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バーキン片手に靖國神社

草刈英治少佐の切腹と五一五事件

2016-05-15 | 海軍

世に二・二六事件を扱った映画は数あれど、五・一五事件を単体で描いたものは
今のところありません。
ここでも取り上げたことのある映画「重臣と青年将校 陸海軍流血史」は
相田中尉の永田軍令部長暗殺事件に始まって陸海軍の青年将校たちの
謀議が映画の半分くらいを占めており、その関係で五・一五事件も取り上げましたが、
それは、わたしの見たところ

「五・一五事件に関わった海軍軍人は一人も死刑にならなかった」
ことが二・二六事件の蹶起将校たちにきっかけを与えた」

ということを説明するために扱っているという感じでした。
どんな媒体を見ても、五・一五よりも二・二六の方が事件の質が重大であったため、
五・一五そのものについて詳しく述べていないものが多いのです。

というわけで、今日はちょうど5月15日。
84年前の今日起こった五・一五事件についてお話ししてみようと思います。

この日のことを犬養毅の孫娘である犬養道子氏は、著書「花々と星々と」で

犬養家はその日銀座のエーワン(8丁目にあった)で食事をし、
祖父に届けるためにコンソメと軽い一品を注文した。
「おじいちゃま」は「バタ臭いものの大嫌いなばあさん」が出かけているので助かる、
と楽しみにしていた。

というように(今手元にないので)書いています。
事件は、海軍中尉古賀清志以下6名の海軍士官が中心となり、
これに陸軍士官学校生徒11名が加わり、さらにこれに民間の
右翼急進派である愛郷塾が加わって起こしたテロ事件でした。

犬養首相のいる首相官邸を襲撃したのは三上卓、山岸宏海軍中尉以下士官4名、
そして士官候補生が5名、計9名。
首魁が中尉であり、メンバーに候補生がいたというところに改めて驚愕します。
このときの彼らのテロ行動を箇条書きにしてみます。

●首相官邸で犬養毅を暗殺

●牧野内大臣宅襲撃 警備の巡査が負傷

●警視庁の総監室に手榴弾を投げるも届かず

●政友会本部襲撃 日曜のため誰もいず

●日本銀行、三菱銀行、変電所を襲撃するもほとんど成果なし


彼らの目的は陸海軍人と同時に蹶起して帝都を混乱、暗黒化し、
それに乗じて革命を起こすことでしたが、一番大きな結果は
犬養首相が死亡したということだけにとどまりました。

さて、それでは彼らがこのような挙に及んだ理由とはなんでしょうか。

この直接の原因ではなく遠因というべきが軍縮会議に伴う統帥権干犯問題です。
このときの干犯問題については、もう少し先に、加藤寛治大将のこと触れつつ
私見を述べてみたいと思っていますが、ここで簡単に言うと、

第1回の軍縮会議、ワシントン会議に続き、ロンドン会議では
兵力が米英に対して5・5・3と、当初海軍が切望していた対英米7割を下回り、
しかもそれを批准するのに、軍縮したい当時の濱口雄幸政権は
事前に海軍軍令部長の同意を得ることなく、天皇陛下の批准権を使って
つまり海軍にしてみれば統帥権のあった海軍の頭越しに条約を妥結してしまった。

ということになります。


海軍省ではそれもやむなしという空気だったのですが、
加藤寛治を軍令部長とする海軍軍令部はおさまりません。
対米6割の結果と、潜水艦のトン数が足りないとしてこれに反対し
再交渉することを強く主張しました。

ここで問題となった統帥権の干犯の問題を見てみます。
問題は明治憲法の統帥権が慣例的に

「軍事作戦は、海軍では海軍軍令部長(後に軍令部総長と改称)が輔弼し、
彼らが帷幄上奏(いあくじょうそう)し天皇の裁可を経る」

ということになっていたのに、政府がそれを無視したということになります。


ここですごく不思議なことがあります。

統帥権干犯を国会で取り上げ問題化したのは、
当時野党の親玉だった政友会の犬養毅でした。

このとき犬養は鳩山一郎とともに政府を、

「軍令部の反対する兵力量では国防の安全は期待できない。
さらにその締結は統帥権干犯である」

といって攻撃しているのです。
ということは、この時点では犬養は海軍の側に立っていて、
海軍の主張を後押ししていたということになるのです。

それならなぜ犬養は五一五事件で海軍将校に暗殺されたのでしょうか。

このころ犬養はもう76歳で首相どころか政界からの引退を考えていました。
つまり、この後のことなどなにも考えず、とにかく政府を攻撃するために
この件を利用していたとしか思えないのです。

わたしは犬養道子氏の本の影響もあって、犬養毅という人物を、

「憲政の神様」

と称えられ、満州から軍を引き揚げさせようとした穏健派、
清貧に甘んじ決して利を求めなかった高潔な人物であり高邁な政治家、
と思っていたのですが、この件を調べていて、

「は?」

と思わず声に出して言ってしまいました。
犬養の思想からいうと、軍縮はむしろ大歓迎という立場だったはず。
これ、どういうことだと思います?
そう、国会で攻撃するために反対のための反対をしていただけなんですねー。

もし条約提携時、犬養が首相で政府与党の立場であったなら、

その結果を統帥権干犯は勿論、どんな手を使っても批准していたでしょう。
それを、政府与党がやったので、野党として非難していたってことなのです。


いまの野党などそれしかしていませんが、とにかく「政策よりも、政局」。
犬養毅は、自分が与党になったら確実に自分に返ってくるブーメランを
野党の親玉としてこのとき臆面もなく投げていたということになります。

半分引退した野党党首として失うものは何もないので、もっというなら
自分の発言に責任を持つ必要もないので、言いたい放題言っていたら、
なんと!

「世間は犬養の引退を許さず、岡山の支持者たちは勝手に犬養を立候補させ

衆議院選挙で当選させ続けた」

「政友会の総裁も嫌がるのを無理に担がれた」

「若槻内閣解散後、昭和天皇に頼まれて首相を引き受けざるを得なくなった」←いまここ

という経緯であれよあれよと自分が首相になってしまいました。

つまり、五一五事件で自分が暗殺されることになったのは、
自分が野党時代に投げたあまりにも大きなブーメランが、
首相の座に着いてから返ってきて刺さったということではなかったのか。

とわたしはあくまでも控えめに言ってみます。(赤字だけど)



さて、とにかく、濱口内閣は犬養の起こした論議の末、右翼勢力が
東京駅で首相を襲撃するという事態に至り、潰れてしまいます。
いわば犬養毅の目的はこの時点で達成したということになります。

そして犬養内閣が成立しました。

このとき、海軍は統帥権干犯問題で自分たちの側に立って
政府をさんざん攻撃した犬養首相に、おそらく大きな期待を寄せたはずです。

ところがなんだか様子が違います。 

満州問題では軍の要求を拒否し、自分の人脈で外交問題を解決しようとしたり、
そして軍の青年将校の振舞いに深い憂慮を抱いていたため、
陸軍元帥に陳情の手紙を書いたり、天皇に上奏して、
問題の青年将校ら30人程度を
免官させようとしたり・・・。

このことは事前に軍に筒抜けとなり、軍は統帥権を侵害するものと憤激しました。
自分が政争の道具とした統帥権干犯を、今度は自分が問われたのです。

軍、ことに海軍から見ると、犬養首相は

「野党のときは味方のふりをしていたが政権を取って変節した」


裏切り者、ということになります。
これこそが五一五事件で襲撃される直接の理由となったのでした。




さて、本日タイトルにした草刈英治海軍少佐の切腹事件についてですが、

これは、まさにロンドン軍縮会議の批准を巡って犬養が野党党首として
与党を攻撃していた真っ最中の
1930年5月20日に起こりました。

草刈少佐は海軍兵学校41期。
卒業時は125名中5位の恩賜の短剣で秀才でした。
一高を目指していたところ、帰郷してきた兵学校生徒の制服を見て
その短剣姿に憧れ、
兵学校に志望を変更しています。

軍縮条約の受け入れに反対していた草刈は軍縮会議全権の一人で、
帰国の途にある海軍大臣・財部彪が乗車していた東海道線車中で切腹しました。

草刈は腹を真一文字に切った状態で発見され、病院でも
「刀は武士の魂である」と叫び、短刀を離そうとせず、
看取った憲兵分隊長は

「実に美事なる御最期でありました」

と駆けつけた同級生に語ったとされます。
切腹の理由として、

「財部の暗殺を企図したが果たせなかったため」

「財部海相の暗殺を決意したが、それもまた統帥権干犯になるのではと悩み、
暗殺を実行できず自決を選んだ」(松本清張説)

「ノイローゼだった」

などが取りざたされましたが、同級生たちはノイローゼ説に対して強く反発し、
これを述べた軍令部次長に抗議し、謝らせるという騒ぎになりました。

草刈の自決は結果『軍縮条約に対する死の抗議』として大きく報じられます。
そして、

「自由主義者の奸策に斃れた草刈少佐の死を忘れるな」

との叫びが、青年将校や国家主義者の間に高まってゆき、これが
2年後の五・一五事件の計画に結びついていくのです。 


さて、そしてここではもう一つ、五・一五事件の首謀者の裁判の経過について
お話ししておこうと思います。

1930年、7月24日から行われた横須賀鎮守府での海軍側軍法会議の
(陸軍側は第一師団で行われた)求刑論告において、10名の被告人中、

死刑3名、無期禁固3名、禁固6年3名、禁固3年1名

が求刑されました。
この求刑に例によって海軍の青年士官たちは憤激し、彼らは一斉に
「論告反対」
を叫んで行動を起こしました。

クラス会やクラス代表者連合協議会などが開かれ、主犯と同期(56期)の
清水鉄男中尉は、ある会合でこのように述べたとされます。

「西暦1921年、アメリカの策略は、平和の美名に名をかりて、
ついにかのワシントン条約を作り上げたのでありました。
日本の世論は、英米二カ国の野心の塊であったこの外交上の大芝居を
やすやすと上映せしめ、アメリカの野望の第一歩を笑顔を持って迎えたのでありました。

日夜研鑽、武を練り、技を磨きつつあった私達の眼前に移った
国内の有様は果たして如何でありましたか。
時弊に凝って、ついに恐るべき議会中心主義となって表れ、不戦条約となって
その正体を暴露し、ついに亡国的ロンドン条約は締結されたのでした。

ついに国難来る!

このように条約締結の結果に激怒している海軍軍人たちが、
ことを起こした身内の減刑を願うのはいわば当たり前のことですが、

おどろいたことに、求刑論告のあったその日から、国民の間でも
決起した陸海軍軍人たちに対する減刑嘆願運動が盛んにおこなわれました。
このとき国民が海軍の青年将校たちに同情した理由は、

当時の政党政治の腐敗に対する反感から」(wiki)

とされており、このときに発表された海軍側弁護団の嘆願書の数は
なんと69万余通に及んだということです。

これら海軍の動きや世論の影響を受けたのか、判決は減刑され、
死刑とされた3名のうち2名が「禁固15年」、1名が「禁固13年」とし、
残りは全員10年以下とされ、陸軍側は全員が「禁固4年」でした。

そしてその結果を世論のほとんどが歓迎しました。
陸海軍はもちろんほどんどの国民が「花も実もある名判決」と称えたのです。

のちにこの判決を下した裁判長の高須四郎大将は、

「死刑者を出すことで海軍内に決定的な亀裂が生じる事を避けたかっただけだ」

と死刑にしなかった理由を述べています。
殉教者を出すことが扇動となり若い海軍軍人が蜂起する可能性もあったので、
これは致し方なかったのかなと同情するのですが、高須大将本人は
このときの「温情判決」が二・二六事件の引き金になったというのちの批判を
死ぬまで気に病んでいたという家族の証言があります。

このときの海軍側の弁護団に、東京裁判で主任弁護人を務めた清瀬一郎博士がいました。




彼らを行動に駆り立てたものは二・二六事件のときと同じく、

政党、財閥、特権階級(いまでいう上級国民)の腐敗堕落であり、
それと対照的に疲弊していた農村の実情というベースがあり、
ロンドン条約の受諾を”売国”としたことにあり、つまりそれはとりもなおさず
国民もまた同じように考えていた、ということでもあるのです。

あの戦争を「軍部の独走」で全て片付けてしまう後世の評価がありますが、
この件に見られるように、軍独裁でもなかった日本がそうなるには、
国民の世論の後押し無くしては何事も動くものではなかったのです。

戦後のドイツがなんでもかんでもナチスのせいにしているけれど、

ナチスを熱狂的に支持したのは他ならぬドイツ国民だったではないか、
と言われているのを思い出していただければいいかと思います。


というわけで、五・一五事件について少し語ってみました。

今回この事件を自分なりに整理してみて、わたしは、犬養毅が
現在の民進党の馬鹿共と同じことをやっていたことに気づいてしまい、

「憲政の神様」のイメージを壊されてちょっとしたショックを受けております。

政権を取る前と取る後でいうことを180度ひっくり返す政治家なんて、
政治家ではなく「政治屋」じゃないか、などと厳しいことを思ってしまいますが、
草刈少佐の自死がやはり関係者にとって条約反対の象徴とされたように、
人は不慮の死に遭った人物を偶像化せずにはいられないものなので、
暗殺された犬養毅の評価が底上げされたとしても仕方ないことなのかもしれません。


・・・とまとめるつもりで始めたんじゃないけど、まいいか(笑)




日蓮の寺と海軍「千島艦事件」〜横須賀歴史ウォーク

2016-05-09 | 海軍


こういった「市民参加型」の歴史探訪ツァーに参加するのは夫婦二人でなければ
大抵は一人。
想像したように、写真が目的でフル装備できたような人は少なくともおらず、
かろうじてわたしのグループにはわたし以外に一人、コンデジではない
カメラを携えてきた男性がいたのみです。

いわゆる亀爺はこういうのには参加しないのかもしれませんね。

アメリカだとこれが一緒に移動している間に誰彼なく話しかけ、
和気藹々となるわけですが、ここは日本、夫婦参加の二人とか、
ツァーにもう二人同行しているボランティアのガイドさんに
メインのガイドから遠いところで話しかける以外は、見事に黙々と、
特に移動の時などは押し黙って列が進みます。

団体でワーワー騒ぎながら歩くのは論外ですが、日本人の団体は
本当に空気を読みまくるというか、人見知りだなあと感じました。

さて、そんな団塊の世代の実態を観察しているうちにも
さくさくと行程は進みます。



上町教会からしばらくいったところに、一見モダンな教会が。
ここは特にツァーに含まれていたわけではありませんが、
日本キリスト教会の前を通ったとき、ガイドの方が

「戦後進駐軍のアメリカ人に追いかけられた女性がここに逃げ込んだらしい」

という、噂ともなんともつかない話をしました。
調べたところ、そういう話は表向き残っていませんが、
横須賀で生まれ育ったというその方がどこかで聞いたことのある話なのでしょう。



さて、この次は日蓮宗寺院である「龍本寺」へ。
正式には「猿海山龍本寺」というそうです。

日蓮上人は京都で修行をしましたが、関東地方でも
辻説法などの方法で布教を行いました。
ここで日蓮の弟子が開山したのがこの龍本寺です。



本堂の立派な門の飾りには、舟があしらわれています。
その下側には寺の名前にもなった龍がいますね。

日蓮伝説によると、日蓮が房総から布教の地を変えるため、
鎌倉まで舟で移動する途中海が荒れ、船底に穴が開き海水が入ってきました。
聖人が題目を唱えると、一時に風波がしずまり、
船底の穴には、あわびが密着して海水の侵入が防がれていたということです。

この木彫には嵐の中題目を唱えている日蓮上人の姿が見えます。



本堂の屋根を望遠で撮ってみました。
鳥避けにまるでまつげのように(笑)針が設置してあります。


いつもは本殿は公開されていないのだそうですが、今日は
本殿に改修工事が入っていたせいか、中に上がって見学することができました。



日蓮宗というのは感じですがこういう装飾に凝るような印象があります。
まるでシャンデリアのような本堂の照明が華やかさで目を引きます。



創建当時からあるのかどうかはわかりませんが、お猿さんの木彫りが。
猿というのは大変日蓮伝説にとって重要なアイテム?で、
例の嵐の後アワビが舟の穴をふさいで沈まなかった日蓮の乗った舟は、
豊島という小さな島にたどり着きました。

日蓮上人がこの島に上陸すると、どこからともなく一匹の白猿が近づいてきて、
法衣の袖を引き、陸の方を指しました。

それが現在の横須賀です。

猿が指差したからといってそこに行ってみようと思った日蓮の
真意は今にして思えばなんだったのでしょうか。
真面目に考えないように、と言われそうですが。

日蓮は船で、白猿の指示した岬へ向かいましたが、
ひどい遠浅の浜で、船がそれ以上進みません。
そこになぜか、すそをからげて船に近づいてきた人がいました。
いまでも横須賀にある石渡家の先祖・石渡左衛門尉でした。

この人の足から血が流れているのを見て、日蓮は題目を唱えました。

するとそれからこの浜で取れるさざえには、角がなくなったそうです。
浅瀬のサザエには元々角ができない、という説がありますがそれはスルーで。

ちなみにサザエの角はとれましたが、石渡左衛門尉の血は止まらなかった模様。
というか、目の前で人が怪我してるのにサザエの角とってる場合か?
という説もありますがこれもスルーで。 


ところで猿が出てきた豊島ですが、他でもない、
現在猿島と呼ばれているあれです。



右側に黒い厨子が安置されているのですが、その中には
船の穴を塞いだアワビが安置されているという話でした。

ただしこのアワビは嵐の時に穴をふさいだのとば別のアワビです。
日蓮上人という人はあまり派手に辻説法で他宗教を非難するので、恨みを買い、
ついに佐渡に島流しされています。
その際、日蓮上人を亡き者にしようとして船には穴が開けられていたのですが、
またもやその穴はアワビに塞がれていたというのです。

つまり、日蓮上人は二度もアワビに船の穴をふさいでもらって助かったのです。

貝類がよく登場するのは、信仰していた人々が横須賀の漁民に多かったからでしょうか。





本堂の欄間に相当するところにはこのような彩色された絵があしらわれていましたが、
どうもこのシーンは日蓮上人がお亡くなりになったところを描いているようです。

日蓮上人は1282年、60歳で病気のため亡くなっていますが、
60歳というのは当時にすれば長生きでしょうか。



寺の見学を終えた私たちグループは、山門とは違う出口から
目もくらみそうな階段を降りて行きました。
雨の降る日はとても怖くて降りられないような急な階段です。



階段を降りていったところ、冒頭写真の「お穴様」がありました。
お穴様とは、日蓮上人がこの地にやってきた時に修行した洞窟だそうです。
ご存知と思いますが、

「南無妙法蓮華経」

というのは日蓮上人が唱えた言葉で

法華経の教えに帰依をする」

という意味です。

日蓮が21日間篭り、大願成就の祈念を行なったと伝えられる座禅窟です。
その後、日蓮は当初の目的地だった鎌倉へと向かったとあるので、
この地に立ち寄ったのは日蓮にとってはちょっとしたアクシデントだったことになります。



洞窟というより洞穴ですね。
21日間修行をしたと言っても、弟子が掘った穴に座っていただけではないのか、
などというとバチが当たりそうなので言いませんが(言ってるけど)

内部はだいぶ修復を繰り返されて今では天井はコンクリートばりです。
御祈祷のための椅子が設置されているあたりが親切です。



おそらくこの奥に鎮座しているのが日蓮上人のつもり。
当時の日蓮上人を描いた絵を見ると、どれも目がぱっちりしていて、
今でいうかなり濃い顔だったのではないかと思われます。

「日蓮と蒙古襲来」という映画では長谷川一夫、1979年の
「日蓮」では萬屋錦之介が日蓮を演じており、わたしの思い込みだけでなく
日蓮が目力のある人であったと伝えられているようですね。
それでいうと、これはあまり日蓮に似ていそうにありません。

さて、わたしたちが龍本寺に到着したとき、最初のグループがまだ見学をしていました。
一度に50人くらいが本堂に入ることはできないので、わたしたちはしばらく待たされました。



その間、わたしはお寺の手水場からまっすぐ伸びる小道の向こうにある
墓所を眺めるともなく眺めていたのですが、ふと勘が働きました。

横須賀のお寺なら、もしかしたら海軍関係者の古いお墓があるかもしれない。

いや、そこまで具体的に考えていたわけではないのです。
後から考えるとそれはまさに「引き寄せられた」としか思えない
自然さで、わたしは脇目も振らず一つの大きな墓石に向かっていました。



実は近づきながらすでに視界に「海軍」の文字を認めていたのかもしれません。
「海軍機関士」、つまり軍艦の機関士5名の慰霊碑ではなく「墓」です。

なぜ5名が合同で墓所に入っているのかというと、おそらくそれは
遺骨がなかったからではないでしょうか。

ドキドキしながらわたしはそーっと後ろに回ってみました。



全文漢字でしかも花崗岩に彫り込まれた文字は読むのに大変苦労しましたが、
それでもこの機関士たちが「千島」の乗員であったこと、全員が溺死したこと、
そしてこの碑の揮毫を行ったのが、このブログでも2回取り上げたことのある
伊藤 雋吉(いとう としよし)海軍中将であることはその場で読み取れました。

伊藤中将は達筆で有名で、いろんな揮毫を請け負ったそうですが、
1895年(明治28)、この碑が建立されたころは、海軍中将のまま
共同運輸という会社の社長を務めていたことになっています。
おそらくやはりこの揮毫は達筆を見込まれたからに違いありません。


さて、調べたところ、この5名の機関士は千島艦事件といって、
1892年11月30日に日本海軍の水雷砲艦「千島」がイギリス商船と衝突、
沈没した事件による犠牲者であるらしいことがわかりました。

全文漢字ですが、苦労してわかるだけ翻訳してみます。

帝国海軍千島はフランスの造船会社によって建造された。
完成したので愛媛県興居島の海峡付近を航行していたところ、
イギリスの商船「羅弁那号」(ラヴェンナ)と衝突し、死者を多数出した。
ときに明治25年11月30日のことであった。

ここからは翻訳できなくて諦めました(おい)
とにかく、そのときに溺死した5名の機関士たちは職に命を賭したので、
その名をここに残す、というようなかんじ(適当)です。

このときに殉職した「千島」の乗員は74名でしたが、この5人の機関士だけが
ここ葬られている理由についてはよくわかりません。
この5人が横須賀の造船所から選抜されたという記録はあるようなので、
つまり横須賀出身の「千島」乗組員は彼ら5人だけだった可能性があります。


この「千島艦事件」が特異であったことは、近代化された日本が初めて

海外の法廷に訴訟を行ったという案件だったことです。

イギリスで行われた裁判の結果、第一審は日本側の勝ちでしたが、
85万円の賠償を求めて判決が10万だったので、これをどちらも不服とし、
再審をしたところ、第二審ではなんとイギリスの船会社(P&O)の全面勝訴。
上告しようとするうちにイギリスが和解を申し出、それを受けた日本は
和解金 90,995円25銭(1万ポンドだったので)でそれを受け取りました。

こんなことなら第一審でやめておいたらよかったのでは・・・。 



一部アップしてみました。
「仏国造船会社」「興居島海峡」「機関士溺死者五人」
などの文字が確認されます。

ちなみにこの「千島」という船は通報艦として作られました。

エミール・ベルタンが、自ら信奉するジューヌ・エコール思想に基づいて設計を行い、
1890年にフランス、ロワール社サン・ナゼール造船所で起工し、1892年に竣工。
最大船速22ノットのはずが試運転で19ノット程度しか達成できなかったため、
1年ほど引渡しが遅れています。

引渡しのためにフランスを出港し、アレクサンドリア、スエズ運河、
シンガポールを経由して、1892年11月24日に長崎に到着したあと、
11月28日に長崎から神戸に向けて出港し、30日に事故に遭遇しました。



ところで、さっきの日蓮上人の最後の姿が飾られていたような本堂の天井近くに、
古くて説明も何もない写真の額二つ掲げられているのに気がつきました。

こちらは写真そのものがぼんやりとしていて、人が並んでいることしかわからないのですが、



もう一枚のこの写真には、明らかに旭日の海軍旗が写っています。
そしてぼんやりとではありますが、後ろにかけられた幟には

「(海?)軍忠死者」

という文字が読めるのです。
皆の後ろにある物体もなんとなく軍艦をかたどったものに見えなくもありません。


前列に座っている5人の若い婦人たちは機関士たちの未亡人で、
学帽を被った少年は遺児だと考えれば、この千島事件の
殉職者の葬式の時に撮られたものである可能性が高くなります。

残念なことに右側の幟に何が書いてあるかは全く読めません。
そう思って先ほどの集合写真を見ると、同じ時に撮られたようですし、
海軍旗のようなものもあるように思えます。
(後列左から3番目と4番目の人の間)


以上はおそらくわたしだけがたまたま発見したことですが、
これが正しいのかどうかは全く想像に過ぎないため確信は持てません。

ただ、日頃から海軍海事に傾倒していることが、これらのことを
今回引き寄せたのかなあ、と少し我ながら不思議ではあります。

今にして思えば、一人で墓石を見に行ったあたりからなにか
導かれていたような気がするんですよね・・。
というわけでこれも何かのご縁、5名の海軍機関士たちの
お名前を最後に記しておきます。


伊藤房吉

山田基

横田鎌三郎

安藤茂廣

田子七郎


合掌。





百三回目の桜〜横浜鎮守府司令長官庁舎一般公開

2016-04-09 | 海軍

旧横須賀鎮守府長官庁舎、現田戸台分庁舎の一般公開、
わずか1時間ほどの見学から知る歴史や秘話。
いつもながら歴史的な遺物を見ることは、それだけで終わらせず
後から探求することによって知ることの愉悦を与えてくれます。


ここが一般公開の時しか見学できないというのは残念ですが、

横須賀地方総監部の管理下にある以上、管理人を置いたり、
ましてや見学料を取ったりすることができないのでそれもやむなしです。
この近くには横須賀地方総監の官舎もあった(はずな)ので、
不特定多数の人々が立ち寄るようになると警備の点でも困るでしょうし。 


ところで、地方総監というのは旧海軍でいうところの鎮守府長官です。
つまり、海自は旧海軍で長官庁舎だったところの近隣に
現在も地方総監の官舎を構えているというわけですが、何か理由があるのでしょうか。

これは想像でしかないのですが、ここは昭和37年まで横須賀に進駐していた
米海軍の長官公舎として使用されていました。
この頃までには海上警備隊から名前を変えた自衛隊はすでに横須賀地方総監を
この地に置いていましたが、米軍がまだいたためここを使用することができず、

したがってわざわざ近隣に地方総監用の官舎を建てたのではなかったでしょうか。

当時の地方総監は初代から始まって全員が海軍兵学校卒でしたから、
(防大1期が総監になったのは1989年のこと)我々が思う以上に
この鎮守府庁舎の意味は彼らにとて大きかったのではないかというのがその理由です。

しかし結局、旧鎮守府長官庁舎に自衛隊の地方総監が入居する日は二度と訪れませんでした。




大きな意味、というのは海兵出身の海軍軍人にとって、これらの有名な海軍の先輩が
ことごとく住んでいた官舎に自分も住む、という感慨でもあります。

例えばここには日露戦争では「三笠」の砲術長だった加藤寛治がいますね。

加藤と同級生の安保清種も日本海海戦のとき「三笠」砲術長でした。
この人が、ドミトリードンスコイ=「ごみ取り権助」の張本人、じゃなくて
発案者です。(いわれてみればいかにもそんなことを言いだしそうな顔です)

のちに総理大臣になって226事件では邸宅を襲撃された岡田啓介
「大角事件」で軍拡路線の邪魔になりそうな山梨勝之進、堀悌吉らを
追放して今日やたら評判の悪い大角岑生の顔も見えます。



海上自衛隊の父となった野村吉三郎、そして最後の海軍大臣米内光政
開戦時の軍令部総長であった永野修身、近衛内閣時の海軍大臣及川古志郎

及川といえば、東條英機に「戦争の勝利の自信はどうか」と聞かれた時、
「それはない」と答えた話が有名ですが、彼に限らず海軍の上層部は
皆このくらいのことはわかっていたんだろうなという気がします。



27代から30代までが一人を除きビッグネームで、以降が戦史的に無名なのは、
横須賀鎮守府長官は「これから出世する役職」であったからだろうと思われます。

第44代の塚原二四三は、終戦直前に大将になった人で、なんというか
本人には気の毒なのですが、「大将になりたい」ということしか
(あんな戦況の最中)眼中になかった、という風に書かれています。

すでに同期の出世頭だった沢本が19年3月に大将に昇進し、
南雲も同年7月にサイパン島での戦死して大将に昇進したこともあり、
実直な塚原も内心は大将昇進を望み始めていた。
しかし、当時の海軍次官・井上成美中将は、井上本人も含めて
戦時中の大将昇進を凍結する「大将不要論」を掲げていた。
時に怒りも露わに井上を罵り、時に溜息混じりに嘆きつつ、
塚原は大将への憧れを周囲に吐露していた。
昭和20年(1945年)5月1日、昇進を阻む最大の障害だった井上が
海軍次官を降りたことによって、5月15日に井上と同時に大将に昇進。
「最後の海軍大将」の枕詞がつく井上と同時に昇進したのだから、
塚原もまた紛れもなく「最後の海軍大将」である。(wiki)

井上成美のような意見はどちらかというと少数で、大抵の軍人は
中将まで行ったらできれば大将で軍人人生を終えたい、と思うのが
普通というか、人間ってそういうものだと思うのですが、
どうしてこの人だけがここまで非難めいて言われるのか、
どなたかその理由をご存知ないでしょうか。




さて、そんな代々の横須賀鎮守府司令長官たちが毎年この季節に見た桜。
おそらく戦前にはここで今のように「観桜会」が催されたに違いありません。



庭の広さは13,000㎡。
桜を始め、百日紅、紅葉などの古木が残されています。
今咲き誇る桜は、この100年間、毎年同じ時期に花を咲かせてきました。



この長官邸のその時その時の居住者が、同じ桜の薄紅色に
それぞれどのような思いを込めながら見入ったのか・・。
野村吉三郎は、米内光政は、及川古志郎は、そして塚原二三四は・・(´・ω・`)

そんなことをつい考えてしまう場所です。




今年の一般公開の期間、この地方はずっと花曇りでしたが、
晴れた空と陽の光の下で見る桜とは又違った風情が楽しめました。



染井吉野だけではなく、濃い紅色を持つ種類の桜木も咲き誇っていました。



というわけで、庁舎をあとにして出てきました。
タクシーの運転手さんから一応電話番号をいただいていましたが、
町並みを楽しみながら歩いて行くことにしました。

この画面の、異様に高い丘の部分はなんでしょうね。
木が残っているので、かつて山の斜面が削られた跡かもしれません。



そしてこれ。
塀の向こうに、明らかに昔からあるらしい建造物が・・。
昔は防空壕だったとか?



タクシーの運転手さんは、ここに行くには「旧裁判所跡」といってもいい、
と教えてくれましたが、その跡のようです。
そんなに老朽化した建物ではないような気がしますが。

簡易裁判所は平成24年に新港町に移転したばかりだそうです。



帰り道発見した古い魚屋さんの看板。
もう営業は行っていないようですが、古くからここにあったのでしょう。



さらにこの近くには、現在も営業中(多分)の八百屋さん。
長官庁舎があったせいでこのあたりは空襲を受けなかったため、
このような建物が戦災で失われることなく残ったんですね。



通りがかりの男性が(多分一般公開に来た人たち)大正か昭和初期のものだろう、
と話し合っていました。
看板の文字が右から書かれているのでその通りだと思われます。

さて、わたしはこのあと、商店街を眺めながら横須賀中央駅付近に帰ってきました。



「みかさ」というショッピングアーケードに横須賀土産の店があるので
入ってみたら、3階はなんと展示室。
写真を撮るのを忘れましたが()旧海軍の制服や、なぜかこのような
意味ありげな(これなんだろう)コーナーがあり、



地元の模型クラブの作品が展示されていました。
ちなみにこれは昭和19年に行われた松号輸送作戦を再現したもの。

松輸送はこの時期にしては奇跡的というくらい損害がなく成功した作戦で、
米潜水艦からの攻撃を受けた艦があってもそれらが不発だったり、
あるいは発射した魚雷が円を描いて戻ってきて自分に当たる(ガトー級タリビー
などという信じられない日本側の幸運が相次いだことでも有名です。



階段の踊り場には、原画が飾られていました。

「史実ではたった10日で沈んだ幻の鑑」

・・・ったら「あれ」しかありませんよね?

横須賀で起工し、艤装を完成させるために回航中
米潜水艦に攻撃され沈没した・・・・

「あれ」がなぜ沖縄決戦に???

どなたかこの作品の詳細をご存知の方おられますか。



台詞の部分に字が貼り付けられているので、原画だと思うのですが、
どんなに眺めてもペンや塗ったあとが見えませんでした。

それにしてもプロというのは凄い絵を描くものだと改めて驚愕しました。



このお店で購入したお土産・・・といっても全部食べるものですが・・。
写真を撮るのを忘れましたが、これ以外にわたし自身のために錨を模った
ピンバッジを購入しました。

「肉じゃがカレー」「江田島海軍カレー」など、海軍カレーの発展形?
というコンセプトと思われる新商品が出ていました。

このなかで食べるのが一番楽しみなのが「陸軍さんのライスカレー」。
なんで横須賀で陸軍さんなんだよー。



さて、級横須賀鎮守府司令長官庁舎の庭にある見晴台からは、
こんな光景が臨めます。
向こうに見えているのは観音崎。

ここの主が海軍軍人であったころ、まだここには東京湾を防衛するための
砲台が装備されてはいたものの、ほとんど何もない土地でしたが、戦後、
ここに指揮官育成のための教育機関たる防衛大学校ができることになります。


かつての司令長官たちはこの季節、必ず一度はここに立って同じ景色を眺めたでしょう。

同じこの場所で103回目に咲いた鎮守府の桜。

激しい変遷を伴って泡沫のように過ぎた時間が信じられないくらい、
それはまるで奇跡の如く昔と変わらず鮮やかに、そこにありました。


 


横須賀鎮守府庁舎一般公開〜桜花と旭日旗

2016-04-04 | 海軍

桜の花が満開の庁舎と、当時は「軍艦旗」と称したこの旗が掲げられている光景は。
おそらく百年前からほとんど変わらぬ眺めなのに違いありません。

桜の季節とともにこの庁舎を一般公開なんて、粋なことをするねえ海自さん、
とおもわず呟いてしまいそうです。
雷蔵さんのご報告によると、この少し前に観桜会が行われたようですね。
わたしがいった時にはほぼ満開でしたが、観桜会の時は8分咲きくらいだったでしょうか。

現在、この田戸台分庁舎は横須賀地方総監部によって管理されており、
自衛隊で賓客を招待しての会合やこの観桜会、一般公開以外にも、
申し込みによってコンサートなどが行えるスペースとして利用できます。

つまり自衛隊関係者以外にもそんなに敷居の高い設備ではないということですね。




さて、この写真を見ていただければ、この建築物の作りが

「洋風と和風のフュージョン」であるというのがよくわかるかと思います。
応接室などパブリックスペースは海軍の施設らしく完璧に洋風、しかし
長官の寝泊まりにはやはり和室で行うことを目的にした作りで、
呉の旧海軍長官庁舎と全く同じです。

同じ建築家(桜井小太郎)が造っているので当たり前かもしれませんが。
 


このとき、サンルームを開け放っていたため出入り口は二箇所ありましたが、
こちらが正規の玄関となります。

 
みたところ、昔のままのエクステリアは全く残されていません。
腰板というか、土台部分は洗浄したようですが。



建造されてから100年の節目である2013年に取り付けられたプレート。
全面改装は平成5年といいますから、もう22年も前に行われています。



この時の大改装で、外装はタイル張りになり、
管理人食堂とそれに続く和室が全部配膳室になりました。


今立っているのは、この図で言うと図左側の矢印の部分です。
正面に玄関ホールがあり、パブリックスペースは
そこを中心として配されています。



玄関ホールに立って左側を眺めた状態だと思われます。
この写真にも写っている左の「記念館」に行ってみますと、



まるで書斎のようなスペースとなります。
一般公開で土足の人たちが上がってくるため、床には保護シートが貼られています。



暖炉が右に見えているので、これが昔のこの部屋だと思われます。
イギリス風に壁には壁紙が貼られているのがわかります。
小さな椅子がアトランダムに置かれて、談話室のようにも見えますね。


これがおそらく昔のままの焚き口を残した暖炉。
鏡に映った写真を撮っている人()の後ろにあるのは、
建築家の桜井小太郎氏の胸像ではないかと思われます。
(写真を撮り忘れたのですが、瓜生外吉中将の可能性もあり)

この部分は昔装飾だったのですが、米軍進駐時代に鏡に変えられたそうです。



ダイニングルームに行ってみましょう。
一般公開に際しては、ダイニングルーム横の「サンルーム」を開け放ち、
そこから出入りできるようになっているので、最初にここから見学する人もいます。
こうしてみるとかなりモダンな形の椅子が導入されているようですね。



同じ部屋を、上の画面の左手から見るとこうなります。
右側の窓からの逆行が強くて分かりにくい写真ですが、
右側に、現在もそのまま残されているステンドグラスが写っています。

左の、今は東郷元帥の額がかかっているところになんと鹿の首があります。
この鹿の首を暖炉の上に飾る(昔は暖炉だったと思われる)というセンスは、
建築家がイギリスで勉強してきたことと関係があると思います。

我が家は友人であるアメリカ在住のイギリス人カップルが結婚式をした時に
築1000年という古城でのパーティに呼ばれたことがあるのですが、
その暗くて窓のないお城の壁には、これでもかと鹿の首が飾ってありました。
暖炉は床に掘られた掘られたものも(掘りごたつならぬ堀暖炉)あったと記憶します。



続いて、パンフの間取り図で言うところの「リビングルーム」へと。
旭日旗がたくさんまとめて置いてありますが、観桜会のときに使われたからでしょうか。
この暖炉の部分は昔どうだったかというと、



これですよ。なんでこんなに変えてしまうかな。
ちなみに暖炉の煙突は閉じてしまっているらしく、
マキは電気式ストーブのの偽木となっていました。
まあ実際に暖炉として使っているだけましか・・・・。 




ここでもう一度外からの写真。
この、外に張り出した多角形の部分は、「ベイ・ウィンドウ」といいます。
壁より外に突き出して、一階とその上の階が同じ形をしている形式のことですが、
その内側がどうなっているかというと、



こうです。
四面の窓ガラスのうち右側の一面だけが室内(サンルーム)に
向いていて、ほぼ半円のような印象になっています。
この邸宅の中でも最も美しいコーナーであると思います。
観桜会でビュッフェの食べ物が置かれたあとなのか、楕円形のテーブルに
ビニールのクロスがかけられているのが、激しく興を削いでおります(笑)

ここがダイニングルーム全体に光を取り込んでかなり明るくなります。
上のダイニングルームの写真で逆光となっているのがこの部分です。



さて、ここまでが洋風建築の部分。
これらの後ろ側に廊下があり、和風建築の建物に接続しています。
その廊下の窓から坪庭のようなのが見えているのですが、なにやら謎のオブジェのようなものが。
昔は本当に坪庭のようになっていて小さな池でもあったのかなあという気がします。



廊下を渡っていくと、二階に続く階段がありましたが、
そこから先は非公開で上がることはできませんでした。
レンズに埃がついていてすみません。



二階の「ベイ・ウィンドウ」の部分は、なんと倉庫だったようです。
ちゃんとした部屋ではなく、屋根裏なんですね。



横須賀鎮守府長官はベッドで寝ていたのか?と思ったのですが、

よく見るとこの写真は「米軍進駐時のもの」と説明があります。

この建物は大正の関東大震災の時にもビクともしなかったわけですが、
空襲などの戦災にも遭いませんでした。
というのは、米軍はここにそのような建物があることを知っており、
西欧建築はできるだけ破壊しないというポリシーに沿ったこともあり、
また戦争が終わった暁には進駐軍の司令部の居場所が必要となるので、
先を見越して絶対に爆弾を落とさない地域が決められていたからです。

そして案の定、この鎮守府長官庁舎には、昭和21年の4月から
在日米海軍の司令官が9人、昭和37年の引き揚げまでの間住みました。

なぜ無傷だった庁舎建物なのに住むのに半年も間があったかというと、
その間、米軍はアメリカ人が住むための大幅な改装を施したからです。
彼らはすべての部分に土足で上がるため、畳の部分に絨毯を敷き詰め、
和室にはこのようにベッドを置きました。

それだけでなく、たしか呉の長官庁舎も同じようにされたと記憶しますが、
外壁と内壁をすべて白く塗り替えてしまったといいます。

呉鎮守府の内壁には、金唐紙という特殊な壁紙が使われていたのですが、
彼らは芸術的
価値など全く認めませんでしたから、真っ白に塗り潰しました。

ちなみに、呉鎮守府に駐在したオーストラリア軍の司令官たちは、
建物を改装しまくり、
(組み木の床にリノリウムを被せたり欄間を外したり)
和室であろうが畳であろうがどこでも土足で歩いただけでなく、帰国時には
一切合切
家具を持って帰った、という香ばしいエピソードまでありました。


もともと鎮守府庁舎は、司令長官の執務、軍政会議、迎賓施設でもあったのですが、

米海軍の居住者はここをすべてプライヴェートな公邸として住み、
南側を接客部分にし、北側(中庭より向こう)を日常部分に使っていたそうです。



一階の和室部分は、よく温泉旅館にあるのと全く同じような作りです。
もし音楽イベントなどでここを借りる時には、ここが出演者の控え室として使えるそうです。


旧横須賀鎮守府長官庁舎、現田戸台分庁舎の一般公開は、この火曜まで行われています。
もしお時間が許せば、近隣の方は桜を見に気軽に出かけられてはいかがでしょうか。


続く。

 


横浜鎮守府長官官舎一般公開〜瓜生外吉と繁子夫妻

2016-04-03 | 海軍

第二術科学校の見学で英語の教官だった芥川龍之介のことを
取り上げた時に、「蜜柑の碑」のことをさんぽさんに教えていただき、
その時に貼っていただいた「横須賀シティガイド」をみて、
横須賀鎮守府の長官官舎が一般公開されることを知りました。

HPを調べてみると、桜の頃の週末から週明けにかけて公開、とあります。
うちの桜(といっても共同住宅の敷地内にあるという意味ですが、
寝室の真ん前で咲き誇るのでもうほとんど独占状態)が8分咲きになり、
お花見をする少し気の早い人も近所ではいそうだなというある日、
この一般公開を御目当てに横須賀に行ってみることにしました。



横須賀中央駅から歩けない距離ではなかったのですが(帰りは歩いた)
何しろ行ったことがないところなので駅周辺に車を止め、タクシーに乗りました。
ここは「田戸台」というのですが、なんとなく勘違いしていて、運転手さんに

「たどころだいの横浜鎮守府庁舎お願いします」

と言ったところ、

「たどだいですよね?たどころだいじゃなくて。
たどころってのはないんですよ。たどだいのことですよね? (略)」

とご丁寧に何回も間違いを認めさせられました。(−_−#)


車は門の前まで行ってもらえます。
門のところには、公開の間じゅうずっと入り口で警衛をしなくてはいけないらしい
海曹が、時折スマホをチェックしながらユルい感じで立っていました。
(別にこんなイベントのときは構わないと思いますよ?)
ここでは折しも桜がほぼ満開で、見学にお花見も兼ねられます。



内部に昔の写真があったので、すかさず比べてみましょう。
あれ?これ、真ん中の石の柱なくなってませんかね?
昔は人が通る門と車が来たら開ける門に分かれていたようですが。

あとは門柱のてっぺんや根元が当時は新しいせいか白っぽいことや、
地面が全く舗装されておらず、砂利が敷き詰められているのが違う点です。
 


入った途端、妙に綺麗な外装でまるでスキー場のロッジみたいなので

「オリジナルを壊して造り替えてしまいおってからに・・・」

と思ってしまったわけですが、実は昔の写真を見ても
ほぼ同じ、つまり駆体は変わっていないらしいことがわかりました。




はいその証拠。ほぼ同じ角度から撮った写真です。
さすがにレンガや屋根、窓枠は変わっているようですが。
左の方に見えている和風建築には、当時は管理人が住んでいました。


しかし、建物周りの木を地面の舗装と共にほとんど失くしたのはいただけないわ。



この鎮守府長官庁舎、1913(大正2)年に建造されました。
企画設計に当たった桜井小太郎
もう少し先に、舞鶴訪問のときに知ったジョサイア・コンドルについて取り上げますが、
ロンドンで留学後、そのコンドル設計事務所で実務を学んだ人です。

海軍の技師として、呉鎮守府長官宿舎、大湊要港部水源地堰堤などを手がけ、
また三菱銀行や丸ノ内ビルヂングなどの設計を行った建築界の偉人ともいうべきで、
現存する建築のなかでは静嘉堂文庫(せいかどうぶんこ)、
旧横浜正金銀行神戸支店だった神戸市立博物館(国の登録有形文化財)があります。


この建築計画が持ち上がったとき、横須賀鎮守府司令長官だったのは、
第12代の瓜生外吉海軍中将でした。



左上がそうです。
で、その後この長官庁舎の主となった歴代長官の写真が続くわけです。
第3代に伊地知季珍という名前がありますが、「三笠」の艦長だった方ではありません。
第7代に、雅子妃殿下のご先祖だった山屋他人大将、そして第8代には
広瀬武夫と同期で恩賜の短剣だった財部彪大将がいますね。
(山本権兵衛の娘を嫁にもらって出世し、”財部親王”などと言われた人です)

で、もう少しこの写真を慎重に見ていただくとわかりますが、ここの最初の住人は、
東伏見宮 依仁親王(ひがしふしみのみや よりひとしんのう)なのです。

東伏見宮中将は第16代鎮守府長官。

つまり、ここに初代住人としてお住まいになった時には、宮様はまだ
鎮守府長官ではあらせられなかった
ということになるのです。

ここに、皇族の依仁親王を差し置いて他の長官を先んじるわけにはいかない、
と海軍が配慮した様子がみえます。
それが証拠に、依仁親王は3年後、間に3名の鎮守府長官を挟んで、
実際に横須賀鎮守府長官を拝命されてから、もう一度第5代の主となっています。


そしてもう一つ特筆すべきは、この庁舎が建設される時に横須賀鎮守府司令官で
この企画建築に深く関わった瓜生中将はここに住んでいないということです。

施工が終了した大正13年には瓜生中将はもう司令官ではなかったからですが、
それでは宮様を立てるために誰が「割を喰ったった」かというと、
第2代居住者の山田彦八中将(大正2〜大正3在住)でした。

鎮守府長官の任期は概ね1年というのが相場で、瓜生中将が3年と長かったのは
この鎮守府長官庁舎の設計の責任者となったせいだったからと思われます。
しかしさすがに4年もやらせるわけにいかないので、建築が終了した年には
長官の役職は第13代となる山田中将に移っていました。
そして、第2代居住者、山田中将の司令在任期間だけが2年間と長くなっています。

これは、おそらくですが、せっかく完成した長官庁舎に住まないまま
長官職を失うのはあまりに山田中将に気の毒というか中将の面子の問題もあるので、

「宮様を一番先に住まわせないといけないからそうするけど、
君の任期を2年にするから、
在任期間の後半ここに住んでね」

ということで手打ちとなったのではないか、と推察されます。
こういう人事をみて思うのですが、海軍でトップをすぐに交代させたのは
主にできるだけいろんな軍人にその地位を与えなくてはいけないから、
というのがメインの理由だったのではないでしょうか。


ところで、このときに現地でもらってきたパンフレットには、
このような一文があります。

「田戸台分庁舎は瓜生ご夫妻と桜井小太郎氏三人の博識と
創造力による合作であります」

瓜生外吉が庁舎建造のプラニングに参画した理由は、
(というか、プロデュースも瓜生だったと考えられる)
瓜生が加賀藩の藩士であり、海軍兵学寮入学後、抜擢されて
アメリカの海軍兵学校、アナポリスを卒業しており、6年の滞米経験から
海軍きってのアメリカ通であったことからであろうと思われます。

そして、わざわざ「ご夫妻」とあるのは、彼の妻があの津田梅子
大山捨松らとともに新政府の第一回海外女子留学生として渡米し、
10年間の海外在住経験を持つ瓜生繁子(旧姓永井繁子)であり、

長官庁舎建設にあたってはその経験からアドバイスを行ったからです。

wiki

留学時の繁子は左端。右端が大山捨松で津田梅子は彼女と一緒にいる少女です。
繁子はアメリカの名門大学、ヴァッサー大学の音楽学部に進みました。
彼女が専攻したのはピアノだったようです。

10歳からピアノを始めるというのはこの楽器を習熟するのには「遅すぎる」のですが、
それでも他にピアノの奏法を知っている日本人は当時いなかったため、帰国後、
彼女は音楽取調掛(後の東京音楽学校)の教授として破格の待遇で迎えられています。

ここで瓜生中将と繁子夫妻二人の経歴を比べてみると、
瓜生が1875年から1881年の6年間、繁子が1871年から1881年の10年間、

それぞれの留学で滞米しており、二人の結婚は帰国後の1882年となっています。

これは、二人がアメリカで知り合ったということですよね?
瓜生は帝国海軍少尉、繁子は芳紀芳しい十代の少女として。

つまり、彼らは当時珍しい恋愛結婚で結ばれたらしいということなのです。

異国の地で知り合い、心惹かれた相手がお互いに相応しい身分であったこと
(繁子の父は幕府の軍医)は若い二人にとって大変幸運だったと言えましょう。



繁子と津田塾の創設者となった津田梅子、鹿鳴館の花と呼ばれた大山捨吉

(大山巌の妻)らが再会したときの写真が残されています。



左から津田梅子、アリス・ベーコン(津田塾の教師・教育家)、
繁子、そして大山捨松。
津田梅子は生涯独身を貫きましたが、女子留学生のうち有名になった
三人(後二人は一人が若死、一人が行方不明)のうち二人が
青年士官と、いずれも熱烈な恋愛で結ばれているというのは興味深いですね。

さらに余談ですが、瓜生中将と繁子の間に生まれた息子のうち一人、武雄は
海軍兵学校33期に進み、卒業後35期卒業生の遠洋航海のため
「松島」に乗り組みましたが、ここでもお話ししたことのある
1908(明治41)年、遠洋航海先での「松島」の爆沈事故により死亡しています。

調べたところ、瓜生武雄の卒業時の成績は6位。
このときの首席は豊田貞次郎でした。


さて、横須賀鎮守庁舎から離れて余談ばかりしてしまいましたが、
元に戻ります。







これも同じ角度から見た昔と今の庁舎。
手前の紅葉?は当時からの古木のようですね。

呉の鎮守府長官庁舎と同じく、この庁舎も洋館と和風館の接続住宅で、
洋風館の部分は木造平屋建て。
屋根は亜鉛葺きの切妻(2つの傾斜面が本を伏せたような山形の形状)となっています。



屋根の軒部分には、「ハーフ・ティンバー」様式の特徴である

「柱をそのまま見せて、その間の壁を漆喰で埋める」

という施工方式で仕上げられた部分を見ることができます。 
わたしが一目見て「大幅に作り変えおって」と激怒する(嘘)原因になった
レンガの妙にツルツルした質感は、改装に当たって外壁を
年月に耐えやすい煉瓦タイルにしてしまったからですが、
もとは下見板張り (建物の外壁に長い板材を横に用いて、板の下端が
その下の板の上端に少し重なるように張る)だったそうです。

まあ、それなら仕方なかったかもですね。板じゃ風化に耐えないから。
ただ、最初の写真がどうも煉瓦に見えるような気がするのはわたしだけ?



さあ、それではいよいよ中に入ってみましょう。


続く。
 


海軍の名残り~軍港の街舞鶴を訪ねて

2016-03-22 | 海軍

もう去年のことになりますが、シルバーウィークの舞鶴訪問記、続きです。

港巡りの船を降りた後、わたしたちは赤れんが街に向かいました。
横浜に「赤れんが倉庫」というのがあって、どうも「倉庫」と呼んでしまいますが、
こちらでは「赤れんがパーク」と称するようです。
ホームページにが「赤パー」と大きく書いており、どうもこう呼んで欲しそうですが、
海軍海自用語以外はなんでも略せばいいってもんじゃねえ、と考えるわたしとしては
断固「赤パー」の普及には与しないと断言するものです。

ここには海軍カレーの店もあるということで、(というかここしか食べるところはない)
お昼ご飯に向かいました。



赤煉瓦の建物は当時のままに残されており、
このあたりのように中を改造して現在レストランや博物館になっている棟と、
当時のまま全く手付かずの部分があります。

今見えている建物は左から「2号館」「3号館」。

 

奥に見えるのが5号館となります。
それでは1号館はどこかというと、「赤れんが博物館」のことのようです。

2号館は舞鶴市政記念館、3号は「まいづる智慧蔵」、4号は「赤れんが工房」、
そして5号はイベントホールとなっており、この日は中から音楽が聞こえていました。



ここは2号館「智慧蔵」の中。
内部で当時のまま残されているのはれんがの部分だけ。
屋根は内側から補強工事がなされているようです。
窓のステンドグラスも改装時に施工したものでしょうか。

ここにはインフォメーションと、向かいにレストランがあります。
連休のせいで激混みだったので、30分は待つと言われたのですが、
ここしかないので名前を書いて待つことにしました。



2階に展示場があるのに気付きました。
というか、こんな大きな垂れ幕があったら誰でも気付きますがな。

「日本のいちばん長い日」のロケが行われたということで、何か展示があるようです。
これは行くしかない。
が、疲れているのか残りの二人は「行ってらっしゃーい」と腰を上げず。

わたし一人で二階に上がりました。



鈴木貫太郎を演じる山崎努さんが着たタキシード、
迫水久常の堤真一さんが着ていた国民服が展示されていました。



ロケ地の紹介です。
迫水が御前会議のために花押署名を求めるシーン。

これは、この赤れんがパークの一角で撮られました。
海軍仮庁舎という設定です。



ここに来る直前に案内してもらって見たばかりの東郷邸の書斎です。
東郷中将が座って庭を眺めていたという窓際の机に座り、トランプを並べる鈴木首相。

この庭についても先日お話ししましたが、迫水と鈴木がこの庭で
陸軍大臣指名を巡って話し合うシーンもありました。

実際の鈴木首相の邸宅がこうだったと言われても、
きっとそうだっただろうなと思える東郷邸です。

ところで余談ですが、先日横須賀音楽隊のコンサートにご一緒した
兵学校卒の建築家、Sさんは、戦後、この迫水氏に直々の推薦を受けて
ロータリーだかライオンズだか、そういうクラブに入ったということでした。

「お知り合いだったんですか」

と聞くと、全く面識がなかったのだが、迫水氏がクラブを立ち上げるのに
発起人になって人集めもやっており、同じ東大卒だったからではないかということでした。
このような終戦直前から終戦後にかけて歴史の現場に立っていた人物の名前を
意外なところできいて、感慨深かったわたしです。



鈴木首相らが御文庫(戦争中皇居内に作られた防空壕)の地下通路を通り、
最高戦争指導者会議に向かうシーン。


舞鶴の北吸浄水場第一配水池跡で撮影されました。
これも海軍に縁があって、明治34年、舞鶴鎮守府の開庁に向けて、
軍港内の諸施設と艦艇用の飲料水を確保するために作ったものです。

ここに水が貯えられていたってことなんでしょうか。
今回見逃しましたが、是非一度実際に見てみたいです。




出演者のサイン色紙・・・・なんですが、サインそのものはともかく、
「赤れんがパーク様へ」の字が・・・・・。
一番ましなのが堤真一かな。(小声)

そして、山崎努は左手で書いたのか?



赤れんが倉庫群でこれまで行われた映画のロケ。

「夜汽車」「エイジアンブルー」「バルトの楽園」「男たちの大和」「坂の上の雲」「寒椿」・・。





郷土出身の偉大なアスリートの遺品コーナー。
大江季雄はベルリンオリンピックの棒高跳びで三位になった選手です。



ブロンズ像。



肖像画。
舞鶴の大病院の次男で、長兄が医院を継いでおり、本人は
慶応義塾大学に進んでそこで棒高跳びを始めました。 

彼に棒高跳びを指導したのが、早稲田出身の西田修平。 



有名な「友情のメダル」で、二位の西田と三位の大江が半分ずつメダルを割り、
このように(これはレプリカ)継ぎ合わせたものを作りました。

わたしは小さい時、この話を読んで、

「なんで二位三位と決まったのにそんなことするの?
三位の人はともかく、二位の人は損じゃない」

と今でもきっとそう思うであろうことを思ったわけですが、真実はこうです。

1位が決まったあと、残った三人のうち一人がバーを落とし、
西田・大江が決着をつけないまま競技は終わりました。

運営は西田が2位であるとしたのですが、西田がこれを不服とし、
表彰式で大江を2位の台に上げ自らは3位の台に立っています。


ここで、二人が争ったのが「自分が上」ではなく「相手が上」
であったというのが、高潔で無私な当時の日本人らしいと思わされます。

帰国後に銀メダルを持ち帰った大江の兄が間違いに気付き、
西田の元に銀メダルを持って行ったのだそうですが、悩んだ西田が
知人の経営する宝石店で2つを切ってつなぎ合わせ、
「友情のメダル」が誕生したのです。



敬礼をする1位のメドウス選手(アメリカ)。
大江選手も西田選手も背が高く垢抜けしてイケメンです。

オリンピックが終わってから、4年後、大江選手は陸軍に召集され
フィリピン・ルソンでの戦闘で戦死しました。

メダルを西田のところに持って行ったのは大江選手の兄であったということですが、
もしかしたらこのとき大江選手はもう戦死していたのでしょうか。



さて、舞鶴は軍港として発展した街です。



軍港ゆえ、臨港鉄道も敷設されました。
写真上は駆逐艦「海風」(白露型)の進水式。

「海風」は舞鶴工廠で昭和16年(1936) 進水式を行いました。
スラバヤ海作戦、第二次ソロモン作戦など、南方で戦い、
1943年(昭和19)、潜水艦「ガーフィッシュ」の攻撃を受けて戦没しました。

 

左上の「鎮守府復活」というのは、一時舞鶴は「鎮守府」ではなく「要港部」とされ、
最高司令長官も「要港部司令」となっていたのですが、それが昭和14年に
もう一度鎮守府に格上げされたことを言っているのでしょうか。

しかし、写真を見ると、掛け替えている看板は「舞鶴工廠」。
これは、鎮守府復活のときではなく、その3年前、海軍工作部が
「舞鶴工廠」に格上げされたときのものではないかと思われます。



戦後、舞鶴が引き揚げ港として稼働していたときの写真。
引き揚げ記念館については、また記念館を訪れ改めてお話しする日もありましょう。



舞鶴港の軍艦の進水式記念に製作されたはがき。
右から時計回りに、駆逐艦「敷浪」、「大潮」、「初雪」。
「初雪」の進水式パンフは呉で見たことあるぞ。



どちらも駆逐艦「霞」進水記念。
昭和12年の進水なのですが、右側の風景になにやら不穏な戦火が・・。



駆逐艦「島風」進水記念。

これらのハガキはいずれも「艦隊これくしょん~艦これ~」の
特別展示が行われたときに収集されてきたものだそうで。




こちら、海軍工廠の女工さんたち。
割烹着で仕事していたんですね。
鎮守府時代、「海軍工廠」だった大正10年(1922)の写真です。



海軍工廠工員の徽章。
右の鳥は今でも舞鶴の市章に使われている鶴です。



こちらも海軍工廠の徽章。
この説明で知ったのですが、英語では「海軍工廠」をナーバル・シップヤードというようです。

右から海軍書記用、筆生(筆者を手がける人)用、徴用工員用。



日立造船が寄贈した海軍工廠時代の弁当箱。

軍港の街、舞鶴は、未だに街のそこここに海軍の街であった名残を残しています。
次に訪れた時にはそれらを求めて自分の足で散策してみたいものです。


 


海軍機関将兵の履歴~第二術科学校 海軍機関術資料室

2016-03-13 | 海軍

第2術科学校の海軍機関術資料室、残りを一挙に参ります。



案内の自衛官が「ここにあるのは本物です」といっていた東郷元帥の書。
「忍」のあと、戌申夏、とありますが、これは1908年の夏に書かれたということです。
1908年というと、日露戦争の4年後。
日本海大戦を勝利に導いた聖将として、日本中の崇敬をあつめた東郷元帥。
毎日所望されておそらく書を書きまくっていた?頃なので、忍の一字(多分)



こちら定番、「常在戦場」でおなじみの山本五十六の書でございます。
前回「軍人のための信仰」について調べていた時に、

「山本は合理主義者ゆえの無神論者だった。
そのため天命がマイナスに働くようになり、戦運も無かったのだと思う」

と同じ海軍軍人が言っていたという記事を目にしました。

この軍人に言わせると、東郷平八郎にも秋山真之にも信仰があった、だから
戦運に恵まれたが、山本はその信仰心のなさゆえ、ツキに見放されたということらしいです。

板谷隆一海将は海軍兵学校60期のクラスヘッドでした。
真珠湾攻撃の時の「赤城」制空隊長、板谷茂は57期の首席で、彼の兄です。

大和特攻のときには「大和」と運命を共にした「矢矧」乗組でしたが、
命永らえ、戦後海上警備隊が創設されたときに入隊し、2年後に1佐になります。
終戦のときに板谷は大尉でした。
警備隊は旧軍の階級をそのまま受け継いで官階級を充てていたということです。

米国の海軍大学留学後、幹部学校副校長、護衛艦隊司令官、横須賀地方総監と、
兵学校のクラスヘッドは順調に昇進し、1966年(昭和44年)、
第10代海上幕僚長、3年後には統合幕僚議長(今の統合幕僚長)になっています。

そんな板谷の書は「温故知新」。
海軍軍人出身の戦後自衛隊の統幕長の言葉として、ふさわしいものだと思います。



永野修身書、「庶昭忠誠」
李白の詩にある言葉で「庶しょうは忠誠を昭らかにす」



永野の書はもう一つあって、「憑高跳遠」
高きによりて遠くをながむ、つまり高いところから全体を見ること。

永野修身というと、「軍令部総長」「東京裁判」と連想します。
開戦時軍令部総長だった永野は、戦争不可避という状況下で、苦心しながら作戦指導に当たり、
終戦後に戦犯として訴追されたときにも、自らにとって有利になるような弁明はせず、
真珠湾作戦の責任の一切は自らにあるとし、また、記者の質問に対し

「真珠湾は軍事的見地からみれば大成功だった」

と答えるなど最後まで帝国海軍軍人の矜持をもって振る舞いました。

この裁判での姿勢を見たジェームズ・リチャードソン米海軍大将は、
永野を真の武人であると賞賛していますが、
このリチャードソンという人は、真珠湾を海軍艦隊の母港にせよという命令に対し、
防御力に不安があることと、日本を刺激することを理由に反対した人なんですね。

ルーズベルトはこの決定を「日本を挑発し襲わせるための意図を持って」
行ったわけですから、聞く耳持たず当然リチャードソンの反論は却下され、
なんとそれだけでなく、太平洋艦隊司令長官と合衆国艦隊司令長官を解任、
中将から少将に降格!されてしまうのでした。

うーん、ルーズベルトこの。

後任のハズバンド・キンメルはリチャードソンの兵学校の3期も下。
(つまりリチャードソンを貶める意味合いでなされた後任人事です)
キンメルは真珠湾攻撃で被害を甚大にした指揮官として責任を取らされ、
いまだに遺族の名誉回復の嘆願も届け入れられずに今日に至ります。

未だにアメリカ人の間では「偉大な大統領」のベストテンくらいには
ルーズベールトが入っていたりするほど評価されているのですが、
はっきりいってあのときこの民主党大統領が戦争したかったから戦争になった、
というふうにはアメリカ人は考えないってことなんでしょうかね?

まあ、そういうリチャードソン(最終階級は大将)ですから、真珠湾に関して
日本側に肩入れするようなセリフが出てもわたしはあまり驚きません。


永野は、東京裁判継続中の1月2日に肺炎にかかり、病院に搬送される途中で死亡しました。
この裁判中、永野はあるアメリカ海軍の士官に、

「この後、日本とアメリカの友好が進展することを願っている」

と述べたそうですが、こんにちその願い、特に日米両海軍における友好は、
彼の予想したよりおそらくずっと良好な形で実現することになりました。



海軍兵学校で恩賜の短剣なんて、どんなスーパー秀才なんだという気がしますが、
さらに海軍機関学校の恩賜の短剣、つまり首席って、いったい・・、
とついしみじみと考えてしまいますね。

軍需省の航空兵器局の局長にこの久保田芳雄の名前がありましたが、
同じ時期の総務局長には大西滝治郎がなっています。

「海軍反省会」にはしばしば名前が出される久保田氏、戦後はやはり
公職追放に遭われたそうですが、技術士官は少なくとも戦犯には無縁でした。
進駐軍が訪ねてきたのですわ戦犯指名か、と思ったところ、若き日に留学していた
MITの同級生が訪ねてきただけだった、という話を孫にあたる方が書いています。




この階級章は全て本物。レプリカなどではありません。
本物で作られた階級章の見本は、おそらくこれが唯一のものだということです。
(誰かが実際に使っていたものを使って作ったのかどうかまでは聞きそびれました)

だいぶ色あせていますが、機関科と技術科の階級章は紫です。
主計科白、軍医衛生は赤、法務科は緑。

法務中将なんていたんですね。
そういえば、226事件についての映画の話の時に匂坂春平という関東軍法務部長が
首謀者全員死刑という判決を戦後悔やんでいた、ということを書いたことがありますが、
この匂坂裁判長が「陸軍法務中将」でした。

海軍の法務中将には、偶然ここでお話したことのある舞鶴の偉人、
伊藤 雋吉(いとう としよし)男爵がいます。

「水路科」は最高位が大佐だったようですね。



右は海軍機関学校第15期卒、氏家長明中将の奉職履歴。

履歴 氏家長明

このようなことが墨で書かれているわけですね。
氏家中将は海機を卒業して少尉候補生として「須磨」乗組となり、
これが海軍軍人として最初のキャリアとなりますが、左はその任命書です。

幾つかの軍艦に乗り組んだ後は艦政本部一本で、最終的に
佐世保工廠長、目黒の技研所長まで務めました。
終戦時にはすでに予備役に入っていたので、戦後の記録はありません。

なお、氏家の妻は千里ニュータウン開発を手がけ、関西大学を移転した
大阪の実業家山岡淳太郎の娘でした。
そのお相手と結婚に際し、氏家大尉はこのような許可証を残しています。




海軍士官が結婚するには、各方面の許可が必要な時代でした。
外国人とも出世する気がないなら結婚できるなんてとんでもない、
家柄がちゃんとしていなければ海軍大臣の許可が下りませんでしたし、たとえば
芸者さんなどと恋に落ちてしまった士官は、結婚できてもクラス名簿から外される、
などという目にあったといいます。

それを避けるために、しかるべき家に女性を養女として迎えさせ、そののち
嫁にするという手続きをふんでなんとか意思を貫く士官もいました。

これは先ほど名前の出たクラスヘッドの氏家長明が大正2年に結婚したときの許可証。
結婚したのはほとんどの士官がそうであったように大尉のときでした。
(大佐中佐少佐は老いぼれでかといって大尉にゃ嫁があり若い少尉さんには金がない、
という戯れ歌にもありましたね)

ほとんど紙が真っ赤っかになるくらいこれでもかとハンコが押してあります。
本人と海軍大臣のもの以外は参謀長、人事、副官、参謀、艦長、副長、主計長、
人事長、そして横須賀鎮守府司令官。

こういうのもきっと本人が紙を持ってあっちこっちハンコをもらって歩いたのでしょう。
わずらわしいといえばわずらわしいですが、その度に「いやおめでとう」などと
冷やかされたりして、それなりに嬉し恥ずかしなイベントだったのではないでしょうか。




こちらはある海軍機関兵曹の履歴書。
佐世保海兵団に練習兵として入団して以来ずっと佐世保鎮守府で勤務し、
終戦間際の6月に9号輸送艦に乗り組んでいます。

ご存知のようにこの頃、輸送艦に乗り組むというのは死を覚悟する戦況でした。
しかし9号輸送艦は竣工以来、幾多の作戦に従事し生き残った武運の強い艦で、
敵潜と戦闘を行いながらも各種輸送作戦を成功させ、戦後は復員輸送に従事しています。

この機関兵曹の履歴に「復員業務」とありますが、おそらく彼は9号輸送艦に
乗り込んだまま終戦を迎え、その後仕事を行ったものと思われます。

復員任務終了後、賠償艦として米軍に引き渡されたのですが、どういうわけか
米国に回航されることなく太平洋漁業に貸し出され、捕鯨船母船として生涯を終えました。

9号輸送艦に乗り組んだこの機関兵曹も、全戦歴を通じて大変運が強かったといえます。



こちらは海軍機関中尉の教育参考表。勤務評定みたいなものですか。
昭和17年7月から18年9月まで駆逐艦「荒潮」に乗り組んでいたようです。

ということは、18年3月の第81号輸送作戦、米軍通称「ビスマルク海戦」
に参加したということでもあります。
このときの「荒潮」は、戦争中の「生と死の分水嶺」をそのまま表すような
運命の分かれ道を経て生き残っています。
ダンビールの悲劇とも言われた反跳爆撃の餌食となり、「荒潮」は艦橋に直撃弾を受け、
指揮をとる士官がいなくなっただけでなく艦橋が無くなったため操舵不能となり、

そのまま最大戦速で給炭艦「野島(未実装)」へ激突、艦首も大破してしまいました。

駆逐艦隊指揮官木村昌福は撤退命令を出しますが、「朝潮」が現場に駆けつけ、
「荒潮」と「野島」の負傷者を移乗させることに成功しましたが、
「荒潮」乗員たちは「荒潮と共に戦って死ぬ」と言い張ってそのまま船に残りました。

そのとき敵機が来襲し、助けに来た「朝潮」が沈められてしまい、
移乗した多くの負傷兵は戦死するという皮肉な結果になります。 

その後、「荒潮」の乗員と「朝潮」の漂流者は、このダンビールの海で
なんなく(なんとなくじゃないよ)生き残った「雪風」に救助され帰国しています。

それにしても、「荒潮」の乗員が船に残ると言い張って移乗でもめていなければ、
もしかしたら敵機の来襲に遭わずに済んだという可能性
はないのかしら。

この中尉の評定は

「分隊士の職に対しては日常事務全般に対し常に諸法規に照らし処理し
完全ならしむることに努め、十分信頼するに足るに至れり」

に始まり、大変高い評価を受けているということが書かれています。

この中尉は機関科の中尉ですから、ビスマルク海戦で艦橋の兵科士官が全員戦死したあと
指揮を執るべき順位にいたはずですが、前述のように指揮をした士官はいなかったようです。

機関科士官では操舵はできなかったからということでしょうか。



この資料室のすごいところは、海軍機関学校時代の書籍が本棚に保管されていて、
見ることができるものもある、ということでした。

この棚のものはほとんど機関学校で実際に使用されていた教科書です。

ただし、このときの説明によると、ガラスケースに入らないものは劣化が激しく、
見ていただくことはできない、ということです。
これ、できるだけ早くなんとかしたほうがいいのでは・・(お節介)




海軍機関中将の礼服。
ご存知の通り、機関科の最高位は中将です。
岡崎貞吾中将が着用していたもので、遺族から寄付されました。

「昭和8年の観艦式」の項で、このとき予備役だった岡崎中将が、
奉供艦「高雄」に座乗したときの資料をいろいろと見ていただきましたが、
そのときにあった岡崎中将の写真に写っていたのが、これです。



ガラスケースの上に無造作に置いてあった

「井上成美大将 懇談録音(その1)」

まさか、と思って蓋を開けてみたら・・・・、



なんと!いまどき珍しいopen reel式の録音テープでした。
テープは残っていても再生する機械がないと見た。
ああでも聞いてみたい。井上大将の肉声。

と思ったらあった。このときではなく、兵学校入学式の訓示が。

井上成美 訓示http://youtu.be/yUF9Tmp_GM4


ギターを弾いて歌も歌っていたといいますが、なかなかハリのある美声です。

このテープ、こんなところに置いておかないで、デジタル式に落として
(あ、もうダビング済みですか?ならすみません)こちらは劣化しないように
ガラスケースに入れるとかしたほうがいいんじゃあ・・(お節介)



なぜか伊号第33潜水艦の殉職者の名簿(原本)がありました。
どうしてここにあったのかは説明されていませんでした。



戦時下の最新鋭潜水艦として昭和17年6月10日就役、同年9月、
トラック島泊地で工作艦に横付け修理中、連絡不十分のため、
後部のハッチを開いたまま沈下させ、航海長阿部大尉以下33名が殉職した。

引き上げして修理後の昭和19年6月13日訓練中に沈没。
原因は、給気筒頭部弁に丸太が挟まっていることに気づかず急速潜行したため。
104名の乗組員中、2名が救助されただけで、102名が死亡した。

同艦は沈没9年後、引き揚げられ解体前に調査が行われたが、その際
技術大佐3名が艦内で一酸化中毒により死亡するという悲劇が起こった。

一方、浮揚した潜水艦内部、浸水しなかった部分の遺体は損傷が全くなかった。
9年経っているのに腐敗せず、まるでつい最近死んだかのような状態であった。
原因は、艦内の酸素が全部吸い尽くされたため、腐敗菌が繁殖しなかったのと、
水深61mの深さで温度が上がらなかったためで、いわば無菌で冷蔵庫に
真空保存されているのと似たような状態になったのである。

この写真に付けられた説明の抜粋です。



終戦の勅書のコピー。
おいそれとコピーできるものではないので、コピーといえど展示してあります。



勅書の最後には各大臣の自筆署名が。



そして、一部しか写真に撮れませんでしたが、海軍機関学校卒の戦死者。

「摩耶」パラワン方面
「山城」スリガオ水道
「阿武隈」レイテ湾
「加賀」ミッドウェイ
「霞」キスカ湾
「秋風」マニラ西方

「大鳳」マリアナ海西方

先日ここに展示されていた観艦式の航行図を挙げましたが、
そのときに横浜沖で観艦式の列に並んだ軍艦が、聞き覚えのある戦没海面とともに
戦死した機関将校の名前のあとに書かれています。

仔細に眺めると、右から4番目の花咲茂市という士官の名前の下は

「昭19、6、13 伊三三潜 伊予灘」

となっており、戦死ではなく「公死」、殉職と記されています。



「三笠」の模型ですが、何やらすごく気合が入っている模様。
賞状が見えますが、これは、当時吉田茂が会長を務めていた「東郷会」と
「三笠保存会」が主催して行われた船の模型コンクールに出品されたもの。
努力賞を受けたのは、斎藤正善一等海尉(昭和36年当時)ということです。







というわけで、資料室の見学を終わりました。
廊下に出てきたら、お茶汲み室の暖簾が可愛かったので一枚。




資料室のあった建物の前からまたバスに乗り込み、第二術科学校を後にしました。
門に書かれているのは

「潜水医学実験隊」「第二術科学校」「艦船補給処」
「自衛隊横須賀病院教育部」「横須賀造修補給所」

伊33潜の名簿があったことは「潜水医学実験隊」に関係あるでしょうか。
「艦船補給処」というのをどうしても「ほきゅうどころ」と読んでしまう(笑)
お食事どころみたいでなんかほのぼのしますね。



というわけで、書き割りのような第二術科学校にバスの車窓から別れを告げました。
この見学は、防衛団体の顧問である元海将がお話を通してくれて実現したそうです。

空母「ロナルド・レーガン」、そして第2術科学校では
自衛隊の創設の歴史、そして旧海軍機関学校の資料を見た一日。
この後に行われた懇親会で、元海将が

「今日見たことをできるだけ周りの人に話して、伝えてください」

とおっしゃったので、そのお言葉通りブログで長々とお話してきました。
空母に代表される世界一の海軍の「今」と、帝国海軍、そして自衛隊の歴史、
新しきと古きを一挙に目の当たりにした、実に濃密な「海軍三昧」の一日でした。


終わり 


海軍機関学校と「マザー」フィンチ~海軍機関術参考資料室

2016-03-12 | 海軍

旧海軍兵学校であった江田島には何度となく訪れ、それについて
書かれたものや元兵学校生徒の会合に参加するなど、
これも「門前の小僧」とでもいうのか、海軍兵学校のことについては
それなりに知識を蓄えてきたわけですが、同じ海軍の学校でも
機関学校についてはほとんど何も知らず、軍艦のことを調べる過程で
造船についての記述に機関将校が出てきたり、あるいは目黒の自衛隊を
見学した時に敷地で見た実験棟の名残(今も使われていたりする)をみて、
そのぼんやりとした輪郭を思い浮かべる程度でした。


兵学校の同期会には、いわゆるコレス、兵学校と機関学校の同学年が
一緒に参加しており、その一団が「舞鶴」と呼ばれていたことから、
海軍機関学校が舞鶴にあったのだな、と理解しておりましたが、横須賀にも
機関学校があったことは今まで考えたこともありませんでした。

1874年、兵学校がまだ「兵学寮」であった頃、その分校として、

海軍兵学校付属機関学校

という名前でここ横須賀にその学舎が置かれていました。
1925年には舞鶴に移転し、以降「舞鶴」は海軍機関学校の代名詞となります。

前回お話しした芥川龍之介が英語を教えていた1916年(大正15)には、
機関学校は今の三笠公園の近くにあったということです。

今、三笠公園に隣接して神奈川歯科大学と湘南短大がありますが、
そのキャンパスがかつては機関学校の敷地でした。
今もこの校内には桜並木があるそうですが、それは機関学校時代からのもので、
そこだけが往時の面影を残しているのだそうです。

また、赤レンガと石を積み上げた機関学校時代の門柱は、現在も
歯科大学病院の裏手に保存されています。 

舞鶴地方総監に訪問したとき、昔機関学校の講堂だったという建物の
裏の部分が海軍資料館となっているのを見学しましたが、
そこには機関学校の跡を偲ばせる資料はほとんどなかったと記憶します。

というわけで、海軍機関学校独自の資料が集められているのは、
ここ横須賀の「海軍機関術参考資料室」だけなのかもしれません。



胸の軍艦旗マークが、実に洗練されています。

あまりに新しくきれいなので、海上自衛隊のラグビーチームのユニフォーム?
と感違いするくらいですが、これは海軍機関学校47、48期チームのジャージで、
戦後(昭和58年)に作成されたレプリカです。

兵学校生徒がラグビーをしている写真を見たことがありますが、
機関学校では特に闘争心や団結心を鍛えるスポーツであるラグビーが盛んで、
全国でも強豪だった三高(京大)とも定期対抗試合を行っていたそうです。

写真上は、5月27日の海軍記念日に校内試合を行う機関学校生。

帽章の左にあるのは、やっぱりここでも普通に行われていた
短艇競技のメダルです。




昭和13年5月、その三高との対抗試合のときの記念写真。
白いユニフォームの三高生とは仲良く混じっていますが、
誰一人としてニコリともしていないのが時代を感じさせます。

「男がニヤニヤするな!(ましてや軍人ならなおさら)」

という風潮だったんですね。



昭和13年、やはり強豪チームだった明治大学のコーチを招聘して、
神妙な様子で教えを受ける47期生徒。



不思議なキャプションがつけられた写真です。

昭和20年4月19日 「機械熱力学」機関実験場
レイテ海戦の硝煙消えやらぬまま小熊隆大尉(第51期)が
56期生徒に対し、編微分方程式を駆使して講義を行う。
鳥肌が立つ思いであった・・・・

機関将校であった小熊大尉については、ここに書かれている以外のことは
何もわからなかったのですが、この前年の10月23日から25日まで行われた
レイテ沖海戦に参加し、命永らえて帰国後、母校で教えることになったようです。

 編微分方程式は自然科学の分野で流体や重力場、電磁場といった場に関する
自然現象を記述することにしばしば用いられる微分方程式です。

死線をくぐってのち生き残り、今ここで行う講義。
生死の狭間を見、ゆえに生の刹那を知った者の言葉の重みと真剣さを
生徒たちは「鳥肌が立つくらい」感じ取ったということなのでしょう。


小熊隆大尉は人間魚雷「回天」を開発した黒木博司大尉と同期です。
黒木大尉はレイテ沖海戦の1ヶ月前、昭和19年の9月7日、
自らが発案した回天訓練中の事故で22歳の命を終えています。

黒木大尉は16歳で機関学校に合格しているので、同じ歳とは限りませんが、
この小熊大尉も、23歳前後で戦線から戻り、教壇に立っていたことになります。

インターネットを検索すると、たった一つ、安中市の平成21年の市政報告に
小熊隆さんという方が瑞宝単光章(勲6等)を警察功労で受賞した、
というお知らせに行き当たりました。
瑞宝章とは“国家または公共に対し功労があり、公務等に長年従事し、
成績を挙げた者”に叙勲されます。


もしかしたらこの方が65年後の小熊大尉なのでしょうか。



向かいにあった自衛隊の創設資料館にもノートが展示されていましたが、
さすが機関学校だけのことはあって、こちらもノートが何冊も。

授業のノートかと思ったらそうではなく、民間工場を課業で見学し、
それについて見たものを細かく図入りでメモしたものでした。

日本アスベスト会社

住友伸銅工場

京都火力発電所

の三社で、発電所の項には「水源は近江琵琶湖なり」とあります。 



方眼紙にノートを取るのは図が描きやすいからですね。
これは住友で見学した伸銅のための機械の一部(のようです)。



発電機械の諸試験(不蝕試験、絶縁試験、極性試験)図。



英語の試験かと思ったら英語問題が書かれた「材料学」の試験でした。
なんてこった、ってことは答えも英語で書きなさいってことか?

「一般的な原油の精製過程について述べよ」

まあこれだけならそんな難しくはないかもしれないけど、英語でこれを・・。 



「サンブナンの原理」による弾性力学の美しい証明。



さて、この資料室に、このような女性の肖像がありました。
この方、星田光代さんとおっしゃいます。


・・・・と言うのはもちろん彼女の日本名で、本名は

「エステラ・フィンチ」Estella Finch (1869 - 1924)

さんとおっしゃいまして、アメリカはウィスコンシン州出身です。
彼女はニューヨークの神学校を卒業してから、超教派(教派関係なく)
婦人宣教師として24歳の時に日本にやってきました。
彼女は全国で伝道を行っていましたが、日本人の贖罪意識の薄さに失望して
帰国の準備を進めていたところ、横須賀日本基督教会の神父である黒田惟信と出会い、
彼の

「軍人には軍人の教会が必要である」

という説に賛同し、横須賀市の若松町に「陸海軍人伝道義会」を設立しました。
彼女は特に海軍機関学校の生徒への布教を熱心に行いましたが、決して
信仰を押し付けることはなかったそうです。

教会の庭に道場を作り、稽古着や道具を揃えて生徒にはスポーツを推奨し、
生徒を「ボーイズ」と呼んでかわいがりました。

アメリカ人である自分が日本の軍人に布教をするには、まず愛国者になるべき、
と考えた彼女は、国学者であり史家でもあった黒田から日本史を学び、
流暢に日本語を喋り、生活様式もすべて日本式にしました。

日本に帰化し、「星田光代」となったのもそのためです。
帰化したのは40歳の時。
彼女の親しい者(アメリカ人)はこれに反対したそうですが、
彼女は断固これを押し切りました。



機関学校の生徒たちは彼女を「マザー」と呼んで慕いました。

関東大震災のあとは被災地慰問を熱心に行っていた彼女ですが、
体調を崩し、教会の者に見守られながら55歳の生涯を閉じました。

「我邦軍人のために青春を捨て国籍を捨て遂に命そのものさえ捨てたる者なり
その献精の精神『死せりと雖も尚言えり』というべし」

というのが黒田がその慰霊碑に書いた追悼文です。


第2術科学校の資料室に彼女の資料が展示されることになったのは、
横須賀市在住の海野幹郎、涼子夫妻がその遺品を寄付されたからでした。

海野氏は海上幕僚監部技術部長を務めた元海将補。
そして夫人の涼子さんは、黒田惟信の孫娘であったという縁によるものです。

「陸海軍人伝道義会」は黒田が死去した翌年の1936年に解散しましたが、
彼らの布教によって、30年間でおよそ1万人が伝道義会を訪れ、
約1000人の軍人が入信したといわれています。

戦史を当たっていて、将官にクリスチャンが多いと思ったことがありますが、
彼らのうち何人かは横須賀で伝道議会に通って入信したのかもしれません。

井上成美大将もキリスト教徒で、戦後は子供たちに英語を教えながら
神の教えを説くことがよくあったといいます。

「神さまは、どこにいらっしゃるというのではないが、
どこかにいらっしゃる。
必ず見ておられるから、祈りなさい。
感謝しなさい。
財産など残してはいけません」

という言葉をのちのちまで覚えている教え子もいました。

井上大将が横須賀にいるとき、軍人伝道議会に行ったことがあったかも、
という考えは、そう突飛なことでもないような気がします。


続く。

 


芥川龍之介を探せ~第二術科学校・海軍機関術参考資料室

2016-03-11 | 海軍

第二術科学校内にある資料室は基本一般公開なので、
多分申し込んだら誰でも見学できるとは思うのですが、

施設の性質上構内に誰でも入れるわけではないので、
見学したい方は2術がオープンスクールなどで公開されるときに
横須賀から出ている「海上シャトル便」 で行ってみるのもいいですね。

このときに案内してくれた自衛官が、確か近々公開の機会があるので
ぜひ来てください、とバスの中でいい、それに対して参加者が

「ホームページで見られますか」

と聞いたら確かにはいと返事があったと思うのですが、2術のHPには
全くそれらしいお知らせはありません。

うーん・・何かの間違いだったのかな。


 
ガラスケースの中の資料を写すのに一生懸命になって、
資料館全体の写真を撮るのを忘れたので、リーフレットから転載。
このように、6,500点あまりの展示物が見やすく展示されています。


この日の団体は防衛関係だったのである意味当然かとも思いますが、
こういう一行の中には必ず一定数いる「アマチュア軍事評論家」が、
この日も特に日露戦争の資料のあるケースを中心にして、活発に、
質問というより日頃蓄積した知識の披露に興じる一幕がありました。



別にこの方々のことを言うのではありませんが、自衛隊の公開イベントで、
自衛官に一番疎まれるのが、実は「知識披露型」なのだそうです。

●護衛艦は90度以上傾斜(横倒し)しても復元するよう設計されている。
何度なのかは機密だが、一般公開でこれを自衛官に質問し、
自衛官が返答に窮していると、『150度だ!勉強しろ!』と怒鳴って立ち去る
(ちなみにこれは間違いらしい)


●護衛艦の出港時、艦の周波数に合わせ『無事航海を祈る』という信号を送ってくる。
そして『次の行先は○○と推測される。航海途中、○○沖で溺者救助訓練、
対航空戦の訓練を行うと思うが、艦長の指揮ぶりを見ている』
などと、艦内通信を傍受して、ひけらかすような内容の信号を送ってくる。

●独自に考えた尖閣・竹島奪還のオペレーションを一般見学の際、
約1時間にわたって幹部自衛官に一方的に披露する。


これらは論外としても、暇に任せて仕入れたオタ知識を披露したところで、
大抵の自衛官は感心どころか、内心迷惑がっているかもしれないってことです。
S-10のSが「掃海」のSであることを、広報の自衛官が知らなかったので
つい勝ち誇ってしまったわたしに言う資格はないと言う説もありますが。


さて、知識披露型になるかどうかは別にして、戦史、とくに海軍史、
その中でも日露戦争の知識を、司馬遼太郎の著書から得るタイプがいます。
熱心に読み込むあまり、司馬史観もそっくり受け入れてしまうような読者です。

わたしはこの団体では超若輩なので、というか写真を撮るのに忙しく、
グループの議論に参加せず、遠巻きに耳だけで聞いていたのですが、
どうもこの日の参加者に、そういう司馬ファンの方がおられたようです。
 

「司馬遼太郎が書いてたんだけど、知らない?」

「・・知りません」(自衛官)

「このときにあれではこうなってたんだけど、何々はなんとかだったんでしょ」

「・・知りません」(自衛官)

という気まずいやりとりが二回繰り返されてからのち、
話の切れ目をとらえた自衛官が柔らかい口調で、しかしキッパリと

「司馬遼太郎は自分の好き嫌いを元にかなり史実を改変して書いていますから。
『坂の上の雲』なども自分が評価しない人物のことは無茶苦茶書いてますし、 
あれは小説としてはいいですが、あまり鵜呑みにされない方がいいかと思います」

と一団に向かっていい切ったとき、わたしは思わず彼に惚れたね。(比喩的表現)

ええ、もしかしたらこの自衛官は、主人公の秋山真之を良く書くために
有馬良橘を必要以上に貶めたり、自分の思想をさりげなく盛り込むために
秋山をPTSDの腑抜けに書いた司馬遼太郎の悪行?を暴いた当ブログの記事を
読んだことがあるのではないか?と思ったくらい、激しく同意しましたよ。


いくらちゃんと勉強をされているといっても、資料館の解説を行う自衛官が、
重箱の隅をつつくような知識や司馬の創作まで知らなくて当然です。
そもそも自衛官相手に解説を始めずにはいられない知識豊富な方が相手では、
はっきりいってきりがないと、彼らもあきらめているでしょう。


先ほどの記事によると、こんな時に自衛官は内心どう思っても決して逆らわず、

「よくご存知ですねと褒め気持ちよくさせてあしらう」のだそうです。
武器装備や軍事知識について自衛官と話をしている時にこの台詞が出たら、
もしかしたら相手を辟易させているのかも、とちょっと自分を振り返ってみましょう。

まあ、この記事の自衛官が皆本物という証拠もないんですけどね。



市ヶ谷の記念館にも同じようなガラス写真を見ましたが、
ここで陛下のお立ちになっているのは土を盛った「台」です。
これは昭和10年11月13日、鹿児島県宮崎の都城飛行場で撮られたもので、
特別大演習が終了したあとの記念写真です。

これほどたくさんいても何が何でも全員で写真を撮るのが日本軍。
後ろの人は顔なんか全くわからないのに、それでも撮るか。



この写真には歴史にその名を残す多くの軍人が写っています。
一部ですが、アップしてみました。
前列右から朝香宮殿下、高松宮殿下、(その左後ろ大西滝治郎
その左前大隈峯夫大将、昭和天皇陛下、二人おいて李 垠(イウン)殿下(歩兵大佐)。

他にも阿南惟幾、南次郎、山下奉文、荒木貞夫、梅津美治郎、南次郎、
真崎甚三郎らが一堂に揃っているという貴重な写真です。



日露戦争後の「凱旋写真」のようです。

東郷元帥山本権兵衛が並んでいますね。
山本と東郷の間、後ろのヒゲが加藤友三郎、東郷の左が上村彦之丞
その隣が伊集院五郎加藤寛治美保関事件の責任を問われた人)。
海軍について詳しければ知っている名前はこんなところかもしれませんが、
この写真、他に注目すべき人物が二人います。



写真の中列右から3番目に江頭安太郎海軍中将がいます。
同じ列の左から3番目にいるのが山谷他人海軍大将。
この二人の娘息子が結婚して生まれたのが、雅子皇太子妃殿下の母親。

という「それがどーした」な豆知識がわざわざ家系図で記されていました。



ところで、この資料室に入ってすぐ右手の壁に、クエストのように

「芥川龍之介を探せ!」

とキャプションのつけられた二葉の集合写真が掲げてありました。
その一つがこれ。
大正7年11月に撮られた、海軍機関学校27期卒業生の記念写真です。
もう一つの写真は大正6年のものでした。

文豪、芥川龍之介は若き日に海軍機関学校で英語を教えていたことがあるのです。



ちゃんと写真を撮るのを忘れたのでこれもリーフレットからの転載ですが、
これが当時芥川が講義していた英語の教科書。
海軍の学校でつかう教科書らしく「A BATTLESHIP IN ACTION」というタイトルです。

芥川がここで教鞭をとっていたのは、彼が東京帝大を卒業したあとの
大正15(1916)年で、そのときは汐入駅の近くに下宿していたそうです。

機関学校で芥川は8時から15時まで、当初12時間英語を教え、月給は60円、
のち130円まであがったといいます。
大正末期の60円は35,000、130円は7,5000円くらいなので、まあ安月給です。

のころ既にいくつかの作品を発表して作家への道を歩みだした芥川にとって、
東京の文壇仲間から離れて教師をすることは

「不愉快な二重生活だった」

ということです。
彼のような人間にとっては、時間の束縛と建前の生活が一番辛かったようですね。
そもそも彼は自分でも


「教えるのが大嫌いで生徒の顔を見るとうんざりする」

などと手紙に書いているのですから。





「芥川の作品って何かご存知ですか」


と案内の自衛官が誰にともなく尋ねると、そこにいた一人が

「我輩は猫である!」

と答えたのですが、彼は間違えた人に恥を掻かせまいと気を遣ってか、

「蜘蛛の糸とか羅生門とか・・あまりこれっていう有名な作品はないかもしれませんが」

とフォローしていました。(いいやつだ。)

「杜子春」は教科書にも載っていたし、「鼻」「邪宗門」「奉教人の死」
などを子供時代なんども読んだわたしには異論ありまくりでしたが。
(特に”舞踏会”の話の終わりかたが大好きでした)

芥川の作品のうち「蜜柑」は機関学校教職時代の出来事であり、
「堀川安吉」という主人公を登場させる機関学校時代の生活を書いた一連の
「安吉もの」(”あばばばば”など)を書いていますが、芥川は
機関学校の教職はあくまでも「つなぎ」というか、生活のためと思っていたようです。

芥川自身の人事は、前任の英語教師が大本教に入信するために辞職し、

その後釜として東大の英文学者が推薦したという経緯によるものでした。



で、この「芥川を探せ!」にわたしもチャレンジしてみました。
「イケメンです」というヒントだけで正解がなかったのですが(笑)
後列右から二人目、外国人教師の右後ろがそうだと思います。



こちらの写真でも同じ外国人教師の右後ろが芥川だと思われます。
(というか、周りのメンバーは全く同じ配列ですよね)


不愉快と言っているだけあって、気のせいかどちらの写真も憮然としているような。
ちなみに、冒頭写真にはどれが芥川か説明がついていました。

でも、わざわざ答えを書かなくても皆さんもお分かりですよね。



芥川は思想的に左翼で、特に軍的なものを嫌っていたようです。
軍人の階級争いを「幼稚園児のお遊戯みたいだ」などと酷評し、検閲され、
さらに嫌うといった具合でした。

しかし、機関学校の教職を引き受けたということは海軍に対しては
好意的に見ていたということでもあります。

のみならず、陸軍幼年学校のいかにも陸軍的なやり方に不満をもらしていた

フランス語教師の豊島与志雄(のちにフランス文学の翻訳者として有名になる)
を、「海軍の方がいい」と海軍機関学校に引き抜いたということもあります。

あの内田百(けんは門構えに月)も同じく幼年学校の教師であったところ、
芥川の引きで機関学校のドイツ語教師になっています。(多分理由は同じ)

また、当ブログ甲板士官のお仕事」という項でも書いたことがありますが、
芥川は昭和2年、海軍を舞台にしたにした三編のショートストーリーを書いています。

三つの窓

「鼠」 鼠上陸をするため禁を犯して鼠を”輸入”した下士官を許してやる話
「三人」 人前で罰を与えた下士官がそれを恥として縊死してしまったという話
「一等戦闘艦××」 芥川風味で書かれた「艦これ」(ただし人称は男)


戦艦の名称「××」と「△△」は、最初実名でその後検閲されたのかもしれません。

芥川と海軍の縁はこれだけではありません。
機関学校奉職中に結婚した友人の姉の娘、文子の父は、日露戦争で戦死した
塚本善五郎(最終少佐)という海軍軍人でした。

これは海軍機関学校とは関係なく偶然だったようです。

塚本善五郎は旅順港閉塞作戦の時に「初瀬」の艦長でしたが、
ロシア海軍の機雷に触雷して名誉の戦死を遂げています。
芥川が文子と結婚したのは、この15年もあとのことになります。



芥川龍之介は海軍機関学校で教えていた頃から10年後の1927年(昭和2)、
健康状態を悪化させ、致死量の睡眠薬を飲んで自殺しました。

享年37歳。


機関学校の職を「不愉快」と評した芥川でしたが、少なくともこのころ、
芥川が未来を信じ、将来への希望を抱いていたことは確かです。
たとえそれが、成功してここから抜け出すというものであったとしても。


海軍機関学校生徒を前に教鞭をとる毎日は、この剃刀のような感性を持つ
天才にとってさぞ煩わしいものであったでしょうが、後年苛まれ、
それに彼が命ごと飲み込まれる「ぼんやりした不安」を思えば、
これが芥川の最後の平穏な時期だったのかもしれないという気もします。




続く。






昭和8年の大演習観艦式〜海軍機関術参考資料室

2016-03-09 | 海軍

本題に入る前に大事なお知らせがあります。

「バーク艦長とトモダチ作戦」で、ネットニュースから拾ってきた情報から

「トムバーク艦長はアーレイ・バーク提督の親戚」と書いたのですが、
これはなんと、米海軍の公式ツィッターで単なる「都市伝説」、
つまり両者は単なる同姓にすぎないとはっきり言明されていたそうです。

あらあら。

それではあの記事はいったいなんだったんだー、ってことになりますが、
とにかく正確を期すべきブログで、”都市伝説”を実しやかに拡散するところでした。
あらためてここで訂正し、お詫び申し上げる次第です。

情報を下さったお節介船屋さん、ありがとうございます。
 


さて。

第2術科学校には、前回お話しした自衛隊創設に関する資料室と、
旧海軍の資料室の二つが、廊下を挟んで向かい合わせに位置しています。
われわれのグループは先に海軍資料室にいたグループと交代しました。

全体の写真を撮るのを忘れてしまったのですが、この資料室には
ガラスケースがぎっしりと並べられ、写真や本、遺品の刀や書などが展示されています。


正式には「海軍機関術参考資料室」といい、海軍機関学校記念事業の一環として

第二術科学校に資料室の設置が行われました。

これらは全国の関係者から寄贈を受けたゆかりの品であり、大変貴重なものです。
展示保管数は約6,300点に上ります。

 

豊田副武書、丹心答聖明」

「たんしんせいめいにこたう」と読みます。
元末期の西域詩人である薩都刺(さつら)の詩が原作で、


“真心をもって、天子の聖徳に答える”

という意味です。

戦艦「大和」の海上特攻となった「天一号作戦」を最終決定したのは、
当時連合艦隊長官であった豊田でした。

連合艦隊参謀神重徳大佐が、参謀長を通さずに直接裁可を仰いだものです。
このときのことを豊田は

「大和を有効に使う方法として計画。
成功率は50%もない。
うまくいったら奇跡。

しかしまだ働けるものを使わねば、多少の成功の算あればと思い決定した」

と語ったそうです。


豊田は終戦時に軍令部部長であったことから、戦犯指名を受けましたが、

ここでもお話ししたことのあるベン・ブルース・ブレークニー、そして
ジョージ・ファーネス弁護人二人の尽力によって無罪判決となっています。



こちら元帥、海軍大将古賀峯一の「竭誠盡敬」
「誠を竭くして敬を盡す」(まことをつくしてけいをつくす)

「竭」も「盡」も尽くすという意味で、真心を尽くして尊敬の念を持つ、
という意味となります。

古賀大将は、1944年、パラオからダバオに飛行艇で移動中に殉職しました。
山本五十六元帥の「海軍甲事件」に対し、こちらを「海軍乙事件」といいます。

戦死ではなく殉職と認定されたことで、古賀は靖国神社には合祀されていません。



ここでわたしが食いついてしまった海軍兵学校のアルバム(笑)

新入生はだめですが、上級学年はタバコを吸っても良かったそうです。

「タバコ盆回せ」とよく聞く?あの煙草盆を囲んで、歓談のひととき。

なぜかこの写真に付けられたキャプションは「低気圧の中心」
???

写真ではよくわかりませんが、もしかしたら外は雨なのでしょうか。

第1術科学校を見学したときに下から覗いて見た階段のところだと思われます。

「明11日午後220より『何々』(読めない)考査」

「9月11日より改正せる授業時間表により教務を実地す 教務副官」

教務本人ではなく、副官の名前でお知らせをしているのがいかにも軍。



この写真のタイトルは「おめかし」(笑)

おめかしも何も、椅子に座れば有無を言わさずバリカンで刈られるだけと思うがどうか。

床屋さんは一人しかいないので、左の生徒は新聞を読んで待っています。
鏡の前で三人がどうやらヒゲを剃っている模様。

「髭剃りは当店では行っておりません。セルフサービスです」




 
説明がないので状況がわからないのですが、セーラー服にはもちろん、
カンカン帽のような帽子のリボンにも、艦名が書かれているようです。

かなり古い時代(おそらく大正時代とか?)の写真みたいですね。



冒頭写真は比叡に天皇陛下がご坐乗されたときのものです。
陛下と将官のところを拡大してみました。 
陸軍の軍人もひとりだけいます。

 

艦橋外側と主砲の上にもびっしりと鈴なりになっている水兵さんたち。
主砲に座っている後ろの人たちもちゃんと顔が映るように乗り出しています。
きっとこの人たちは随分早くからこの体勢のまま待たされていたに違いありません。

やっとシャッターが押され、皆さんホッとしたことでしょう。



進水式のスナップなどもアルバムにして展示してありました。
保存のためにガラスケースに入れられていましたが、できうることならば
手にとって1頁ずつ仔細に見てみたいと切に思いました。

これは、「航空母艦起工式」と説明があるだけで、艦名はわかりませんが、
ハンマーを持っているのが「古市少将」とされています。

これが横須賀海軍工廠の工廠長であった古市竜雄 機関少将だとすれば、
これは古市少将の在任中の1935-37年の間のことになり、
これはこの期間に起工した空母「飛龍」のときのものだとわかります。



「飛龍」進水式の様子。



こちらは特務艦「高崎」の授与式。
「高崎」は給油艦(軽質油運搬艦)として1943年に就役していますので、
「授与式」とは今でいう「引き渡し式」のことだとすれば、この写真は
そのときに撮られたものだと思われます。




 
「高崎」が引き渡し後、初の軍艦旗掲揚を行っているところ。 

就役してからの「高崎」は昭南に向かい、南方で任務に従事しましたが、
翌年の6月、同じ給油艦である「足摺」とともに行動中、米潜水艦に
共に撃沈され、わずか1年4ヶ月で没しました。 

軍艦旗に向かって立つセーラー服の白線が並んでいますが、
ここに写っているうち何人が命永らえることができたのでしょうか。 



ここにはこのような大変貴重な資料が展示されています。

旧海軍用燃料(塊炭)と書かれています。

読んで字の通りこれは炭のカタマリなのですが、これが明治末までは
軍艦の燃料として使用されていたものだそうです。 

塊炭は煤煙が多かったため、無煙炭を含む練炭など、よりよい燃料が開発されて、
これに置き換わっていくことになります。
ここに「その後も艦本式が大小艦艇に装備せられ」とありますが、
「罐」というのは「汽罐」つまりボイラーのことです。

海軍機関科問題が起きたとき、東郷元帥がうっかり「缶焚き風情が」といってしまって、
顰蹙となったということがありましたが、明治時代の戦艦で
石炭をくべていた機関の乗員を「かまたき」と呼んだのは「かま」=罐だからです。



さて、わたしがここの展示の中で特に心惹かれたのはこのコーナー。
昭和8年に行われた大演習観艦式の資料です。

昭和5年、特別大観艦式が神戸沖で行われ、このことと
「火垂るの墓」のツッコミどころを絡めて、ここでもお話ししたことがあります。
(昭和5年に『摩耶』の艦長だった清太の父が終戦時にも同じ船の艦長はありえないとか)

その3年後の昭和8年、横浜沖で行われた観艦式も、その規模は同じくらいのものでした。

昭和8年(1933年) 特別大演習観艦式


とりあえず、このときの映像をご覧ください。



もし現代、8月25日に観艦式なんぞやった日には、熱中症でおそらく
一個連隊くらいの急病人がヘリ搬送されることになるでしょう。
当時は今ほど夏が暑くなかったんですね。

もっとも当時の観艦式は関係者が観閲艦に乗るだけで、今のように一般人、
特に女性などは一切参加することはできなかったと思われますが。

写真は当日の参加者に配られた「観艦式のしおり」と軍艦「高雄」の陪観券。
「陪観」というのは一般的に「身分の高い人に付き添って見物すること」で、
この陪観券の官姓名は岡崎貞伍海軍中将、となっています。

そこで岡崎中将(右下の写真の人物)についてググってみると、
海軍機関学校2期生であり、確かに1924年(大正14)に機関学校長になっていました。
ここに岡崎少将の乗艦券があったのも、その関係でしょう。

ただ、あれっと思ったのは、この観艦式のとき岡崎はもう予備役であること。
一線を退いていても、陪観券の官は「海軍中将」となっていることです。
「予備役」はまだ一応現役の軍人なので階級もそのままってことなんですね。

岡崎中将はこの観艦式に賓客(たぶん宮様)
のエスコート役として
駆り出されたらしい、ということがわかります。


左上の旭日旗は「市電優待乗車券」。
横浜市が発行したもので、桜木町から埠頭までの市電(いまならシャトルバス)
にこれを見せれば無料で乗れたようです。

岡崎少将はこのときの観艦式の資料を一切大事に置いておいたようですが、
このチケットも見せるだけで、あとは持って帰ってよかったんですね。



いまでも自衛艦に乗ると、必ずその名前の由来やスペックを記した
パンフレットがもらえますが、それはこのころからの慣習です。

「高雄」の案内、艦名の由来については

「京都高雄山に因みしものなり」

そして、艦内神社についてもちゃんと、

「高雄山に縁故ある京都護王神社の祭神たる和気清麻呂公を祭祀す」

と書いてあります。
「高雄」は昭和7年、つまりこの観艦式の前年度に就役したばかりの
当時の「最新鋭重巡洋艦」だったため、わざわざ海軍中将が乗り込んで、
賓客に説明を行うということをしたのかと思われます。


この後、ソロモン、マリアナ沖、レイテ海戦と戦い続けて、傷つきながらも
終戦まで生き残った「高雄」でしたが、敗戦となったとき、
「妙高」型のネームシップであった「妙高」とともに自沈処分されています。


余談ですが、「妙高」と「高雄」は、

同一船台(横須賀)で建造され、

同一海戦(レイテ沖)で大破し、


終戦時同じ場所(シンガポール)に居合わせ、


ほぼ同じ地点(マラッカ海峡)で自沈処分される


という超腐れ?縁でした。
どちらもネームシップであったということも縁といえば縁ですね。





字が小さくて見にくいのですが、これが当日の観閲航行図。

お召し艦は「比叡」先導艦「鳥海」に先導されて、「比叡」以下、

「愛宕」「高雄」「摩耶」

の供奉艦が(現代でいうところの観閲部隊)続きます。
その動線が描かれていますが、これを見る限り、このときの観艦式は
現在のように受閲艦艇と観閲艦艇の双方が航行しながら観閲する方法ではなく、
観閲会場(海面)に停泊している艦艇の間を、観閲部隊が通り抜ける形だったようです。

停泊している軍艦の列は全部で7つ。
一番下に「番外列」として、「丸」のつく船、仮装巡洋艦として日露戦争に参加した
「日本丸」や、なんと!「氷川丸」(今横浜にいるあれ)などがならんでいます。
「氷川丸」は昭和5年、3年前に就航したばかりでした。

お召し艦が最初に侵入する第2列には「加賀」「鳳翔」の空母に始まり「青葉」「衣笠」
左手の第3列には戦艦「陸奥」「日向」「榛名」「金剛」が続きます。

では戦艦「長門」は?

「陸奥」と上座下座を決められなかったせいか、「長門」は
お召し艦が最後に通り抜ける第5列の左に「扶桑」「霧島」「伊勢」「足柄」
と並んで観閲されるということになっています。

ところでこれによると、潜水艦は一番端の列に11隻が並んでいたようですが、
2列離れたお召し艦から見えたのかなあ。


あと思ったのは、今の自衛隊が取っている「全艦稼動式観閲式」は
大変技量を要する方法であると言われますが、 これだけの艦船をきっちりと
海上に並べて停泊させ、観閲を受けるというのも大変なのではないでしょうか。


この当時は、「この日は観艦式だから民間船は横浜沖で航行一切まかりならぬ」
の一言ですんでしまったから、その意味では楽だったかもしれませんが。

その後、自分たちの末裔が、観艦式どころか日常の訓練も
民間船に異常に気を遣いながら行い、また自分たちの国が、ひとたび事故が起きれば
マスコミを筆頭に、推定有罪で自国の軍を責め立てるような国になろうとは、
このころの観艦式に参加していた関係者のだれに想像できたでしょうか。



続く。
 


「聖将と霊艦」(とABC)〜軍港の街・舞鶴を訪ねて

2015-11-24 | 海軍


舞鶴訪問で見学した「赤れんが博物館」の続きです。
赤れんがの歴史についての写真データを無くしてしまったあいかわらずのわたしですが、
なぜかその中の「舞鶴工廠」についてのデータだけが残されていたことは、
日頃の海軍海自の知識研鑽に対するご褒美だったのではないかと、自分で自分を慰めています。



工廠関係の資料の中には、当時出版された書籍がありました。
左から

「聖将東郷 霊鑑三笠」

海軍大佐尾崎主税著、ということで東郷元帥を神格化して書いた海戦録。
東郷平八郎が聖将と言われていたのは有名ですが、「三笠」まで
霊感、じゃなくて霊艦と言われていたとは知りませんでした。

そういえば先日、東郷平八郎の曾孫で海自を退官されたばかりの人物(観艦式にも参加していた)
の講話を聞かせていただく機会があったのですが、その方によると、東郷家の子孫は
いまでも東郷会なる集まりを持ち、
その偉業を公正に正しく伝えるために活動しているのだとか。
そのとき、

「東郷家の者は、東郷平八郎が指揮官だったから海戦に勝てたとは全く思っていない。
秋山(好古、真之)家の子孫と交流があるが、秋山家でも
秋山真之が参謀だったから勝てたということはないと考えているとのことだった」

とおっしゃったのが印象的でした。
しかしこれも、後年歴史を振り返って初めて言えることで、当時の日本人の総意は

東郷元帥の神判断=丁字戦法がなくては皇国は荒廃を免れなかった」

というものだったのです。

もっともこの「丁字戦法」を編み出したのは東郷元帥ではなく秋山真之であり、
さらにその元になった
「円戦法」というのを発案したのは、雅子妃殿下のひいお祖父さんであった
山屋他人大将の
若い頃であったということですから、

「東郷(秋山)でなくてもあの海戦には勝てた」

というのは
あながち遺族の「謙遜」などではなかったということもできます。


しかしほとんどの日本人にとって日露戦争の勝利自体が奇跡的な快挙で、
そのため真ん中にある


「参戦二十提督 日本海海戦を語る」

みたいな企画の書籍は、それこそ戦後何年にもわたって出版されていたのでしょう。
この本はなんと「日露戦争終結30周年記念企画」として東京日日新聞と
大阪毎日新聞から共同発行されています。

証言しているのは一連の作戦に参加した海軍の幹部で、その「円戦法」を発案した
秋山の先輩、山屋他人大将(やまや・たにん、皇太子妃
雅子妃殿下の母方曾祖父)
佐藤鐵太郎中将、小笠原長生中将などです。


ちょっと気になったのでこれらの軍人について書いておきます。



右から二人目、佐藤鐵太郎(当時大佐)。
あらやだ、どうしてこんな男前なのかしら。渋くて素敵。
佐藤の左隣は伊地知彦次郎大将(当時少将)ですね。

佐藤大佐は日本海大戦で、ロシアの偽装転進を見破り、
意見具申したことで勝利に貢献しています。
海軍兵学校14期では鈴木貫太郎と同期。

「頭脳の佐藤」として四天王の一角だったとかで、ハンモックナンバーは4番でした。



こちら往年の俳優小笠原章二郎
前述の小笠原長生中将の息子の一人です。(本人も普通にイケメンだった)
佐藤中将は小笠原中将の同級生で、小笠原の妹と結婚しています。
(同級生の妹と結婚というのは、終戦まで結構よくあるパターンだった模様)


息子の一人は映画監督(小笠原明峰)となって
映画プロダクションを作り、何本かの映画を残したのですが、日本海海戦を描いた
無声映画「撃滅」は、小笠原中将が軍令部参謀時代に原作を書いています。


さらにその影響か、小笠原の孫娘は戦後女優となったのですが、

牧和子

海軍中将で東郷元帥の側近だった軍人の孫が、いわゆる「ピンク」
「成人」映画専門のお色気女優となろうとは・・・・。


側近といえば、小笠原は現役時代東郷平八郎に心酔しており、そのあまり
「東郷さんの番頭」「お太鼓の小笠原」と海軍内で陰口を言われたほどで、
東郷元帥の死後もその文才を生かして本を著し、その神格化に努めた「忠義者」でしたが、
肝心の東郷元帥は小笠原を重用しつつも、軍縮問題について加藤寛治と懇談した際に、

あの人は現役ではないから、こういう話に加えてはならない」

という発言を残しており、小笠原は戦後公開された加藤の手記によって
この事実を知ってショックを受けた、という話が伝わっています。

あんなに誠心誠意仕えた元帥は、俺のことを全く認めていなかったのか!
俺の海軍人生って、何だったの?

・・・・って寛治?いや、感じ?

ハンモックナンバーも後ろから数えたほうが早い
(43人中39番)
小笠原が、鈴木貫太郎(大将)を含む同期6人の将官の一人まで出世したのは

東郷元帥の「番頭」だったから・・・とか周りには言われてたんだろうな。



写真一番右の書物は、大将12年に発行された「海軍読本」。
海軍下士官教育用の国語・一般教養の読本で、内容は日清日露戦争や、
皇室、楠木正成、吉田松陰などについての読み物が記されています。



「聖将東郷平八郎」とともに「霊艦」とまで言われてしまった「三笠」。
この写真は昭和11年著である「聖将東郷と霊艦三笠」掲載のものです。

戦艦三笠は日本海海戦勝利を象徴するものとなり、現在も全国に残る
東郷元帥の揮毫とともに全国に浸透しました。

ご存知のように「三笠」はその後記念艦となり、その時にはまだ生きていた東郷元帥が

祝辞を述べるなどしたのですが、負戦後まずソ連が「三笠」の破壊を主張し、それを免れても
米軍や当時の鉄商人などによって「三笠」は構造物を全て撤去され、水族館が
(キャバレーだったというのは都市伝説だったという話も)作られるなどの陵辱を受けます。

しかし、三笠は心ある日米の人々によって救われ、その姿を現在にとどめています。
その経緯について過去ログでお話ししておりますのでよかったらどうぞ。

「三笠」を救った人々




ところでもう一度このジオラマを出してきます。
この「赤れんが博物館」の、昔の姿がこれです。



元々は海軍の「魚形水雷庫」として、1903年に建設されました。
1903年というと?
これは間違いなく、1905年の日露戦争を見据えてそのために作られているのです。

鉄骨煉瓦造りの二階建てで、レンガは「フランス積み」という方法で組まれています。
一階には魚雷本体の保管台と調整・組み立てのための作業台、魚雷発射管があり、
床はご覧のようにレンガ敷きになっていました。
中央にトロッコのレールが敷かれているのがわかりますね。

画面中央上部から鎖が垂れ下がっていますが、これはハンギング(吊り)
のための鎖で二本あるレールから魚雷を二階にあげるために降ろされていました。
二階では部品が保管されており、調整や修理が行われていたようです。

舞鶴工廠で作られ、ここで保管・調整された魚雷。
日本海海戦でバルチック艦隊を撃滅したのは、最終的には
執拗に撃ち込まれた水雷の威力にほかなりません。

5月27日から行われた水雷攻撃では、夜半6時間半にわたって、
計50本あまりの魚雷が発射され、そのうち6本が命中し致命傷を負わせています。

特に舞鶴所属の第4駆逐艦艦隊(鈴木貫太郎司令)の駆逐艦4隻は、
水雷で巡洋艦「ナヒーモフ」を、連繋機雷で戦艦「ナヴァリン」を沈没させ、
そして戦艦「シソイ・ヴェーリキー」を大破せしめました。



この写真は昭和47と比較的最近撮られたものですが、当時はこのように
「赤れんが記念館」となった魚形水雷庫(一番奥)以外にも、
大砲庫(一番右)、水雷庫(中央)がまだ残されていました。

使用もされていたと思うのですが、開発などで次々と取り壊されてしまい、
現在この写真で残っているのは魚形水雷庫だけになってしまいました。



このような模型がありましたが、「現在地」の札が立っているのが、上の写真の
一番奥の建物の辺りにあたります。

模型は、現在の舞鶴港周辺で、どのように海軍の遺跡が残されているかの説明。
手前の丘を上がっていくと平地に草を刈ったところがあり、わたしたちは
下の駐車場に停められなくてそこに車を置いた(ちなみに駐車料金要らず)のですが、
この模型によるとちょうどその部分の地下には

「第二次世界大戦末期建設の極秘司令部」

が残っていたんですね。



展示されていたこの絵画・・・・これかな?




こちら旧海軍第2船渠を建造している経過写真。
現在はジャパンマリンユナイテッドの第3ドックとして使用されています。

舞鶴に鎮守府が置かれたのは明治34年、1901年のことになります。
その年のうちに兵器廠と造船廠は発足されましたが、2年後、
二つの工廠は統合してここで「舞鶴工廠」が生まれました。

舞鶴工廠では主に駆逐艦と水雷の製造と修理が行われており、戦後、
巨大なインフラは民間の造船所に引き継がれて、舞鶴の発展を支えました。



こちらはジャパンマリンユナイテッドの2号ドック。
旧海軍で明治41年に築造された「第一船渠」は現役です。



現在JMUの第一機械工場として使われているここは、


海軍造船廠機械工場旋盤組立場

として明治36年に作られました。
その頃の建物なのにモダンなのは、アンドルー・カーネギーのカーネギー社鋼材で
アメリカンブリッジ社が設計施工を請け負ったものだからです。



旧舞鶴海軍造船廠発電場(明治39年築)

現在はやはりJMUの第二電気工場として稼働中。



横浜近郊に住んでおられる方は、もしかしたらこの光景に見覚えがあるかもしれません。

横浜は「馬車道」という地名が有名ですが、「汽車道」というのもあります。
JRの桜木町から港に向けて走っていた貨物支線の跡につけられた地名です。
廃線となってからは博覧会の一時を除いて放置されていたのですが、1997年、
その跡を利用して
プロムナードが作られ、今日市民の散歩道となっています。

当時川に架かっていたこの第1橋梁、そして第2橋梁を設計したのが、
アメリカンブリッジ・カンパニー」(略称ABC)


1907年と言いますから、舞鶴に一連の建物を建築し終わり、日露戦争後の

「勝って兜の緒を締めよ」が流行っていた?ころということになるでしょうか。
同社製品は明治30年代、多く日本に輸入されて現在でもその姿を見ることができます。

最後にアメリカンブリッジ社の手がけた有名な橋と建物を列記します。
こんなすごい会社だったとは・・・。



●サンフランシスコ−オークランド・ベイブリッジ
 など、アメリカの「5橋」すべて

●アメリカ最長のコンクリート吊り橋・サンシャインスカイウェイ橋

●世界最長のアーチ橋上位三つ全て・ニューリバー渓谷橋など

●世界最長の連続トラス橋・アストリア・メグラー橋

余部橋梁(日本)

●シアーズタワー

●エンパイアステートビル

●クライスラービル

●ハンコックタワー

●ウォルトディズニー・ワールド・リゾート


続く。




海軍軍人伊藤雋吉と舞鶴工廠〜軍港の街舞鶴を訪ねて

2015-11-23 | 海軍

舞鶴訪問記を終わらないうちに怒涛の観艦式ウィークに突入してしまい、
続いて入間航空祭、そして自衛隊音楽まつり・・。
それらがようやく終了したので、舞鶴で訪問した「赤れんが記念館」について
レポートをしたいと思います。


今回、忙しすぎたせいかどうかはわかりませんが、2度の予行と観艦式の合間に
データをソフトに落としたところ、
トラブルがあって幾つかのまとまった写真が消えました(T_T)

その中には「むらさめ」での艦橋で撮ったものや、
舞鶴で訪問した「あたご」で艦内をエスコートしてくれた幹部の写真、
「自分が写っている」と当ブログに連絡を下さった任務中の自衛官の写真もありました。

この自衛官にはぜひリサイズ前の画像を差し上げたかったのですが、
それもできず、今でも思い出すだけで悔しくてたまりません。


また、赤れんが倉庫街を広角レンズで撮りまくったのですが、

それもどうやら消えてしまったようです。

この反省から、イベント写真を撮ったSDカードは書き換えて使いまわさず、
保存し、外付けハードデスクを取り敢えず一台購入することにしました。

というわけで、失われた中には舞鶴でのれんが倉庫の写真や、引揚記念館の写真
ほとんどがあったため、今回報告をするにも限られた写真だけになり、
また記憶もかなり不正確になっているのですが、とりあえず始めます。



赤れんが博物館は、先日お伝えした舞鶴港クルーズの発着所のある岸壁からほど近く、
このように周りもれんがの塀に囲まれた一角にあります。
建物の全体写真をお見せできないのが残念ですが、ここは、
赤れんがの建物が沢山現存する舞鶴の中でも最も古い建築を利用して
内部を「れんがの歴史」「舞鶴の煉瓦の建物」などにテーマを絞った
展示を見せてくれる、珍しい博物館となっています。

冒頭写真はこの博物館のジオラマ展示ですが、撮り方を工夫したので
ちょっと本物っぽく見えませんか?(得意)

これはご覧になっておわかりのように、魚雷庫の中の様子です。
「赤れんが博物館」の建物は昔海軍の魚雷庫でした。



魚雷の正式名?が「魚形水雷」であったことに改めて気づく(笑)
そもそも舞鶴という町が海軍の町であり、軍港として発展したので、
ここに残された煉瓦の建物というのはすなわち海軍が使用したものばかりですが、
そのなかでも最も古いのが、1903年、明治36年に建設されたこの魚雷庫。

本格的な鉄骨構造のれんが建築物としてはわが国に現存する最古級のものとされています。 



煉瓦博物館の前にはこのようなひとかたまりの煉瓦が展示されています。
これは、海軍佐世保基地施設に使われていた煉瓦の一部なのです。

海軍が鎮守府を佐世保に置いたのが1989年(明治2)。
鎮守府の建設に伴って、周囲には赤れんがの建物が建てられました。
当時の洋風建築がすべてこのように作られていたのですから当然ですね。

この煉瓦は佐世保の「赤れんがネットワーク」の会員(そんなのがあるらしい)
の手で保護され、ここに寄贈されたものです。



主役は錨ではなく、錨が叩き割っている?れんがの方。
なんですが、一応この錨も素性のはっきりしているもので、1961(昭和36)年から
1991年まで現役だった、護衛艦「いすず」のものだそうです。

「いすず」は「いすず」型護衛艦の1番艦で、舞鶴地方隊の直轄艦でした。



「れんが博物館」というくらいなので、この展示はれんがの歴史から始まるのですが、
そのほとんどの画像がなくなってしまいました。
まあ、今にして思えばれんがの古代史はここでお伝えするほどのことでもなかったので、
舞鶴工廠の資料だけが奇跡のように残っていたことをよしとすべきかもしれません。

これはれんがの歴史のコーナーにあったジオラマ。
どこかの都市でもれんがが使われていましたよ、という意味(ですよね)



万里の長城だって、れんがで作られていたんですね。よく考えたら。



舞鶴といえば海軍、海軍といえば、アームストロング社のことを抜きには語れません。
写真はご存知岩倉使節団。
左から木戸孝允、山口尚芳、岩倉具視、伊東博文、大久保利通の使節団メンバーです。

岩倉のヘアースタイルが奇抜ですが、この格好のまま渡米しています。
一応靴とシルクハットは洋風で、和洋フュージョンが実に時代の先駆です。
ありのままの姿見せるのよ、という日本人の矜持を持ってのことだったみたいですが、
「未開人に見られる」として、同行の日本人がそれを無理くりやめさせました。 

岩倉使節団は欧米でで精力的に造船所や工場を見学したのですが、イギリスで
彼らを案内して回ったのが、地元の産業資本家、W・アームストロング卿でした。


造船所で進水式を見守るアームストロング卿。


皆さんは「アームストロング砲」という名前をお聞きになったことがあるでしょう。
アームストロング社の大砲は、戊辰戦争ですでに官軍によって使用され、
発明後間もない時期からその圧倒的な力を発揮していました。

このときに岩倉使節団がアームストロング社を見学したことは、その後
海軍が同社をはじめとするイギリスの会社に艦船を発注するきっかけになりました。

帝国海軍はイギリス海軍をお手本に作られたということが知られていますが、
なぜアメリカでもフランスでもなく(陸軍はフランスにその組織モデルを求めた)
イギリスだったのか、というと、これは間違いなく岩倉使節団とアームストロング卿が
そのきっかけとなったということなのだと思われます。
 


伊藤 雋吉(としよし)、
という名前をウィキペディアでひもとくと、


「明治・大正期の海軍軍人」

と説明がされていますが、その割に知名度が全くと言っていいほどなく、
海軍に詳しい方もこんな海軍軍人の名前は知らん、というのがほとんどだと思います。

しかし、この人物、舞鶴でたった二人爵位を受けたうちの一人で、
地元と海軍にとってはいわゆる功労者として認識されているのです。

まず海軍軍人らしいところでいうと、海軍が行った初めての遠洋航海の艦長として、
練習艦「筑波」の指揮をとり太平洋を横断しています。

帰路ハワイに寄港し、カラカウア王に謁見するなど親善に努めたことから、
その後の日本とハワイ間の移民渡航条約が締結され、日本人の海外移民が始まった、
となると、伊藤は日系ハワイ移民のきっかけを作った人物ということができますね。



しかし、伊藤の最大の功績はこれではなく、明治15年にそれまで務めていた
海軍兵学校の校長を退任したあと、海軍に籍を置いたまま共同運輸という会社の
社長に就任して渡欧し、そのまま海軍のために艦船買い付けを行なったことです。

当時の日本には軍艦を造船する技術などまだありませんから、初期の海軍は
すべて「輸入艦」を買い付けてこないと海軍としての形にもならなかったのですが、
この重大な仕事を任されたのが伊藤でした。

肩書きは、海軍省艦政局長兼購買委員長

まず伊藤が買い付けた船が、巡洋艦「筑紫」「高千穂」「浪速」でした。

浪速

「浪速」という艦に聞き覚えはありませんか?
 そう、東郷平八郎が艦長であったとき、豊島沖海戦で、停止命令を無視した
「高陞号」を
国際法に従って粛々と撃沈したということがありました。

ちなみにこのとき、東郷艦長の下した命令は「撃沈します」だったそうです。

この船をイギリスで買い付けてきたのも伊藤でした。
この豊島沖海戦は日清戦争の嚆矢となるわけですが、この直前、
海軍は予算を削減され、反発した樺山資紀が国会で行った、

「てやんでえ!薩長政府とか何政府とか言っても、
今この国が平和なのは誰のおかげだってんだ!海軍だろうが!」(曲訳)

という内容の蛮勇演説は有名です。
伊藤はこの樺山のしたで、主に海軍装備の充実に大変な力を発揮し、
舞鶴では数少ない爵位を授けられた人物として名士となったというわけです。


ちなみに大変達筆だった伊藤は、空母「赤城」の艦体に
「あかぎ」という字を残しましたが、それはのちに海上自衛隊の護衛艦
「たかつき」の「か」と「き」に継承されました。

「たかつき」は2002年に除籍になったのですが、その後伊藤の書いた
「か」と「き」がどうなったのかはナゾです。



伊藤が買い付けた「八島」進水式の様子。
エルズウィック造船所の船台から滑り落ちる「八島」です。




さて、ここからは舞鶴工廠に残された写真をご紹介します。

これは日本海海戦で破損した。軍艦「吾妻」の砲塔。

「吾妻」は装甲巡洋艦でフランスから買い付けたものです。
日露戦争ではあの「船乗り将軍」上村艦隊の主力として活躍しましたが、
戦闘中に敵弾を受け砲塔がこのような形になってしまいました。



こちら装甲巡洋艦「日進」 の前部砲塔。
日本海海戦では第1戦隊の殿艦を務め、一時は一斉回頭により先頭を進むことがあり、
それ故に旗艦三笠に次ぐ戦傷者を出したのが「日進」でした。

「日進」

あの山本五十六(当時は高野五十六)が少尉候補生として乗り込んだのもこの艦で、
海戦中に砲身爆発により指を失うという重傷を負っています。

高野少尉候補生が怪我をした砲身爆発がこの写真のものであったかどうかは
この資料ではわかりませんでした。




これも日本海海戦で降伏した「アドミラル・セニャーウィン」。
日本軍では海防艦「見島」となりました。
砕氷艦に改装されてシベリアに派遣されたり、潜水艦母艦となったこともあります。



初めて見ました。戦艦「三笠」の進水式の様子です。
イギリスのヴィッカー社に発注され、進水式は
バロー=イン=ファーネス造船所で行われています。



出来たばかり、装着する前の「三笠」のエンジン。
直立型往復動蒸気機関という機構のものです。



 


日本海海戦終結後、破損した日本海軍の軍艦も、それによって
捕獲したロシア艦隊の船も、とりあえずは舞鶴に寄港したようです。

これはロシア艦隊「アリヨール」(現地発音はオリョールが近い)の海戦後の姿。
これでは甲板にいたものは誰一人助からなかったのではと思われます。




「アリヨール」の砲身。

覚えやすいように日本軍人には「蟻寄る」と呼ばれていた「オリョール」ですが、
その後補修されて戦艦「石見」となり、カムチャッカ警備についていたこともあります。



この「アリヨール」の写真は舞鶴で撮られていますが、公表するものでないためか、
後ろの山などを全く消さずにそのまま残しているのが珍しい写真です。

「石見」は大正13年に除籍となり標的艦となって海に沈みました。



沈む前、「石見」からは砲身と砲弾が取り除かれました。
与謝郡岩滝町の、西南戦争以降の戦死者の慰霊碑として、小学校の庭に
「忠霊塔」と刻まれた砲塔を中心に砲弾が配置されて置かれています。

戦争中の金属供出を免れ、戦後はGHQの「軍パージ」からも不思議と逃れ、
現在もそこにあるということですが、よく小学校の庭にあったこの手のものが
戦後長い間無事だったなと驚きを感じずにはにいられません。

軍港の街舞鶴という土地柄のおかげでしょうか。



続く。


書斎からの眺め〜東郷亭・軍港の街舞鶴を訪ねて

2015-10-07 | 海軍

舞鶴鎮守府長官邸跡、通称「東郷邸」。
終戦までの間、 36人もの司令長官並びに司令がここに居住したわけですが、
初代長官が聖将東郷平八郎だったため、すっかり東郷邸となってしまっております。

ところで度々名前を出しますが、要港部司令官を務めた清河純一中将は、
日露戦争の時参謀として東郷大将に仕えました。
何人かの自衛官に

「これってすなわち東郷さんの副官だったということなんでしょうか」

と尋ねると、おそらくそうであろうと答えたので、そうと仮定しての話ですが、
副官として身近で東郷元帥を知っていた清河大尉は、この時代に上司として、
そして人間としての元帥に心酔し、その気持ちを一生持ち続けていたのでしょう。

何が言いたいかというと、清河中将は、舞鶴要港部司令に任命された時、
東郷元帥がかつて務めたことのあるこの職に就くことを、
それゆえこの上ない名誉と考えたのではないかということなのです。

 
たとえ日露戦争終結後の舞鶴が「閑職」ということになっていたのだとしても。



さて、昭和9年、東郷元帥が病に倒れた時、日本中がその回復を必死で祈りました。




小学校4年生の子供が東郷元帥に当てて出した手紙。
副官の掲げているのは、治癒祈願のために血でしたためられた手紙です。


国民の祈りの甲斐もなく元帥が逝去した時、清河中将は、すでに予備役でしたが、
東郷邸から日比谷公園までの総距離1キロ半に渡る葬列に、
日露戦争時
「三笠」勤務だった将士とともに加わり、
五十日祭の明けるまで
いかなる天気の日にも休まず、謹直に墓参を続けました。


そして、翌年の3月に57歳で亡くなっていますが、その病因は
東郷元帥の逝去以降の心労と墓参のためであったとも言われたそうです。




さて、そんな清河中将が舞鶴赴任時には、「ここにかつて元帥が・・・」
と感激しながら住んでいたに違いない、官舎内部を見ていきます。



おそらく最初からずっとここにあって、38人の司令の姿を
毎日写してきたに違いない壁掛けの鏡。



和室の欄間の透かし彫りは、藤の花の意匠でしょうか。



現在でも海上自衛隊の幹部が会合を行う和室。
昔はここが司令官の居室であり、押入れなどもあることから
ここに布団を敷いて寝ていたのだと思われます。
(というか他にそれらしい部屋もありませんでしたし)

ですから当時は当然このような掘りごたつなどはなかったと思われます。
掘りごたつを覗いて見てみましたが、最新型のものでした。

z

部屋は真ん中で仕切ることができるようで、床の間が二つあります。
この掛け軸についての説明はありませんでしたが、座敷にはなぜか

国雖大好戦必芒 天下雖平、忘戦必危

(どんな国が大きくても戦争が好きであれば必ず滅びる。
どんなに天下泰平であっても戦争の準備を怠れば危険が訪れる)

という、今の日本とその隣の国に聞かせてやりたい「司馬法」の言葉が
書かれた木版が畳の上に置かれていました。

掛け軸も東郷元帥の署名があり、二箇所読めない字があるのですが、

こちらもつまり

「戦いに備えなければ平和はない」

というようなことが書かれていると思います。



加賀の金箔、京都正絹の忍緒、京都錦織の座布団?江戸の金細工。
当時考えうる限りの「ブランド」を使って設えられた兜。



庭の緑が座った位置から見られるように、障子は下がガラスです。
昔は雪見障子になっていたのではないでしょうか。




消化器を隠す木の収納箱も雰囲気を壊さぬように配慮。
おそらく昔は雨戸が外付けになっていて毎晩引かれたに違いありません。



消火栓入れを内側から見たところ。



そしてここが書斎です。
開かれた窓にはいつ点されたのか、蚊取り線香が煙をくゆらせていました。

「蚊が多いんですよ」

と海将補。
まあ、わざわざ水を貯めて作った人工池があればそうなるでしょうな。
海将補も、舞鶴赴任になって以来、こんな感じの歴史的な官舎にお住まいで、
これがまた住むのが大変なのだ、ということでした。

それはともかく、この書斎に座って、舞鶴鎮守府時代の東郷長官は
何事かを思い庭を見る日々が続いていたのです。

巷間、東郷平八郎が連合艦隊の司令長官に任命される前、舞鶴鎮守府初代長官に
指名されたのは「左遷だった」という説があります。

説明してくれた海将補も、そういう職にあった東郷を抜擢するにあたって、
海軍大臣であった
山本権兵衛が、天皇陛下に

「東郷は運のいい男にございます」

と奏上したとおっしゃっていましたし、わたしも同じことを当ブログで書いたことがあります。
しかし実際は、山本が、扱いにくい日高壮之丞を第1艦隊司令長官にするのを嫌い、
おとなしくていうことを聞く東郷を抜擢したにすぎず、さらにそのときの言葉は

「この人が、ちょっといいんです」

であったという証言があるのです。
いずれにしても山本権兵衛が陛下に対してタメ口なのが驚きですね。



「これは当時のままですか」

と訪ね、そうだという返事を聞いて撮った天井の写真。
東郷平八郎が書の合間にきっと眺めることもあったであろう天井です。


「ガラスに歪みがありますね」

わたしがいうと、広報の方が

「よく気付かれましたね。このガラスは当時のままのものですが、
舞鶴に工場を持つ日本板硝子に依頼しても、同じものはできないとのことです」



呉鎮守府長官公邸もそうでしたが、当時のガラスは歪んでいて、
それがまた味があるというか、風情を感じるものです。
耐用年数の長いガラスは、今も東郷元帥がこれを通して外を見たままに
同じ景色をそれを通して見ることができるのです。



一般にこういった歴史的な建築物が機能性・居住性に優れているはずがありません。
にもかかわらず、自衛隊の所有であるこれらの建物に住み続けなくてはいけないというのも、
伝統墨守を旨とする海上自衛隊の偉い人の宿命というものなのです。

「わたしのいる官舎がまた大変なんです」

と切々と訴えられる海将補(笑)
なんでも舞鶴というのは昼間暑く夜は寒い、冬になると部屋の中も零下、
というような気候だそうで、特にこういった昔の家屋は夏の通気には優れているが
冬はそれこそ部屋の中でテントを張って生活している将官もいたのだとか。

しかも、海将補の官舎には蜂が巣を作り、その駆除と
ハチとの戦いで精魂尽き果てそうな毎日だと、海将補はおっしゃいました。

しかも、市の文化財などに指定されてしまうと、改装改造の類はご法度です。

「こちらに来て体を壊してしまった者もいました・・・」

遠い目をされる海将補。
せめてそんな環境でも滋養をつけていただこうと、帰宅してから海将補に
すっぽんのおじやをお送りさせていただいたわたしたちです。



おおおおお、とつい声が出てしまった映画「日本のいちばん長い日」パンフ。
実は舞鶴でこの映画のロケが多数行われているわけですが、
この東郷亭でも、鈴木首相(山崎努)が帰宅して着替えをするシーンが
(本人は何もせず着物を肩からかけてもらったりしていたあれ)撮影されているそうです。

映画を見たのがこの何日か前であったので、記憶は鮮明でした。

右側の菊の御門の巻物は、日露戦争の終戦の勅です。

そしていきなりこんな空間が・・・。
かなりの人数分の食器やグラスを収納した棚、電化製品、座卓。
食事を運ぶワゴンまであって、まるで人のうちの台所を見ている気分です。



飲みかけのお茶なんかが出ているところをみると誰かいる?

「いつも管理の人が詰めています」

電話は設置されておらず、携帯が置かれていました。
ちなみに奥の張り紙は、「電解還元水・酸性水の使用例」だそうです。

いきなりこんな生活じみた光景が現れるあたりが実際に
使用されているということなんだろうなと納得しました。



この適当に書かれた感じが、いかにも直筆らしい(笑)。
色紙を出されたのでさらさらっと書いてみました感溢れる東郷平八郎書、

「勝って兜の緒を締めよ」

 その辺の人が言うのではなく、連合艦隊解散之辞において、この言葉を選んだ本人が
書いているのですからありがたさ倍増。ってことなんだと思います。


舞鶴鎮守府長官の職が果たして閑職であり、つまり東郷中将は左遷されていたのか、
については必ずしもそうではないという考え方もあります。
つまりこのころ、日露戦争の火種はもうとっくに興りつつあり、舞鶴は
来る対露戦を想定してロシアのウラジオストック軍港に対峙する形で設置された
重要ポストであり、決して閑職というわけではなかったというのです。

これらは、東郷元帥が閑職から運だけを買われて大抜擢されただけなのに、
日本海海戦でのあっと驚く名采配によって聖将とまで言われた、という、日本人好みの
大逆転サクセスストーリー、いわば東郷元帥を称える「スイカに塩」的な味付けとして
流布された悪意のない脚色ではないかとわたしは思っています。 


しかしながら、東郷中将本人がこれを「閑職」と考えていたとすれば話は別です。
どうもいろんな資料を見ても、外からの評価はともかく、本人は左遷されたと感じ、
早く中央に帰りたい、と思っていたことは事実で、 つまりここに起居していた2年間、
海将補がおっしゃるところの

「書斎から庭を眺めながら鬱々と物思っていた

というプチ臥薪嘗胆な日々を過ごしたことは間違いありません。

亡くなったとき小学生が書いた「トウゴウゲンスイデモシヌノ?」という文が
新聞を飾ったことに象徴されるように、日本国民の神様になってしまった東郷元帥ですが、
機関科問題が起きた時「竈焚き風情が」などと思わず言っちまったことなどを見ても、
案外権威主義で、序列に拘泥するような俗な部分もあったのかもしれませんね。


というわけで、深い崇敬の念を持ちつつも、東郷元帥の神格化には異を唱えていた
井上成美大将に、僭越ながらわたしもまた賛同するのでした。



続く。

 

東郷平八郎の”写真初体験”~東郷邸・軍港の街舞鶴を訪ねて

2015-10-05 | 海軍

さて、庭を見学した後、わたしたちは東郷邸に上がることになりました。
昔舞鶴鎮守府長官の官舎であったところですが、最初の住人が
初代長官であった東郷平八郎だったのでこう呼ばれています。

鎮守府というのは今更ですが、海軍の根拠地であり、
艦隊の後方を統轄した機関をいいます。
もともとは海軍提督府といったそうですが、最初の鎮守府は1876年、
横浜に設置され、その後これが横須賀に移転しました。
つまり、鎮守府の最古参というか総本山は横須賀と認識されていたのです。

呉と佐世保に鎮守府が置かれたのは1889年のことであり、
舞鶴はその2年後なので、横須賀以外は皆同じようなものであるはずですが、
舞鶴は一番遅くにできたこともあって、格でいうと下という考え方もあります。

なにしろ、ワシントン軍縮条約のあおりで「鎮守府」から一時廃止され、
「要港部」に格下げされていたくらいです。



東郷邸の玄関口頭上には歴代鎮守府司令長官と、要港部司令官が
このように分けられて記してあります。

前々回、連合艦隊参謀だった清河純一中将が「鎮守府司令官」でなく
「要港部司令官」であることに疑問を感じた方はおられませんでしょうか。
これは、1923年から39年までの間、舞鶴は「鎮守府」ではなかったためなのです。

ですからこの16年間の間に要港部司令官だった18人の後、
13代司令長官となった原五郎中将から終戦までが「舞鶴鎮守府司令長官」
と呼ばれることになったということです。


一つの見方をすれば、戦前ここの司令官になった海軍軍人は
海軍の中では「窓際」であったといえなくもありません。

清河純一は兵学校では在学中、品行方正賞なども授与されているようですが、

いかんせんハンモックナンバーは59名中10位でしたから、それを考えると
要港部長官というのは、そのわりには出世したというべきだと思われます。

・・・という話を念頭に置いていただいて、中を見ていきましょう。



玄関は和風の造りですが、一歩入るといきなり洋風です。
これは洋風の部分に応接室、接客室があったからです。
昔はこの部分は靴のまま入ったのかもしれません。



海軍機関学校の卒業式などに帽子を置くためだけに作られた台。
せっかく作ったので使っていない時には花瓶を置いたりすればいいのに、
と思ってしまいますが、フェルトを貼っているため、他の用途には使えません(笑) 

 

昭和天皇と東郷元帥が一緒にいる写真を初めて見ました。
式典当日とあるだけで、なんの式典なのかわかりませんが、
撮られた場所が軍艦の甲板であることから、観艦式でしょうか。



自筆のサインのある東郷元帥像。
この写真も今まで見たことがありませんし、検索しても出てこないので
東郷写真としてはレアなのではないかと思われます。

おそらく東郷邸が今まで公開されてこなかったせいでしょう。




応接室の椅子も当時のものでしょうか。
一度くらいは張替えをしていそうですが、テーブルの上の札には
座らないでください、と注意書きがあります。 



応接室の窓から外を望む。
内側から見ても白い窓枠は実にエレガントな雰囲気です。



窓際に飾られている軍艦は(状況から見て)「三笠」。



廊下の部分にはガラスケースが置かれ、日露戦争関係の資料が展示されています。

「参戦二十提督 日露大海戦を語る」

「旅順港閉塞隊」

「旅順現状写真帳」

「東郷元帥一代の東郷元帥一代の記念」

といった当時の出版物。
上段見開きは「軍神広瀬中佐」として、

「(右)明治37年3月27日第二回旅順閉塞の壮挙に戦死せる中佐
(明治元年生・享年三十八才)
(左)第一回閉塞船報国丸を沈没せしめ任務を果たし終わらんとしつ
甲板を疾駆し去る広瀬中佐」

 

せっかくですので疾駆する広瀬中佐の絵を拡大してみました。
漫画っぽい。



廊下の壁には、セオドア・ルーズベルトが翻訳させた東郷元帥の

「連合艦隊解散の辞」英語版が掲げられていました。

冒頭には
「将軍命令 No.15」とあり、ホワイトハウス付で出された声明として
国のために戦う者であれば、陸海軍を問わず平時であっても武の心構えをもつべきとした
この言葉を胸に刻むべきである、故にこれを全軍に配布する、といったことが書かれています。

「連合艦隊解散の辞を読む東郷さんの肉声をお聞きになったことがありますか」

と海将補。
ありますと答えると、

「あれでは終戦の勅ではありませんが、現場で聞いていて分かった人はいなかったでしょうね」

聯合艦隊解散式訓示 



確かに。途中で咳き込んでるし。



こちらも日露戦争関係グッズ。
「露艦隊来航秘録」「露艦隊 幕僚戦記」「露艦隊最後実記」
などの戦記本、右上はよくわかりませんがロシア語の本です。
真ん中はまるで見てきたように描かれた「オスラビア」轟沈の図。

日本海戦の勝利がいかに当時の日本人を熱狂させたかが伺い知れます。



さて、ここでとっておきの画像を。

後列右の白いスーツを着たイケメン君が東郷平八郎。
説明によると「春日艦時代のもの」とあります。

先日、日本初の海戦は「阿波沖海戦」である、と書いたわけですが、
この海戦に参加した「春日丸」に東郷は三等砲術士として乗り組んでいます。
この写真は全員「春日丸」の乗組員であるということですが、
着物に帯刀の同僚がいる中、東郷は一人軍服に軍帽を携え、なぜか傘を持って写っています。

ときに東郷平八郎、二十歳。

小柄ではあったものの目鼻立ちの整った美男子である彼は、いつもモテモテだったといいます。
このころは快活でむしろおしゃべりという性向であったようですが、このあと、
留学のお願いをするために交渉した大久保利通が

「東郷はおしゃべりだからダメだ」

といったこと、そして念願叶って留学で渡ったロンドンで

「To go, China」

などと民族的差別にあったことから、 極端に無口になったといわれます。


こちらの写真は東郷(右端)が23歳のとき、とあるのですが、
上の写真で全員が乗っているソファらしきものが全く同じであること、
東郷平八郎の髪型がどちらも全く同じであることから、
同じ日に同じ写真館で撮ったものとわたしは思います。

それにしても不思議な写真で、左の男性は大きな瓢箪を抱え、
真ん中の既婚女性(眉毛がない、つまり引き眉をしている)は
串に刺した団子をもっています。
東郷はというと、鉢のようなものを抱えていますが、なぜか二人とも
目をレンズから逸らしたままで写っています。


東郷平八郎が二十歳のころというと18
68年。

このころはまだ日本に初めての写真館ができてから7年しか経っておらず、
おそらく彼らの写真が撮られたのも、日本に数件しかない写真館でのことです。

つまり、「春日丸」の乗組員は、この日、

「新しく柳川にできた写真館にいってみやうぢゃないか」

というノリで、皆で連れ立って噂の写真というものを撮りに行ったに違いありません。
ということは、これが東郷平八郎の「生まれて初めての写真体験」ということになります。


魂を抜かれる、なんて噂も当時はあったくらいですから、ドキドキの東郷青年が
思わず目を伏せて写ってしまったのもわからなくはないですね。



続く。





東郷邸の一心池〜海軍の街舞鶴を訪ねて

2015-10-04 | 海軍

海上自衛官の案内で巡る舞鶴海軍&海自施設のツァー、
ついに最後の行程になりました。

海軍記念館のある初代舞鶴鎮守府司令長官、東郷平八郎が官舎として
二年間住んだ「東郷邸」の見学です。



海軍記念館のある舞鶴地方総監部から、車で先導していただいて
山の方に5分ほど走ったところに東郷邸はあります。

案内の方が時間を急いだのは、わざわざ地方総監の将官が
わたしたちに東郷邸の案内をするために、現地でお待ちくださっていたからでした。

東郷邸は、グーグルで見ても正確な場所が特定できません。
海上自衛隊の保管となっているため、検索すると舞鶴地方総監が出てきます。

東郷邸の前にある駐車スペースに車を入れていると、すでに門の前には
真白い制服の肩に、二つ桜に錨の金も眩しい自衛官が佇んでおりました。


さっそく名刺交換をして、見学スタートです。



車を停めた道沿いの柵の向こうには海保の官舎があるそうです。

「昔は海軍の土地だったのですが、戦後、先に海保ができたもんだから、
こういうところを取られてしまったんですよ」

いきなりそれですか。



鎮守府司令長官の官舎なので、やはりセキュリティには気をつけたい。
ということで、セコムもアルソックもない当時は、屋敷の周り一面に玉砂利を敷きました。
玉砂利は踏むと特に深夜は音が響くので、鶯張りの廊下と同じ役割をします。



敷石伝いに門から入って行く人には関係のない話です。
敷石は途中で二手に分かれ、海将補は右へとわれわれを先導しました。



そこには目立てした白砂の美しい小さな庭園がありました。

わたしはここをご案内いただける話をしていたとき、

「東郷邸っていっても官舎なんですよね」

というと、そうですということでした。
初代長官が東郷平八郎だったからこう言っているだけで、
終戦まで歴代鎮守府長官が住んでいたわけですから、正確には

「東郷平八郎も住んだ!舞鶴鎮守府長官庁舎」

と言うべきなのです。
まあ、これもキャッチフレーズというものなんでしょうな。
東郷邸は舞鶴市の近代化遺産に指定されていますが、管理は海上自衛隊が行っています。



「それでは庭に入ってみましょう」

「えっ!目立てしてあるのに」

「構いません。わたしどもが毎朝掃除しますので」

そう言って中に入って行く案内の広報の方。
座敷に土足で入って行くようなこの罪悪感は何?



本施設は海上自衛隊の所有であり、現在も幹部会議に利用されています。
正式名称は「海上自衛隊舞鶴地方総監部会議所」となっています。

本来非公開だったのですが、舞鶴市制70周年を記念して平成25年5月27日の
「海軍記念日」に初めて公開されたほか、昨年も、舞鶴で開催された
「海フェスタ京都」の際に一般公開されてそのとき好評だったことから
今年の四月、定期的な一般公開を始めることにしました。


公開日は毎月第1日曜日(1月は第2日曜日の予定)午前10時~午後3時。
入場無料で駐車場はありませんとのことです。

しかし、その際、庭に入れるかどうかはわかりません。



庭に案内されたのは、この「一心池」をみるためです。

初代長官であり、この官舎の最初の主であった東郷平八郎中将の晩年の趣味は
園芸だったといいますが、明治35年、つまりこの官舎に住みだして1年目に、
狩猟の途中に見かけた改修中の庭を見かけて、作業していた庭師に声をかけました。
すると庭師は、自分の作っていた不思議な形の池について

「一心池というのは、心という文字を模した池に一文字の橋をかける手法で、
中国の禅の思想を含み、極楽浄土や神仙境をはるかに遠く隔てた大海を意味する」

と説明しました。
東郷中将はいたく感銘を受け、その庭師に依頼して官舎の庭に池を造らせました。
しかし、説明された海将補は

「わたしにはどうみても心という字には見えないんですが」

ときっぱり言い切られます。



いや、まあ、こういう角度から見ても・・・ねえ?

しかも、このなんだか日曜工事で作ったみたいなコンクリートの池は、何?
これは、平成5年に護岸されていた石をわざわざ取り除いて、
コンクリートで固めてしまったそうです。

風情も何もあったもんじゃありませんが、それもこれも
すべての管理をお金のない自衛隊に押し付けるからこういうことになるんですよ。

違う?



邸内にあった説明の写真を見てもよくわかりません。

さらに解説すると、橋の部分が「一」を表します。(わかる)
くねった形の池が「心」の「し」の部分で(わからない)
木と石を配してこれを「心」の点三つに見立てるというのです。(わかるような)



昔は池の周りに植わっていた程度の木だったのでしょうが、
明治34年(1901)に植えられて114年が経過した今では、
ただでさえわかりにくい池の形や築山を覆い隠すくらい葉が茂っています。

庭創建当時に庭師が

「月は波心に落つることあり」


の意味を込めて配した組み石のほとんども、いまでは厚い苔に覆われて
埋もれてしまい、もはや見ることはできなくなっています。


「一心池」と書かれた碑石ですが、この時を揮毫したのはなんと、
「旅順港閉塞作戦」の立案者であった有馬良橘。
この碑石を作ることが当時の舞鶴鎮守府長官によって決まった昭和16年、
たった一人だけ存命だった東郷元帥の元参謀として、80歳にして筆をとりました。

有馬良橘は予備役に入ってから、生涯明治神宮の宮司を務めており、
昭和5年に東郷平八郎が逝去したとき、葬儀委員長に推挙されたのですが、

神官が葬儀に関わることを禁止した通達に抵触するのではないかとの議論が持ち上がり、
葬儀委員長の方を辞任しています。

代わって委員長を務めたのが加藤寛治でした。


終戦になってここもまたGHQに接収されることが決まった時、

関係者はこの碑石を東京の東郷神社にある「御成池」端に移しました。

おそらくアメリカ人はこの石の意味がわかったからといって
排除したり損壊したりすることはなかったと思われますが、
当時の日本人には、昨日までの敵国人がどんな振る舞いをするかは想像もつかず、
とにかく別のところに移そう、ということだったのでしょう。

昭和44年になって東郷記念館が完成したとき、その落成記念祝賀の席上、
舞鶴地方総監に転勤する星野清三郎海将(海兵63)に、

「この碑石は本来舞鶴旧長官邸にあるべきもの」

と持ち帰ることが依頼され、24年ぶりに元の場所に里帰りし現在に至ります。



建物の鬼瓦の部分にはさりげなく錨のマークが。



ここにも。
瓦は葺き替え、雨どいも近年新しく補修したようです。



すべての部分に錨が付けられている模様。

軒下の照明は、一心池をライトアップするために取り付けられたようです。



廊下の突き当たり、張り出した部分はトイレかな?
現在も現役で使われている施設なので、当然改修されているでしょう。



呉の鎮守府長官邸と全く同じ、和洋折衷の建物となっています。
洋式建築の部分では長官の公務が行われ、外国の高官を迎えることもあったに違いありません。



わたしはカメラ派ですが、その他2名はスマホ写真派です。



洋館部分外壁細部。
唐草のような装飾が瀟洒なイメージです。

日本式家屋を作る大工と、こういう様式建築の大工は、
全く別だったと思うのですが、どうやって作業したのでしょうか。



さて、庭からの見学を終わり、敷石伝いに今度は玄関に回っていきます。
わたしが庭から座敷の写真を撮ろうとしたら、

「この後上がっていただけますから」

と制止されました。
なんと!中に入れるとは全く期待していませんでした。



115年前、東郷平八郎が踏んだその同じ敷石をつたって、
いよいよ舞鶴長官公邸(元)に入っていきます。


続く。