きむら屋 2010年09月05日 | らーめん 平日限定のセットメニューは、比内地鶏と豚骨、醤油と塩から選択でき、小ライスと餃子3ヶが付いてきます。これで780円なのでおトク感はあります。比内地鶏の出汁がしっかり出てて美味しかったですよ。だいぶ前に来た時、モンゴル岩塩の塩ラーメンをオーダーして、尖がった味がトラウマとなっていましたが、これで呪縛が解けるかも。ただ一つ言わせていただきますと、一席毎に灰皿があるのはどうかと思います。 【きむら屋】 秋田県大館市岩瀬字上軽石野13-1 0186-54-2006
阿仁ウォーク(3) 2010年09月04日 | ウォーキング マタギ集落の根子は、日本の里100選にも選ばれており、平家の落人が隠れ里にしたのが12世紀終わりごろとの説もあります。今なお70~80世帯が住んでいます。各家々には直接たどり着けないよう迷彩路になっているところも、よそ者を近づけない工夫でしょう。右上;根子トンネル内。 トンネルは35年前に出来ましたが、車がすれ違うための退避を2箇所設けています。長さは575.8mあり、歩いて渡るには気持ち悪すぎます。R105号線沿には「根子番楽」の看板が。 根子からR105号線に出ますと、笑内と言う集落になります。内陸線の駅もありますので、鉄道で戻る手もありましたが、あいにく時間が合わず歩くことに。沿道に咲いてた花は、左上;キンポウゲ科センニンソウ属ボタンヅル。右上;マメ科クズの花。 峠の茶屋のところを右折して、萱草集落経由。阿仁川は底まで見えてキレイでした。水洗工事が完了した影響もあるのでしょうか。右上;内陸線の鉄橋。 まだまだ暑いですが、すでにススキの姿が。右上;道端では自生のニラが花を咲かせていました。 内陸線沿線の廃屋。萱草と言えば、所さんの笑ってこらえてで賞をもらった、鼻に詰め物をしたお爺さんを思い出します。亡くなられましたが。右上;萱草トンネルの迂回路。七曲といいます。100kmマラソンではこちらを使ってますが、崩落箇所があるため車輌は通行禁止となっています。
阿仁ウォーク(2) 2010年09月03日 | ウォーキング なべ岩を見てから、再び旧露熊集落へと軌道修正。すぐに「もっけ岩」というカエルに似た岩を通りました。崩れる心配があるので迂回路が出来ていました。右上;マタダビの「虫エイ」の実。正常な実はドングリ型ですが、花の途中で虫が入ることにより正常な花を咲かせないでに虫こぶになってしまったものが「虫エイ」。また花期に葉が白化するのも特徴です。 旧集落の手前で、冷たい湧き水があり美味しくいただきました。旧露熊集落に到着すると、昭和45年に建てられた「離村記念碑」と小さな祠がある以外は、集落の面影を残すものはありませんでした。集落があった頃は、冬期間は里に下りてこれないので露熊分校まであったんですよ。改めて思うとすごい時代だったんですね。 そして鯉茶屋があった場所は、引き続き「マタギ自然塾」が管理する池となっていました。ちょうど管理人がいて見せてもらいました。鯉、ニジマス、イワナ、ヤマメなどが養殖されていました。餌は毎日やっているそうです。右上;岩魚の稚魚を流水で育てているところ。 ここで昼食を取っていると、つながったトンボがいて思わず笑っちゃいました。右上;わりと珍しい白いツリフネソウ。 林道脇には、男郎花(おとこえし)が目立ちました。林道は、それほどデコボコもなくすごく歩きやすかったです。 露熊分岐点からおよそ1時間半で根子集落に到着。林道阿仁線は集落の裏側につながっていまして、最初に目にするのが右上の神社でした。
阿仁ウォーク(1) 2010年09月02日 | ウォーキング 秘境の里を歩いてみました。阿仁合駅~異人館~林道阿仁線~露熊七面山~旧露熊集落~林道阿仁線終点(根子集落)~笑内~萱草~荒瀬~阿仁合駅 総距離約27km。 異人館は明治12年レンガで造られ、なんと洋式建築としては鹿鳴館やニコライ堂よりも古いんですよ。今や枯れ井戸ですが残されています。 左上;阿仁鉱山で実際使われていたトロッコ。その後、阿仁川を渡り林道阿仁線へ。林道阿仁線は湯口内を起点に根子を終点とします。距離は約13kmあります。 林道は、途中で露熊と分岐しています。分岐点には出発からちょうど1時間で着きました。 露熊山峡への途中にある「じゅんさい沼」。収穫のための木舟も浮かべられてました。右上;キチチタケと思われるキノコ。鮭の身のような色をしています。食べられるそうですが、毒がありますのでオススメしません。 露熊七面山には水子地蔵も。今では萱草七面山の方がすっかり有名になってしまい、めったに開いていることがなくなりました。 七面山から10mほど歩くと「なべ岩」へと下りる道があります。実に30数年ぶりに下りてみました。遊歩道は相当荒れていましたが、なべのような岩は当時そのまま。化石も採れたんですが、その辺りの面影はほとんど残されていませんでした。当時はなかった建物がありましたが、なんと屋根に山菜が生えていましたよ。
NHKシリーズ証言記録 2010年09月01日 | テレビ番組 「兵士たちの戦争・ルソン島 悲劇のゲリラ討伐作戦」~秋田県・歩兵第17連隊を観ました。65年前のことで生き証人は皆90歳近いので、生の声を聞けるのはもうないかもしれません。はたして観てよかったのか、観ない方がよかったのか疑問ですね。あまりにすごすぎて。 約3千人の将兵がルソン島に派遣されたのが昭和19年9月のことで、バナハオ山から下りて来たのが昭和20年9月下旬ですから、わずか1年のことですが700人もの生存者がいたというのは驚きでした。もちろん17連隊だけではないと思いますが。最初はどういう訳か歓迎されてたらしいのですが、軍票の乱発によって(住民に)餓死者が出てきたり、食物や家畜を奪われることにより「抗日ゲリラ部隊」」が生まれました。番組では懸賞金をもらう証拠として、小指や耳をそぎ落としたり、(日本軍に)ごちそうして酔わせてから殺して手足をもぎ、腸を出したりと生々しく語っていました。 ヤシの木の上から狙われたり、ゲリラと一般住民との区別がつかなく梃子摺ったため、ゲリラ粛清と称して集落討伐命令が下り、結果9万人以上の虐殺に至りました。一般住民に手を出したのは責められるべきことですが、一旦戦争となればいたちごっこの側面もあり、敵とて結構なことをやっているわけですよ。でもアメリカ軍相手の戦闘はほとんどしていないというのは、意外でした。 追い詰められた日本軍は「斬込み」と言って、背嚢に爆弾を入れて戦車に突撃する玉砕作戦もやっています。ほとんど効果はなかったそうですが。最終的にはバナハオ山に逃げることになり、食料がほとんどなくマラリアや餓えのため、飯盒で人肉らしきものを炊いているのを見たという証言も飛び出しました。人肉は白い泡が立つので分かるんだそうです。私が中学生の時に大岡昇平の「野火」を読んで、それらしきことは想像してましたけど。専門用語ではガニバリズムと言います。たしか戦争では里に下りて行くことが出来ず、塩分補給のためもあって食べたんじゃないかとも書いてありましたね。常食は野ねずみだったみたいです。 さらに、終戦後軍事法廷の「首実験」で、13階段の死刑台を上ることになった人も。「目は覆うために、耳は塞ぐためにあるんじゃない」って歌詞がありましたが、時にはそうせざるを得ないこともありますよ。