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「アメリカン・サムライ」~日系アメリカ人と第442部隊

2015-09-16 | 博物館・資料館・テーマパーク

空母「ホーネット」艦上博物館でみた内容をまたもやお話しします。
日系アメリカ人と442部隊については、去年の夏、サンノゼの日系日本人博物館で見た
展示とともにお話ししていますし、その前には映画「二世部隊」、さらには
「俺たちの星条旗」(アメリカン・パスタイム)を扱った時もふれました。

わたしが日本人で、日本とアメリカの戦争に興味があり、アメリカで年の6分の1を過ごす限り、
日系アメリカ人と彼らの戦闘部隊である442部隊への興味は尽きません。




というわけで、空母「ホーネット」の一室を利用した

「第二次世界大戦における日系兵士:祖国への貢献」

というコーナーをご紹介していこうと思います。



日系兵士コーナーは、「ホーネット」のハンガーデッキから左に見えている
小さな階段を登ったところの部屋にありました。
なぜかこの空間には天井から羽根つきのタンデム自転車がぶら下がっていましたが、
この自転車についての説明はどこにもありませんでした。



日系人兵士について説明しようとすればまず日系人への迫害を語らねばなりません。
以前も説明したことがありますが、アメリカ政府は対日戦争が始まった時、
以前から日系人たちのアメリカ合衆国への忠誠は深く、
反動的な分子となる危険性はないという報告を受けていたにも関わらず、
彼らを「危険」であるとして財産や土地を没収した上で収容所に送りました。

この決定に大きく関与したのが、原爆投下にも関わり、さらには投下後の

「原爆の投下によって戦争を終結させ何百万もの命が救われた」

という発言で有名なヘンリー・スチムソン陸軍長官です。



日本人が収容された後、やれやれ、せいせいしたわいとばかりに、

「ジャップは二度とここに戻ってくるな!」

というプレートをわざわざレジに置いて得意気に指差すアメリカ人。
こんな爺さんが戦争が終わるまで生きていたかどうかも疑問ですが、
当時、このような「ヘイト写真」を嬉々として残したアメリカ人たちは、その後公民権運動を経て
「人種差別は悪いこと」になったとき、この過去をどう思ったでしょうか。

「家に帰れと言われても、ほとんどの日本人家族にとってそれは難しかった」

と説明があるように、日系人たちの経済地盤はもうすでにこちらにありましたから、
日本には帰るべき場所がもうなかったのです。


ところで昨今、在日韓国・朝鮮人が現在主張する”ヘイト”の構図と、このころの
日系アメリカ人の受けた
ヘイトはこの部分においては重なりますが、当時の日系人たちは
アメリカの参政権を手に入れて政治を支配しようとしたり、反米教育をしている学校に
政府の金を出させようとしたり、
ましてや報道機関や政府に帰化人などを送り込んで、
「内部操作」することなどなく、
ひたすら米国に忠誠を誓う良民であろうとしていたことを
考慮するべきである、と私見を述べておきます。

現在、シリアの難民を受け入れろという、なぜかEUからではなく国連の要望があるそうですが、 
英語すらできないレベルの難民が、果たして日本でどうやって生きていけるのでしょうか。
一から日本政府が手取り足取り面倒を見るしかないわけですが、日本にはすでに
朝鮮戦争の難民をなし崩し的に受け入れさせられており、今それが問題になっているわけで・・。 
 



さて、かくして日系アメリカ人たちはカリフォルニア中心にあった各収容所に送られました。
まるで家畜を送るようなトラックの荷台に立ったまま乗せられて・・・。
右下はワイオミングにあったハートマウンテンの収容所を空撮したもの。



幌付きのトラックから降りてくる一団は特に疲労困憊している様子です。

「ベイエリア(サンフランシスコ周辺)からの一行だな」

夏でも寒いサンフランシスコに住んでいるので暑さにすっかり参ってしまいました。
内陸は寒暖の差が激しく、ハートマウンテンの冬は零下30度にもなりました。
これも寒暖差の少ないカリフォルニアの日系人には堪えたでしょう。




日系人が収容所に荷物を持って行った「行李」。

一人につきたった一つのトランクしか持っていくことを許されませんでした。



収容所での彼らの様子です。

右上の家庭には仏壇がありますが、飾られている写真は米軍の制服を着た男性で、
どうやらこの収容所から第442部隊に出征して戦死したようです。



私物を持ち込むことが許されなかった収容所の日系人たちは、工夫を凝らして

必要なものを自分たちで製作しました。
この木製の道具入れは、廃材を集めて作ったものです。



彼らの住環境がいかに過酷だったかは、たとえばトイレにも見ることができます。
仕切りのない、もちろん水洗式でもないこの板に穴を開けただけの貯蔵式トイレは、
ナチスのユダヤ人収容所にあったものと寸分違うことなく同じです。

戦後ユダヤ人収容所が世界に非難され、また日本軍の捕虜施設であったという
虐待行為を理由にたくさんのBC級戦犯が処刑されましたが、
戦後一般人に対するアメリカのこの非人道的行為に対し、なんの咎めもありませんでした。
さすがは戦争に勝った国だけのことはあります。(嫌味です)



アメリカで生まれた彼ら。
祖国に対する感情は複雑です。

「正しいのか、間違っているのか。我々の祖国は」

「我が国の信義、誠実、そして正義と公正」

「我々は誇りを持って祖国に仕えよう」

彼らの置かれた状況からは、まるで悪い冗談のようなこれらの言葉・・。



合衆国の歴史は好きな授業だ。

我々学生は常に教師のもっとも普通な自由、独立、平等についての意見に対し
食ってかかるだけの用意ができている。

というキャプションと共に「先生?」と「食ってかかる」生徒。
教師は、こうつぶやいています。

「自由か、さもなくば死を我に与えよなんて誰が言ったんだろう?
あ~、まあいいや、どうでも。
座りなさい、ジロー、君の答えはわかってるから」



マンザナー収容所と歩哨に立つアメリカ人兵士。
当たり前ですが、彼らは銃を持っていました。
もし脱出しようとするものがあれば、撃つためです。

収容所はたいてい人里離れた場所に建てられ、その地域には
アメリカ人が立ち入ることさえ禁じられていました。

「止まれ  制限区域

日本人を祖先にもつ住人のための収容所があります

歩哨警備中」
 



442部隊の一員であった息子のローリーのために、

母親であるミネコ・サカイが製作した大作キルト。
442部隊と、諜報部の旗の真ん中には442大隊でヨーロッパ戦線に出征中の息子の写真があります。



二世の出征は志願制でした。
敵国の血をもつ二世たちに、アメリカ政府は忠誠を誓わせ、
戦争に参加することによってアメリカ国民として認めるという
「踏み絵」を踏ませたのです。



多くの二世たちがアメリカ国家に忠誠を誓いました。

写真は、ワイオミングにあったハートマウンテン収容所から
442部隊に加わることを表明した若者たち。
全員がスーツを着ていますが、そのための儀式でも行われた後でしょうか。



そして彼らはアメリカ陸軍第442連隊となったのです。



442部隊が転戦した場所を表した地図。

サレルノ、モンテ・カッシーノ、ベルベデーレ、ピサ。
フランスではブリュイエール、どれも第442連隊の名前と共に刻まれる地名です。

そして、ブリュイエールの後、ボージュの森で孤立していたテキサス大隊を
多大な犠牲を払って救出するという大変な戦果を上げます。



「Happines is being rescued.」

とある、救出されたテキサス大隊の皆さん。
このとき、テキサス大隊の少佐が第442連隊を見て

「ジャップの部隊なのか」

と軽く言ったところ、

第442部隊の少尉が

「俺たちはアメリカ陸軍442部隊だ。言い直せ!」

と激怒して掴みかかり、少佐は謝罪して敬礼したという逸話があります。

まあ、多大な犠牲を払って命を助けてくれた人に、その言い草はないわ。



栄誉勲章を受けた二世部隊のヒーローたち。

左は、イタリアでの戦闘で負傷したダニエル・イノウエ大尉
戦後政治家となり、上院議員となってアメリカ合衆国に尽くしました。
安部首相のアメリカ議会での演説の一節に

「この場にイノウエ議員にいてもらいたかった」

という言葉があったと聞きます。

真ん中が、このブログでもご紹介したことのある、スパッド・サダオ・ムネモリ1等兵
第100大隊の戦いで、至近距離に落ちた手榴弾に覆いかぶさって、戦友をかばい戦死しました。

一番右は、これもこのブログで似顔絵を描いたことのある、バーニー・ハジロ上等兵



クリントン大統領から2000年、ホワイトハウスでオナーメダルを授与しています。
ハジロ氏は2011年、94歳で亡くなっていますから、この受賞のときには83歳です。




クリントンといえば、1993年に大統領名義で、アメリカ政府は
日系アメリカ人たちに公式の謝罪を行っています。
過去の不幸な出来事への謝罪と、戦後の日系人たちの社会における活躍を賞賛し、

「これからも一緒にすべてのものに自由と正義が保証される祖国を作りましょう」

と結んでいます。




日系人によるインテリジェンス部隊が使用していた日本軍の資料。

こういう漢字もちゃんと読めたということなんでしょうか。



第442連隊を描いたアメリカンコミック。


彼ら300人のつわものは解き放たれた一つの「アメリカン・サムライ」の波となって、
恐れなど微塵もなく、最後の瞬間を突破していった。

そして咆哮の鳴り響く中、まるでツナミのように
二世たち、寸分の忌避感も持ち合わせぬ彼らは、稜線を駆け抜けていった。

"GO FOR BROKE!"





助けられた「テキサス大隊」、「ロストバタリオン」について。



横にある説明には、この「ロストバタリオン救出」が、アメリカ軍の歴史において
10大戦闘のうちの一つであるということが書かれています。



ロストバタリオンのヒギンズ大尉とレオナード少佐。




日系諜報部員と、100連隊、442連隊の兵士たちを思うポストン収容所の日系人たち。



日系収容所で「よく見られた」光景の一つ。
息子の戦死の報とオナーメダルを携えて年老いた両親の元にやって来る
陸軍の従軍牧師。



442大隊の活躍をデディケートして、サンフランシスコ出身の隊員と

その家族に贈られたオナーメダル。



先ほど、ビル・クリントンの謝罪声明文がありましたが、
こちらはジョージ・ブッシュから出された謝罪声明。
なぜ二代続けて大統領が声明を出したのかはわかりませんが、おそらくこのころ、
相前後して日系人たちに対する賠償の問題が片付き、
名誉の回復が遅まきながら公式に行われることとなったという事情によるものでしょう。



日本観光をする日系アメリカ人兵士たち。
後楽園(多分岡山の)に行ったようです。



この写真がいつ撮られたのかがわからなかったのですが、日系部隊が結成されたのは
日本との開戦以降のことですから、これは終戦後、占領軍として日本に行ったときのものでしょう。

日本の血を引く二世でありながらアメリカ合衆国の一員として日本と戦い、
降伏した日本に
足を踏み入れた時、彼らはどんな感慨を持ったでしょうか。


続く。