啓発ポスターで、「五体満足に生まれてくれて…」といった言いようは慎まなければならない、といった内容のものを見かけました。大変文字の多いポスターでしたので、キチンと内容を読み込む暇はありませんでしたから、私が勘違いをしたのかも知れません。
「五体満足」という言葉は、不幸にして障害を負って生まれた人たちを「不満足」だとすることだから、安易に使ってはいけない…といった内容だったと思います。至極当たり前のことを言っているようですが、皆さんに違和感はないのでしょうか。
不幸にして、生まれながらに障害を負って生まれたこと自体を「満足」だと思っている人はいないと思います。それは「不便」なだけであって、「不幸」なのではない…と、乙武氏も言われていたような気がします。当のご本人からしたら、まぎれもなく「不便」には違いがないのです。確か、乙武氏の初著書は「五体不満足」というタイトルの本だったように思います。
障害自体を蔑んだり、からかったり、忌み嫌ったり…することが間違っているのです。健常に生まれたことに感謝すること自体には、何の問題もないのではないだろうかと私は思います。世の中というものは、すぐに「言葉狩り」を始めます。「言葉」自体を狩る事には、何の意味もありません。その「言葉」に、籠める「意識」そのものが問題なのだと思います。
「辞書に学習させたものを消したい」
パソコンのご質問を(ぱぁと2)にまとめています。ご連絡の際は、メールをお送りください。
「五体満足」という言葉は、不幸にして障害を負って生まれた人たちを「不満足」だとすることだから、安易に使ってはいけない…といった内容だったと思います。至極当たり前のことを言っているようですが、皆さんに違和感はないのでしょうか。
不幸にして、生まれながらに障害を負って生まれたこと自体を「満足」だと思っている人はいないと思います。それは「不便」なだけであって、「不幸」なのではない…と、乙武氏も言われていたような気がします。当のご本人からしたら、まぎれもなく「不便」には違いがないのです。確か、乙武氏の初著書は「五体不満足」というタイトルの本だったように思います。
障害自体を蔑んだり、からかったり、忌み嫌ったり…することが間違っているのです。健常に生まれたことに感謝すること自体には、何の問題もないのではないだろうかと私は思います。世の中というものは、すぐに「言葉狩り」を始めます。「言葉」自体を狩る事には、何の意味もありません。その「言葉」に、籠める「意識」そのものが問題なのだと思います。
「辞書に学習させたものを消したい」
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つくづく思っています。
教育の原点にある「心」すら、
四角四面の「勉強」として
教えているのでは
本当の心は育たない…と、
そんな風に思います。
特に低年齢の子どもたちの
教育の現場に、
その人となりから、
人間としての「心」を
滲み出させることのできる
指導者が必要です…よね。
間違っている…と、そんな風に思います。
以前、経験をしたことがあります。
重い障害のある方にパソコンを教えて欲しいと言われ、
果たして自分に可能だろうか…
はなはだ不安でお目にかかりました。
が、お目にかかったその一瞬で、
私の不安はすぐに吹き飛びました。
そして、その方が
「私って、可哀そうなのかな?」と
つぶやかれた時、
私は自信を持って答えられた気がします。
「悪いけれど?、私は
可哀そうだとは思わない。」と。
だって、あなたに障害がなかったら、
私はあなたに出会えなかった。
それでも、その方が
その障害に満足しておられるとは思いません。