Luna's “ Life Is Beautiful ”

その時々を生きるのに必死だった。で、ふと気がついたら、世の中が変わっていた。何が起こっていたのか、記録しておこう。

Interlude 4

2005年04月19日 | 一般
人間は調子のいいときは、自分のことしか考えないものだ。
自分に不運がまわってきて、人にも世間にも捨てられ、その日その日の苦労をするようになると、はじめて他人のことも考え、見るもの聞くものが身にしみるようになる。

「柳橋物語/ 山本周五郎・著」より。

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こう考えると、エホバの証人の中で屈辱にまみれた人生も意味を持つと思う。自分の弱さというものを受け入れられたし、人間というものも見えたし、表面だけじゃなく、実のところというものを分かるようになった。

ただ、わたしはある意味、幸運もあったのだと思う。
うつ病にはならなかったし、パニック障害などにも見舞われなかった。実は現役だったころから、会社でけっこう恋愛していて、それがガス抜きになったのだと思う。世の人とちょっと打ち解けておしゃべりしていると、エホバの証人のものの考えかたがいかに偏狭か、いかによそゆきの顔でつき合いをしているかがわかります。ふれあいというのは感情を正直に言い表すときに感じるものです。建前だけのコミュニケーションを模範的とするエホバの証人たちは孤独です。

エホバの証人時代にケチョンケチョンに踏みにじられた方々、わたしもそのひとりです。でも踏みにじられたからこそ見えるようになったこと、分かるようになったことがある。これは財産よね! 無駄にはならないよ、きっと。


人を愛するため、人は生まれた
苦しみの数だけ、やさしくなれるはず…
(遥かな人へ/高橋真梨子)
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Interlude 3

2005年04月19日 | 一般
同じ出来事でも、傷つく人もいれば傷つかない人もいます。だからって傷ついた人を「未熟な人」と決めつけるのこそ未熟なことです。人の個性には遺伝の要素もあり、大胆さや繊細さもその影響があるからです。繊細で傷つきやすいのはその人の個性であり、長所なのです。大胆さもその人の個性であり、長所なのです。ただある個性がうまく活かされる局面があり、そうでない局面がある。人の特性はあるときには短所になってしまうかもしれませんが、ある局面では誰にもひけを取らない長所にもなります。だから人はひとりでは生きてゆけないのです。だから人は共同生活を営むのです。人間が生存競争を生き残るには、社会生活を営まねばならないのです。だからこそコミュニケーション能力がきわめて大切なのです。お互いがお互いを知らなければ、理解も共感もできないじゃないですか。理解しあおうとするなら、ほんとうの自分の姿を見せなければなりません。違いを見分けてこそ理解できるのです。違いを受け入れるには許すこと、裁かないことが求められるし、裁かないためには多様な価値観を受け入れなければならない、そうでしょ?

本当の自分に自信を持たせないようにする機能不全な家族の罪は重い…。人のご機嫌を伺い、自分じゃない作りものの人となりでなければ受け入れられないっていう暗黙のメッセージを植え込んじゃいけない。価値観をただひとつしか認めないなんて、対立を引き起こしているようなものです。ましてそれが宗教団体の一部の指導者たちの「自己不在感」を癒すためだけの目的だったら、人間性へのなんという冒涜!

野外奉仕などで見知らぬ人ともあっという間に打ち解けあえる人だけが会衆でちやほやされる、すると次第にしずかに観察してから要領を感覚的につかんでから、そろそろ行動する人はみそっかすのように見なされてしまうかもしれません。成果を競わせることで、組織への求心力を維持しようとすることを重要視しているから、特定の個性しか認められない雰囲気が生じます。宗教は産業じゃない! 人のあり方、生きざまの支えであれば十分じゃない!? 自分という存在に価値を見出させる、そういうものであれば十分じゃない!? 宗教のために自分をだまして生きていかなければならないなんて、間違ってる。そんなことで、どうして世を非難できるの? 

100年前には労働者は工場生産の中の部品のようだった。人間が、経営者の利益のための手段だった。60年ほど前には人間は国家の面子を立てるための兵器の一部だった。人間が、一部の支配者の意地を立てるための手段だった。そんなことへの反省の結果、今の憲法なり、法律なりがあるんでしょ? なのにどうして今あらためて神を騙る人格障害者たちの意地のための手段に成り下がろうというの? …そうよね、認められたいのよね…。受け入れられたいのよね…。愛されたいのよね…。ひどい親だったものね…。

でも気をつけて。尊敬は誠実なコミュニケーションによって築かれるもの。決して成果に対する報酬として得られるものではないし、誰かから任命されることで得られるものじゃない。相手を認め、受容するなら、心ある人はあなたを認め、あなたを受容するでしょう。その人があなたの友人です。「新しい衣」で本来の自分を隠さなければ受け入れない神は戦争の神、分裂を引き起こす神です。「原罪」なんて実際には存在しないんです! 人が傷つけ合うのは、情緒的に成長しきっていないからで、悪魔サタンがそそのかしているんじゃない! 人間は傷を癒して、成長できるんです! いくつになっても。あなたの悩みを解決するのは罪悪感を教える宗教なんかではない、絶対に! むしろ訓練された思いやりのあるカウンセラーのところへ行きなさい。そこで大人のコミュニケーションの方法を教わりなさい。ありのままの自分を受容する場所こそ、人を救える技術のあるところです。
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