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草鹿中将の乾杯

2011-08-17 | 海軍人物伝

画像は兵学校七十期の卒業式に桟橋で「帽振れ」をする草鹿校長のアップです。
映画「勝利の基礎」最後のシーンですが、その眼が涙で濡れているのにお気づきでしたか?
この画像も「うるうるしている眼」をポイントに描きました。
少しは校長の心情が表れていればいいのですが。

エリス中尉が井上大将と対照的なこの草鹿中将のファンであるのは、
その残された エピソードにうっすら見られる利かん気のやんちゃぶりゆえにです。

勿論、中将まで登りつめた旧海軍軍人ですから、そんな無茶苦茶な話が残っているわけではないのですが、
例えば兵学校の校長に就任することが決まったとき
「草鹿は兵学校に行儀見習いに行くんだ」と同級生が口々に笑ったという話。
その兵学校では、生徒と一緒に泳ぎ、一緒に訓練を受け、生徒からは「任ちゃん」といって慕われた話。
そして、七十二期の新庄大尉発言の
「夏場、家に遊びに行ったら、ふんどし一枚で出てきた」という話。
そして、英雄色を好むを地で行くような「イケイケ」であったらしいこと。

なかでも、今日お話しするエピソードにはすっかりノックアウトされました。


阿川尚之氏(勿論、あの方の御子息です)著、「海の友情」(中公新書)を読みました。
海軍が敗戦によって消滅した後、海軍軍人たちがその精神と、その組織の再建を果たし、そして、
かつては敵国人であったアメリカ海軍と、いかにして今日の信頼を築いていったか。

戦後の掃海艇、名海上幕僚長中村悌次、内田一臣、こういう人たちがどのように海上自衛隊に、
いや「新海軍」に旧海軍の伝統を伝えるべく奮闘したか。

海軍に、あるいは自衛隊に興味をお持ちの方にはぜひ一読をお奨めしたい内容です。


その中で、アーレイ・バーク海軍大将と日本とのかかわりについて書かれた項があります。
バーク大将は、戦中、ソロモン海域で日本艦隊を相手に熾烈な戦闘を繰り広げた駆逐隊司令でした。
戦後、朝鮮戦争が勃発したとき、その戦況をワシントンに報告する参謀副長として日本にやってきました。
かつての敵国において、日本人と触れあううち、すっかり日本人が好きになった、という大将ですが、
この草鹿任一旧海軍中将とのある日の出会いが、かれの日本人好きを決定的にしたという話です。


ある日、バーク大将は、同期の部下から戦後の草鹿中将の困窮についての噂を聞きます。
かつての海軍中将が、いまや公職追放にあい、鉄道工事の現場でつるはしを奮い生計を立てている。
夫人は街で花売りをして回っているらしい・・・・。

バーク大将がソロモンで駆逐艦隊司令であったまさにそのとき、
ラバウル方面海軍最高司令官は、ほかでもないこの草鹿中将でした。
その艦隊にバークは何隻かの艦を沈められ、バークもまたその艦隊を屠った、
つまりカタキ同士です。

「飢えさせておけ」

その話を聞いてすぐはこんな言葉しか出てこなかったバークでしたが、すぐに思い直します。
いくら敗戦したからといってあれだけ勇猛に戦ったかつての提督が、
同胞にそこまでの仕打ちを受けなくてはならないものか。
惻隠の情にかられた大将は、匿名で草鹿家に食料を送りました。

数日後バークの執務室のドアが開いて、小柄な日本人がわめきながら飛び込んできた。草鹿である。
(中略)
草鹿は
「侮辱するのはよせ、誰の世話にもならない。
特にアメリカ人からは何も貰いたくない。
アメリカ人とは関係を持たない」
それだけ言うとプンプン怒りながら出ていった。
バークは提督に好感を持った。
自分が彼の立場だったら、全く同じことをするだろうと思った。


バークは草鹿と板野常善、富岡定俊の三人の旧海軍提督を、あらためて帝国ホテルの食事に招待しました。
擦り切れた礼服で固くなって現れた三人に酒を勧め、話すうちに三人とも英語ができ、
わけてもあの日、日本語でわめいて出ていった草鹿中将が
実は一番―英語が達者だったことがわかりました。

草鹿中将は大佐時代ロンドンの駐在武官も務めているのです。

すっかり和んだ食事の最後に、バーク大将は、あらためて乾杯を提案しました。
草鹿中将は立ちあがり、杯をあげてこう音頭を取りました。

「今日招いて下さった御親切なバークさんに乾杯をしたい。
もうひとつ、自分が(戦中)十分な任務を果たさなかったことにも乾杯しましょう。
もし任務を忠実に果たしていたら、この宴の主人を殺していたはずだ。
そうしたら今日の美味しいステーキは食べられませんでした。
では乾杯!」

負けじとバークもこう返します。

「私も自分が任務を果たさなかったことに乾杯したいと思います。
任務をきちんと果たしていれば、草鹿提督の命はちょうだいしていたはずで、
今日の素晴らしいステーキディナーを誰も食べることができなかったからです。
乾杯!」


アーレイ・バーク氏は、その後野村吉三郎氏に協力し、海上自衛隊の創設に大きな力を注ぎました。
晩年のかれは
「アメリカ海軍より自衛隊のほうがよっぽど自分を大事にしてくれる」と笑って言ったそうですが、
日本を愛し、日本人を愛すようになった大きな一つのきっかけが、
草鹿中将の乾杯であったことは確かでしょう。

バーク氏が1996年に永眠したとき、その棺に横たわる大将の身体には、
日本政府から送られた勲一等旭日大褒章がつけられていました。
棺の蓋が覆われたとき、大将がその生涯で貰った数多くの勲章は全て棺の縁にならべられていましたが、
その一つだけが無くなっていたのです。

アーレイ・バーク海軍大将は、たった一つ、日本から送られた勲章を胸に天国に旅立ったのでした。