かつてのひまな野球人の記

野球が好きだった医者が書きたいことを書き散らすブログ。今は保健センター教員をしつつ神経内科医と研究者もやっています。

対になるもの

2008年08月06日 16時43分55秒 | 雑談
物事の裏表を両方見ると、より理解が深まることが多い。表だけ見てもやはり理解したような気にはなる。それは裏を知らないからともいえるが、見えたものが全てではないということでもある。
二項対立を持ち出すこと自体がすでに取捨選択をはらんでいるとも言えるのだが、対立するものを通して考えると軸が明確になる分だけわかりやすくはなる。だが、陥穽がやはりあってその対立が全てに思えてしまう。軸の取り方は多々あって、そのうちの一つを取りだしたと思わなくてはならない。同じ軸を考えるにしてもこの視点の有無でだいぶ意味が変わる。
つまり、裏と表が全てではないということになる。ではどのように軸を持ち込めば完全にくみ取りきることができるのだろうか。おそらくそんなことはできない。雲を掴むような話だが、もやの中に基準を設けた時点で幾ばくかの散逸は逃れ得ぬものと考える。
不要なものを切り捨てることは確かに必要である。しかし、そのときに何かを切り捨てたということは知っていなくてはいけない。

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