Luna's “ Life Is Beautiful ”

その時々を生きるのに必死だった。で、ふと気がついたら、世の中が変わっていた。何が起こっていたのか、記録しておこう。

更新されたJWIC

2005年06月07日 | 一般
JWIC が更新されました。そしてとても残念に思う投稿を読みました。

http://www.jwic.com/forum/030705.htm の記事です。ぜひお読みになってください。「エホバの証人の自殺と輸血拒否の問題」というタイトルです。「第3部、一般の方々からのメッセージ、質問等」に投稿されています。

女の子が自傷というにはあまりに自殺に近い傷を負わせて、何度も救急車で運ばれる。傷が深すぎて、いつも血まみれで病院に運ばれる。母親が呼び出されるのですが、彼女は娘にひと言の気遣いのことばもかけるのでない、救急隊員や医師たちを驚かせたことに、娘に向かって聞くに堪えない罵倒のことばを浴びせる、というのです。そして、ひたすら「輸血をするな」と説得するのだそうです。

その女の子は結局は死ぬのです。
最後に救急車に乗ったときには、かみそりの刃を刃になっていない部分まで深く首に刺しこんだのだそうです。血が「噴き出していて、車内は真っ赤」だったそうです。こんな恐ろしい描写まで書いて申し訳ありません。ただそこまで深い傷を自分に負わせたその女の子の「怒り」に、わたしは心底共感できるのです。そしてこの怒りこそ、その女の子の訴えたいメッセージなのです。だから「そこまで気色悪い書きかたする必要ないでしょう」なんてお嬢さんぶりっ子しないで、彼女の訴えに正面から向き合ってあげてください。

そしてその子の母親は、その期に及んでも「輸血をしないでください!」と叫ぶのです。
「あんたの娘さんはもう死んでるんだよ!」。
外科医は怒りをあらわにそう叫び返したそうです。その時には娘さんの蘇生術が施されていたのです。その病院の救急では、その母娘は「名物」になっていて、医師も看護士もみな、その娘さんに同情的になっていました。「きっと助けるからね」、ある看護士は義憤に駆られ、意識の混濁した娘さんに声をかけるのです。そんな訳ですから、一目でもうダメかと分かっていても、必死で蘇生を行っておられたのです。その現場で母親は、輸血をするなと血相を変えて言うものですから、外科医は怒ったのです。「虐待の報告をする用意がある」、病院はそう言いました。

70年代、80年代じゃあるまいし、この2005年の、一般のエホバの証人たちがすっかり醒めてしまって、無気力と惰性に陥っている時代に、まだこんな狂信的信者が生き残っているということに、絶望的な思いになりました。この母親には、自分しか見えていない。この母親の態度は、要するにエホバの証人としての「あたしの立場」に傷をつけるな、あたしが信仰しようとしているんだから、おまえ(娘)はそれを支持し、見守れ、という要求をつきつけているんです、自分の娘に。これが「子どもを親のカウンセラーとする」、あるいは「親子逆転」ということの実例なのです。親が自分の情緒的安定のために、子どもに支えになれというのです。

この母親の会衆では、この母親にこのように振る舞うようにさせる「力」があるのでしょう。輸血されてしまうと会衆での立場がどうなるか、その恐怖がこの母親にあのような狂信的な振る舞いをさせたのだと思います。エホバの証人の「証言活動」は基本的に「恐怖」に動機づけられている。神へのあふれる愛が動機じゃない。あるいはこの母親の理解力、知力がこの程度のまま、会衆の長老は何の指導もしなかったのです。いつもどおりにそこそこ時間を入れ、そこそこ雑誌・書籍を配布し、そこそこものみの塔に書いてあるとおりに注解していれば、活発な状態だと判を押して放置していたのです。ただ一つのものの見方に固着する、させる。信教の自由は保障されているから口出しするな、そんな言い方はできませんよ。「自由」は多くの選択肢から自分で選択できてはじめて「自由」なのです。いろんな意見を比較考量して、しかもなおより良い選択ができてはじめて自由が意味を成すのです。たった一つのものの見方だけしか知らずに、これは自由の行使だなんて言えないのです。それはむしろ「偏執」と呼ばれるものです。批判を許さず、成員の生命より体制の維持をまず優先させる、エホバの証人は正真正銘のカルトです。社会悪です。必要悪でさえないです、こんな宗教。現役の人たち、このケースはこの母親が未熟なだけだ、なんて言って軽く見過ごさないでよね。

肝心な問題に触れられるとエホバの証人は、組織の一致を乱すとか、おまえにあれこれ言う資格はないとか、言います。そういうのだってりっぱな組織擁護です! 現役の人たちにとっては、組織は自分自身なのです。自分を組織に同一化させているのです。組織こそ自分のアイデンティティなのです。キツネが胸を張っていられるのは、後ろにトラが控えていればこそであって、組織が価値を失えば自分の拠りどころを失うのです。自分で考え、自分で目的を持ち、その目的に向かって挑戦し、いくばくかでも成果を獲得する、そういう生き方をしてこなかったので、「自分」というものを持たないのです。誰かに何かの目標を与えられなければ、何をしていいやら分からないのです。だから、疑惑や不満があってもエホバの証人に留まろうとするのです。そしてこういう事件が明るみに出ると、目をそむけるのです。掲示板なんかにこういう事件をもとにして批判が書き込まれると、有無を言わさず削除したりします。

世の一般の教会では、個人の生きかた、個人的な目標を与えたりはしません。それは自分の責任で個人的に決めることなので、他人から与えられるものではないのです。自分の生きる目標は自分で決めるべきものなのです。自分のアイデンティティは自分で確立する、それができない人たちが、「目標」を設定してくれる強力な人、団体に頼るのです。これこれの手順でこれこれの仕事を果たし、これこれの掟を万難を排して遵守すれば君は価値の高い人間だ、と評価してくれる人、集団を必要とするのです。それがナチスのような政治的な団体であったり、オウム真理教やエホバの証人のような宗教だったりするのです。エホバの証人という宗教に変革を期待する人たちは、自分で生きる意味や目標を見出すことができない人たちだと思います。いえ、そうだと確信をこめて言います。エホバの証人の組織がまともになれば、他者から与えられた目標を取り入れて生きることに、引け目を感じることがなくなるからでしょう。

人間が、自分で生きる意味を見出せないように育てられる時代、これこそ最大の現代の「病」だと言えば、大げさでしょうか。かの母親にとっては、エホバの証人の世界で居場所を守ることだけでしか生きている実感をもてなかった、輸血を拒否し、娘を心理的に追い込んででも。娘は自分の情緒的な必要のための道具でしかなかった。またこんな人々を寄せ集め、そこから賞賛を受けなければ、自分の値打ちを実感できない組織の指導者たち。彼らにとっては数百万の信者たちは、自分の情緒的安定のための道具でしかないのです。信者たちが一命を賭して彼ら指導部が創作した「真理」を擁護したときに、ようやく「自分は誰かに認められている」と信じられる指導部の人たち…。こんなふうにしてしか生きていけない人間を生み出した社会…。これを何というべきでしょうか。 …わたしはこれも生命の宿命だと思うのです。種というものは必ず絶滅するか、変化してゆく(進化する、もしくは退化する)かするものなのです。このことについてはまた別の機会に書いてみます。

わたし、村本さんの許可が下りたらコピーして、この件でちょっと書信で日本支部に抗議します。輸血の問題に対処するスキルをきちんとつけるように長老たちは徹底的に見届けろということ、拒否の方法にもいくつかあるみたいだけれど、あいまいなことを言わずにはっきりこうしろと指示しなさい、と。個人的な決定だからなんて言わせない、このケースじゃどうみてもこの母親に冷静な判断力があったとは思えない。子どもの権利を尊重するべきこと、子どもが心理的に追いつめられているんなら、そこまで追いつめた親なんかに伝道者の資格を与えるな、と。 聖書も言っています、家の者をきちんと治められない人がどうして神の会衆の世話ができるでしょうか、と。そんな人に「唯一絶対で神聖」な神の名を代表する資格なんてないのです。

今日は一日中、気分がすぐれませんでした。JWIC の管理人さんが薦めておられるように、この件は「症例報告」というかたちできちんと記録に残しておいてほしいです。こんなことがいつまでも続いていくのは絶対、絶対間違ってるし、もういいかげん終わらせなければならない。情緒的に未熟な人間が寄り集まって何を信じようと、好きにすればいい。でも子どもを巻き添えにしないで! 子どもには自分で自由に選択させて。つまりいろんな考え、批評にふれさせて、その上で決めさせて。それが信教の自由であるのだから。これは、このケースはまぎれもなく虐待です。マジでキレてます。

コメント (16)
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