Luna's “ Life Is Beautiful ”

その時々を生きるのに必死だった。で、ふと気がついたら、世の中が変わっていた。何が起こっていたのか、記録しておこう。

「水が顔を映すように、心も…」(箴言27:19/新共同訳)

2007年03月25日 | 一般

 人の心は合わせ鏡

  館 有紀 (たて ゆき) 医師・作家・エッセイスト
  
  「あなたの心を守りたい」/ 館有紀・著

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「肺炎なので入院のほう、お願いします」

土曜日の夕方に、五十代の男性が近くの外科系の病院から紹介されてきました。その男性は、グループホーム(認知症対応型共同生活介護。障害を持つ人または高齢者が、自宅と同様の環境の中で、少人数で共同生活を送る介護施設)に入所したばかりで、医学的な理由で通常のコミュニケーションがとれず、徘徊もひどい方でした。とにかくいっときも落ち着くことなく、どこかに歩いていこうとされるのです。

外来での印象としては、誰かつきそいがいないかぎり、うちの病院で入院治療を続けるのはむずかしいと思いました。おそらく紹介してきた医師も、自らの病院での入院治療は困難だと思ったのでしょう。

「困ったな…」と思いましたが、熱も高く、帰宅できる状態ではありません。グループホームの職員さんも、ホームで看ていくのはお手上げのようでしたので、結局、入院していただきました。

ちょうど日勤と夜勤の看護師さんの交替の時間帯にさしかかっていました。内科病棟に電話し、主任に事情を伝えたところ、困惑している様子がありありと伝わってきます。しかし、基本的に、うちの病院では、よほどのことがない限り入院は快く受けるということをモットーとしていますので、最終的には(内科病棟の主任さんも)承諾してくれました。

外来での検査や指示書きが終わり、外来の看護師さんといっしょに男性を病棟に上げました。すでに時間は夜勤帯です。夜勤の看護師さんは、落ち着きのない彼を見るなり、「うちでどうやって見るんですか!」とボールペンを壁に投げつけ、強い口調で抗議してきました (これまでの、この病院側での「困惑」は、病院とグループホームは異なっていて、グループホームのようなサービスは病院ではできないからだと思われます)。

申し送りをしていた外来の看護師さんが、彼女のその言動に対して怒っているのが横で見ていて明らかにわかりました。しかし、それ以上に私自身が、激しい感情のほとばしるのを抑えることができなくなっていたのです。

「何を考えているの!」

そうどなりつけたい衝動を何とかかんとか押し殺すのに必死でした。それほどまでに自分の感情をコントロールできなくなったのは何年ぶりだったでしょう。私のようすが異常におかしいことに気づいた外来の看護師さんは、(そんな私のようすに)驚いて、怒るのをやめたほどでした。




【問題はどこに?】
この事件は私にとって、衝撃的ともいえる出来事だったのです。激しい怒りをコントロールできなかったこと。またそのような言動をとる看護師さんをまったく理解できず、強い拒絶感を抱いたこと。自分の心というものがこれほどまでに思いどおりにならないとは…。

「怒ることがなぜいけないの?」と思われる方もいるかもしれませんが、感情的におおきくブレると、いい医療ができませんし、判断ミスが起こり、それが患者さんの命にかかわる事態を招きかねないのです。

それに怒りという感情は、相手だけでなく自分自身も傷つけてしまいます。怒りによって心に余裕がなくなると、人をサポートする余裕もなくなります。そうすると自己嫌悪に陥りやすく、それが大きなストレスになります。ですから、怒りの心をコントロールする方法を知っておくことが、ストレスに負けない心をつくるために大切なのです。

なのになぜあのとき、感情が高ぶり、制御不能になってしまったのか…。この問題ときちんと直面しなければ、前に進めない気がして、それから数日間考え続けました。

そしてあるとき、あっと思ったのです。

それは、まさしく私自身の中に、その男性患者さんを排除しようとする気持ちがあったことに気づいたからです!

やっかいな患者さんを紹介されたことに対する無意識の領域の奥に隠された不満。「次の医師と交代するぎりぎりの時間に来なくてもいいのに。この入院のために何時間も帰宅が遅れてしまう」という不愉快さ。

そうしたマイナスの心に直面するのが怖くて、気づかないふりをしていたのです。私の中にある真実の感情、真実の思いを偽っていたのです。心の奥では不満が強いのに、表面上だけ、その患者さんのために行動していたわけです。

そのため、私と同じ気持ちでいた看護師さんに、激しい怒りを覚えたのです。なぜなら、彼女を通して、決して見たくない自分自身の醜い姿を見てしまったからです。

この事実に気づいた瞬間に、不思議なことに、怒りがスッと消えてしまいました。



この経験で、なるほどと腑に落ちたことがありました。

「人の心は合わせ鏡 (聖書をお持ちの方は、箴言27:19もご覧になってみてください) 」という法則があります。相手の反応は自分の心の反映であるという意味です。なぜ自分は怒っているのか、本音を見つめていったときに、この法則が言うように、その原因は、相手ではなく自分自身の心の中にあることも多いのです。これに気づけば、相手に原因がないとわかるため、その人に対する怒りは収まってゆくわけです。


(上掲書より)

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この本について注意しておきたいことがあります。この本は、表紙のタイトルを見て、最初のページから立ち読みを始めて、ずーっと第2章まで読んでいて、「あ、もうこんな時間だあ」というので、とりあえず買っったんですけれどもね…。電車の中で、あらためて目次を見ると、最後の章「6」が、「死を怖れなくなるスピリチュアルな視点」とあるんです…。

「ありゃ~??」と思って、著者の紹介を見ようと最後の方のページをパラパラとめくると、出版案内に5ページほど割いてありまして、そこに「大川隆法」という名前があるじゃありませんか…。出版社の名もズバリ「幸福の科学出版株式会社」…。

「やられたー」と思いました。こんな内省的なエッセイを書かれるお医者さまがまさか、幸福の科学の信者さんなの? ウッソーって感じですが。いえ、幸福の科学に何か思うことがあるわけじゃないですけれどもね、わたしはキライなんですよ、スピリチュアルだの、新興宗教だのが。

そんなわけで、ここではっきりさせておきたいのですが、

ルナは、幸福の科学を宣伝するつもりは毛頭ありません。まして入信を勧めたりは絶対にしません。

むしろ、新興宗教には入信しない方がいいと主張しますし、スピリチュアルなんてものにハマってはならない、と声を大にして主張いたします。



ただ、このお医者さまは、「うちの病院では、よほどのことがない限り入院は快く受けるということをモットーとしています」とかおっしゃるところをみれば、良心的で使命感をお持ちの方のようですし、ご自分の内面への率直な反省、ネガティブな感情をコントロールしようとする謙虚さには十分勉強させていただきました。ですから、あえてこの一文はご紹介したいのです。幸福の科学に入信するかしないかは、読んでくださるみなさまがたがお決めになることです。ですが、わたし個人としては新興宗教に入信することには賛成できません。




わたし自身は、

「怒りという感情は、相手だけでなく自分自身も傷つけてしまいます。怒りによって心に余裕がなくなると、人をサポートする余裕もなくなります。そうすると自己嫌悪に陥りやすく、それが大きなストレスになります。ですから、怒りの心をコントロールする方法を知っておくことが、ストレスに負けない心をつくるために大切なのです」

ということには教えられましたし、現実問題として感情のコントロールは意識して実践していこうと決意しています(実際の方法などはまたご紹介してみたいと思います)。

また、

「まさしく私自身の中に、その男性患者さんを排除しようとする気持ちがあったことに気づいたからです! やっかいな患者さんを紹介されたことに対する無意識の領域の奥に隠された不満。「次の医師と交代するぎりぎりの時間に来なくてもいいのに。この入院のために何時間も帰宅が遅れてしまう」という不愉快さ。そうしたマイナスの心に直面するのが怖くて、気づかないふりをしていたのです。私の中にある真実の感情、真実の思いを偽っていたのです。心の奥では不満が強いのに、表面上だけ、その患者さんのために行動していたわけです。そのため、私と同じ気持ちでいた看護師さんに、激しい怒りを覚えたのです。なぜなら、彼女を通して、決して見たくない自分自身の醜い姿を見てしまったからです。この事実に気づいた瞬間に、不思議なことに、怒りがスッと消えてしまいました」

…のくだりには人間心理の陥穽を見せつけられた思いです。精神分析でいう「防衛機制」としてあげられている、「投影」や「反動形成」というところでしょうか。元エホバの証人系の掲示板や、日記形式のブログなどでは、傷つくことへの異常な恐怖心を書き込まれる方々がままおられましたが、そういう中にはむしろ異常に強く攻撃心が内在している場合もあるそうなのです。自分のうちにある攻撃的な傾向を抑えこもうとすると、人はえてして反対の態度をこれ見よがしにアピールしたりするものなのだそうです。

現役の人の異常に執拗な人格攻撃には、その裏に自分への不信感や深い劣等感がうかがえますし、傷ついた元信者による掲示板に書き込む人への攻撃傾向には、エホバの証人信者である家族の誰かや、会衆の誰かへの果たされなかった恨みや復讐があるのかもしれません。本来ならそれらの人へ向けられるはずの怒りが、代わりに掲示板の誰かに向けられるのです。あるいはあえて「身代わり」の者を探してその人のプライドを傷つけてやろうとして、掲示板にやってくる場合もあるでしょう。

さらに大胆に広げていくと、安倍総理の戦後日本の不完全だったとはいえ「戦後民主主義」への破壊的行動・政策、福祉後退政策、教育基本法改正や憲法改正への執念にも、岸信介の孫であったことで、ひょっとしたらそれを理由に人格を否定されたかもしれないことや、また、岸に向かって言われるべきことを、国民のうちの一部の無思慮な人々やチンピラ・ジャーナリストたちなどが、彼らの側の「投影」によって、自分自身に向けられてきたかもしれないこと…などへの恨みなどが、密かにその動機を形成しているのかもしれません。

ではこういう傾向を乗りこえるにはどうすればいいか。館医師はこのように書いておられます。

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激しい言葉や態度をぶつけられても、冷静に受け答えすることは、慣れてくればそれほどむずかしいことではありません。けれども、どうもそこにはふたつのタイプがあるように思うのです。

ひとつは、本当は心の中は怒りに満ちているのに表面上は冷静に対応している場合。もうひとつは、どんなことばを投げかけられても、ほんとうに動揺していない場合、です。

通常は、内心で腹を立ててはいても、顔には出さず、耐えて対応していることが多いでしょう。しかし、理想としては、プライドを傷つけ、自分自身を否定されるような言動を受けたとしても、心そのものが揺るがないことを目標にしたいなと思います。心に中に怒りをためると、必ず相手に伝わってしまうからです。

その意味で、無理に自分の感情を抑えこむことはよくありません。無理が続くと、ある限界を超えたときに「逆ギレ」してしまうこともあるでしょう。滅多に怒ったことなどないような人(子どもなら、「いい子でしたよ~」という評判の子が)が、手をつけられないほど感情的になったり、取り返しのつかないような攻撃行動に出たりすることをたまに聞きます。自分の感情を無理に抑えこんできた結果、そうなってしまうのでしょう。


(上掲書より)

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不満があるときには、ふさわしい方法で抗議・主張すべきです。自分のうちに押し殺すのは決して美徳ではありません。上記のようなことがあるのなら、むしろ周りの人々に迷惑が及びます。エホバの証人が問題なのは、横暴な組織や長老への反感や批判を、恐怖と心理的暴力によって抑えこもうとするからです。抗議や批判には上手に行う技術が開発されています。有名なのは「アサーション」です。これについては一度、いずれ本格的に紹介してみようと思っています。


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