私が最初に住んだというか、私が生まれた家は茨城の農家の茅葺き屋根の家です。
8畳間が3部屋と納戸があった。
囲炉裏のある6畳ぐらいのところがあり、その隣が土間だった。
囲炉裏の脇で食事をしていた。
家から10メートルは離れた釣瓶井戸があり、風呂の水くみには苦労した。
便所は、家から離れた竹林の中にあった。
この厠が大っ嫌いで、友だちをゼッタイ家に呼べなかった。
農機具や収穫した米・麦・蕎麦など作物をおいておく納屋。
煙草の葉を乾燥させる乾燥小屋があった。
高校を出て、東京の石神井公園近くのギター工房に弟子入りして寮に入った。
4階建てのビルの一番上に寮があって、弟子3人で暮らしていた。
私は2段ベットの上だった。
そこは3ヶ月で逃げるようにして辞めた。
いったん茨城に戻り、翌年二部の予備校に入るために上京した。
昼間は、社員7名の小さな試薬会社に入った。
そこで龍彦に出会う。
駒込駅から徒歩10分ぐらいの3畳のアパートを借りた。
家賃が5500円だった。
そこに日雇い労働をして油絵を描いていた I さんがいた。
龍彦がボクシングをやめ、毎日のように来て酒を飲み狂ったアパートです。
そのアパートが建て替えられるということで、駒込駅から1分という4畳半のアパートに引っ越した。
ここは大家さんの隣の部屋でいろいろうるさかった。
それでも友だちはたくさん泊まった。
しかし、あまりにも大家がうるさいので、駒込駅から15分ほど歩く北区の4畳半のアパートに引っ越した。
ここから旧古河庭園が近かった。
その次は、田舎の友人が住んでいた文京区の駒込駅から徒歩15分の4畳半に移った。
友人の父親が亡くなり、長男の彼は茨城に帰ったのです。
このアパートは1階2階に40部屋ほどあるところで、あまりうるさいことをいわれないでいいアパートだった。
近くに文京区の図書館があってよかった。
ここからは六義園が近かった。
ここに住んでいたときに女房が転がり込んできた。
2ヶ月ほど同棲して、豊島区の南長崎の6畳間と4畳ほどの台所のある家に引っ越した。
風呂はなく銭湯に通った。
そこに住んでいるときに公団住宅に応募して、何度目かに補欠で当選した。
そのとき私は27歳、無職だった。
女房のバイトの収入を書いた書類を持って行くと、申し込んだ本人の収入がないとだめだといわれた。
私は困り果て、絶対使ってくれるというマネキンの仕事についた。
その初めての仕事が、浅草松屋デパート地下での魚売り場のマネキンだった。
マネキンとは、出張店員のことです。
1週間毎日大きな声を出して鮭を売っていた。
そしてマネキン会社に収入証明書を書いてもらって、2度目の公団住宅のの審査に行き、なんとか公団に住めることになった。
そして行ったところが、あの頃飛び降り自殺で有名だった板橋区の高島平団地だった。.
つづく