Luna's “ Life Is Beautiful ”

その時々を生きるのに必死だった。で、ふと気がついたら、世の中が変わっていた。何が起こっていたのか、記録しておこう。

レイモンド・フランズを追いつめる手

2006年06月05日 | 一般
レイがアラバマに移って六ヶ月が経った頃、エホバの証人の社会では「魔女狩り」にも似た反動の雰囲気がますます高まっていた。

1980年の9月には、前々章で紹介した、新たな背教の定義、すなわち組織の教えと異なることを信じるだけでも背教となるという指示と共に、エホバの証人の間に背教者探しの雰囲気が高まっていった。この時に一致して、東ガズデンを管轄する巡回監督に、より強硬な方針を支持する人間であるベンナーが任命された。

この新巡回監督ベンナーは東ガズデン会衆の訪問に際して、先ずピーター・グレガーソンの調査を始めた。グレガーソンが「ものみの塔」誌の記事に公然と反論している、という噂が会衆の内外にたっていることがその理由であった。このベンナーの追求がすぐに終わらないことを知ったグレガーソンは、審理委員会の取り調べを受けて排斥されるより、自ら断絶届けを出して組織を脱退することを選んだ。グレガーソンの家族全員と、彼の事業の雇用者の何十人もがエホバの証人であった。彼が排斥されるということは、それらの多数の家族と雇用者に多くの迷惑をかけることを、グレガーソンはよく知っていた。その当時、自発的な断絶をした者は、排斥処分を受けた者のような厳しい処遇を受けないことになっていたのである。

1981年3月、ピーター・グレガーソンは会衆に辞退の届けを出し、これは大きな問題もなく受け入れられた。その時点では、グレガーソンはそのままガズデンの町で、それまでと同じ様な社会活動や、家族、友人、雇用者との関係を保つことができた。

しかし、この状況は1981年9月15日20頁の「ものみの塔」誌(英文)(日本語版「ものみの塔」1981年11月15日20頁「排斥-それに対する見方」)の記事で全く変えられた。排斥者にもある程度の温情的な扱いをすることを認める、それまでの1970年代の態度から、極端な強硬路線への方針転換がなされたのである。この「ものみの塔」誌の記事では排斥者に対する徹底した忌避が教えられると共に、自発的に脱退した者も排斥者と同じ様に扱うという教えが初めて打ち出された。

この記事が発表されるのとほぼ時を同じくして、レイの取り調べが東ガズデン会衆の長老によって開始された。その「罪」はレイが、自発的に脱退していたピーター・グレガーソンとステーキレストランで会食をしたというものであった。会衆の長老で、ピーター・グレガーソンの弟であるダン・グレガーソンが目撃したのであった。

最初のレイの取り調べはこの、長老ダン・グレガーソンによって行われた。もう一人の長老と二人でレイの家を訪れたダンは先ず、第二コリント13:7-9を読み、彼がレイの考え方に「調整」を加えるために来たと告げた。

ダンはレイがピーター・グレガーソンとステーキレストランで会食したことは、9月15日の「ものみの塔」誌の記事に照らして、彼の断絶された者に対する考え方を「調整」しなければならないことを意味すると述べた。レイはそれに対して、ピーター・グレガーソンは彼の地主であり、雇い主であると述べた。その上でレイはダンに対して、脱退した人間をそのように厳しく扱う聖書の根拠を尋ねた。

ダンは第一コリント5:11がその聖書的根拠であるとした。
レイはそれに対し、この部分では使徒パウロは、
「兄弟と呼ばれる人で、淫行の者、貪欲な者、偶像を崇拝する者、ののしる者、大酒飲み、あるいはゆすり取る者がいれば、交友をやめ、そのような人とは共に食事をすることさえしないように」
と言っているのであって、レイはこれに当たる人間と交際したことはないし、ピーター・グレガーソンはこのような人間ではないと述べた。

それに対してダンは、今度は第一ヨハネ2:19を取り上げて、この聖句が根拠であるとした。そこには「彼らはわたしたちから出て行きましたが、彼らはわたしたちの仲間ではありませんでした。わたしたちの仲間であったなら、わたしたちのもとにとどまっていたはずです」、とあった。レイはこのヨハネの手紙の前後関係を見ると、ヨハネが問題にしている人々は「反キリスト」のことであり、レイは一度も「反キリスト」、すなわちキリストと神に反逆した人とつき合ったことはないし、ピーター・グレガーソンはそのような人間ではないから安心するように、と述べた。

(レイモンド・フランズ - エホバの証人最高指導者の人生の軌跡とその信仰)

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元エホバの証人なら、だれでも知っているレンモンド・フランズ排斥事件。なぜわざわざミミタコの話をここに持ってきたかというと、どのようにエホバの証人式「魔女狩り」の手が延びているかに注目してほしいのです。それは、断絶したピーター・グレガーソンと会食をしたことが、ピーターの弟でもある長老ダン・グレガーソンに目撃され、チクられたからでした。

聖書には、「兄弟と呼ばれる人で、淫行の者、貪欲な者、偶像を崇拝する者、ののしる者、大酒飲み、あるいはゆすり取る者がいれば、交友をやめ、そのような人とは共に食事をすることさえしないように」、と書かれている、それなのにレイモンドは「忌まわしい」脱会者のピーターと会食した。これは当の聖句への違背である、したがって処罰されなければならない、というのです。

みなさん、共謀罪の及ぼす影響力というのは実はこれに類似しているのです。

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人が犯罪の遂行を思いついてから、犯罪の結果が発生するまでには次のような段階があります。

1.共謀=犯罪の合意。単独犯では、ひとりの人間の中の犯罪実行の『決意』に相当する。
2.予備=具体的な準備。
3.未遂=犯罪の実行への着手。
4.既遂=犯罪の結果の発生。

共謀罪は、予備罪の前の段階から処罰しようというものです。ちなみに、現在で「予備」の段階で処罰の対象となるのは、殺人罪や強盗罪、爆弾関係の犯罪など、ごく限られた重大犯罪でした。それが共謀罪が成立すると、619の罪について「団体性」、「組織性」があれば、「予備」段階より前の「共謀」の段階で、つまりそれら619の罪の合意だけで、処罰を執行できることになります。

(「危ないぞ、共謀罪」/ 小倉利丸・海渡雄一・著)

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「犯罪だから、共謀も処罰の対象になってもおかしくないんじゃない?」、こう思われますか。今、どんなことが罪としてみなされているか、次に引用する文章をご覧になってください。

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2004年2月27日、東京都立川市で長年にわたり反戦平和運動を行ってきた「立川自衛隊監視テント村」のメンバーである高田美幸さん、大西章寛さん、大洞俊之さんの3名が、一ヶ月以上前の2004年1月17日に行ったとされる、防衛庁立川官舎への「ブッシュも小泉もイラクに行かない」「イラクに行くな、殺すな、殺されるな」などイラク派兵反対を内容とするビラ配り(郵便受けへの投函)を理由に、「住居侵入罪」で逮捕され、同年3月19日に起訴された。

逮捕直後には、 「住居侵入罪によって保護される法益は、平穏な私生活であり、郵便受けは外からの情報を受け取る通路でもある。今回の措置は自由な民主主義社会の基礎を揺るがす」ものであり、この事件は「表現活動への抑圧」とする奥平康弘東大名誉教授、水島朝穂早大教授、坂口正二郎一橋大教授ら、憲法学者、刑法学者56名による抗議声明が出され、3月5日には、この逮捕・抑留への疑問を呈した「朝日新聞」の社説が掲載され、さらにアムネスティ・インターナショナルが上記3名を、日本ではじめての「良心の囚人」に認定するなどした。しかし、起訴後も身柄拘束は延々と続き、保釈が認められたのは第一回公判終了後、逮捕から75日後の5月11日だった。

本件逮捕・抑留・起訴は、自衛隊のイラク派兵に反対するテント村の活動を抑圧するとともに、同じような活動をしている全国の多くの市民団体の活動をも抑圧しようという政治的な意図にもとづいて行われたものだった。2004年6月3日付け「毎日新聞」は、東京地検八王子支部、相澤恵一副部長が、今回の事件をきっかけに「ほかの団体の『違法な』活動を抑える犯罪予防の目的もある」との発言をなしたことを報じている。

1.本件防衛庁官舎へのビラ入れは20年以上にわたって行われてきたが、従来一度も問題とされなかったこと、
2.テント村以外の市民団体による防衛庁官舎へのビラ入れも同様であること、
3.飲食店や不動産のチラシが郵便受けに無断で入れられるのは、日常茶飯事であるが、これについても摘発などはされていないこと、
4.ビラ入れ行為は、政治的なビラであろうと、商業的宣伝ビラであろうと、外形的には何ら変わりがなく、住居の平穏への侵害の点では何の違いも見出せないこと、
5.本件ビラと商業的宣伝ビラとの違いは、本件ビラがイラク派兵に反対する内容のものであったのに対し、商業的宣伝ビラは自衛隊とは無関係な内容であること
…等を考えれば、高田さんら3人が逮捕されたのはイラクへの自衛隊派遣反対のビラを配布したから、つまりその「内容」が問題とされたからであろう。

高田さんら3人に対して、逮捕後起訴されるまでの20日間にわたって、連続6~8時間にわたって行われた取調べ自体が、本件に関する強制捜査・起訴がテント村に対する弾圧という政治的意図を持ったものであることを示していた。

高田さんに対しては、「二重人格のしたたか女」「立川の浮浪児」「寄生虫」などという人格攻撃や、「ほかのやつらは、お前に罪をなすりつけようとしている」という友人らに対する誹謗中傷を受けただけでなく、「運動をやめて立川から出てゆけ」などと取調官が暴言を吐いており、大西さんに対しては、ビラ入れ行為とは無関係のことで長時間の取調べをし、「母親が介護保険を利用しているのは、義務を果たさずに権利ばかり主張している」「政府に反対するなら北朝鮮に行け」などと暴言を吐いている。

大洞さんに対しても、「家族や職場は心配ではないのか。このままではクビになるのではないか」と、テント村の活動から手を引くように迫ったりしている。また、大洞さんは検察官から、全国の防衛庁官舎への他の市民団体による反戦チラシの配布が、本件により、増えたのか、減ったのかを調べてみれば面白いだろうとも、言われている。検察官のこの発言は、本件逮捕・勾留による他の市民団体への萎縮効果を十分に意識したものであることを示している。

問題なのは取り調べ方法だけではない。高田さんらの逮捕と同時に行われた家宅捜索では、あらかじめTV局にリークし、TVカメラで撮影させるなどし、いかにも重大犯罪の捜索を行っているかのようなメディア操作をおこなっただけではなく、立会人が抗議したにもかかわらず、第三者の住所録など個人情報が多数入ったパソコンや他団体の発行物、集会資料などが広汎に押収された。これらのほとんどが、本件容疑とは関係ないものであった。捜索の目的が、ビラの発行主体であるテント村とその周辺の動向を調査士、最終的には、運動に介入してその活動を弾圧することにあったのは明らかである。

(「これが犯罪? 『ビラ配りで逮捕』を考える」/ 内田雅敏・著)

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反戦ビラを郵便受けに配布することが住居侵入罪に当たるとされ、商業宣伝ビラなら住居侵入にはならないのです。これが「犯罪」と見なされたのです。共謀罪が成立すれば、かれら「実行犯」3名だけでなく、「テント村」メンバーと関わったり、協力した人たちもみな、逮捕・抑留されるのです。これは言論封殺ではないでしょうか? こういう時代の風潮があって今、共謀罪法案が叫ばれているのです、「市民の生活の安全のために」。

ちなみに、彼らの裁判では2004年12月16日、無罪が言い渡されました。

…ところで、この検挙の指示はいったいどこから出たんだろう?
コメント (5)
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