詠里庵ぶろぐ

詠里庵

今年は武満徹

2010-01-03 01:56:09 | 日々のこと(音楽)
の生誕80年です。大々的にその種の企画があるというわけでもないようですが。

武満の同世代には大物作曲家がいっぱいいます。±10才違いまででは別宮貞雄、團伊玖磨、芥川也寸志、矢代秋雄、黛敏郎、間宮芳生、湯浅譲二、多田武彦、冨田勲、一柳慧、三善晃、八村義夫、高橋悠治、佐藤眞、野田暉行などの音楽が好きです。この中で5人に絞れと言われたら俄然、矢代秋雄、黛敏郎、湯浅譲二、一柳慧、三善晃を挙げます。

でも武満は独特というか別格というか、ちょっと違うのです。それは私の個人的趣味の問題といえばそうなんですが・・・

私はまず第一に西洋クラシック・近現代音楽を好みます。中でもピアノ音楽は大変好きです。だから詠里庵「音楽の間」でも大部分がこれらに関する記事になってしまっています。

ところがそれとは別に、非西洋音楽も好きなのです。それは音階やリズムが珍しいということもあるのですが、それだけでは、精神において西洋音楽と大差ないものも結構あります。そうでなく、本質的に違うものが好きなのです。私が言うところの「違うもの」とは何か?

ひとことで言うと、「明確な開始とそれに続く必然的発展と終結があり、その間、のべつ幕なしにしゃべり続ける音楽」とそのアンチテーゼの違いです。文学に比喩を求めると、「小説あるいは叙事詩のように構造がはっきりしていて、部分だけ取り出すと意味のないもの」と「詩、それも空白や余白が重要な、途中だけ読んでも鑑賞が成立するつぶやきのようなもの」とでも言いましょうか。非西洋音楽には後者のようなものが結構あります。それと西洋音楽の複雑に発達した書法が結びついたものを創造したら、真の、最もあるべき高みにある音楽になるのではないか? それを実現している1人として武満は第一人者ではないか、と思うのです。上に挙げた彼以外の同世代たちの音楽は、武満に比べると西洋の匂いがします。彼の音楽ー特に彼の後期にさしかかる前後の音楽ーを聴くと、上記のような意味において、深いーため息をついて動けなくなるほど深いー感動を誘うのです。彼の音楽では「無音の間」が極めて重要なのです。

西洋音楽の中でこのコンセプトに近い音楽の例を挙げるとすれば、ドビュッシー、ヤナーチェク、後期スクリャービン、インプロヴィゼーション、などの中に少し見られる気がします。

武満には多くの著作や対談がありますが、その中で印象的なのは
「ぼくの音楽はどこから始まってもいいと思っているから・・・」
という発言。これこそ私が感じて来た上述の感覚を端的に示すものではないかと思います。
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