい、
片目の周りの痛みと圧迫感、鼻孔と喉からの多量の粘液排出を見ています。

わたしの場合は、昔の歯医者の歯根の治療がいい加減だったため、
上の奥歯の根の先が溶けて、と薄い骨一枚で隔てられている上顎洞に
虫歯菌というか細菌が入り込んで炎症を起こしたものです。

アメリアのように痛みや圧迫感はありませんでしたが、
ヨガなどしていて長時間俯いていると、粘液がつつーっと出てきて
鼻の奥の異臭に「あれ?」と違和感を感じだしたのがきっかけです。

手術を受けるに至ったきっかけは、足首のアザでした。

ある日、両足首外くるぶしの上に、綺麗にお揃いのアザができてしまい、
すわ、急性骨髄性白血病か?夏目雅子か?と調べてみたら、
副鼻腔炎で脚にアザができることがある、と書いている医師がいたのです。

念の為検査したところ、血液の方には異常がなかったので、
この大元はもしかしたら副鼻腔炎で、咽頭を通過して体に吸収された膿は
引力の法則で体液に混じって下の方に運ばれ、
足首にアザを作っているんではないかと自分なりに診断したわたしは、
(二人の医師に持論を展開してみたところ、それは違う!と言われましたが)
これは放置してはいかんだろう、とまず大学病院に行くことにしました。

手術の前に一応抗生物質を飲んで様子見したのですが、効かなかったので、
アメリカから帰ったら手術でバッサリやってしまうことにしたのです。

アメリアの場合は抗生物質がまだ普及していない時代だったので、
彼女は根治のため患部の上顎洞を洗浄する、痛みを伴う手術を受けています。

この頃の副鼻腔炎の手術がどんなものだったのかはわかりませんが、
わたしの予定している内視鏡による手術でも、入院は一週間と
かなり大変そうな感じなので、多分彼女はもっと辛かったと思います。

しかも彼女の手術は成功せず、頭痛はさらに悪化したそうです。

こののち彼女がいわゆるセレブリティ、時代の寵児になってからも、
慢性副鼻腔炎は後年の飛行や活動に大きな影響を与え、

「小さな『ドレインチューブ』を隠すために
頬に絆創膏を貼らなければならないことがあった」


と書いてあるのを見てひえええ〜と怯えました。

電話の医師も

「昔は外から穴をあける手術しかなかったんですよ」

とおっしゃってましたが、まさかパイプを頬から外に出していたとは・・。

辛かったねアメリア・・・。



■ 飛行機との出会い

イアハートは後年、

「私がコロンビアで経験した最初の冒険は、空中を飛ぶことだった。
図書館の最上階に登り、それから入り組んだトンネルの中に降りていった」

と自分と飛行機との出会いをこう語っています。

ある日イアハートは若い女性の友人と一緒に
トロントで開催されたカナダ国立博覧会の航空フェアを訪れました。

その日のハイライトは、第一次世界大戦のエースによるデモでしたが、
上空のパイロットは、人々から少し離れたところで見ていた
イヤハートと彼女の友人二人に向かって飛んできたといいます。

誰だかわかりませんが、彼はきっと自分に言い聞かせたのでしょう。

"Watch me make them scamper "
(あの娘たちがびっくりして逃げるのを見よう)

と。

パイロットも所詮は若い男性。
クラスの気になる女の子にきゃーと言わせたい的な、
子供っぽい悪戯ごころのなせることだったのに違いありません。

しかし飛行機がが近づいてきても、イヤーハートは動きませんでした。

「聞き取れなかったけれど、あの小さな赤い飛行機は、
通り過ぎる時、わたしに何か言っていたと思う」

彼は後年、自分が目をつけて脅かした若い女の子が
歴史に残る飛行家になったと知っていたでしょうか。


彼女は1919年にはスミス大学への入学を準備していましたが、
気が変わり、コロンビア大学の医学部などに入学しています。
どちらの大学もいくら当時でもそう簡単に行けるところではありません。
(スミスはリンドバーグ夫人となったアン・モローの大学です)

ところがわずか1年後、カリフォルニアの両親のもとへ行って
一緒に暮らすために、大学をやめてしまいました。

この即決ぶりは、よっぽど学校が肌に合わなかったんだろうな。


■『わたしは空を飛ばなければならない』

1920年12月28日、イアハートは父親とともに、
ロングビーチで行われたドーハ「エアリアル・ミーティング」に参加して、
そこで父親に体験飛行と飛行訓練について質問してもらい、早速翌日、
10分間で10ドルという体験飛行を予約しています。

この時彼女を乗せたパイロット、フランク・ホークスは、
イヤーハートの人生を永遠に変えることになる乗り物を彼女に与えました。

「飛行機が地上から60-90m離れたとき、
わたしは空を飛ばなければならないと思いました」

と彼女はのちにこの時のことをこう語っています。


 ネータ・スヌークとイアハート1921年頃

翌月、イヤーハートは女流飛行家、
ネータ・スヌークに飛行のレッスンを受け始めます。

それまでに写真家、トラック運転手、地元の電話会社の速記者など、
様々な仕事をしながら、飛行訓練のための1000ドルを貯めていました。

1921年、ロングビーチのキナーフィールドで最初のレッスンを受けたとき
スヌークは訓練に、復元した墜落事故機である
カーチスJN-4「カナック」を使用しました。

エアハートは飛行場に行くために、バスで終点まで行き、
そこから6kmの道をテクテク歩いて通っていました。

彼女は飛行を始めてから、 イメージチェンジのために、
他の女性飛行士がよくやっているスタイルを真似し髪も短く刈り上げました。

わずか6か月後の1921年の夏に、イアハートは、
まだ早いのでは、というスヌークの助言にも関わらず、
明るいクロームイエローのキナーエアスターの中古複葉機を購入し、
「カナリヤ」とあだ名を付けています。


初の単独着陸に成功した後、彼女は新しい革製の飛行コートを購入し、
早速飛行に着用しますが、新品なのでからかわれてしまったので、
コートを着て寝たり、航空機用オイルで染めたりして「熟成」させました。



ここにはそんなレザーコートの一つがありますが、
これが「アメリアが一緒に寝たコート」かどうかはわかっていないそうです。

アメリアはお洒落だったので、きっと革コートも
何着も持っていたはずですから。

裏地はツィードが張ってあります。

■ アメリア・イアハートという女性


子供たちにサインするアメリア

アメリア・イアハートは、全米各地で講演やインタビュー、
展示飛行を行い、航空や女性の社会的・政治的問題の普及に努めました。


彼女は、挑戦とインスピレーションを与える遺産を残しました。

彼女は必ずしも「最高の」パイロットではありませんでしたが、
必要に応じて再飛行や自己改革を行う勇気と意欲を持ち、
夫であり実業家ジョージ・パトナムの助けを借りて、広報活動を行いました。

また、講演、執筆、事業など多方面で活躍し、
「最も賞賛される女性」と言われることもあれば
「最も着飾った女性」のリストに常に名を連ねるなど、
その複雑な人物像は、彼女に永続的な人気を与えることになります。


彼女のキャリア、フェミニズム、人生、そして謎に満ちた死は、
数え切れないほどの本、記事、演劇、映画、エッセイ、広告キャンペーン、
特集の題材となって繰り返されています。

そう、私たちは彼女に何が起こったのか知りたいのです。

なぜか?

アメリア・イアハートがあえて人と違うことをした女性だったからでしょう。


続く。(と思う)