Luna's “ Life Is Beautiful ”

その時々を生きるのに必死だった。で、ふと気がついたら、世の中が変わっていた。何が起こっていたのか、記録しておこう。

冤罪はこうしてつくられる・前編

2007年04月01日 | 一般

冤罪-。冤罪の被害は、犯罪被害者以上に屈辱的で、取り返しのつかないものとなります。冤罪で有罪の判決を受け、理不尽に刑罰に服させられることはもとより、運よく最終的に無罪判決を勝ち得ることができたとしても、それまでには長い時間がかかりますし、その間に失うものはそれまでのふつうの人間関係、社会での立場、職、信用などのほか、野次馬マスコミの好奇にさらされ、大げさな記事を書かれることから来る名誉毀損の屈辱…。

また間違った犯人を作り上げてしまうことは、真犯人を取り逃がしたままにしておくと言うことですから、犯罪事件の真相が隠されてしまうことになります。日本では、冤罪が晴れ、無実が確定しても、そのあとあらためて事件の再捜査が行われることがないそうなのです。つまり事件は迷宮入りです。

さらに犯罪被害者たちは当然のこと、被疑者とされている人に恨んでも恨みきれない思いをぶつけます。ところが冤罪であれば、それは筋違いの恨みなのです。これも悲惨な話です。実際、冤罪が晴れても、犯罪被害者はそれまで犯人とされてきた人に恨みを持ち続けることが多いのだそうです。人間と言うのは理不尽な経験をしたとき、どうして自分がこんな経験をしなければならないのか、その理由をなんとかして知ろうとするものです。 …ある場合は創作してでも。たとえばエホバの証人のようなカルト性の強い宗教が社会からなくならないどころか、人々の支持を根強く受け続ける理由の一つは、理不尽な出来事や、不安を解消させるような断定的な答えを提供しているからです。

冤罪はなぜ起こるか、いえ、人が冤罪者となるには少なくとも一度は罪を認め、自白し、供述調書を取られるわけですから、冤罪はなぜ起こるか、という問いは、実は、人はなぜやってもいない罪を自白するのか、なぜ身に覚えのない犯罪について詳細に供述するのか、という問いでもあるのです。「自白の心理学」という小著を中心に、ご紹介しましょう。

 


一つの大きな理由は、捜査する人たちや、被疑者扱いにされた人の周囲で、確たる根拠を尊重しないで、あたまから決めてかかる態度がみられることです。「自白の心理学」で引照されていた事件を紹介します。


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数年前に(2001年からみて)、ある公立小学校で男性教師が、担任していた小学校二年生の女の子にわいせつ行為を行ったとして懲戒免職の処分を受けたことがある。そのことを報じた新聞記事には「休憩時間などに教室で女子児童をひざに乗せて身体を触った。保護者の指摘に、『いたずらは絶対にしていない』と否定していたが、最後には事実を認めた」(読売新聞1997年3月27日付け・夕刊)と記されている。

この記事の限りでは、教師が最初は「いたずらはしていない」とうそをいってだましていたが、保護者の追及によってこのうそはあばかれたのだというように読める。もとより教師がいたずらをしたのが事実ならば、この理解でよい。しかし(著者が直接)事件の当事者から話を聞いてみると事情はそう単純ではない。

第一に、問題とされた教師は、保護者からの訴えがあったのち、子ども本人はもとより保護者とも、直接に話をする機会をもてなかった。というより特定の保護者からの訴えを聞いた校長らが、問題が大きくなることを怖れて、面談の機会を回避させたという。

しかも被害者であるはずの女子児童も、先生にいたずらされたと自分から訴えたのではない。子どもはひょんなきっかけで、股に手をあてて、そこにぐりぐりがあるというようなことを親に話したらしい。この「ぐりぐり」を女性器のことではないかと思った親が、そんなことを誰から聞いたのかと質したところ、子どもが「先生」と答えたのだという。子どもが言ったのはそれだけである。

ところが親はそのひと言をとらえて、娘が学校で担任の先生にいたずらされたのではないかとの不安にかられた。これがことの発端であった。

そしてその後、当の親が同級の保護者に声をかけ、わいせつ事件ではないかとの話が盛り上がってゆくのだが、その過程で子ども本人にしっかり事実を確かめたのかというと、子どもを混乱させたくないという理由で、誰もそれはやっていない。

のちになって、ぐりぐりのことを訊いたという「先生」が、実は子どもの通っていた学童保育の女の先生らしいことが判明する。それにその「ぐりぐり」というのも太もも上部に腫れた部分があったことを言っていたと思われる。しかし、これらのことが明らかになったのは、当の疑いをかけられた担任の男性教師が行政処分を受けてからのことであったという。

 

 

そのことはともあれ、当事者である子どもと教師の話が横に置かれたまま、情報はもっぱら保護者たちと校長の間で交わされ、不安と怒りに突き動かされるかたちで、保護者の一部と校長はやがて教師のわいせつ行為をほとんど確信するに至ったようなのである。そうした(今はやりの言葉でいうと「空気」の)なかで教師への追求が行われた。

しかし当然問題の教師は否認する。校長らは、新聞沙汰になるようなことがあっては困る、ことが大きくならないうちに、ここは保護者の言うことを認めて謝罪してはどうかと強力に迫った。

(場の空気という圧力に追い詰められてゆくにしたがい、)問題になった教師のほうでも、相手が小学二年の子どもたちだから、休み時間など抱っこをせがんだり、ひざの上に乗って遊んだりする、そんなときこちらで気づかずに股間に触れることがあったかもしれないと思うようになってゆく。そうした疑心暗鬼の中で圧力に抗し切れないまま、結局、教師の側が折れて謝罪文を書いたのだという。

 

 

この教師がほんとうにいたずらをしているのであれば、否認のうそを周囲の人々の力であばいたのだということになる。しかしこの教師が無実だとすればどうだろうか。自分の中の真実を守って否認している教師に対して、周囲の人たちが強く謝罪を求め、うその自白を促し、教師は心ならずもそれに屈してうそをつくことになった。そして現実に自白をし、謝罪したあと、周囲はそのうそをあばこうとするどころか、逆にそれを支え、固めて、証拠化する方向で行動したのである。

 


(「自白の心理学」/ 浜田寿美男・著)


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まずこの事件では、犯罪の事実さえ曖昧で、だれも確かめようとはしませんでした。当の女児にさえ確認を取っていないのです。心配性の母親(エホバの証人向きの人ですね、この人は)の想像がうわさ話になり、それが大きくなって、新聞沙汰になるのを怖れた学校側がただ「火消し」にのみ奔走した事件でした。学校側は事実を調査して、明るみに出そうとするよりは、事実がどうこうより、親たちに広がった動揺・怒りを収めるために、とにかく謝罪文を書けと「強力にせまった」のでした。つまり、思い込みを立証しようとして周囲が必死になるのです。

疑いをかけられた教師は、はじめは当然否認しますが、この圧力に屈し、やってもいないことを認めてしまい、懲戒免職になったのでした。

そのことなんですが、「自分の中の真実を守って否認している教師に対して、周囲の人たちが強く謝罪を求め、うその自白を促し、教師は心ならずもそれに屈してうそをつくことになった。そして現実に自白をし、謝罪したあと、周囲はそのうそをあばこうとするどころか、逆にそれを支え、固めて、証拠化する方向で行動したのである」と、書かれていることです。ここでこの「周囲の人たちは強く謝罪を求め」たことには、事実を究明しようとするよりは、とりあえず犯人がわかって、社会の憤りを収めたいという動機があるのです。

そして無実の人は、そういう周りの動機に合わせようとして、周囲の期待にこたえようとして、謝罪文を書くことに同意します。その際の心理状況は、「問題になった教師のほうでも、相手が小学二年の子どもたちだから、休み時間など抱っこをせがんだり、ひざの上に乗って遊んだりする、そんなときこちらで気づかずに股間に触れることがあったかもしれないと思うようになってゆく。そうした疑心暗鬼の中で圧力に抗し切れない」というものでした。取調室で自白していく無実の人には、どうすれば周囲の人は「この圧力」を緩めてくれるか、という言いなりになる心理状態が見られるのです。

そしてこの、「現実に自白をし、謝罪したあと、周囲はそのうそをあばこうとするどころか、逆にそれを支え、固めて、証拠化する方向で行動したのである」という点に、人はなぜやってもいない罪を認め、やってもいない犯罪について詳細に供述するのかという疑問の答えがあるようです。つまり、「そういえば、あの先生はよく児童を抱っこしていたっけ…」というような話がひっぱり出されてきます。こういう話が、「わいせつ行為があった」という本人の「自白」を裏づける証拠として認識されるようになります。「あなたはよく児童を抱っこしていましたね?」と、わいせつ行為があったという、一部の親のうわさにしかもとづかない、根拠は薄いけれど、「確信」を持って強い調子で詰問され続ければ、当人も、「問題になった教師のほうでも、相手が小学二年の子どもたちだから、休み時間など抱っこをせがんだり、ひざの上に乗って遊んだりする、そんなときこちらで気づかずに股間に触れることがあったかもしれないと思うようになってゆく」のです。

話はそれますが、エホバの証人の審理委員会での聞き取りもおおよそこのようなものです。本人を「援助する(罪を認めればエホバに対して正直にふるまったことになり、それでエホバのみ前における清い立場を回復できるようになる、という理屈。よくわからないかもしれませんが…)」という名目ですが、実際は罪に定めて本人を辱め、貶めようとする「裁き」が行われます。日ごろ自分の意見や主張をする成員などは、たまたまこのように、うわさから起こった言いがかり的な「罪」を着せられて、当の成員のプライドを傷つけて従順にならせようとする「管理」の一環として行われるのです。公式に日常的に行われているわけではありませんが、わたしはこのような「援助」を受けたことがあります。また、「エホバの証人情報センター」に投稿された経験談などを読むと、レイプされた女性信者が、心理的支えを受ける代わりに、声をあげたか否か、どうしてふたりきりになったかなど細かに尋問され、それはレイプか合意にもとづくエホバの証人の性道徳に違反したことだったかが確定されようとするみたいです。レイプされた女性に必要なのは共感と支えなんですが、エホバの証人はそれは「罪」かどうかを裁こうとするのです。そういう痛ましい経験をした人を支えるのが宗教であり、またキリスト教の「愛」だと思うんですけれどね、わたしなんかは…。

 

さて、上記の事件では、学校での出来事であって、警察は介入しませんでした。では警察、犯罪捜査のプロたちが介入するところでも、このような冤罪事件は起こるのでしょうか。起こります。警察でも、捜査官の思い込みによる「確信」のもとに、犯罪を否認する被疑者が追い詰められてゆくのです。捜査官のテキストである、「犯罪捜査101問/ 補訂第5版/ 増井清彦・著」によると、

 

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【第92問 否認している被疑者の取調べ要領はどうか】

被疑者が供述を拒否し、あるいは虚偽の内容の供述をして犯行を否認した場合、それを追求して真偽を明らかにすることは、捜査官として当然の義務である。ただ、否認する被疑者に対する説得行為は、往々自白の強要であるといういいがかりをつけられることがあるから、特に取り調べの態度に注意しなければならない。それには、被疑者の弁解を無視することなく、誠実に対処することが大切である。

否認している被疑者の取調べに当たっては、次の事項に留意すべきである。

あらかじめ記録及び証拠物等を精査検討して事件の全貌を把握し、確信をもって取り調べること。頑強に否認する被疑者に対し、「もしかすると白ではないか」との疑念をもって取調べをしてはならない。被疑者は、捜査官の心理を見抜くことに敏感であり、装うてみてもすぐに看破される。あせらず、毅然とした態度で、迫力のある取調べをしなければならない(ただし、記録等を検討した結果、犯人であるとの確信を持てない場合は、予断を持たず、供述の信用性を検討しながら、適切な質問をすべきである)。

黙秘・否認の原因を早期に究明し、被疑者を説得して、自発的に供述させるよう努めること。
否認の原因が被疑者自身にあることが判明した場合には、その心情をよく理解し、原因の除去に努めながら、被疑者を説得して勇気を与え、その善性をよみがえらせることによって、自発的に供述させるようにすべきである。…(後略)
 
被疑者から繰り返し詳細に弁解を聞き、矛盾・不合理を追及すること。
虚偽の供述には必ず事実に符合しない点、不自然な点があるから、これを追求し、被疑者をして到底自己の刑事責任を免れることはできないものと、観念させることが肝心である。
  
被疑者の人格を認め、その緊張感をほぐし、親近感を持たせること。
被疑者は否認を通すため、いつも極度に緊張している。取調べに当たっては、権威をかさにきた脅しや技巧を用いず、誠実な態度で接し、全人格的な信頼感を醸成することに努めるのが有効である。お互いに胸襟を開き、相手に親和感を持たせるため、雑談をすることも必要である。
 
誘導又は誤導にわたる取調べを行わないこと。
否認の場合には、矛盾や不合理が多く目につくが、弁解には注意して慎重に検討することを忘れてはならない。不用意に自己の先入観を押しつけて追求するときには、虚偽の自白をさせる危険があるので、十分注意しなければならない。

 

 

(「犯罪捜査101問」/ 増井清彦・著)


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この取調べ要領で、いちばん重要なポイントは、「あらかじめ記録及び証拠物等を精査検討して事件の全貌を把握した上での確信」という点にあるでしょう。冤罪が起きるのは、捜査官の側の「不用意な先入観」にもとづく、根拠が薄いままでの「確信」が押しつけられて自白が強要されることにあるようです。この要領は、実際に犯罪に手を染めた人には有効に機能するのでしょうけれど、何もやっていない人には有害に機能します。「もしかすると白かもしれない」という疑念は持ってはならないので、確信をもって、「毅然とした、迫力のある」追求がなされるのです。また冤罪で供述が取られるのは、要するにウソの話なので当然矛盾点や不合理な点が出てくるのです。それを一つ一つ追求されたとき、無実の被疑者は精神的に参ってしまうのです。特に取調室では、被疑者にとって捜査官は生殺与奪の権を握る権威者となるのです。無実の被疑者はなんとかして、捜査官にわかってもらいたいとします。そこへ「ときに親切に接し」てくる捜査官に助けを求める気持ちが起こって、捜査官に「取り入る」姿勢を持つようにさえなるのです。

では、実際の事件を例に、どのように無実の人が自白して行くのかをみてみましょう。2年後に後編をアップします。ぜひ読んでくださいね☆


 

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