Luna's “ Life Is Beautiful ”

その時々を生きるのに必死だった。で、ふと気がついたら、世の中が変わっていた。何が起こっていたのか、記録しておこう。

欺かれる人々のおぞましさ

2007年04月16日 | 一般
国民投票法案、正確に言うと、「早急に憲法改正するための手続法案」が衆院通過したとき、田中真紀子が神経質に椅子を左右に振っていて、そう、息をのむように椅子に沈み込んでいました。自民党議員のなかにも、議論らしい議論をまったくせずに、ただ数に頼んで反動的法案を次々に強行採決する安倍総理とその配下の連中に、違和感を持ち始めた人がいるのでしょう。

国威発揚に同調するみなさん、ほんとうにこれでいいんですか? いま、すがすがしい気分ですか、それとも誰かに暴行を加えた後のように、うっぷんは晴れたが自己嫌悪は深まっていませんか? あなたのその気持ちは、冷静な思考に基づいているでしょうか、それとも、感情的なものですか?

1970年生まれの若い学者が、昨年、このような記事を雑誌に発表しました。「世界」だの「朝日」だのはサヨクの低俗誌だとあたまから決めつけないで、なぜ、そのような批判をするのか、という観点に立って読んでほしいと思います。一部分だけ、ご紹介します。

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2005年の参院選挙で郵政民営化をかかげる小泉自民党が大勝したのは、それまで自民党の票田ではなかった都市部の浮動層が自民党に投票したからである。彼ら(都市部の浮動層の人々)はどのような要求を持っていたのだろうか。

それは、「郵政事業の陰でさまざまな権益がむさぼられている構造を解体しなくてはならない」という要求だ。「国家とは国民みんなのものであり、一部の特権者がそれを私物化してはならない」というナショナリズムの主張がその土台にある。

郵政民営化をめぐる議論では、ぬるま湯につかっている郵政公社の職員を市場原理のもとでもっと競争させなければならない、というようなことがさかんに言われた。公務員に与えられた特権や保護に対して短絡的に(*)不満を持つ有権者がこれに応えたのだった。自分たちは厳しい競争社会のなかでこんなに苦労しているのに、彼らだけが守られていてズルい、という感情だ。

(*註)「短絡的に」というのは、実際には、郵政事業は独立採算によって行われていて、職員の人件費には税金は使われてはいなかったからです。このことを知らなかった、いや、知らされずに、事情に通じている一部の人々以外のわれわれ国民は、小泉元首相とそのお抱え「知識人」たちの操作的な議論におどらされていたからです。

しかし、そうやって郵政事業を市場原理のもとにおけばどのようなことになるだろうか。市場での競争はより激化し、有権者たちはますます厳しい競争にさらされて苦労することになるだろう。一般に公共セクター(公共事業に民間企業の資金と能力を導入して、効率よく経営することを目指した公共事業体)での労働条件が悪くなれば、それは民間にも波及せずにはいない。しかし小泉自民党に投票した都市部の浮動層はあえてそれを実現させようとしたのである。彼らはたたきやすい標的に不満をぶつけることで、結局自分たちの首を絞めてしまうのである。

郵政民営化は、郵貯・簡保にあつめられたカネを自由市場にまわすことで、金融市場を効率化する、という目的のために推進された。しかし、労働市場の効率化(=労働者の非正規化。要するに「使い捨て化」)が結局は雇用を不安定化したように、金融市場の効率化も日本の金融システムを不安定化しかねない。なぜなら、日本がこれほどの財政赤字を抱えていながらも通貨危機に陥らずにすんだのは、郵貯・簡保にあつまってきたカネで国債を買い支えてきたからだ。金融財政システムが不安定化すれば、あとは増税によって対処するしかなくなるだろう。

郵政民営化に賛成票を投じたひとたちは、郵政公社をバッシングすることで溜飲を下げたかもしれない。しかしその代償はあまりに大きいのだ。

郵政民営化が圧倒的に支持されたのはナショナリズムの要求を通じてであり(=国は国民のためのものであるべきだ、役人だけウマイ果実をむさぼるのは許せないという感情)、その背景には、生活のための環境が厳しくなっていることへの民衆の不満がある。しかし、そのナショナリズムを通じて実現されたのは、彼らの不満の種をますます深刻化するような政策なのだ。

逆に言うなら、国家のほうは、そういう下からのナショナリズム感情を利用して自らを再編成している。いま国家はグローバル化とハイテク化がおしよせて来るなかで、より利潤率の高い新しい産業を育成することに躍起になっている。

民衆の生活を犠牲にしてでも労働市場と金融市場を流動化し、安い労働力と多くの資金を新しい産業へと差し向けようとしているのはそのためだ。これによって人々の間に生活不安がさらに深刻化する。ところが人々はその不安をナショナリズムというかたちに翻訳することで、国家の政策を逆に後押ししてしまっている。民衆の要求はずるがしこく利用され、国家の目論見に喰いつくされようとしているのだ。


(「国家の思惑と民衆の要求は、なぜ逆説的に一致するのか」/ 萱野稔人/ 「世界」2006年6月号より)

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醜くて、おぞましい、この統治の姿。わたしたちは、熱狂的に国威発揚を掲げることによって自分で自分の首を絞めている。

例を挙げると、東京の国立市の学校で、国威発揚の式典を拒否した教師をバッシングする。それもメジャーな新聞(S新聞)が先頭を切って、扇情的な、きわめて主観的な記事を書く。人権侵害もはなはだしいことを、新聞が書く。ネットウヨクが殺伐とした文章でそれに乗る。彼らは自分のうちに巣くう「不安」「不満」のエネルギーを吐き出すところを見つけ出したのです。しかしそれによって何をしているのかに、なぜ気づかないのでしょう? 産…もとい、S新聞がやったことは、言論と表現の自由を否定することなのです。それはマスコミの生命線であるはずのものなのに。それとももうマスコミ人を放棄したのでしょうか、政府お抱えの、平成版ゲッペルス啓蒙・宣伝省大臣になったのでしょうか?

教育基本法を変えることによって、教育の荒廃が解決されると思っているのでしょうか。教育を荒廃させたそもそもの原因が「改正」教育基本法のなかで法制化されたのです。そしていま、憲法も「もとどおり」、つまり明治憲法に接近したものに変えさせようと、布石が急いで布かれてゆきます。それで社会が正常化すると思うなら、それはちょっと早合点だと思います。むしろ不満と不安が解消されるということだけが成し遂げられ、わたしたちの生活はよりいっそう不安定きわまるところまで落ち込んでゆくでしょう。

感情で決めるのではなく、もう一度、冷静な頭で考えてから決めても遅くはないと思うのですが…。






今日の安部独裁を生んだのは、この、2005年の参院選でした。

コメント (1)
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