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百三回目の桜〜横浜鎮守府司令長官庁舎一般公開

2016-04-09 | 海軍

旧横須賀鎮守府長官庁舎、現田戸台分庁舎の一般公開、
わずか1時間ほどの見学から知る歴史や秘話。
いつもながら歴史的な遺物を見ることは、それだけで終わらせず
後から探求することによって知ることの愉悦を与えてくれます。


ここが一般公開の時しか見学できないというのは残念ですが、

横須賀地方総監部の管理下にある以上、管理人を置いたり、
ましてや見学料を取ったりすることができないのでそれもやむなしです。
この近くには横須賀地方総監の官舎もあった(はずな)ので、
不特定多数の人々が立ち寄るようになると警備の点でも困るでしょうし。 


ところで、地方総監というのは旧海軍でいうところの鎮守府長官です。
つまり、海自は旧海軍で長官庁舎だったところの近隣に
現在も地方総監の官舎を構えているというわけですが、何か理由があるのでしょうか。

これは想像でしかないのですが、ここは昭和37年まで横須賀に進駐していた
米海軍の長官公舎として使用されていました。
この頃までには海上警備隊から名前を変えた自衛隊はすでに横須賀地方総監を
この地に置いていましたが、米軍がまだいたためここを使用することができず、

したがってわざわざ近隣に地方総監用の官舎を建てたのではなかったでしょうか。

当時の地方総監は初代から始まって全員が海軍兵学校卒でしたから、
(防大1期が総監になったのは1989年のこと)我々が思う以上に
この鎮守府庁舎の意味は彼らにとて大きかったのではないかというのがその理由です。

しかし結局、旧鎮守府長官庁舎に自衛隊の地方総監が入居する日は二度と訪れませんでした。




大きな意味、というのは海兵出身の海軍軍人にとって、これらの有名な海軍の先輩が
ことごとく住んでいた官舎に自分も住む、という感慨でもあります。

例えばここには日露戦争では「三笠」の砲術長だった加藤寛治がいますね。

加藤と同級生の安保清種も日本海海戦のとき「三笠」砲術長でした。
この人が、ドミトリードンスコイ=「ごみ取り権助」の張本人、じゃなくて
発案者です。(いわれてみればいかにもそんなことを言いだしそうな顔です)

のちに総理大臣になって226事件では邸宅を襲撃された岡田啓介
「大角事件」で軍拡路線の邪魔になりそうな山梨勝之進、堀悌吉らを
追放して今日やたら評判の悪い大角岑生の顔も見えます。



海上自衛隊の父となった野村吉三郎、そして最後の海軍大臣米内光政
開戦時の軍令部総長であった永野修身、近衛内閣時の海軍大臣及川古志郎

及川といえば、東條英機に「戦争の勝利の自信はどうか」と聞かれた時、
「それはない」と答えた話が有名ですが、彼に限らず海軍の上層部は
皆このくらいのことはわかっていたんだろうなという気がします。



27代から30代までが一人を除きビッグネームで、以降が戦史的に無名なのは、
横須賀鎮守府長官は「これから出世する役職」であったからだろうと思われます。

第44代の塚原二四三は、終戦直前に大将になった人で、なんというか
本人には気の毒なのですが、「大将になりたい」ということしか
(あんな戦況の最中)眼中になかった、という風に書かれています。

すでに同期の出世頭だった沢本が19年3月に大将に昇進し、
南雲も同年7月にサイパン島での戦死して大将に昇進したこともあり、
実直な塚原も内心は大将昇進を望み始めていた。
しかし、当時の海軍次官・井上成美中将は、井上本人も含めて
戦時中の大将昇進を凍結する「大将不要論」を掲げていた。
時に怒りも露わに井上を罵り、時に溜息混じりに嘆きつつ、
塚原は大将への憧れを周囲に吐露していた。
昭和20年(1945年)5月1日、昇進を阻む最大の障害だった井上が
海軍次官を降りたことによって、5月15日に井上と同時に大将に昇進。
「最後の海軍大将」の枕詞がつく井上と同時に昇進したのだから、
塚原もまた紛れもなく「最後の海軍大将」である。(wiki)

井上成美のような意見はどちらかというと少数で、大抵の軍人は
中将まで行ったらできれば大将で軍人人生を終えたい、と思うのが
普通というか、人間ってそういうものだと思うのですが、
どうしてこの人だけがここまで非難めいて言われるのか、
どなたかその理由をご存知ないでしょうか。




さて、そんな代々の横須賀鎮守府司令長官たちが毎年この季節に見た桜。
おそらく戦前にはここで今のように「観桜会」が催されたに違いありません。



庭の広さは13,000㎡。
桜を始め、百日紅、紅葉などの古木が残されています。
今咲き誇る桜は、この100年間、毎年同じ時期に花を咲かせてきました。



この長官邸のその時その時の居住者が、同じ桜の薄紅色に
それぞれどのような思いを込めながら見入ったのか・・。
野村吉三郎は、米内光政は、及川古志郎は、そして塚原二三四は・・(´・ω・`)

そんなことをつい考えてしまう場所です。




今年の一般公開の期間、この地方はずっと花曇りでしたが、
晴れた空と陽の光の下で見る桜とは又違った風情が楽しめました。



染井吉野だけではなく、濃い紅色を持つ種類の桜木も咲き誇っていました。



というわけで、庁舎をあとにして出てきました。
タクシーの運転手さんから一応電話番号をいただいていましたが、
町並みを楽しみながら歩いて行くことにしました。

この画面の、異様に高い丘の部分はなんでしょうね。
木が残っているので、かつて山の斜面が削られた跡かもしれません。



そしてこれ。
塀の向こうに、明らかに昔からあるらしい建造物が・・。
昔は防空壕だったとか?



タクシーの運転手さんは、ここに行くには「旧裁判所跡」といってもいい、
と教えてくれましたが、その跡のようです。
そんなに老朽化した建物ではないような気がしますが。

簡易裁判所は平成24年に新港町に移転したばかりだそうです。



帰り道発見した古い魚屋さんの看板。
もう営業は行っていないようですが、古くからここにあったのでしょう。



さらにこの近くには、現在も営業中(多分)の八百屋さん。
長官庁舎があったせいでこのあたりは空襲を受けなかったため、
このような建物が戦災で失われることなく残ったんですね。



通りがかりの男性が(多分一般公開に来た人たち)大正か昭和初期のものだろう、
と話し合っていました。
看板の文字が右から書かれているのでその通りだと思われます。

さて、わたしはこのあと、商店街を眺めながら横須賀中央駅付近に帰ってきました。



「みかさ」というショッピングアーケードに横須賀土産の店があるので
入ってみたら、3階はなんと展示室。
写真を撮るのを忘れましたが()旧海軍の制服や、なぜかこのような
意味ありげな(これなんだろう)コーナーがあり、



地元の模型クラブの作品が展示されていました。
ちなみにこれは昭和19年に行われた松号輸送作戦を再現したもの。

松輸送はこの時期にしては奇跡的というくらい損害がなく成功した作戦で、
米潜水艦からの攻撃を受けた艦があってもそれらが不発だったり、
あるいは発射した魚雷が円を描いて戻ってきて自分に当たる(ガトー級タリビー
などという信じられない日本側の幸運が相次いだことでも有名です。



階段の踊り場には、原画が飾られていました。

「史実ではたった10日で沈んだ幻の鑑」

・・・ったら「あれ」しかありませんよね?

横須賀で起工し、艤装を完成させるために回航中
米潜水艦に攻撃され沈没した・・・・

「あれ」がなぜ沖縄決戦に???

どなたかこの作品の詳細をご存知の方おられますか。



台詞の部分に字が貼り付けられているので、原画だと思うのですが、
どんなに眺めてもペンや塗ったあとが見えませんでした。

それにしてもプロというのは凄い絵を描くものだと改めて驚愕しました。



このお店で購入したお土産・・・といっても全部食べるものですが・・。
写真を撮るのを忘れましたが、これ以外にわたし自身のために錨を模った
ピンバッジを購入しました。

「肉じゃがカレー」「江田島海軍カレー」など、海軍カレーの発展形?
というコンセプトと思われる新商品が出ていました。

このなかで食べるのが一番楽しみなのが「陸軍さんのライスカレー」。
なんで横須賀で陸軍さんなんだよー。



さて、級横須賀鎮守府司令長官庁舎の庭にある見晴台からは、
こんな光景が臨めます。
向こうに見えているのは観音崎。

ここの主が海軍軍人であったころ、まだここには東京湾を防衛するための
砲台が装備されてはいたものの、ほとんど何もない土地でしたが、戦後、
ここに指揮官育成のための教育機関たる防衛大学校ができることになります。


かつての司令長官たちはこの季節、必ず一度はここに立って同じ景色を眺めたでしょう。

同じこの場所で103回目に咲いた鎮守府の桜。

激しい変遷を伴って泡沫のように過ぎた時間が信じられないくらい、
それはまるで奇跡の如く昔と変わらず鮮やかに、そこにありました。


 



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15 Comments

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昭和は遠くなりにけり (雷蔵)
2016-04-09 17:00:14
田戸台から京浜急行の最寄り駅は県立大学ですが、途中にちょうど小原台が本文中の写真と同じように見える坂があります。

この坂が横須賀出身の空前絶後のアイドル山口百恵さんの大ヒット作「横須賀ストーリー」に「急な坂道駆け上ったら、今も海が見えるでしょうか」と歌われた聖徳寺の坂です。

歌の頃、坂下の国道の向こうは海でしたが、現在は埋め立てられ、県立大学その他が建ち並び、坂から海はほとんど見えません。

昭和は遠くなりにけり!
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夢幻の軍艦大和 (佳太郎)
2016-04-09 17:43:28
踊り場の漫画はこの漫画ではないかと思います。大学時代大学近くのブックオフで立ち読みしていた漫画です(笑)絵の感じがその作者に似てますし、ちょっとGoogleで検索したところあらすじに沖縄決戦に空母信濃が参加というようなことが書かれていました。おそらくそうかと。
しかし綺麗な桜です。エリス中尉の写真の腕も相当なものですね。良いレンズもお使いのようで。
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横須賀の陸軍 (婆裟羅大将)
2016-04-09 18:10:10
エリス中尉

さらっと書かれていますが、調べ物大変だったでしょう。
最近調べて書く、というのが仕事以外では億劫で自分の歳を感じます。
ところで、、中尉の
>なんで横須賀で陸軍さんなんだよー。

ですが、確かに横須賀は海軍の街として栄えてきましたが、
小原台のふもとの馬堀(まぼり)という所には、かつて陸軍砲兵学校と言うのがありまして
婆裟羅の母校であります。(!)

正確には砲兵学校の建物が戦後 小学校、中学校に改装されたので、そこの卒業生です。(笑)
さすがに中学在学中に建て替えられましたけどね。

さらに小原台の要塞地帯はあちこちに古いトーチカや素掘りの洞窟があり、良い遊び場でした。
今は危険なものは全部埋めてしまったでしょうね。

ところで最初に海軍とともに栄えてきた横須賀と書きましたが、
最近は限界集落がいくつもあり、人口が減りつつあるのだそうです。
その先はヨコハマ買い出し紀行の黄昏の時代が待っているのかな。

自分は逃げ出してしまいましたが、寂しい限りです。
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塚原大将と太宰治 (筆無精三等兵)
2016-04-10 00:38:33
お久し振りです。三等兵です。
塚原大将の評判がすこぶる悪いのは、一重に「未練がましさ」にあるのではないでしょうか?
当時の組織運営上、大将の存在が重要視されていない中、人事を司る井上中将に哀訴じみた直談判までして大将復活を図る様は当時の軍人、もしかしたら一般人からでさえも「未練がましい」の一言に尽きたのでしょう。
この「未練がましさ」、佐藤春夫に恥も外聞もなく芥川賞をねだった、太宰治に通ずるものがあるように私は思います。
(逗留代の片に檀一夫を宿に残したくせに、金策もせずに遊び呆けていた上、それを元に説教じみたメロスを書き上げたり、先日中尉の紹介された三島由紀夫とのエピソードなんかを聞くと、作品の完成度はともかく、人間性は小心者のくせに見栄っ張り、はっきり言って下劣と思えます。)

話は変わって(相変わらず、すみません)、過日三笠を訪ねた折りに、説明員の方で、やけに山本権兵衛を持ち上げている方がいらっしゃいました。その方がおっしゃるには、「山本閣下が大鉈を振るって海軍内の薩摩閥を解体し、有機的な組織作りをしたからこそ、東郷元帥が日本海会戦で勝利を治め、米英に匹敵するほど海軍の近代化も達成された。大日本帝国海軍にとって一番の功労者である」ということでした(だから三笠の紹介パネルでは山本閣下が一番目立つ位置に配置されているそうです)。その方は、地政学や軍事学を義務教育のうちから取り入れても良いという少々過激な主張もしておられ(説明を受けられていた見学者の方は、やや、というかかなりヒキ気味でした)、昨今の政治・行政、特に教育に関して何やら思うところがおありのようでした。
話される内容から、どうも潜水艦艦長経験がおありの上、もしかしたら幕僚経験もあったのかもしてません。
自衛隊員は入隊の際、「政治活動に一切関わらない」と宣誓するそうですが、己の存在意義がその政治に左右される隊員には、言葉には出来なくても、時の政治家・政権に訴えたいことが胸に渦巻いているのでしょう。
そういった鬱憤が、いざ退任した後に一気に吹き出して、上記の説明員の方のようになるのかもしれませんね。

すみません、後半は今回の内容とは全く関係ありませんでしたね。
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花より・・ (ハーロック三世)
2016-04-10 05:02:14
すみません
深夜にお腹が空いたので、秀逸な画像や詳細な取材よりも、カレーに惹かれてしまいました。

横須賀名物の海軍カレーを名乗る商品は数々あれど・・・

私が一番美味しいと思うのは調味商事(本社は三笠の真ん前!)さんのよこすか海軍カレーネイビーブルーとシーフードソースです。
外箱には社長さんと思しき方が、2種軍装で写っています。
よほどの海軍好き(海軍おじさん)かとお見受けしました。

最近ではこの味を家庭で再現できるよう、カレールーのフレークも発売されました。

旧海軍のカレー皿やカップ&ソーサー、スプーンなども販売されているので、一揃い買いました。
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婆娑羅大将さま (雷蔵)
2016-04-10 05:37:54
1990年代に馬堀の官舎におりました。お会いしていたかもしれませんね。

今は海側に温泉が出来、高速も通り、便利になりましたが、横須賀中央の西友跡がマンションになったり、横須賀としては、最盛期は過ぎたかなという感じですね。

ダイエーが出来た、昭和から平成に変わった頃が最盛期だったかもしれません。夜の一人歩きは危なそうだった臨海公園がベルニー公園になって生まれ変わったのもその頃でした。

どぶ板通りもきれいになって「港のヨーコヨコハマヨコスカ」はもう遠いです。
返信する
皆様 (エリス中尉)
2016-04-10 12:30:42
雷蔵さん
山口百恵って横須賀出身だったんですか!知らなかった・・ってそこかい(笑)
それにしても国道から向こうが海だったなんてびっくりです。
わたしがお世話になっているディーラーの担当が横須賀に転勤になったのですが、
わざわざ担当を引き継いでくれて、遠路はるばるうちまで来てくれています。
そのディーラーが国道沿いにあるのを初めて今回見つけました。
もうあそこから海だったんですね。

鎮守府長官や米海軍司令官が見た眺めも、写真よりずっと風光明媚だったでしょう。

佳太郎さん
絵柄と内容から見てどうもそのようですね。
調べていてその最終巻におまけとして「海軍少佐島耕作」というのがあると知り、
今無性に読みたくなっています。
「島耕作があと10人海軍にいたら日本は負けなかった」という説らしいんですが(笑)
写真を佳太郎さんにお褒めいただくと嬉しいです。
毎年思いますが、桜を撮るのは本当に難しいですね。
花のアップはあえて望遠レンズを寄せて使いました。

筆不精三等兵さん

>未練がましさ
誰でも出世を望むのだけど、やっぱりその願望を口に出すのはみっともないというか
かっこ悪いですよね。多分塚原大将は正直な人で(笑)なりふり構わずだったのが
周りを辟易させ、そういう噂が根強く人の記憶に残されたのでしょう。

高校生の時に書いたエッセイを昔ここで一度上げたときに話したことがあるのですが
その頃のわたしは蛇蝎のように太宰を嫌っておりますた。
自意識過剰の三文役者とかなんとか、その死に様も含めて罵倒しているのですが、
賞が欲しくて人に頼み込むような俗物ぶりも、そして、その俗物ぶりを
ちゃっかり自虐作品にしてしまうようなところも嫌悪の理由だったと記憶します。
高校生の潔癖さゆえそういうのがどうしても許せなかったみたいですね。
今なら「そういう人なんだから仕方ないね」と生温かい目でみるくらいですが。

三笠の解説員の方、面白いですね。面白いなんて言っちゃいけないか。

山本権兵衛が近代海軍ひいては近代日本に大きな功績を残したのは全く事実で、
この人と西郷従道がいなければ日本は全く別の国になっていたのでは、
とわたしも考えているくらいです。
「地政学や軍事学を取り入れるべき」というのも一部賛成です。
息子の学校(私学)では、地理イコール「地政学」みたいなアプローチで
歴史と政治、戦争の関連性を含めて世界の地理を学ぶのですが、
公立学校のカリキュラムではわたし自身の記憶によると全く違うものでした。
こういう学び方をすると、学習は「知識」として残ります。
知識は決して試験前に記憶して速やかに忘れ去るというものではないのです。

軍事学も、日本以外の国では大学で一般人が学ぶこともできます。
日本では防衛大学校だけで、それもこれも日本の戦後の「軍事アレルギー」が
「軍事を学ぶのは戦争したいから」「軍事を知ると戦争したくなる」
という妙な一般常識を国民に植え続けてきたからだと思います。
一般の人々が「どんびき」していたということですが、この方の意見は
世界的に見てごくごく普通のことを言っているだけなのに、
「軍隊を持つと戦争になる」という刷り込みをされてきている日本人が
その「常識」とは違うこの意見を過激で「軍国主義的」だと思ったということなんでしょう。

まあ、特定のテーマで行われる講演を自主的に聴きに来たような層でもないのに
そういうことをあえて言うその解説員はかなりチャレンジャーだと思いますが(笑)

ハーロック三世さん
午前5時って、それ深夜じゃなくて早朝というのでは・・。
社長さんの軍装パッケージのお店、記憶にあります!
おそらく海軍ファンなんだろうなあ、海軍カレーの会社を天職みたいに思っているんだろうなあと微笑ましく見てました。
「MIKASA」というその横須賀土産店にはそのパッケージはありませんでしたが、
旧海軍のカレー皿なんかあったら絶対買ってましたね。
今度横須賀に行く用事があったら立ち寄ってみることにします。

>海軍カレーネイビーブルーとシーフードソース
これが商品名・・・。

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塚原の評判 (ランズマン)
2016-04-10 12:33:37
初めてコメントさせて頂きます。

塚原二四三についてWikipediaを引用して、疑問を呈していらっしゃいます。
所詮Wikipediaは玉石混交で、気にせずとも良いのではないですか。
引用部分の直前だけ見ても、「フィリピン奇襲爆撃」、「最前線基地ラバウル」、
「ソロモン海域を中心に活動の範囲を拡大」と疑問を感じる記述が並びます。
また、塚原の大将についての言動に出典がありません。

分からないことがあれば取り敢えず当たってみる。参考にすべき記述とそうでないものを判別して、
そうでないものは読み流す。それがWikipediaの使い方だと思っています。
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マムシが丘 (婆裟羅大将)
2016-04-10 18:30:48
雷蔵さま
70年代に砲兵学校校舎は建て替えられたので90年代の馬堀の官舎ですと残念ながらお会いしていません。
私がというか家族が住んでいたのは、浄林寺の横を登っていった山の中の戸建ての官舎でした。
マムシが丘と悪口を叩かれていたとは後に聞きましたが、断行(装備つけて走るのなんて言いましたっけ?)の
コースにもなっていた寂しい山の中でした。
あの山道を小中学生の頃は毎日通ったのでした。 もう毎日が草木昆虫と遊ぶ道草の連続でした。
冬になると浦賀水道を通る船の霧笛が聞こえ、毎年1隻は座礁する船がいたような記憶があります。

馬堀海岸はまさに今官舎のある辺りで泳いだり魚釣りをした思い出があり、遠浅で海苔ひびの並ぶ穏やかな海でした。

エリス中尉、勝手に思い出書き散らしてすいませんでした。
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カレー談義参戦 (筆無精三等兵)
2016-04-10 21:20:12
やっぱり横須賀はカレーの街なんですねぇ。
私は例の「間宮羊羮の都合」で、中尉も行かれた横須賀海軍カレー本舗で頂きました。

呉のカレーと比べて、なんというか「基本に忠実」な味が印象に残りました。香りや味、舌触りが幼い頃の夏休みの夕食や、合宿訓練での飯盒炊爨を彷彿とさせる味です。
そんな素朴な味なのに、例のゲーム公認でフィッシュ&チップスをのせた物から竜田揚げをのせた物、リンゴフライをトッピングした物や果てはウインナーを15本も並べた物など、チャレンジャーなメニューも展開していて、中尉が行かれた頃よりも少々、落ち着きが無くなっていたかもしれません。

お土産にはカレー缶をチョイス。もちろん「あの」潜水艦カレー。カレー本舗の味を忘れない内に頂きましたが、隔世の感をヒシヒシと感じました。いや、どちらもおいしいんですけど。
機会があれば、というか作って、横須賀中のカレーを色々と食べ歩きたいですね。
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