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アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

冥想非体験(性愛冥想)を読んでみる-24

2025-05-11 06:36:18 | 性愛冥想
◎神秘主義は、人間を完全な歓びに導くためにあるのであって、はかない人間的幸福を相手にはしない。

冥想非体験(性愛冥想)の続き
『中国房中術にしても、インドのシャクティズムにしても、アラビアの性典 『匂える園』においても、 とにかく性愛を冥想にまで高めようとする過程にある 性愛術は、射精がなされてはならないか、 長時間持続するようにコントロールされねばならないと 主張されている。


『ガマの聖 談』の南喜 一氏も、その女房七人説は、 彼の保留性交の技術によって、初めて主張されるものといえる。


性愛における男性原理は、接して漏らさずというところに 行き着く。
それは、悦楽にのたうちまわる女体を見て、 楽しむという通俗的な立場のみを意味するのではない。


女性のあられもない姿を見て、楽しむということは、はかない権力欲の 一つにすぎない。それは愛着になり得る
かもしれないが、 断じて愛そのものなる冥想ではない。


自分の力で、女性を悦楽の中に溺れさせるという楽しみが、 性的なテクニシャンという現今はやりの妄想をうむ。


何の 愛情も感じないお高くとまった女性の化けの皮を はごうと するのは権力妄想から出た征服欲にすぎない。


権力はつねに不安とともにあることを忘れないように。


これに対して女性の性愛原理は全身全霊のオルガズムにある。
全身全霊のエクスタシーが、女性性の到達点の一つである。
不感症は女性のみのものであり、女性の性愛妄想は、 不感性から出発して、クリトリス型 やポルチオ型のオルガズムを経過し、 全身全霊のエクスタシーに到って完成する。
全心身のオルガズムは、赤児への愛情を自然に出現させる。


性愛が神秘主義になるためには、人間的束縛からの超越が なければならない。
そしてここに保留性交の秘儀 がある。
ハタヨーガにおけるクンバク(呼吸の保留)も、 この保留性交(ダーラナティー)と、その神秘的意味合いは 同一のものである。


このプラーナヤーマにおけるクンバクも、タントリズムのダーラナティーも 、無常、虚無という人間的 束縛の否定超越 にほかならない。
あらゆる神秘経験の生起する場、それはトランスとか、等味とか呼ばれるが、性愛の冥想行においては、その場は精液の不動化―――時間性の超克 としてあらわれる。


性愛冥想の行者は、もはや時間性・無常・虚無・死という法則に 従われない。
行者は保留性交によって、人間的自然も超え 宇宙的自然に入ろうとする。
これは、準なる観念的なシンボリズムではない。
私が知っている臨済禅の老師もまた私自身も、 保留性交を中心とした性愛冥想によって、三味の境地を 確認している。


〇〇〇〇〇は、その 〇〇〇〇〇〇との性愛において、 保留性交の修錬をした。
保留性交は、彼に神秘的直観をもたらした。
L・チューズと・キングとの共著 による「ナ・ダーム』には、 こう書かれている。
「ちょうど心が瞑想を通じて森羅万象と一体になるように、 肉体はセックスという方法によって奇蹟を実現する」


今までに射精を持続させるための様々な方法が考えられてきた。
自意識過剰 の人にとって、早漏ほどみっともないことはない。
持続時間は女を悦ばすために、男にとって大事なものとなる。
性交中に数を数えるとか、金冷法だとか、一度射精した後に セックスする方法だとか、ある種の薬物を飲むだとか、
いろいろあるけれども、それらはいづれも一時しのぎのものにすぎず、
到底、セックスの限りなき神秘を知るあたわずである。
あまりにも人間的な努力ではないか。


定力・気力充実としての射精コントロールこそが、 まさにコントロールの名に価する。
定力ということを、心理的に説明すれば、意識、潜在 意識の 自由な制御ということになるだろう。
潜在意識をコントロールできれば、体内の血液の流れや、 自律神経系統、不随意器官を思いのままに支配できる。
そして潜在意識の支配者になるには、何らかの形での 冥想訓練がいちばん手っとり早い方法である。


自律訓練法・自己催眠・ヨーガ・坐禅 ・愛や死といった 限界状況的体験、その他、何であってもいい。 あなたは、 性愛冥想をするために冥想をするということになる。
だが、性愛だけでも 保留性交による性愛の冥想化を実現することも できる。
あなたの明折さと情熱とが最高に回転するのであれば。


豊かな生命欲は人を神秘主義へと導く。
神秘主義とは、知性の敗退ではなく、知性が到達する 最高の結論であると言ったのは、あのランバレネの偉人, シュバイツァーであった。


性愛冥想への道


性愛術は、もっぱら人間のエゴイスティックな自意識と肉体とに役立つためにある。
通俗的な中国房中術や各種の世界中の性典も、 この性愛術に属するものが、大部分である。


一時的な快楽、陶酔の追求、あるいは不老長寿や健康法などの ための実用技術である。


実用技術は、それなりに実用的ではあるが、そのような人間的技術としての性愛術は、決して人間を人間の根本的悲惨さから解放してくれるものではない。
神秘主義は、人間を完全な歓びに導くためにあるのであって、はかない人間的幸福を相手にはしない。


性愛冥想が実現した後では、性愛術は大いに役立つものになるだろうが、性愛冥想の求道的過程にある者にとっては、捨て去られるべきものでなければならない。


性愛冥想と性愛術とは正反対のものとしてある。
性愛神秘主義・性愛冥想が、あらゆる人間的束縛から解放されようとする本質的な志向性を持つものであるのに対し、性愛術は純粋神秘主義が捨てて省みようとしない人間自我の虚無性に奉仕することを、その実用的性格の中に持っているわけだ。


もしこの世に決して死なない人間というものがあったとしたら、 不老健康、 感覚的陶酔 を目的とする性愛術も、 まんざらのものでもあるまい 。
そしてこの性愛術をまんざらのものにしないために 、まず決して死なない人間になろうとする所に性愛神秘主義がある。


至高の歓びも健康も、神秘主義以外の所にはない 。
自我中心主義の結果である権力志向者、つまり大半の現代文明人は、 一時的快楽に出会うことがあっても、結局、虚無の不安や、恐怖や虚しさにさらされているにすぎない 。
何とかという新興宗教の浅川という教祖は、 「祖先の果たされざる意識の累積が、性欲である」と 言っているが、性愛術では、この宿業としての性欲を どうすることもできない 。


そこで浅川教祖は如来の資源を宿したセックスによって 新しい生命の復活を提唱するのだが、これはもう、一つの性愛神秘主義 といって も過言ではないであろう 。


セックスが、神秘主義にまで高まる過程の上に「色情修行」があることは、すでに述べたとうりである。
しかし、色情修行においての性愛は、切り捨てるべき否定的なものでしかない。
ここでは、性愛は、汚れたものであるという観念があって、
修行者は、その汚れに汚されないという証明のために セックスする場合がある。
華厳経に言う、「男子諸煩悩、合集して、一人の女の業障をなす」 といったところだろうか。


また時には色情否定の修行が、色情という汚れを 聖化することもある。
汚れた色情が突然神聖なものに変容するなら、 それはもう修行とは言えない。


聖化された「汚れた性愛」に充分な生命力がなければ、それは黒魔術めいたものになるだろう。
だが豊かな生命力が「汚れたもの」を肯定するのなら、それはあの、おおらかな 古代の自然宗教への回帰である。


ほんものの自然宗教においては、 女は業深きものではない。
女の激しい性的行為や母性は、神聖なる帰依の対象そのものと化す。
「おお、ドームビー(洗濯女)よ!
あなたはすっかり汚れている
あなたは醜悪 だと言われる
だが、聖者はあなたを 胸に抱く
おお、ドームビーよ!
あなたほど放縦な女はいない」 。


ここには素朴な性愛神秘主義があり、狂宴からくる、カタルシスがあるが、その冥想は、純粋な三昧の 深みへは到達し難いだろう 。
オルギャ的な意識の高揚は、純粋な三昧の無限性への 過程にあるものにすぎない 。
究極の性愛三昧は、すべての快楽を見渡し、経験し得る高みであるとともに、それ以上のものでもある 。


正統の仙道房中術は、気という生命エネルギーを養成して、 ついには太極の中へ帰入するという至高の神秘体験を 目指した、極めて短刀直入な修道体系である 。


いかにも禅宗の発端を持った中国文化ならではのものだ 。
仙道房中術が性愛の禅宗だとすれば、 インドのシャクティズムは性愛の密教 と言ってよいだろう 。


このタントリックな教説においては、セックスする男性と女性は 神秘的シンボルとして観じせしめられる 。
男性を方便とすれば、女性は般若そのものとなるし、 プラクリティーとプルシャとも解釈できるし、クリシュナとラーダーの 関係としてセックスを象徴化することもできる 。


しかし性愛密教の神秘的シンボルは、あくまでも修行者を 純粋神秘体験へ 導くためのものであって、この要点から、はずれると ガイ骨に百二十回精液をぬりつけた本尊の前で乱交パーティーを 行うような、まだるっこしい立川邪教みたいな方へ落ち込んで しまうことになる 。
立川教 の「楽空無別」の教義にしても、空よりも楽の方に 重点がある限り、到底、神秘主義にはなり得ない 。 』
(冥想非体験(性愛冥想)/ダンテス・ダイジから引用)
(以下『』内は、上掲書より引用)


『自分の力で、女性を悦楽の中に溺れさせるという楽しみが、 性的なテクニシャンという現今はやりの妄想をうむ。』
この妄想は根深いものがあり、痴漢、盗撮、性犯罪からエロ出版、AV、家庭不和の原因にまでなっている。男性の英雄願望の裏返しのようなものだ。


『これに対して女性の性愛原理は全身全霊のオルガズムにある。
全身全霊のエクスタシーが、女性性の到達点の一つである。』
実際にオルガズムを知らない女性が相当の割合で存在しているところを見れば、この点は、平たくいえば男性側の女性への無理解の中核とも言える。女性をエクスタシーに至らせようと努力する男性は、意外に少ないのではないか。
ダンテス・ダイジは、さる喫茶店で見かけた婦人のエクスタシーから来るところの精妙なバイブレーションを感知したという話をしているが、それほどにオルガズムを体験している女性は多くはない。


『性愛が神秘主義になるためには、人間的束縛からの超越がなければならない。
そしてここに保留性交の秘儀 がある。
ハタヨーガにおけるクンバク(呼吸の保留)も、この保留性交(ダーラナティー)と、その神秘的意味合いは 同一のものである。』
“人間的束縛からの超越”とは、神人合一のこと。古神道の息吹の神事でも三息目は、クンバク同様、呼吸の保留である。


なお、定力の養成は下方3チャクラのことであり、そればかりやっていると、人同士の争いは絶えないという側面はある。実は上方3チャクラが大切。


『あらゆる神秘経験の生起する場、それはトランスとか、等味とか呼ばれるが、性愛の冥想行においては、その場は精液の不動化―――時間性の超克 としてあらわれる。


性愛冥想の行者は、もはや時間性・無常・虚無・死という法則に 従われない。
行者は保留性交によって、人間的自然も超え 宇宙的自然に入ろうとする。』
性愛冥想の奥義は、精液の不動化―――時間性の超克であり、ニルヴァーナ、大日如来であって、別に性の神があるわけではない。


『定力ということを、心理的に説明すれば、意識、潜在 意識の 自由な制御ということになるだろう。
潜在意識をコントロールできれば、体内の血液の流れや、 自律神经系统,不適 器官を思いのままに支配できる。
そして潜在意識の支配者になるには、何らかの形での 冥想訓練がいちばん手っとり早い方法である。』
意識、潜在 意識の 自由な制御とは、密教やクンダリーニ・ヨーガの窮極であり、簡単ではない。


『性愛術は、もっぱら人間のエゴイスティックな自意識と肉体とに役立つためにある。
通俗的な中国房中術や各種の世界中の性典も、この性愛術に属するものが、大部分である。通俗的な中国房中術や各種の世界中の性典も、 この性愛術に属するものが、大部分である。』
ご用心、ご用心。


『神秘主義は、人間を完全な歓びに導くためにあるのであって、はかない人間的幸福を相手にはしない。』
この点が、無用の用たる所以。


『また時には色情否定の修行が、色情という汚れを 聖化することもある。
汚れた色情が突然神聖なものに変容するなら、それはもう修行とは言えない。』
これは、大いに誤解を招きかねない部分である。


『正統の仙道房中術は、気という生命エネルギーを養成して、 ついには太極の中へ帰入するという至高の神秘体験を 目指した、極めて短刀直入な修道体系である 。


いかにも禅宗の発端を持った中国文化ならではのものだ 。 』
大いなるかな、禅。


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