Luna's “ Life Is Beautiful ”

その時々を生きるのに必死だった。で、ふと気がついたら、世の中が変わっていた。何が起こっていたのか、記録しておこう。

自分に正直でいるのがいちばん

2005年04月27日 | 一般
ベトナム戦争はアメリカに精神的に深い傷を負わせた。ベトナム帰還兵のかかえるメンタルな問題は、映画や文学で取り上げられているだけでなく、精神医学でもさまざまに研究されてきた。それは「心的外傷後ストレス症候群」という長ったらしい名前の心理的な障害に分類されている。

命の危険を感じるような恐怖の体験をした場合、あるいはそれに勝るとも劣らぬ深刻な体験をした場合、そこで受けた心理的な傷がずっとあとまで治らないで、いろいろな障害を引き起こすことがある。戦争。災害。強盗に襲われたとき。レイプされたとき。家族が殺されてしまったとき。家族離散。偶然目撃してしまった暴力犯罪。

こんなことが起こったとき人はどうなるか。あんまり理不尽なことが起こるとまず最初はそれを信じることができない。世界と自分が切れてしまったような状態になる。だから大事な人が死んだということは棚上げしたまま、目の前の用事をテキパキこなすということもある。

突然の事故で家族が亡くなったりしても葬式などでは案外しっかりしている遺族が多いのはこのためである。悲しみや怒りの感情がわいてこないのは冷静な人だからではない。あまりにも傷が深いために、自分自身に傷を受けたことさえ受け入れることができないのである。しばらくしてからいろんな感情がわいてくる。悲しい、腹が立つ、悔しい、ひどい…。決していい感情ばかりではない。

でもこういう気持ちになるのはごく自然なことだ。ここで十分な精神的な支えがあれば、いろんな気持ちを表すことも少しは楽になる。怒ったり、泣いたり、からんだり、めちゃくちゃなことを言ったり。そういう過程を通ってから、何とか新しい生活に向かっていける。大事なものを失ったということには変わりがなくても。さびしい気持ちや割り切れない気持ちをかかえながらも。

ところがそれがうまくいかないときもある。ベトナムでジャングルに潜む死の恐怖にさらされてきた帰還兵はまず本国で温かく迎え入れられなかった。ベトナムでの体験は無意味だとされ、戦争での記憶は一刻も早く消し去ってしまうほうがよいとされた。家族も近所の人も聞き手にはなってくれなかった。こういう中で多くの精神的な不適応状態が発生したのである。

何をしていても事件の苦痛な記憶がふっと頭に侵入してくる。繰り返して苦痛な場面の夢を見る。戦場体験のフラッシュバック。事件の起こった日の前後になると調子が悪く苦しくなる。同じような事件をニュースでやっていると、ありありと苦痛が思い出される。

こんな症状があっては日常生活もうまくいかない。そこへ「いい加減に忘れてしまいなさいよ」、「もっと前向きに生きなさい」、などという「善意」のひと言や「理性的な説諭」が胸を刺す。忘れられないからこうなっているのだ。ほんとうは忘れるよりも、話すことが必要なのである。精神医療への関心が発達したアメリカでは、心理的な傷を負った人々を理解し、受け入れ、援助するための組織がボランティアに支えられて活動している。

(おしゃべり心理学/小西聖子・著)より。
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心の傷は信頼する人から拒絶され続けたときにだって生じる。親が自分の感情の面倒を子どもを巻き込んで解消しようとあがく。親が成し遂げられなかったことを、子どもにさせる。親の気に入る言動をしなければ、やさしく接してくれない。こんなコントロールにさらされてきたわたし。あきらかにまちがっている、それが自分にはわかるのに、親は理解しようとしない。だからしまいにヒステリックになって、やけくそで親の言うことをやりつづける、自分に痛い思いさせても。これでもか、これほどやってわたしはクタクタになっている、それを見てもお前らは自分の間違いを認めないのか、わたしのほんとうの思いを悟らないのか!

悟らない。親は恨んでいるからだ。自分の押しつぶされてきた人生について、そういう運命を恨んでいるからだ。
「あたしはそうやって生きてきたんだ、人生とはそんなものなんだ。自己実現だと? 甘えるな! 人生とは痛みに耐えることだ!」
そう心に思って、親は怒っている。おそらく、夫を、親の親に訴えているのだろう。おまえが思いやりを示さないから、わたしはこんなに荒んでいるって。

歪んだ情緒の連鎖から離れても、自分で自分を認められない。どうせわたしの言うことやることは批判されるんだってすねている。そして批判されるとすごい傷つく。たとえそれが建設的な助言であっても。批判されると、自分の全人格が否定されたように感じるからだ。親や会衆が、エホバの組織にかなうものでなければ一切ダメって言って、わたしの独創や個性を否定し、そんなことをいうお前には「資格がない」と言われてきたからだ。

傷ついたエホバの証人の心的外傷をいたわるサービスってないの? ないんです。元エホバの証人のHPにさえ、模範解答を強要する過剰適応のままの人がいて、「忘れなさい、前向きに見ろ、一部で全部を批判するな」という理性的な説諭で胸を刺す。幼い頃からそういう言葉を話し、信じるよう押し込まれてきた人たち。きっと報いを受けるよ、あんたらはさ。そう、子どもにあなたたちは、よい子でいるよう強要する。本音を話すとあたまから、そんなこといっちゃダメ!って拒絶する。皮肉なものよね、エホバから逃れてきていながら、エホバと同じ方法で子どもをコントロールしようとする。そして将来こどもは、わたしと同じようにあなたたちを憎むようになるのだ。「自分のまいたもの、それをあなたたちは刈り取ることになるのです」。

おまえの子どもの行く末を予言してやろう。

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ある母親が子どもからラーメンを浴びせられたといって、某カウンセラーを訪ねてきたそうだ。深夜まで机にへばりついて勉強している高校生の息子にラーメンを運び、振り向きもしない息子の背中に「がんばってね」と声をかけたら、いきなりドンブリごとのラーメンが飛んできた。同時に「これ以上、どうがんばれっていうんだ!」という罵声も飛んできた。それから母親への暴力が始まって手がつけられないということで、「おかしくなった」息子を治療してほしいというのが親の言い分なんだが、この母親は、自分が息子にやってきた長年の暴力・虐待に気がついていない。「親の期待で子どもを縛る」という「見えない虐待」である。子どもは親の輝く顔を見たい一心で生きている。そんなふうには見えない子どもでもそうであることは、自分の子ども時代を思い出せば分かるはずなのに、親という役割に囚われた人は、このことを忘れてしまっている。子どもにとってよしと思えることは否定し、親にとってよしであることを感じ、思い、考えるよう調教するのが、この小子化時代における親の子ども虐待である。
(依存と虐待/斎藤学・編)より。
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おまえには自分の考えというものがない。人に気に入られることをもって自分の考えとしてきたからだ。そんな自分の内面の空虚を、お前は子どもに悟られたくない。だから世間体に合うことのみを考え、話し、感じるようコントロールする。エホバの証人から逃れ出た人の最大の敵は2世のエホバの証人だ。

わたしは一度だけ父親のことばに喜んだことがある。まだ小さかった頃、換気扇を指差して、「あれがくるっとこちらのほうにも向くようにしたら、扇風機になるね」って言ったら、父は、「ほんまやなあ、S子は頭ええなあ」と言ってくれた。そのときわたしはとてもうれしかったのを覚えている。子どもの考えをそのまんま受け入れ、肯定し、誉めてあげたあのときの父親は立派な父親だったのだ。

落ち込んでいるとき、現実をはっきり見定めることのできる人なら、「前向きに見ろ」といって、子どもの心の傷を軽視しないだろう。むしろ「お前が悲しみ、怒るのは当然だ。あの長老のほうが間違っている。泣いていいぞ、怒っていいぞ、お父さんのとこへきて泣きなさい」と言うだろう。こうして親子の信頼は築かれる。

だがおまえでは無理だ。おまえならただ、いつまでもめそめそするんじゃありません、と子どもを突き放すだろう。子どもはお前を憎むようになる。そのとき、お前はどうする? 助けを求めてもう一度、エホバの証人に復帰するんだね!


そうですよ、傷ついたみなさん、あなたが怒りに感じるのは当然のことです。あなたは虐待されてきたのです。言葉で傷つけられても、打撃をもって暴行されても、脳は同じ場所で痛みを感じ、体も同じ仕方で反応します。人間は暴力で顔を腫らされたから屈服するんじゃない、自尊心が貶められたから屈服するのです。侮辱のような言葉の暴力を取り締まる法律はないから、「そんなことをいちいち気にするな」で片付けられがちですが、それは違います。同じなのです。言葉による攻撃も、身体的な暴力も相手の自尊心を貶めて屈服させようとする点で同じなのです。だから、「よい子」で「ものの分かった」おりこうな2世が幅を利かせている掲示板からは去りなさい。彼らが求めているのは、自分自身への賞賛なのです。彼らはあなたの気持ちなど決して理解しません。彼らはあなたの心の怒りを拒絶するからです。それを間違いだと言って非難するでしょう。あなたのやるせない悲しみは有能なカウンセラーに話しなさい。日本には有能なカウンセラーは限られてはいるようですが…。あなたの怒り、悲しみは共感して聞いてくれる人を必要としているのです。あなたは自分に正直であってください。もうエホバの証人じゃないんですから。



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「たったひとつのことがわたしの気にかかる。
それは、どうか自分が人間の本来的な素質の要求せぬことをやったり、要求せぬ方法でやったり、現在要求せぬことをやったりすることのないように、ということである」。
‐マルクス・アウレリウス  …ローマ皇帝(AD.121-180)でストア派の哲学者。
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