Luna's “ Life Is Beautiful ”

その時々を生きるのに必死だった。で、ふと気がついたら、世の中が変わっていた。何が起こっていたのか、記録しておこう。

人生を充足させる「心がまえ」

2005年11月27日 | 一般
人生を充足させるものは、持って生まれた資質でもなく、生来のハンディ・キャップでもなく、生れ落ちた環境でもなく、まして誰か動機の悪い人間でもありません。自分自身の決定にかかっています。自分自身の思考にかかっています。持って生まれた悪い星を井戸端で批判するか、上昇を望んで必要なステップを見極めて、身につけてゆくか、自分の決定、判断にかかっています。

エホバの証人の子として生れ落ちた運命を呪うか、リスクを冒しても脱出するか、人生の輝きはこのポイントでの自己決定にかかっています。世の中の流れに身を任せて生きてゆくか、自分の権利を行使するべく行動を起こすか、自分の決定にかかっています。人の意見のうち、最も楽そうなものに乗っかって生きていくか、自分の頭で考える労を惜しまないか、自分の決定にかかっています。人間として生れ落ちたなら、自分の足で立って歩いてゆくのは、自分の責任なのです。だれも自分の人生を肩代わりできないし、だれかの目的のための捨て駒にもさせない、自分の人生を自分で運営して行く、それは自分の責任なのです。誰かを欺いて生きてゆくのも自分の決定ですが、必ず報いを受けます。その報いは自分自身の問題なのです。

「心は自分自身の苦しみを知っており、その喜びによそ者は関わりを持たない(Pr.14:10)」わたしはこの聖句を、自分の目標達成のための労苦は自分で受け入れ、だれかに肩代わりさせることもしない代わりに、達成に至った充足感は、自分だけの栄光として喜んで受け入れることができる、というふうに受けとめていました。エホバの証人を辞めてからの人生はまさにこのことの試験の連続でした。メチャメチャ泣きましたし、傷つきましたし、思っていたような華々しい栄誉も得られていません。独身で子どもを産んでいませんので、今流に言うと「負け組」ですし、会社でも、性格がきついと言われ、お局とは対立しましたし、ケンカもしました。それでもエホバの証人でいた頃よりははるかに自己表現できるようになりましたし、眉間にしわを寄せることもありません。あした会衆へ行くのが辛い…なんてことももうありません。わたしはこれで正解だったんだと、思っています。信じていないのに、間違っていると分かっているのにだらだらとエホバの証人をやっていたら、誰かの悪口とか不平不満をたらたら言うだけで、人生を費やしてしまっていたことでしょう。

自分に正直に生きるためには、自分の責任で決定することがどうしても必要なのだと思います。今回は、とても勇気づけられる自己啓発モノの本を紹介します。

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人生を「試合」にたとえると、その試合にどうかかわるか、ということについて、3つのパターンがある。

まず、傍観者タイプ。
大多数の人がこれだ。自分の人生に何が起こるか、まるで見物人のように眺めている。彼らは、拒否されたり、バカにされたり、傷ついたり、負けたりするのを怖れて、「試合場」のセンターコートに出ようとしない。波風を立てることも、関わり合いになることも好まない。自分でしなければならないあらゆる決定の局面に際して、まるでスポーツ競技をTV観戦でもするかのように、眺めている。「誰かが何とかしてくれないかなあ」というのがその心意気である。

傍観者タイプの人のほとんどは勝つことを怖れている。彼らが最も怖がっているのは、敗れることではない。「勝つ可能性」を怖れているのだ。自分の目標を達成してゆくことを、ここでは「勝つこと」にたとえるが、勝つことには責任がついてまわり、あとに続く人々の模範にならなければならない、という重荷を背負うことになる。そしてこのことが「傍観者タイプ」の人々にとっては、たいへんな苦痛なのだ。だから彼らは世の中のことについても、自分に関わる決定についても、他人についてまわるようにする。誰かが道を整備してくれるのを待ってから、歩き出すのだ。

次に、敗者タイプとなる、もうひとつのパターンがある。敗者とは、世界中に何百万といる飢えと貧困に苦しむ人々のことを言うのではない。ここで言う「敗者」とはまさにこの国(U.S.A.)の豊かな社会にいる人々のことだ。彼らには勝利などない。なぜなら、彼らは「…のような」人間であることを望んでいるからだ。…のように見えること、…のような服を着ること、…のような楽しみを得ること、…のように稼ぐこと、…のような家に住むこと、…のように行動すること、…のように生きること…。「敗者」を見分けるのは簡単だ。彼らはすぐに人を羨むし、何かにつけ批判する。それでいながら自分自身をさげすんでいるのだ。そして同じような境遇、同じような精神性の人間を「仲間」として歓迎する。決して新しい出会いを求めてゆかないし、人から学んで自分を向上させようともしない。

3番目のパターンが「勝者」たちだ。彼らはごく自然に自分の望む人生を手に入れる人たちだ。彼らは、職場で、家庭で、地域社会で、国中で、一丸となって切り拓いてゆく。自分ばかりではなく、多くの人々の利益になる目標を定め、そこに到達しようと努力する。

「勝利」ということばはあまりにも実利主義的に聞こえるかもしれない。あるいは、学業における「優」の数とか、運、優劣を競うこと、スポーツ選手の輝かしい業績などを想像するかもしれない。しかし、その認識は間違っている。真の「勝利」とは、ただ自分が本来持って生まれた能力を自分なりにとことん追求することを意味するのだ。

「勝利」とは、持って生まれた才能や潜在的能力を活かし、延ばすこと。そしてそれを目標や目的に向けてフルに結集してゆくこと。「勝利」とはしあわせを創り出してゆくことだとも言える。
「勝利」とは自分自身を、高い自己評価の持てる人間に完成させてゆくという夢を、人生の時間の許す限り実現してゆくことだ。
「勝利」とは、愛情、協力関係、社会的関心を持ち、環境づくりに責任を持ち、そしてそこから何かを得ることだ。
「勝利」とは、これまで5番だった成績をへとへとになるまで努力して、4番に引き上げることだ。
「勝利」とは、他人のしあわせのために、自分自身を惜しみなく分け与えることだ。
「勝利」とは、動物を人間と同じように扱い、他人を兄弟姉妹と同じように接することだ。
「勝利」とは、自分が自分自身であることを喜べることだ。
「勝利」とは、長いあいだに形成されてきた習慣なのだ。これは「敗北」、「傍観」についても同じことが言える。
「勝利」とは、無条件の愛情であり、一つの考え方であり、ひとつの生きかたである。
「勝利」とは、心がまえがすべてである。

才能はどこにでも転がっている。買うこともできるし、かき集めることもできる。世の中にはアルコール依存症の才能のあふれる者でいっぱいだ。教養を得ることは、簡単だとはいえない。学士号、修士号、博士号も、やれば手に入れることはできる。資格取得証明書で部屋中を飾り立てることだって可能だ。だが世の中には、高度な教育を受け、高い教養を身につけながら、他人と協調することができないために、つまはじきされている人がたくさんいる。

勝利に至るかどうかを決定づけるのは、心がまえである。持って生まれた能力ではない。カネを積めば買えるものではもちろんない。すべての人間が平等であるわけではない。呪われて生まれてきたものもいれば、祝福されて生まれてきた者もいる。平等は創造者の造られた道ではない。しかし誰でも自ら選んで、不平等の低いほうに安住する自己決定権は、平等に持っている。

環境が恵まれてさえいれば、「勝利」への指向心が培われ育つというものではない。わたしたちは逆境の中から生まれた「勝利者」に何度となくお目にかかっているはずだ。先天的ハンディ・キャップを押しのけ、スラムから這い出して、自己実現を果たした者は数知れない。そこは自分自身と、他者からの双方からの尊敬に満ちた新しい世界だ。どこが問題なのか? 答えは心がまえである。あなたの心がまえが、願望達成へとつながるドアを開くキーともなり、閉ざしてしまうロックともなる。

(「成功の心理学」/ D.ウェイトリー・著)

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エホバの証人には「勝利者」タイプのひとは全くといっていいほどいませんでした。一人もいない、と言っても言い過ぎではありません。エホバの証人は長老や組織に伺ってでなければ、決断しませんでしたし、行動しませんでした。他の成員がどう言うかを、いつもビクビクしていなければなりませんでしたし、開拓者が数名も一気に減ったときの巡回訪問などでは、長老達はしょんぼりしていました。そのことを言い立てられるからです。あきらかに間違っている、と分かっていても、自分達で声を上げようともしません。「エホバが正すのを待つ」といって、「傍観」するのです。会衆の成員がいじめられていようとも、辱められていようとも。

協会の言うとおりの人間であること、組織に「用いられやすい」人材であることに腐心していました。ウェイトリーのことばを借りて言えば、「…のように見えること、…のような服を着ること、…のような楽しみを得ること、…のように稼ぐこと、…のような家に住むこと、…のように行動すること、…のように生きること」でした。つまり「敗者」の生きかたをしていたのです。自分と言うものはかなりの程度「押し殺す」必要があったのです。

こんな宗教にどうしてはまるのでしょうか。それは以前から「傍観者」タイプとして生きてきたからではないでしょうか。何でも他人任せで、楽をしていい目をしたい、みたいな考えで生きてきたからかもしれません。性的虐待なんかを受けていたら、自分に自信がもてないので、何か自信を得ようとして神の威光に頼ったのかもしれませんし、自分からリスクを避けて生きてきたので、何にも充実感がないし、人間との絆ができない、だから宗教活動で、絆を得ようとしたのかもしれませんが、自分であることを取り締まられる体質の社会では、しょせん孤独を深めるだけでした。

人間と強い絆で結ばれていたい、なら、自分で目標をきめて、そのために奮闘努力するべきです。自分の責任で生きるべきです。自分で考え、自分で決定し、自分で選択する。自分であることを誇りに思えなくては人生を充足させることなんてできない、「勝利」とは…の項目を読んでいると、そういう感想を持ちました。

コメント (2)
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