早いもので、今日のこの記事が2000件目になる。書き始めが2005年の頭であるから丸々5年以上続いてきたことになるわけで、だいぶ続いたものである。
陳腐な言い方をすれば、日々の積み重ねになるのだろうが、わりと飽きやすい性分にもかかわらず続いた理由ははっきりしない。あまり力を入れすぎなかったためであろうか。最近は仕事を始めたせいで惰性に傾いているところもあり、いささか良くないと思っているところである。
やはりかつてのようにあれこれ考えたり思ったりする時間がなければ味のあるものは書けない。決してフィクションを書いているわけではないのだが、事実を自分の感情も交えて、しかるべく描写をするにはやはりきちんとした文章力・読解力がいるわけで、そこが鍛えられていないと言葉のタダの羅列にしかならない。それは文章ではない。残念ながら昨今多いのだが、その中に自分が入っている感は否めない。それは読み返してみると自分で書いたものだけによけいに痛々しく情けないものである。
それもそのはずで誰もチェックすることがなくそのまま外に出てしまうからだが、それは裏を返せば書き手のモラルというのか質がそのまま出てしまうことでもある。硬い文章は読みづらいものだが、難きから易きに流れては理解力はついてこない。それなりの本を読むことの意味はまずそこにある。もちろん、意味をくみ取っていくことによって自然とついてくるものだが。優れたテキストが必ずしも読みやすい文章ではないのはそういうことである。
話がだいぶそれたが、余裕があるときはただただ言葉を並べるのではなく、多少なりとも言葉を整えて、味のある文章に仕上げたいと思うのである。
そして、今後のことだがいつまで続けるかという問題もある。終着点を考えていないわけではないのだが、もともと大学の卒業で終えるつもりだったのがそのまま続いてしまっているので次の節目は初期研修の修了ということになりそうだが、そこで終えられるかも怪しいものである。それはそれで無間地獄の入口かもしれないが・・・。
陳腐な言い方をすれば、日々の積み重ねになるのだろうが、わりと飽きやすい性分にもかかわらず続いた理由ははっきりしない。あまり力を入れすぎなかったためであろうか。最近は仕事を始めたせいで惰性に傾いているところもあり、いささか良くないと思っているところである。
やはりかつてのようにあれこれ考えたり思ったりする時間がなければ味のあるものは書けない。決してフィクションを書いているわけではないのだが、事実を自分の感情も交えて、しかるべく描写をするにはやはりきちんとした文章力・読解力がいるわけで、そこが鍛えられていないと言葉のタダの羅列にしかならない。それは文章ではない。残念ながら昨今多いのだが、その中に自分が入っている感は否めない。それは読み返してみると自分で書いたものだけによけいに痛々しく情けないものである。
それもそのはずで誰もチェックすることがなくそのまま外に出てしまうからだが、それは裏を返せば書き手のモラルというのか質がそのまま出てしまうことでもある。硬い文章は読みづらいものだが、難きから易きに流れては理解力はついてこない。それなりの本を読むことの意味はまずそこにある。もちろん、意味をくみ取っていくことによって自然とついてくるものだが。優れたテキストが必ずしも読みやすい文章ではないのはそういうことである。
話がだいぶそれたが、余裕があるときはただただ言葉を並べるのではなく、多少なりとも言葉を整えて、味のある文章に仕上げたいと思うのである。
そして、今後のことだがいつまで続けるかという問題もある。終着点を考えていないわけではないのだが、もともと大学の卒業で終えるつもりだったのがそのまま続いてしまっているので次の節目は初期研修の修了ということになりそうだが、そこで終えられるかも怪しいものである。それはそれで無間地獄の入口かもしれないが・・・。