◎瞑想以外に熟練をもたらすものはない
OSHOバグワンの“ヨガ: アルファとオメガ、第 9 巻第3章 瞬間的な認知”の説明。
※ここでは、エゴイズムの区分について述べている。エゴイズムとは、アハンカル、アスミタ、アートマという3語を使い分ける。パタンジャリのヨーガスートラでは、アスミターとアムネスが使われる。
※エゴは心のものだが、感覚には自我がない。アムネスは感覚側なのだろう。
※あなたの感覚の背後には、未使用のエネルギーのプールがあるが、抑圧されている。(これを言うのは、クンダリーニ・ヨーガ、密教)
ポイントは、以下。
1.「彼らの認識力、本当の性質、エゴイズム、遍在性、そして機能に基づいてサンヤマ(三昧)を行うことは、感覚器官の支配をもたらします。」この「エゴイズム」という言葉は、 サンスクリット語では自我を表す単語が 3 つありますが、英語では 1 つの単語しかないため、理解できます。それが困難を生み出します。経文の中のサンスクリット語はアスミターですので、まず説明させていただきます。
2.「アハンカル アスミタ アートマ」という 3 つの言葉があります。どれも「私」という意味です。アハンカールは「エゴ」と訳せますが、これは非常に粗雑で、私を強調しすぎるものです。アスミタについては、英語には言葉がありません。 アスミタとは健忘を意味します。私は;エゴでは「私」に重点が置かれます。 asmita では「午前」に重点が置かれます。
3.エゴよりも純粋なアムネス。それは今も存在していますが、形は大きく異なります。アムネス。そしてアートマ。健忘さえ消え去った。 「私は」というエゴの中で。アスミタでは「午前」のみ。アートマにおいてはそれすら消えてしまった。アートマの中には、私でもアムネスでもない、純粋な存在が存在します。 この経典ではアスミタ、アムネスが使われています。
4.エゴは心のものであることを忘れないでください。感覚には自我がありません。彼らにはある種の寛容さはありますが、エゴはありません。エゴは心のものです。あなたの目にはエゴがありません。あなたの手にはエゴがありません。彼らにはある種の健気さがある。だからこそ、もしあなたの皮膚が交換され、他の誰かの皮膚が植え付けられたとしても、体はそれを拒否するでしょう。
なぜなら、体は「それは私のものではない」と知っているからです。したがって、あなた自身の皮膚は、体の他の部分、つまり太ももから置き換える必要があります。あなた自身の皮膚は交換されなければなりません。 そうしないと体が拒否してしまいます。 「それは私のものではない」と体はそれを受け入れません。身体には私はありませんが、アムネスがあります。
血液が必要な場合は、誰の血液でも構いません。体はあらゆる種類の血液を受け入れるのではなく、特定の血液のみを受け入れます。それは独自のアムネスを持っています。それは受け入れられるでしょう。他の血液は拒否されます。身体にはそれ自体の存在感があります。とても無意識で、とても繊細で純粋ですが、それはそこにあ心の形は人それぞれ違います。腎臓の形も人によって異なります。これらの部分にはすべて署名があります。みんなとてもユニークです。それがアムネスです。
5.ヨガでは、見る目を見始めると、微細なエネルギーに遭遇します。彼らはそれをタンマトラと呼びます。目が見えているとき、目の後ろに隠れているだけで、途方もないエネルギーが見えます。それがタンマトラ、目のエネルギーです。耳の後ろには、耳のタンマトラという膨大なエネルギーが蓄積されているのが見えます。あなたの生殖器の後ろには、セクシュアリティのタンマトラである膨大なエネルギーが蓄積されているのが見えます。などなど。
どこにでも、あなたの感覚の背後には、未使用のエネルギーのプールがあります。それがわかれば、そのエネルギーを目に注ぐことができます。そうすれば、詩人や画家が時々しか見ないビジョンが見えるでしょう。そうすれば、音楽家や詩人が時々しか聞かない音が聞こえるでしょう。そして、恋人たちが触る方法を知っているのはごくまれな瞬間だけのものに触れるでしょう。