goo blog サービス終了のお知らせ 

アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

謝れば許される国

2022-10-25 16:48:19 | 冥想アヴァンギャルドneo

◎言向け和(やわ)す

 

謝ったら許す国は、どうも日本だけだ。

 

中国人・韓国人は、過ちをしでかしても絶対に自分の非を認めない。マグレブからトルコに始まりインドネシア・マレーシアに終わるイスラム圏でも、過ちをしでかしても絶対に自分に落ち度があることを認めて謝ったりしない。

 

フランス人もイギリス人もドイツ人もアメリカ人も、言い訳言い訳で、まず謝罪しない。ちょっとでも自分の非を指摘されると一気に逆切れ態勢に入る人もいる。

 

つまり自分の非を認めるというのは責任を取らされたり、損害賠償をさせられたりで大変だから、というのはわかる。

 

まあ、どこの国でもちゃんとした人は、礼儀正しく、きちんと謝罪もできるので、万人がということではない。

 

一方でキリスト教には懺悔告解で許しの秘跡を与えられるという、そもそも欧州の風俗習慣にはなかった制度があった。これは内的圧力を一時緩和するという効果はあったが、免罪符を産む土壌となった傷はある。

 

広島の原爆死没者慰霊碑の碑文には、「安らかに眠ってください 過ちは繰り返しませぬから」とあって、日本は自らの責任を認めた文章になっている。逆にこれは認めすぎかもしれない。

 

古神道には、わからずやな者を教化する定番の手法として「言向け和(やわ)す」というのがある。これは霊界物語には盛んに出て来るのだが、聖者が敵やわかっていない者に対して理屈で説得するとなぜかわかってくれるみたいな書き方であって、読んでいてもその本質はわかりにくい。

 

「言向け和(やわ)す」とは、結局破竈堕(はそうだ)和尚が竈の神にしてみせたように、相手を悟りの手前まで誘導してあげることなのだろうと思う。

 

「その非の原因となった自分の過ちも、その被害者となった他人の苦痛も一つながりの一者・アートマンである」という気づきに接近せしめるというのが、この場合の非を認め謝らせるということなのではないかと思った。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ムハンマドの夜の旅

2022-10-24 10:37:03 | 冥想アヴァンギャルドneo

◎倒した水差しの水は流れ続けていた

 

預言者ムハンマドはある日、自宅から天に昇り、神に出会い、帰還した。

 

一日、大天使ガブリエルがムハンマドの前に現れ、ムハンマドは翼のある天馬に乗って、エルサレムの神殿に着いた。そこで7層の天界を上昇し、以下のようにイエスやモーゼに会い、神アッラーから世界のすべてを見せられ、歴代預言者と一緒に礼拝した。

 

7層の天界:

館・・・神

第7天(土星)・・・イブラヒーム(アブラハム)

第6天(木星)・・・ムーサー(モーゼ)

第5天(火星)・・・ハールーン(アーロン)

第4天(太陽)・・・イドリース(エノク)

第3天(金星)・・・ユースフ(ヨセフ)

第2天(水星)・・・イーサー(イエス)とヤフヤー(ヨハネ)

第1天(月)・・・アーダム(アダム)

 

この時ムハンマドは、天国と地獄を見て、神と9万回も話をして帰って来たにもかかわらず、自分のベッドは暖かいままだったし、飛び上がる際に倒した水差しの水はまだ流れ続けていた。(出典:スーフィーの物語 ダルヴィーシュの伝承 Mind books イドリース・シャー/編著 平河出版社P41)

 

これが短時間に起こったことについて疑義、議論があったという。

 

神に出会ったのだから、肉体は死の状態にあったのだろう。だが生還確率の低いところを生還したのであるから、この記述のとおり、自室ベッドからエルサレム経由天界往復は、せいぜい数秒以内でなければならないことを意味している。

 

体験とは言えない体験にはそういう側面もある。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人間の肉体の可能性

2022-10-22 12:11:02 | 冥想アヴァンギャルドneo

1.肉体を温める

河口慧海のチベット旅行記で、ヒマラヤのさる峠を越える時に遭難しかける話が書いてある。峠と言ってもチベットなので標高5千メートルはある峠の話で、吹雪に降り込められるので、零下20度とか30度とかの状態であろう。 慧海は、暖房もない、テントもないその山中で、一夜坐禅を組んで、身体を温めるのだ。夜が明けて、定から出て見ると吹雪は止んでおり、九死に一生を得たということである。

 

笹目仙人が鶴仙に乗って、崑崙山脈の標高7千メートルの地の年齢500歳の仙人に会いに行った時も、最後は、坎離印を呪することによって肉体を温めた話が出て来る。 (笹目秀和/モンゴル神仙邂逅記)

 

どちらにしても定という状態のもとに内分泌腺を活発化させ、体温を上げることができるという例である。 分かりきった肉体でも想像を絶した可能性もあるのである。

 

2.人体の自然発火

意図的にそういう状態を造り上げたのかどうかわからないが、人体の自然発火の例もあり、さらなる肉体の可能性を示唆している。ある特殊な条件下では人体が灰になるということ。屍解(肉体が虚空に消えること)と関係あるのだろう。

 

コーネリア・ザンガリ伯爵夫人は、正常な健康状態で床に就き、翌朝焼死しているのが発見された。ベッドから1メートル30センチほどのところに灰が積もり、靴下をはいた夫人の脚はそのままだったが、頭は半分焼けて、脚の間にあった。翌朝焼死しているのが見つかった。その他の部分は、ほとんど全部灰になっていた。だが、部屋そのものには、脂っぽい煤がついていた他には何の異常もなかった。ベッドの上の毛布は、夫人が夜中に起きてベッドから出たかのようにまくれていた。また夫人が叫び声を上げた形跡はなかった。

 

また1951年7月フロリダ州に住むミセス・リーザーという女性が、ひじ掛け椅子に坐っているうちに煙に包まれ焼失してしまった。残ったのは頭蓋と左足と背骨の一部だけで、頭蓋は野球のボールぐらいの大きさに縮んでいた。ひじ掛け椅子の内張りは燃え、椅子の脇にあったテーブルと椅子の間の絨毯も燃えていたが、それ以外に室内で燃えたものはなく、床から約1メートル30センチのところから上のほうに脂っぽい煤がついているだけだった。これほど徹底的に人体を焼くには、千七百度の熱が必要だとされる。

(これ以外にも、マイケル・ハリソンの「天からの火」には同様の例が何十件も収録されているそうです。=出典:「フランケンシュタインの城」コリン・ウィルソン)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

性エネルギーと頭人間

2022-10-22 12:04:25 | 冥想アヴァンギャルドneo

◎エネルギーの頭への集中と狂気

 

現代人は、性に向かうべきエネルギーですらも、頭に向かう。人間のボディには複数の代表的エネルギープールがあって、それは、生殖器、腹、頭なのだが、現代では文化的要因により、エネルギーは、ほとんど頭に向かう。

 

その結果、人の頭の中は、昼は思考、思考、夜は、夢、夢と休むことがなくなる。

 

手足も腹も頭に従属する機械に成り下がり、肉体では、頭だけが生きている。現代人は、頭人間である。

 

だから、とても多くの夢、とても多くの思考と、頭の中での沢山のトラフィックが発生する。

 

だが、それをやめる方法はないことはないが、もっと効果的な方法はある。それを全身に分散させる方法である。

 

もちろん、それは全エネルギーが頭にあるのであまりにも混雑している。頭は多くのエネルギーを運ぶように設計されていないので、あなたは狂って行く。

 

こうしたメカニズムで狂気は生み出される。狂気は私たちの文化によって生み出される文化的な病気である。

 

※頭に集中したエネルギーを全身に分散させる手法は、呼吸法、柔軟体操、ジョギング、禅の経行、気功、OSHOバグワンのダイナミック・メディテーションなどがある。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ギャンブルと巨億の富

2022-10-19 05:38:10 | 冥想アヴァンギャルドneo

◎自分が食べる分以上にどれだけ持っているかの意味

 

道教系の求道者笹目秀和氏が、戦前に満州で草競馬の当たりを知人に予言してやった。知人は一レースで5百万円儲かったが、事前に笹目秀和からその金は公共のために用いることときつく戒められていたのにもかかわらず、私したために、悲惨な最期を遂げた。

 

現代の巨億の富といえば、数兆円を保有すると言われる中国の富豪であり、ビル・ゲーツであり、ヘッジファンドの経営者などがいる。だが、どんな富豪でも死後にその富を持っていくことはできない。

 

イエスが病気や不具者を超能力で治療してあげるが、その時は彼らは幸福の絶頂にあるが、彼らの人生はそれだけでは終わらず、老いから死に至る続編が必ずあり、トータルで見れば、イエスの治療を受けたことが必ずしも幸福であるとは限らないのではないか。

 

富豪たちも同様に富を保持している間は幸福だが、やはり老いから死に至る続編が必ずあり、やはりそれが必ずしも幸福であるとは限らない。スポーツ界、芸能界のヒーローやスターたちも同じこと。富や名声をゲットしている間すら、それをいつ失うかもしれないという不安にさいなまれる。

 

人の人生はトータルで見るのが、最も公平でシリアスな見方なのではないか。富はトータルな人生の一側面。人の人生は、せんじ詰めれば、一生が終わったところでどれだけ神に近づくことができたかということ。

 

富というアスペクトに限って言えば、人はたとえ飢え死にで終わろうと一生の食い扶持を持って生まれてきていることに間違いはない。自分が食べる分以上にどれだけ持っているかが富の多寡ということになるが、それに本質的な意味はあるのだろうか。イエスも釈迦もそれには関心を払わなかった。

 

今や人は無形の価値を求めるために、有形のブランドを買う。それは自分の外側であり、自分の真の姿の一部とはいえない。

 

富は、白狐、ホワイト・フォックスの技。ダンテス・ダイジが『もはや、ホワイト・フォックスには何の期待もしない』とつぶやいた所以はこの辺ではないだろうか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

狂人のアストラル体あるいは精霊

2022-10-15 10:46:10 | 冥想アヴァンギャルドneo

◎神を信じ、神にあるもののみがそれを語れる

 

アストラル体あるいは精霊は、永遠不壊ではなく、天人五衰というようについには衰亡するものである。

 

まずダンテス・ダイジ。

『A「自分に合わなかったやり方でね、無明を払おうとした場合どうなるんですか?」

ダン「うーん、自分に合わなかったものだったら止めちゃうだろう、その内に、うん。」

 

A 「よくあの、真言なんかで気の狂う人いるじゃないですか?」

ダン「うん、いますね。」

A 「あれも勿論その誤ったやり方の一つの結果でしょ?」

ダン「うーんと、気狂うっていうのはそれも人による。例えばね、ある人にとっては気が狂うよう、或いは、本当に狂う。つまり、えーと、どんな言葉をここでは使っているのか、

 

まあ何でもいいや。

意識下がものすごいアンバランスになるんだね。或いは、神智学的に言うとアストラル体にものすごい猛烈な反動がくるんだけど。癖がついちゃうんだけど。

そういうものって経験しなくっちゃならない人もいる。それから、経験する必要もないのにそういう状態になってしまう人もいる。」

 

A 「それを全部憑依で片づけている人もいるんですけど、それはどうなんですか?」

ダン「うん、うん。それはその人の立場としてはそれでかまわない。うん。だから、それは誰がその理論っていうかね、そういうものを使うかっていうことが全てだからね。常にそれだけ。

 

客観的に、つまり一つの思想っていうのはさ、決して表現できないものっていうのを表現しようとするもんでしょ。そうすると、誰がそれをそういう風に表現したかっていう事が全てだ。

 

だから、全く憑依でもってすべて片づけて構わないよ。けど、それは誰がそう片づけてるかって言うんだ。で、君がある人がって言った。ある人って言うのはさ、憑依っていうものの体系っていうのかな、その換言体系ね、その実体験をこう換言してゆくっていうのか、言葉に。そういう体系のやり方っていうのでずっと入った人だし、そして自分の体験っていうのを本当に持っている人だから。だから、今、それで構わないって、俺は言ったったんだ。』

(君がどうかい?雨宮第慈講話録2/渡辺郁夫編P4~5から引用)

 

そして出口王仁三郎。

『精霊の生命が亡ぶ事があるかと聞くのか、無論あるよ、現に生て居る人即ち肉体をもつて居る人にでも精霊の生命を失つて居るものがある。彼の発狂者の如きはそれであつて、生きながら既に邪霊の為めに、全く精霊の生命を亡ぼされて仕舞つて居る。永遠の生命といふのは、神を信じ、神にあるもののみが享有し得る特権である。』

(水鏡/出口王仁三郎/P94から引用)

 

健全なアストラル体あるいは精霊というのがあり得ることを両者とも想定している。しかし、アストラル体を健全にすることが治癒になり得るだろうという素人考えを見抜いたからか、ダンテス・ダイジは一本調子なそんな思いつきをはぐらかしにかかった。

 

アストラル体は感情を呼吸する。アストラル体の健康とは人間にとって何を意味するのか。それがわからない限りは、アストラル体だけ健康であっても何の意味があろうかと言っているような気がする。

 

そこで出口王仁三郎は、神を信じ、神にあるもののみが、それを論じるに値すると言っているが如きである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

蘇莫者は最近の舞楽だった

2022-10-14 20:24:42 | 冥想アヴァンギャルドneo

◎大物スピリチュアリストとしての聖徳太子

 

梅原猛によれば、蘇莫者(そまくしゃ)とは、蘇我氏出身の聖徳太子が亡(莫)くなった者だから、聖徳太子の亡霊のことである。蘇莫者は舞楽であり、聖徳太子が最も好んだ曲であり、太子43歳のみぎり、笛をもってこの曲を演奏したところ、山の神が感動して現れ出て舞を舞ったとされる。

 

梅原猛の、「法隆寺が聖徳太子の不幸な死による怨霊鎮魂寺である説」の重要な根拠の一つが、聖徳太子が亡くなってまもなく法隆寺が建てられ、法隆寺の舞楽「蘇莫者」は聖徳太子の霊を慰めるために当時から舞われていた・・・というもの。

 

これが法隆寺執事長の高田良信氏によれば、この説を突き崩す次の根拠を示す。

 

1.舞楽「蘇莫者」が古来法隆寺で舞われた記録がなく、時代は下って鎌倉時代の顕真という寺僧の「聖徳太子伝私記」の尺八の説明の中に、上述の山の神の顕現の話が出てくる。

 

2.法隆寺の飛鳥・奈良時代の伎楽、平安時代の舞楽面や衣装に「蘇莫者」に関するものはない。

 

3.舞楽「蘇莫者」は、もともと昭和15年四天王寺楽家の薗家の嫡々相伝であったもので、これを宮内省式部職楽師薗広茂氏より、南都楽所の堀川一郎氏に特に伝授された。これを受けて、昭和16年の太子1320年遠忌に際して、初めて舞楽「蘇莫者」が演じられた。

「蘇莫者」の衣装や面は初めてここで新調されたもので、これ以前は存在しなかった

(出典:法隆寺の秘話/高田良信/小学館)

 

まあ一般にシャーマン的霊能力者は、死者の鎮魂ばかりやっていることもあって、梅原猛氏も舞楽「蘇莫者」を見て感激した勢いで、舞楽「蘇莫者」を「隠された十字架」に入れてしまったのかもしかれない。

 

当時は神道と仏教がせめぎ合う時代であって、そのすぐ後の斉明天皇は、道教好き(奈良・牽牛子塚古墳が、道教タイプの八角ピラミッドで斉明天皇陵と特定された)。こうした本当にまともな宗教はどれかと選別しようとする時代環境の中で、怨霊鎮魂というシャーマニズム的な対応を国家を挙げて優先するとも思えないところはある。

 

ただし、聖者を殺す所業は、その祟りは無視できないものがあり、イエスを殺した某国民は、ディアスポラに苦しんだ。そうしたことを意識すれば、仮に聖徳太子がイエス並の聖人であったとすれば、彼を亡きものにしてしまったリアクションへの対処として、国家事業として怨霊鎮魂をやるというのは合理的対応と言える。

 

つまりは聖徳太子がどの程度スピリチュアル的に大物だったかという点にかかっているのだが、天台智の師の南嶽慧思の生まれ変わりが聖徳太子という説も中国では広く流布しており、相当な大物だったことがうかがえる。

 

よって、舞楽「蘇莫者」は古来演じられて来なかったのだが、法隆寺では怨霊鎮魂はやらなかったとまでは言えないのではないか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

トートの聖室

2022-10-13 18:19:23 | 冥想アヴァンギャルドneo

◎冥想による文明の最先端

 

ダンテス・ダイジの因縁の深いアトランティスの聖王トースあるいは、トート。クフ王のピラミッド内にそのトートの聖室があるという。

 

『一方フレマスは、大ピラミッドにまつわる「トートの聖室」の位置を突き止めようとしていた。それはベルリン博物館に保管されている「ウエストカー・パピルス」に出てくる話で、その起源は第5王朝にまで遡るという。

 

話によると、クフ王が魔術師ジェディに、「トートの秘密の部屋」の数(もしくは正確な位置)を尋ねた。

 

ジェディは答えた。

それはインヴェントリーと呼ばれる建物の中の火打ち石の箱の中にございます。とはいえ、まだお生まれでない3人の王の到来まで、その数字を手に入れる者はいないでしょう」

現存するパピルスは、この部分で途切れている。』

(アトランティス・ブループリント/コリン・ウィルソン/学研P90-91から引用)

 

※フレマス:ランド・フレマス。『アトランティスは南極大陸だった!!』学研ムー・ブックスの著者

 

 

至福千年には3人の聖王が到来し、ピラミッドが究極の冥想センターであることを解明し、積極的な利用が図られる。

 

現代人は、七つの身体でいえば肉体レベルの科学にとどまり、トートの聖室のメカニズムを知るほどの文明レベルに達していないからこんな問答になっている。

 

文明の最先端開発は冥想が王道であることを、ピラミッドが示す時代が次の時代。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

インド神話のクリシュナ

2022-10-13 18:15:00 | 冥想アヴァンギャルドneo

◎最後の切り札

 

天地中和とは世の中の善悪のバランスをとるということだが、イエスなどの神人は、このような目的をもってこの世に生を受ける。クリシュナもそうした一人。

 

インド神話に出てくるクリシュナは、バガバッドギータにあって、王子アルジュナの御者として参戦する。彼は、親戚一同を相手に開戦することにびびる王子アルジュナを叱咤して、迷いなく参戦させることに成功する。この説得の部分がクリシュナの考え方として有名であるがゆえに彼は一族の精神的指導者として評価されていた。

 

しかし、インド神話では、クリシュナの特徴は、世の中に跳梁跋扈する、悪魔、阿修羅、悪龍などを次々に退治していくところにある。

 

ヤムナー河畔に住む毒龍カーリヤを退治したり、悪王カンサの差し向けた刺客の悪魔ケーシンをやっつけたり。最後は、クリシュナの命を狙うカンサ王とその8人の兄弟をも、クリシュナとその兄弟のバララーマが誅殺してしまう。

 

要するに平和を愛好する日本人としては、神々と言えば「言向け和す」日本神話に慣れた我々の眼には、いかにも強烈な活躍ぶりなのだ。

 

要するにクリシュナが御自ら降誕するというのは、相当その地が切羽詰まっていたということになろう。その国は爛熟も極まり、善悪のバランサーが直接的に必要なほど症状は悪化していたということ。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

神に貫通される

2022-10-09 17:03:47 | 冥想アヴァンギャルドneo

◎自分が悟る覚悟の時代

 

バンジー・ジャンプならば、急速な下降の後、ゴムひもの力で、水面すれすれから正気になって帰って来れることを知っているから、挑戦をしてみようという気持にもなるだろう。

 

しかし自分をすべてオープンにすること、自我を捨て去ることは、再び正気に帰ってこれるかどうかについて、何の保証もない。それに直面した時、悟るか、発狂するか、自殺するかのいずれかになる。どれになるかは何の保証もない。どうしても悟りたいと頑張っても、私にはこんなに金があると誇ってみても、私にはこんな純粋な道心があるとその敬虔さを確かめてみても、悟れることについて何の確証もない。

 

アセンションで空中に携挙されるとは、そのビッグ・チャンスをものにできること。空中携挙されかかっても、手から砂のこぼれ落ちるようにバラバラと地上に落下する人も少なくない。

 

錬金術師ドルネウスが「すなわち、なんびとも汝らの求める天に昇ることはできない、もしも(汝らの求めない)天から降ってくる方がその者を照らし出さないのなら」と語るように、それはある種の天恵、僥倖を待たなければならないことが知られている。

 

それを呼び込むのは、その人のある種の情熱の多寡だし、素直さみたいなものなのだろう。

 

必要なファクターはそれだけかと問われても、そんな単純なものではないだろうと思うけれど・・・単純な概念規定を超えているから、覚者は皆言葉では説明できないと言っている・・・・くらいのことしか言えない。

 

人間を超えることだけが、人間としての苦悩を超えることだというのは理屈としてはわかるが、そのルートを辿っていけば、最後に人間をやめる、人間を飛び越すステージが必ず出てくる。これも論理的帰結。ダンテス・ダイジは、これを「神に貫通される」と表現した。

 

人間的営為の青臭さにほとほと愛想が尽きた現代人。

しかしこのようなハイリスク・ハイリターンなことに、財産も社会的地位も家族の団欒も、これらすべてを賭けるほど馬鹿ではないとも言えるし、賭けに出れないほど人生に対する洞察力が足らないとも言える。

 

「人間らしく生きる」とは、大死一番を死に切ってから初めて言える言葉。ロハスや、無数の気づきの積み重ねや、出口のないアストラル・トリップの先にあるものではない。

 

大多数の人がこうした勝負に出なければならないと考えないのは、その魂の成熟度がいまひとつなせいだけなのだろうか。冥想というメソッドとその結果の真相・真価について、いささか世間に知名度が足らないせいもあると思う。

 

高価なブランド品にも、芸人のお笑いにも飽き足らない人々。そんな人々がこのようなリスクが高いものに至るライフ・スタイル=冥想にチャレンジする「大人の覚悟」を持つ人が増える時代こそ宗教の終りの時代なのだと思う。イエスや釈迦や老子などの他人の悟りの真似をするのではなく、自分が悟る覚悟の時代。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

プロティノスの窮極体験

2022-10-08 16:46:33 | 冥想アヴァンギャルドneo

◎体外離脱から神人合一

古代ギリシアの哲学者には、ソクラテスやヘラクレイトスなど、窮極を知っていたと思われる哲人が輩出しているが、プロティノスもその一人。

プロティノス(Plotinos, A.D.204- 269)は、エジプトのアレクサンドリア生まれの哲人。プロティノスは、最近はさっぱり読まれなくなったが、久松真一や西田哲学隆盛なりし戦前には、随分と読まれた形跡がある。

 

彼の神人合一体験は、体外離脱から語られるのが特徴的である。

『私はしばしば肉体(の眠りを)脱して(真の)自己自身に目覚め、他のすべてのものから脱却して私自身の内部へとはいりこみ、ただただ驚嘆すべき素晴らしい美を観ることがあるが、この時ほど、自分が高次なるものの一部であることを確信したことはなかった。

その時の私は最善なる生を生き、神的なものと(完全に)合一してそのなかに自らの居場所を与えられ、あの最善の生命活動を通して他の一切の知性的なものを超えたところに自らを据えていたのである。』

(プロティノス全集第三巻/プロティノス/中央公論社P322から引用)

 

「ただただ驚嘆すべき素晴らしい美」は、プラトンが言うイデア界のことであろうから、不変の世界、第六身体アートマンのこと、「神的なものと(完全に)合一してそのなかに自らの居場所を与えられ」とは有の世界のことであるから、不壊の神の世界である第六身体にとどまっていると思われる。

 

この「神的なものと(完全に)合一してそのなかに自らの居場所を与えられ」という言葉は、我と神が合一している状態の表現としてはそのようなものだろうかと思う。

 

『しかるに、全く単純(単一)なものに対しては、どのような逐次的思考が(有効で)ありえようか。否、英知的に触れることだけでも、十分なのだ。そして触れた人は、触れている時には、かのものについて何も言うことはできないし、その暇もない。ただ後になって、それについて考えてみることはできるが。

そして人は、魂が忽焉として光をとらえた時に、その時に自分は見たのだと信じなければならない。これ(その光)こそかの者から来たのだし、かの者自身なのである。そして、ちょうど他の或る神が、だれかが勧請した時に、家へ入って照らすばあいのように、かの者が(魂を)照らした時に、その時こそかの神は(魂に)現前しているのだ、と人は信じなければならない。

さもなければ、神はそもそも来もしなかったので、(家を)照らさなかったわけだ。同様に魂も、光に照らされていない時には、かの神を欠いているのである。

しかし、照らされた時には、魂は自分が求めていたものを持っているのだ。そして、これこそが魂にとって真実の目的(完成)である。すなわち、あの光に触れること、そしてそれ(あの光)でそれを観ることが、他者の光でではなく、魂がそれで(諸有を)見るところのまさにその光を(その光で観ることが)。なぜなら、魂がそれで照らされているそのもの(光)、これこそが観られねばならぬものなのだから。なぜなら、太陽にしても、他のものの光で(見られるの)ではないのだから。

では、どうすればそのことが成就するのだろうか。

一切を取り去れ。』

(プロティノス全集第三巻/プロティノス/中央公論社P449-450から引用)

 

『人は、魂が忽焉として光をとらえた時に、その時に自分は見たのだと信じなければならない。これ(その光)こそかの者から来たのだし、かの者自身なのである。』という部分は、最高者たる神により、神自身を見ていることがわかる。この段階の、神人合一の際に、見ている自分は、『自分は見たのだと信じなければならない』と言い聞かせなければならないほど怪しいのだろう。荘周胡蝶の状態である。

 

弟子のポルフィリオスによると、プロティノスは、生涯に4回ほどエクスタシーに入ったと言われる。また肝心の冥想方法については、只管打坐型でなく、クンダリーニ・ヨーガ型のように思われる。というのは、ダイレクトな体外離脱の表現に加え、プロティノス伝の11にあるが、彼を敵視するアレクサンドリア出身のオリュンピオスが魔術でプロティノスを攻撃してきた際に、それを不成功に終わらせたほどの霊能力を有していた模様だからである。

 

最後の『一切を取り去れ』は、自分と自分の宇宙をすべて捨てなさいということ。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする