goo blog サービス終了のお知らせ 

アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

省みる、恥じる、悔いるがない者たち

2022-11-26 06:58:56 | 冥想アヴァンギャルドneo
◎正気に立ち返る

漠然と『終わりの世には、分別を失った人間の皮をかぶった動物のような人間が増える』というような過去の予言を見ることがある。

それはどういう人間かといえば、出口王仁三郎は、破廉恥なことを平気でする人間のことであり、人間に元から備わった覚る、畏る、省みる、恥じる、悔いるの五情のうち、省みる、恥じる、悔いるがない者をいう。

破廉恥なことを平気でする人間とは、一般に世間では反社と言い、通俗表現では恥知らずという。

昔と違って、電車に乗ればぐいぐい背中をスマホ・携帯を持ったひじや手で押されるのが普通となり、誰かとみれば女性だったりするので、そら恐ろしい時代になったと思う。こういうのも破廉恥と言わずや。

だが電車に乗っているくらいの人だから、ある程度の社会性はあるのだろう。

もっとひどいのが、思考がまとまらない、思考が混乱している人で、最近は電車のなかでもぶつぶつ独り言を言うそれと思しき人を見かけるので、そういう人だろうと想像される。

こういう人は、事実上の感覚遮断環境となり、思考が混乱するだけではなく、ある特定の思考を維持することさえできなくなり、白昼夢がたえまなくひき続きおこるということを繰り返しているのだろうと思う。

こういう人たちも『分別を失った人間の皮をかぶった動物のような人間』に、残念ながら分類されるのだろう。

マスコミは日々能天気な明るい雰囲気を伝播しようとしているが、受け手の方では、そのマスコミのおかげか、各個人の自己責任のなれの果てか、相当数の『分別を失った人間の皮をかぶった動物のような人間』が拡大再生産されている。

正気に立ち返るということ、何が正気なのかを悟るということが社会全体の大きなテーマになっている時代となった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

極貧のクリーニング屋の女性が燈明の油を釈迦に献じる

2022-11-24 16:39:54 | 冥想アヴァンギャルドneo
◎善行のリターンを期待しない

コーサラ国王プラセーナジットが、釈迦と付き従う弟子たち全員に対しグルメな食事を一週間にわたり提供した。

ところが、釈迦はその莫大な食事提供の善行の見返り(果報)をコーサラ国王に与えるのではなく、さる乞食に与えた。

当惑したコーサラ国王が悩んでいると、釈迦は、彼が何度も国王として転生し栄華を極めているのは、彼が前世で中流家庭のもらい子であった時に、母が自分のために作ってくれた塩気のない麦団子を孤独に修行する覚者(独覚)に布施したお蔭であると説明した。

麦団子の話を聞いた、時々公的支援ももらい、善意のボランティアの支援も受けている極貧のクリーニング屋の女性が、一念発起して、燈明の油を買って釈迦に寄進しようと思い立った。やがて彼女は少量の油を買い求め、壊れた器に入れ、釈迦が散歩される道に献じ、自分がニルヴァーナに入ることを祈願した。

釈迦が言うに、彼女の受ける善行のリターン(果報)は、釈迦の高弟の布施の果報より大きく、コーサラ国王のそれより大きい、と。(出典:『ブッダが謎解く三世の物語 上 『ディヴィヤ・アヴァダーナ』全訳/大蔵出版』の第七章)

布施、寄進、寄付には、作法があるとは、このこと。東日本大震災で、インドの貧しい少女は数ルピーの金を日本に寄付してくれた。それは、何し負う巨富のウォーレン・バフェットやビル・ゲイツの数兆円の寄付よりも多額であるとは、そういうこと。

こういう類の話は、見向きもされぬ、戦争プロパガンダ合戦、圧倒的なコロナ・プロパガンダ、私利私欲最優先の時代。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お布施の与え方

2022-11-24 16:13:06 | 冥想アヴァンギャルドneo
◎果報を保証する

「ブッダ 悪魔との対話」から
『二 傍らに坐したデーヴァヒタというバラモンは、尊師に向かって次の詩を以て語りかけた。-----

「何ものに対して布施物を与えるべきなのでしょうか?
何ものに対して与えられた施与が大いなる果報をもたらすのでしょうか?
どのように布施をしたならば、その布施はどのように栄えるのでしょうか?」

三 〔尊師いわく――――〕
「前世の生涯を知り、また天上と地獄とを見、生存を滅ぼしつくすに至って、直観智を確立した聖者、――――
その人に対して布施物が与えられるべきである。この人に対して与えられた物は、大いなる果報をもたらす。
このように布施をしたならば、その布施はこのように栄える。」』
(ブッダ 悪魔との対話/中村元訳/岩波文庫P161から引用)

これは見返りを期待して布施をするという、そもそもあってはならない質問をしているシーンである。それでも釈迦は、その姿勢に問題があることなど百も承知で、無私そのもので生死をも超えた私に布施をするならば大いに果報が得られると請けがう。

その布施は、バラモンが想像したような果報ではないが、大いなる果報を保証された。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

観想付呼吸法の16種セット-3

2022-11-19 18:56:03 | 冥想アヴァンギャルドneo
◎四つのサティから先

観想付呼吸法の16種セットを繰り返し修行したら、次は四つの気づき(四念処:サティ)を確立し、その次に七つの悟りを支える条件(七覚支)が充足されるとする。而して解脱する。

覚者へ至る37メソッド(三十七菩提分法)の中に、観想付呼吸法たる安般念は、含まれないが、四念処と七覚支は含まれる。安般念(ヴィパッサナー)から四念処、七覚支へと進む。

個々人をみれば、安般念(ヴィパッサナー)から四念処、七覚支へと進まなければ絶対に悟れないというものではなく、ヴィパッサナーをほんの少しかじっただけで、解脱したというような人もいるのだろうし、逆にカリキュラムを全部終えたから必ず悟れるというものでもなく、それは修行者本人の具合による。この辺は、修行体系こそ平板に下から上へと説明されてはいるものの、現実はそのとおりに展開しないことこそ生々しい現実なのだと思う。

四つの気づき(四念処:サティ)とは、八正道の正念の内訳であって、
1.身を不浄であると気づく身念処
2.感受するものすべて苦であると気づく受念処
3.心は無常であると気づく心念処、
4.法(ダルマ)は無我であると気づく法念処
のこと。

これだけ観想付呼吸を繰り返して、追い込まれて、最後は手放すという技法の最中には、これら4種には充分に気づきそうなものだ。

菩薩(十地の修行者)は、理解力は多いが善なる三昧は少ないとされるので、不足している善なる三昧力補完のためのメソッドが七覚支である、とは当時の釈迦教団の修行者は、高さはあるが深みがなかったことを特徴としていたのだと思う。

井上ウィマラ氏は、著書「呼吸による気づきの教え」で悟りについてという章は設けてはいるが、釈迦という他人の悟りの説明であって、自分のことはほとんど書いていないところは残念でした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

観想付呼吸法の16種セット-2

2022-11-19 18:54:07 | 冥想アヴァンギャルドneo
◎追い込んで手放す

パーリ語原典からのアーナパーナサティ・スッタの観想付呼吸法の16種セットの後半8種。これは、井上ウィマラ氏の別の著書「呼吸を感じるエクササイズ/岩波書店」にも出ていて、ヴィパッサナーの基軸ノウハウの一つと位置づけられるのだろう。

16種全体で特徴的なのは、吸うと吐くの間のブランクについて、特に意識した配慮や観想がセットされていないことである。やはり基調は、息を見つめるという特殊な観想にあるようだ。


『9・「心を感じながら息を吸おう」と訓練し、「心を感じながら息を吐こう」と訓練する。

10.「心を喜ばせながら息を吸おう」と訓練し、「心を喜ばせながら息を吐こう」と訓練する。

11.「心を安定させながら息を吸おう」と訓練し、「心を安定させながら息を吐こう」と訓練する。

12.「心を解き放ちながら息を吸おう」と訓練し、「心を解き放ちながら息を吐こう」と訓練する。

13.「無常であることを繰り返し見つめながら息を吸おう」と訓練し、「無常であることを繰り返し見つめながら息を吐こう」 と訓練する。

14.色あせてゆくのを繰り返し見つめながら息を吸おう」と訓練し、「色あせてゆくのを繰り返し見つめながら息を吐こう」と訓練する。

15.「消滅を繰り返し見つめながら息を吸おう」と訓練し、「消滅を繰り返し見つめながら息を吐こう」と訓練する。

16.「手放すことを繰り返し見つめながら息を吸おう」と訓練し、「手放すことを繰り返し見つめながら息を吐こう」と訓練する。

修行者たちよ、このように呼吸による気づきを何回も繰り返し修行 したとき、大きな効果があり、大きな成果があるのです。』
(呼吸による気づきの教え/井上ウィマラ/佼成出版社P226-227から引用)

この文章に引き続いて、四つの気づきの確立という章があり、この修行によって
『修行者は感受において感受を繰り返す』あるいは『修行者は心において心を繰り返し見つめながら過ごす』という、現代人の勤労生活者からすると、聞くだに恐ろしい自分の心を真正面から見つめるテクニックであることがよくわかる一節がある。

とりわけ13段目以降の無常を見つめる、色あせていくのを見つめる、消滅を見つめるというのは、簡単にネガティブな世界に落ち込んでいきそうなテクである。迅速にうつになりそうな技である。

ここを通過して、手放せと言われるのか。一人でまともなグルなしでやるのは、これは危険かもしれないと思った。ただ釈迦自身がこの技法でもって覚醒したという言い伝えもあるそうだから、技法の正統性はあるのだろうと思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

観想付呼吸法の16種セット-1

2022-11-19 18:51:42 | 冥想アヴァンギャルドneo
◎感じて静める、感じて静める

釈迦の呼吸法で、漢訳の大安般守意経では、『仏に六潔意あり、数息、相随、止、観、還、浄、この六事はよく無形を制する。』とあったが、釈尊の呼吸法/村木弘昌/春秋社の解説では、よくわからなかった。

そこで、パーリ語原典からのアーナパーナサティ・スッタの全訳を井上ウィマラさんがやっているので、それを見てみよう。これは、観想付呼吸法の16種セットであって、いわゆる呼吸を見つめるってやつ。最後の4種は、のっぴきならないところに自分を追い込んでしまう可能性が高いと見た。

井上ウィマラさん自身もこの呼吸を見つめる修行法をなさってきた人らしく、文章の端々に精妙な感性を持ってあらゆることに出会っているという風が見える。この状態でだんだんに追い込んで行って、この16段呼吸観想の最後の方は相当に煮詰まってしまうのがわかる。

坐法は、身体をまっすぐに保って、足を組む、だが、クンダリーニ・ヨーガ系らしく、あまり制限はないようだ。

まずは、最初の8段。
『1.長く息を吸っているときには、「長く息を吸っている」と知り、長く息を吐いているときには、「長く息を吐いている」と知る。

2. 短く息を吸っているときには、「短く息を吸っている」と知り、短く息を吐いているときには、「短く息を吐いている」と知る。

3. 「全身を感じながら息を吸おう」と訓練し、「全身を感じながら息を吐こう」と訓練する。

4. 「身体の動きを静めながら息を吸おう」と訓練し、「身体の動きを静めながら息を吐こう」と訓練する。

5. 「喜びを感じながら息を吸おう」と訓練し、「喜びを感じながら息を吐こう」と訓練する。

6. 「リラックスしながら息を吸おう」と訓練し、「リラックスしながら息を吐こう」と訓練する。

7.「心の動きを感じながら息を吸おう」と訓練し、「心の動きを感じながら息を吐こう」と訓練する。

8. 「心の動きを静めながら息を吸おう」と訓練し、「心の動きを静めながら息を吐こう」と訓練する。』
(呼吸による気づきの教え/井上ウィマラ/佼成出版社P226から引用)

感じて静める、感じて静める、これを対象を変えながら、呼吸を軸に深めつつ繰り返していく。目から入るあらゆる映像と耳から入る聴覚刺激で洗脳されまくっている現代人にとってこの訓練はきついかもしれない。
2千年前でもこの修行が簡単だったとも思えないので、きついのは当然か。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ヴィパッサナー呼吸を見つめる

2022-11-19 18:49:01 | 冥想アヴァンギャルドneo
◎グルの必要性

坐って息を感じる。大方の呼吸法では、吐く息は意識するが、吸う息は無意識のままでよいとされる。

ヴィパッサナー=呼吸を見つめる冥想法は、釈迦はこれで覚醒したとも言われる重要な冥想法。

吸う息は誕生で、吐く息は死。坐って呼吸を感じると、吐いて吸う間に呼吸のない時間帯がある。深まってきて呼吸の回数が落ちると呼吸のない時間も長くなる。

OSHOバグワンは、その呼吸のない時間、すなわち隙間を感じ取ることがヴィパッサナーの眼目だという(新瞑想法入門 和尚/講話 瞑想社P165)。

彼は、息と意識が一つにならねばならない、息とともに内に入り、息とともに外に出ることによりその隙間をつかむことができるとする。

これは、アナパナサティー(安般念)と呼ばれる冥想法。

ところが、呼吸を見つめ続けると、眠れなくなるらしい。そのせいで発狂もしやすいという側面もあるらしい。

そのことはOSHOバグワンが他の本でつぶやいているのだが、新瞑想法入門でも、井上ウィマラ氏の著書「呼吸による気づきの教え」にも大安般守意経にもそんなことは書いていない。

その意味でヴィパッサナーこそまともなグルの指導なしでは危険な冥想法ではある。

だが今の時代は、メディアとスマホ・ゲームで人間精神を操作しまくっている時代。それだけでも容易に人を耽溺と依存と倒錯に追い込みやすいのだが、精神マニピュレイトという点では同類の冥想もグルなしでは危険な側面がある。

グルを求める気持ちの真摯さは、生得のものもあろうが、環境、教育の影響も大きい。だが、その真摯さがなくして真正のグルにも出会えないとほとんどの経典は口をそろえている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

受胎と出産

2022-11-12 21:41:22 | 冥想アヴァンギャルドneo

◎肉体、空想力、形態、影響

 

パラケルススが受胎と出産を分析する。注目点は、その願望と現実化の要素とプロセスである。

 

『受胎と出産には四つの部分が属する。すなわち肉体、空想力、形態、影響がそれである。

 

「肉体」は、はじめから定められたように一つの肉体と成り、それ以外のものには成らない。

なぜなら樫の木が樫から成立せねばならないのが自然の法則であり、人間の肉体においても同じことがあてはまる。

 

「空想力」とそれが向けられる対象から、子は自らの理性を受ける。そして天がその運動を、良きにつけ悪しきにつけ、ときには強く、ときには弱く刻印するように、人間の空想力も――星と同じく――軌道をもち、子供の理性をより高きものにもより低きものにも向けさせる。

 

第三のもの、すなわち「形態」は子供がそこから由来したもの、つまり親に似るように彼を強制する。

 

最後に「影響」が肉体の健康と病気を条件づける。それは強力な建築家が強固な建物を建て、劣悪な建築家が劣悪な建物を建てるのと同様に、受胎の場合も同じような結果になるからである。

 

妊娠している女性の空想力はきわめて強力なので、種子に影響を及ぼし、子宮内の胎児をいくつもの方向に変えることができる。彼女の「内なる星」はきわめて強力に胎児に影響を及ぼし、それによってその本質を深く固く刻印し、形成するのである。

 

なぜなら母体の中の子は母の影響にさらされ、粘土が陶工の手にゆだねられているように、いわば彼の母の手と意志にゆだねられているからである。

 

陶工は粘土から、彼の欲するものを、彼の気に入るものを作り出すのである。

 

こうして子供は恒星も惑星も必要としない。彼の母がその恒星であり惑星である。』

(自然の光 パラケルスス/[著] 人文書院P70-71から引用)

 

パラケルススは、受胎と出産に以下四つの要素を立てる。肉体、空想力、形態、影響であるが、このうち肉体は遺伝子情報に近く、形態は家系の因縁に近いイメージ。

 

空想力は、子供の理性、精神を醸成する。

 

影響は母の内なる星からの影響であり、母のメンタルの潜在力というべきもの。

 

こうして四要素中の肉体と形態の二要素は母自身ではどうしようもないものであるが、残り二要素は自ら創造するものである。

 

人は意識的に無意識的に願望実現のために観想法をやっているものだが、受胎・出産においても同様に観想法が行われているとパラケルススは見ている。

 

いわゆる魂は受胎時に入る。人間のエーテル体、アストラル体も肉体形成に合わせて形成されるのだろうから、その形成に際しては、妊娠中の母の影響は大きいと思う。その辺を意識してか星辰の影響ということをパラケルススは言及している。

 

人は肉体だけではない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

冥想修行者としてのピタゴラス

2022-11-12 10:37:59 | 冥想アヴァンギャルドneo

◎「第一のもの」への観想

 

ピタゴラスは、若くして相当な冥想フリークであり、マギにも交わり、エジプトの神官にも秘儀を学ぶべく足を延ばし、行く先々でその識見の高さから高い評価を得ていた。

 

だがそれは、不断の冥想と細かい日常生活における規制によってできていた。

 

幼少の頃ピタゴラスは、エーゲ海のサモスにあって、既に神事と知恵によって神童として聞こえていた。18歳の頃、かのタレスに弟子入りし、エジプト行きを強く勧められた。

断酒して、肉食を避け、大食もしないのは当然として、少ない睡眠と肉体の健康に留意して、シリアからエジプトでの三日二晩の船中で、常坐不臥(身体を起して冥想)、断食、断水、不眠で、冥想を続け、下船時には身体はこわばり、船員に支えられて運ばれて降りたほどだったという。

 

22年間エジプトにあって神官らから神々の奥義を授けられ、BC525年カンビュセスの遠征軍によってバビロンに連行された。故郷のサモスに戻ってきたのは56歳になってからだった。

 

ピタゴラスは、「第一のもの」に与ることが基礎であるとし、「第一のもの」とは、かのもの、万象を貫いている数と理法のこと。

「第一のもの」へのアプローチは観想法によるが、その観想は、真の知識であって、第一の、純粋無雑、常住不二に集中した観想のこと。

 

「第一のもの」とは、本来の自己とか真我とか、宇宙意識とか、アートマンと同義なのだと思う。ピタゴラスは世界を表現するのに「数と理法」、あるいは「数と事物の名前」などと言っているから数学者だと思われているが、れっきとした覚者の一人である。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

呼吸法のステージ-5

2022-11-10 06:34:15 | 冥想アヴァンギャルドneo

◎止

 

さて、呼吸法の数息、相随、止、観、還、浄のうち観から後の3段は、見仏(観)から悟った後の聖胎長養(還)、そしてそうした絶対的なものを持って陋巷に暮らす(浄)ことであるように読めた。

 

それでは、悟りを得るには、やはり第三段の止をもう一度参究してみる必要があるだろう。

 

大安般守意経の止の説明では、数息、相随、止、観、還、浄ともすべて呼吸は鼻から出入りするので鼻にこだわりがあるのであるとする。(意識の中心は)鼻にあって止することもあれば心にあって止することもある。

 

このこだわり・執着のあるポジションで止としている時に邪念が兆して意が乱れたならば、呼吸法に打ち込むことで(直ちに一事を観じ)、諸悪念が起こっても心は動じないものの、心は(その乱れの起こることを)恐れるに決まっている。

 

つまり止なる定が鼻で起こる、心で起こるなど気にしてはいけないということだろう。

 

入息至り尽せば鼻頭止なり、とあり、入息の終った時には悪念は兆さない。しかし、出息至り尽せば鼻頭にこだわり、悪念が兆しはじめるとする。

この手の呼吸では、出る息は意識してやれば、入息は気にする必要がないなどと説明をされるものだが、出息の終りこそが、ピンチとなることがわかる。

 

これは鼻頭止に限った注釈だが、肝心の息心止の説明がないようだ。

 

「問う。第三の止は何を以ての故なりや。

止は鼻頭に在りや。

報う。数息、相随、止、観、還、浄を用いるに皆鼻より出入す。

意習う故に処また識り易しとなす。

この故に鼻頭に著けるなり。

悪意来れば断つを禅となす。

ある時は鼻頭に在って止す、ある時は心中に在って止す。

著する所あるを止となせば、邪来りて人意を乱さば、直ちに一事を観じ、諸悪来るも心は当に動ずべからずも、心は之を畏れずとなさんや。」

(釈尊の呼吸法/村木弘昌/春秋社から引用)

 

「止に四あり。一には数止、二には相随止、三には鼻頭止、四には息心止となす。

止とは五楽六入を制止すべきものなり。

入息至り尽せば鼻頭止なり。

謂く悪復た入らず、鼻頭止に到る。

出息至り尽せば鼻頭に著く。

謂く意復た身を離れず、行い悪に向うが故に鼻頭に著す。」

(釈尊の呼吸法/村木弘昌/春秋社から引用)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

呼吸法のステージ-4

2022-11-10 06:31:29 | 冥想アヴァンギャルドneo

◎還

 

大安般守意経における呼吸法の6バリエーションのうちの第五である還。

 

「還は尚有身亦は無身なり。

何を以ての故に、有意は有身、無意は無身なり。

意は人の種なり。

是を名付けて還となす。

還とは意にまた悪を起さぬことをいう。

悪を起せば是を不還となす。」

 

意は人の種だということならば、個別性のない無身から個人たる有身になることを有意とし、有身とするということ。

 

これを還と呼ぶとは、親鸞のいう往相「還」相と同義であり、ニルヴァーナからこの世に帰還することを「還」と呼んでいるのだと思う。

 

意に悪を起こさぬ個別性はコーザル体レベルだろうが、そうなるのはなかなか難しい。仏に出会うか、仏に作(な)るか、どちらかでしか意に悪を起こさぬなどという芸当はできるものではない。

 

ここで還が出てくるということは、この前段の「観」で究極にワンタッチしないと還はありえないという組み立てになっているということになる。

 

これによって、後半の三段である観、還は、それぞれ、悟り、個別性(人間への回帰)であり、その感動を持ちながら生きるのを浄と名付けたように見える。つまり後半の三段はほとんど呼吸法には見えないのだった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

呼吸法のステージ-3

2022-11-10 06:27:55 | 冥想アヴァンギャルドneo

◎観

 

大安般守意経における呼吸法の6バリエーションのうちの第四である観。

 

「観。息の敗るるを観ずる時、観と身体と異る。

息は因縁ありて生じ、因縁なくして滅す。

心意、相を受くるとは、謂く意、所得あらんことを欲す。

心に因縁を計るに、会うて当(まさ)に滅ぶ。

便ち所得を断って復た向わず。

是を心意、相を受くるとなす。」

 

この観は、観行つまり観想法の意味で用いられているのか、それとも見守る、見ているの意で用いられているのかと言えば、後者のようである。

 

この前段の「止」の説明に「便(すなわち)ち出入の息を察して敗を見れば便ち相を受けて生死を畏(おそ)る」とあるが、「相を受ける」とは、この世界、宇宙、時間全体を一望のもとに見渡すことを言っているように思う。その直観は向こうから来るので、「相を受ける」という受動で表現しているのではないか。

 

こうした全体観が起これば、生死の本質を畏怖せざるを得なくなる。これがこの説明文の

「息の敗るるを観ずる時」であって、こうした全体観が起こるのは、まだ見ている自分がある状態を謂うということだろう。

 

息はメカニズム(因縁)によって生じ、息はメカニズムなどないままに滅す。なるほど息と息の間では滅している。

 

そして観には二種並行してあることを言い、一つには、出息・入息を観じることであり、もう一つは五陰(五蘊)のメカニズム(因縁)を観じることである。これが倶観。出息・入息を見つめながら、世界を見守るというところか。

 

また意と意がお互いに観じ合うべきであるとする(意相観)。これを行う動機には2つある。まず第一に悪を断って道を念(おも)うこと。第二には、世俗の感覚的な刺激(五楽・六衰)についての欲望を断つこと。

 

そこで観とは身体を観ることだとはいえ、息をするのも意(こころ)、息を見守るのも意であるので、ここに意意相観が起こるというところだろうか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

呼吸法のステージ-2

2022-11-10 06:25:43 | 冥想アヴァンギャルドneo

◎浄

 

大安般守意経では、仏に六潔意あり、数息、相随、止、観、還、浄、この六事はよく無形を制する。また数息、相随、止、観、還、浄にして、三十七品を行ずれば、仏になれるとある。(※三十七品とは、仏説禅行三十七品経の修行法で、四聖諦、八正道などを説く)

 

無形を制するのも仏になるのも同じような意味だから。「止」の段階まで行っても、更に

観、還、浄が必要だと、この経典ではいう。

さて、止の段階以後も観、還、浄は、ステップとして並べられているのだろうか、それとも並列の冥想法として並べられているのだろうか。

 

まず浄は、究極を指すのだろうか。

 

「何等かを浄と為す。謂く、諸の所貪欲を不浄と為す。何等をか五陰相となす。譬えば火を喩えて陰と為し、薪を相と為す、息より浄に至るを、是れ皆観と為す。謂く、身を観ずれば相随、止、観、還、浄はあることなしとす。」

 

つまりあらゆる自分勝手な欲望(貪欲)が不浄なのであって、それがないことが浄だと謂う。これは随分単純な表現だと思うが、つまり浄は究極を指す。そして、息から浄に至るプロセスは皆これを観であるとする。

 

ここでは火を=不浄の現れた相(五陰相)にたとえ、薪をその原因である貪欲にたとえる。そして身=肉体の不浄であることを直観し徹底すれば、相随、止、観、還、浄などの修行も要らないという意味だろうか。

 

あるいは身という言葉を、有身、無身という表現の総称であるとみれば、無身は仏であり、有身は人間であり現象全体ということなのだろうから、ここは仏も自分もふくめた現象世界全体を観ずれば、呼吸法の修行など要らないという意味になる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

呼吸法のステージ-1

2022-11-10 06:23:22 | 冥想アヴァンギャルドneo

◎岩にしみ入蝉の声

 

呼吸法と言っても、大安般守意経を見ると、呼吸のやり方そのもののバリエーションはあるが、坐(冥想)も行じるし、行動や思念において悪を行わないという基本原則もあり、悪行三昧の中で呼吸法だけやればよいというものではない。

 

最初は数息をやるが、数息では四禅まででせいぜいで、それからは呼吸を見つめる冥想に切り替えるようである。数息では入息は短く、出息は長くというが、冥想の深まりと同時に呼吸はだんだんないようになって行き、呼吸の間隔も長くなるものだから、深まっている時でさえ「入息は短く、出息は長く」と意図するものかどうかには疑問がある。

 

最終段階では、やはり呼吸が止まる状態というのがあるのではないだろうかと思う。

 

大安般守意経では、まず数息、相随、止、歓喜と4ステージで進むとある。

相随とは、心の動きが息の出入りに従うのを内観すべしとあるので、そのことをいうのだと思う。

 

止とは、定に入ることをいうのだと思うが、まだ自分が残っている状態で、出息入息の念もなくなって、定にはいる。三昧ではない。

 

※芭蕉の山寺での一句

 しずかさや 岩にしみいる蝉のこえ

  (閑さや岩にしみ入蝉の声) 

 

歓喜とは、気持ちのよい快適な感じで、これが残っているからには四禅以下の段階ということになる。釈迦も歓喜まででの段階では力不足と指摘する。

 

ただし釈迦は四禅から涅槃に飛び込んでいったけれども、だからといって、これから先に何か特別なもの、高い段階があるという邪心を持っては難しいと思う。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

釈迦の呼吸によって至る境地

2022-11-10 06:20:24 | 冥想アヴァンギャルドneo

◎呼吸の効果

 

雑阿含経に、釈迦が弟子に向かって語るには、

3カ月出息を念じてみたところ、入息、出息、長息、短息などの呼吸法をいろいろやってみて得るところが多かった。

 

これによって最初は粗い境地であったものが、更に微細な境地に長い期間入った。これを見て美しい三神霊がやってきて「この境地は、死期が到来したとか、不死が到来したとか、聖者の寂静の境地だ」などとそれぞれに異なる批評をしたものだ。

 

釈迦は、この境地は聖住、天住、梵住、学住、無学住または如来住というべきもので、修行の途中にある人にとっては、呼吸法によって至らざる所に至ることができ、また既に覚った人にとっては、呼吸法によって法を楽しむことができるというものが「呼吸法」の実際のところであるとした。

 

呼吸法といえば冥想の準備である数息や、ヨーガの完全呼吸法などを思い浮かべるものだが、そういったものも含めて、出息入息をひたすら見つめることまで、すべての呼吸にまつわる体系のことを指して釈迦は「呼吸法」と呼んでいる。

 

釈迦自身がこのメソッドで悟ったという話があるからには、無視できない分野として更に調べてみたい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする