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アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

殺人命令

2024-09-28 15:30:26 | 究極というものの可能性neo

◎ミッション・インポシブル

(2009-06-27)

 

臨済宗の開祖の臨済は、「仏に逢ったら仏を殺せ。達磨に逢ったら達磨を殺せ。羅漢に逢ったら羅漢を殺せ。父母に逢ったら父母を殺せ。親類に逢ったら親類を殺せ。これができて始めて解脱を得るだろう。」と宗教者にあるまじき、ギョッとするようなことを言う。

親鸞だって、弟子の唯円に、「オレの命ずることを信じるか」と質し、唯円が決して背きませんと誓った途端に、「だったら人間を千人殺してくれ、そうすれば往生間違いなし」などと命じて見せた。

臨済は、専門道場でこれを言っているのであるから、リアルの殺人ではなく、坐禅中の殺人を云う。あらゆるなつかしい者に別れを告げよと呼びかけているのだ。

唯円が「とてもじゃないけど殺人なんかできません」と応酬したのに対し、親鸞は、「業縁によって殺せないのであって、業縁が変われば殺すまいと頑張っても百人でも千人でも殺すことがあるだろう。」と諭しているのは、古代インドで親族の多数見える敵方に戦いを挑んで殺戮に及ぶことをためらう王子アルジュナに対して、「戦え」と説得する聖者クリシュナの風景を思い起こさせるものがある。

また臨済も親鸞も先祖供養を相手にしていないなどということを言いたいわけではない。先祖供養は家族という小さな社会性が既に存在することが前提になっている行事であり、そうしたものに何の価値も意味も見いだせないぎりぎりの所になれば、そうした小さな社会性の絆すら役に立ちはしない。

殺せとは、あと一歩の修行者だけに対して、マンツーマンで実力・経験充分のマスターから指導されるべき言葉であって、それが誤ってメディア経由で大衆に生中継されるようなことになれば、誤解中傷を巻き起こすことになるだけである。

 

※2024年9月28日追記

「仏に逢ったら仏を殺せ。達磨に逢ったら達磨を殺せ。羅漢に逢ったら羅漢を殺せ。父母に逢ったら父母を殺せ。親類に逢ったら親類を殺せ。」とは、次の和歌と同じ意味。

 

ころ(殺) せころせ 我身をころせ ころしはてて

何もなき時 人の師となれ

(至道無難)

 

たちまちに 死にはてて見る心こそ

かりに仏と名はつけにけれ

(至道無難)

 

釈迦といふ いたづらものが世にいでて おほくの人をまよはするかなという

(一休)

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至道無難の悟り

2024-09-28 03:29:09 | 達磨の片方の草履

◎悟りとは、本心にして無一物にして言葉では言えない

 

悟(さとり)を以て仏法と云う。悟る人まれなり。

 

問う、悟とは、如何。予云わく、本心也。問う、如何なるか是れ本心。予云わく、無一物。

又問う、如何なるか是無一物。無言。(『自性記』)

※コメント:悟りとは、本心にして無一物にして言葉では言えない。

 

凡夫のあやまり、ここにあり。無一物ならば見聞覚知あるまじとおもふ。聖人は見聞覚知直(じき)に無一物なり。 こゝ をよく心得べき事也。(『自性記』)

※コメント:悟った人は、ぼーっとしているだけで、見たり聞いたりしゃべったりわかったりしないというような俗説にまどわされてはいけない。見たり聞いたりしゃべったりわかったりが、先入観や偏見なくストレートに、常に法そのものから来るのだ。

 

いろいろに工夫とて、むつかしき事をこのむぞや。平常はみな仏、直に見、直に聞く。(『即心記』)

※コメント:この平常は、未悟の人の平常でなくて、悟った人の二重の世界観をもって平常と言う。平常心是れ道。

 

道といふことばにまよふ事なかれ

あさゆふをの(己)がなすわざ(業) としれ (『即心記』)

※コメント:悟りをもって、朝夕行住坐臥するのが、道。

 

なにごとも凡夫にかはる事はなし

仏祖といふも大魔なりけり (『道歌集』)

※コメント:悟った人からは、凡夫も覚者も変わりない。仏祖というような変わった人は大魔である。

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