いつか老いること

1998年09月16日 | 健康・病気

 昨日、NKHの「介護Uターン・故郷の親が倒れたとき」という番組を見た。
 定年二年前にして、故郷の親の介護をするために、会社を退職して千葉の自
宅を売り払い山口に帰る人と、奥さんが親を介護するために、八年間別居して
いる人の二人を紹介していた。
 今日の手話ニュース(夜8時45分から、私は家にいるとき毎日見ている。
このことはいつかここに書きたいと思っています)でも、毎年10万人ぐらい
が親の介護のために故郷に帰っているといっていた。
 家を出て都会に暮らし、家族を持ちマイホームを建て、子供たちが独立し、
さあ自分の老後を楽しもう、というときに、田舎の親が病気になり介護をする
ために故郷に帰る。自分の老後どころではなくなる。
 私の母は84歳、茨城で兄と暮らしている。
 女房の両親も、ここから電車で1時間ほどのところの東京都練馬区に住んで
いる。義母には、息子たちが小学生になったときから、昼間世話になっている。
今でも週に4日は来てくれる。女房に弟がいるが、義母は二人で暮らせなくな
ったら、私たちのところに来たいといっている。そのときは一緒に暮らそうと
私は思っている。
 それはそうとして、私も女房も歳をとる。テレビを一緒に見ながら、
「自分の始末が出来なくなったら死にたいな」
 と私がいうと、女房も
「UとKには世話になりたくない」
 という。それは私も同じ気持ちだ。誰にも世話になりたくない。
 7年前、親父と最後に過ごした病院での2週間。下の処理をするときの薬臭
い便、痩せ細った身体なのにやけに重い腰、あのとき逆の立場にはなりたくな
いとつくづく考えた。
 といってもいつか私もそのようになり、誰かに世話になることだろう。あっ
さり死ねるといいのですが、そうもいかないですね。
 いろいろ女房と話し合ったテレビ番組でした。

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専業主婦

1998年09月15日 | 健康・病気

 最近、女房がよく口にする言葉、
「専業主婦になりたい」
 これを聞くと、私は辛い。
 私の収入が、もっと沢山あれば女房を働かさないでもすむ。
 彼女に対して、どんな慰めの言葉もありません。
 明日、世間は祭日で休日の人が多いだろう。女房の会社は休みではない。
 ちなみに、私の今の会社も祭日は出勤です。
 さあ、明日は、夫婦そろってがんばって働こう。

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地球で最初に咲いた花

1998年09月13日 | 健康・病気

 目が覚めて、枕元のポケットラジオのスイッチを入れてイヤフォンを耳にす
る。「こども電話相談室」をやっていた。
 はっきりしない頭でぼんやり聞いてると、
「地球で最初に咲いた花はなんですか?」
 と、女の子が質問した。
 私は、おもいっきり目が覚めた。そんなこと考えたことなかった。
「なんだろう。私も知りたいな」
 と先生はいって、植物は胞子植物から種子植物になって…、と説明した。
 地球で最初に咲いた花は、どんな花なんだろう。

 番組最後の質問は男の子で、
「朝になると、なんで気持ちいいのですか?」
 といった。
 スタジオの先生たちが楽しそうに答えていた。
 私も、天気のいい日曜の蒲団の中で、楽しい気分になった。

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秋風のせい?

1998年09月12日 | 健康・病気

 きまぐれで、今週から毎日ここに何か書こうと思い書いてきた。
 今日も何を書こうかなと考えて一日過ごしてきた。
 しかし、書く気になれない。
 テレビで「糸井重里のインターネット・トーク」「黒澤明の世界」を見た。
どちらもよかった。
  大沢在昌の「一年分、冷えてる」という小説を読み終えた。
 これらについて書こうかなとは思ったのですが、元気がない。
 なんかへんに落ち込んでいる。今日は生きていることが妙に辛いです。

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競輪

1998年09月11日 | 健康・病気

 今夜は、会社の人と所沢で飲みました。
 彼は、2月に今の会社に入社した。40歳です。以前の仕事は、競輪場の職
員だったそうです。
 どういう仕事をしていたか訊くと、各レースにどの選手を走らせるかという
ことを決めていたという。
 前日に翌日のことを決めるそうですが、決定する頃スポーツ新聞社の記者が
取材に来て大変だったそうだ。
 競輪の選手は4,000人ほどいるそうですが、いろんな人がいて面白いこともあ
ったが、イヤなこともたくさんあたそうです。
 ときには八百長があったという。普通のレースで優勝すると百万円もらえる。
だから、年取った選手が、そろそろおれに勝たせろというと、若い人は逆らえ
なかった。でもこれは選手の中だけのこと、外には漏れていなかった、と彼は
いっていた。
 いろいろ競輪界のこと聞いたのですが、メモを取っていないのできちんと書
けなくて残念です。なにしろ手はいつも酒を持っているものですから…。

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ビリヤード

1998年09月10日 | 健康・病気

 今日、一緒に仕事している女の子二人がビリヤードに行くと話していた。
 それを仕事しながら聞いてた私は、
「ビリヤード? いいな。おれ二十歳の頃よくやってたんだ。仲間に入れてく
れる?」
 というと、
「行きますぅ」
 と女の子がいってくれたので、隣の机で仕事をしているSにも行こうと誘い、
4人で行くことになった。
 ビリヤード場の前で7時に待ち合わせた。
 24と28の女の子、30の男と46のおじさん、考えたらへんなグループ
だ。
 私は二十歳の頃、ビリヤードが好きで週に3、4回やっていた。今はあまり
ない4つ玉だった。一緒にやったのは、2年前、息子と山口まで墓参りに行っ
てきた、23で死んだボクシングをやっていた友人とだった。その頃そいつと
は、酒を飲むかギターを弾くか、ビリヤードをやっていた。
 今のビリヤード場には、ほとんどポケット台しかない。今日もやったのはナ
インボールというゲームだった。
 私がビリヤードをやってた頃は、東京ではほとんど四つ玉の台しか置いてな
かった。その頃大阪、京都に行ったときビリヤード場に入ると、ほとんどポケ
ット台で、四つ玉は、奥の方に2台ぐらいうやうやしくあるだけだった。なん
でかな、と思っていた。やっぱりビリヤードは四つ玉だ、と今でも私は思って
いる。
 7時10分から9時40分までやった。私が4回勝ち、女の子二人が3回づ
つ勝ち、Sは勝てなかった。
 楽しかった。会社の話もしないで、ただ、ビリヤードに夢中になって4人遊
んだ。
 勝てなかったSが、こんどはボーリングをしようと悔しがっていた。

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スクランブル交差点

1998年09月09日 | 健康・病気

 私は、駅から5分ほどの公団住宅に住んでいるのですが、団地から新所沢駅
に行くところに交差点がある。
 その交差点が昨日からスクランブル交差点になった。
 今朝通勤で、いつものようにその交差点を通るとき、赤信号で車を停めた。
信号が青になり車を発車させると、私の車のそばに立っていた人も歩き出した。
 私はあわてて車のブレーキをかけ、歩行者を渡らせてから交差点を過ぎた。
歩行者の信号機は赤だった。
 人間って、なんとなく習慣で行動してしまうものですね。

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蒲団

1998年09月08日 | 健康・病気

 ここのところ急に涼しくなり、すっかり秋らしくなった。
 ほんの二週間ほど前にはエアコンをつけていたのに、蒲団を一枚掛けて寝て
いる。
 といっても、まったく蒲団の中に身体全部を納めていると少し暑い。右足と
か蒲団の外に出してちょうどいい。左足と右足で、蒲団を挟み込んで寝るのが
子供の頃から好きだった。
「これはなかなかの贅沢だなァ~」なんて心の中で呟く。
 昔、私が小さかった頃、母が寝る前に「寝るのが一番だなぁや」とよくいっ
ていた。
 現在、私も「寝ることが一番」と思っている。それも同じ寝るなら、これか
らの秋が最高です。蒲団を一枚掛けて寝るくらいが心地いいですね。

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黒沢映画

1998年09月07日 | 映画

 黒沢明が亡くなりましたね。
 歳が歳だけにそれほどの感慨もないのですが、なんといっても、私は黒沢明
の映画で映画に目覚めたものですから、黒沢映画と私の出会いを書いてみます。
 私が初めて黒沢映画(と意識して、実は子供の頃観ていた)を観たのは、そ
の頃月に1回開催されていた東京都文京区立小石川図書館の「名作映画鑑賞会」
(という名前だったような)でした。
 私が19歳のときだったと思う。本郷三丁目の小さな(従業員7、8人)試
薬会社(この会社を私が辞めた後に、赤軍派の大導寺綾子が入社してきました)
で私は働き、夜はお茶の水のある予備校の夜間部に行っていた。15日と月末
に私は、集金のために本郷、神田、お茶の水界隈の大学の医学部や医療機器の
会社などを自転車で集金のために回っていた。そんなときに、小石川図書館の
「名作映画鑑賞会」のポスターを見たのだと思う。
 図書館の小さな上映室ですから、スクリーンは畳三枚ぐらい(へたな表現で
すね)だったかな。そのとき観たのは「羅生門」でした。初めのシーン、雨の
中の羅生門で心を打ち抜かれた。あのシーンで“ほんもの”と感じました。私
はそのとき芥川の「藪の中」をまだ読んでなく、ストーリーにも引き込まれた。
 それから黒沢映画を観ましたね。おもに池袋の文芸座でした。
 黒沢映画に出会えたことは、私にとって幸せでした。

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