吉田松陰が1856年(安政3年)に開いた松下村塾に高杉晋作(諱は春風)は通います。ここで久坂玄瑞らと人脈を築け、思想形成されたことが後々活かされてます。その前に神道無念流練兵館で桂小五郎、斎藤新太郎らと交流してはいましたけど。
1861年(文久元年)には、ロシアの軍艦が対馬を一部占拠するというポサドニック号事件が、1856年には清朝政府とイギリスの間にアロー号事件が勃発。1953年(嘉永6年)ペリーが来航して以来、外国船の脅威が増したのが分かる事件です。
そんな折り1862年(文久2年)に晋作は上海へ向かい、そこで鄭成功(ていせいこう)が興した「反清復明」を唱える小刀会所属の女テロリスト周美玲と出会います。小刀会は一年半上海を占拠するも、仏義勇軍が協力した清朝政府軍が再び小刀会を制圧。反清復明は、日本における尊攘にあたると思われますが、そんな外国の圧力、軍事力を肌で感じて開国攘夷へと傾いたのでは!?
その頃、尊攘派浪士の大半が異人斬りが攘夷だと思ってたようですが、1862年(文久2年)に起った生麦事件は意味が違います。リチャードソン一行が、大名行列を乱す行為がいかに非礼かを分かっていなかったからです。結局イギリスは軍艦7隻を鹿児島港へ入港させ薩英戦争に発展しました。
1864年(元治元年)池田屋事件…新撰組が尊攘派志士を襲撃。新撰組は薩摩藩、会津藩が母体で、尊攘派は長州、土佐、肥後。葉室麟著『月神』にも登場した月形洗蔵の提案もあり、のちに薩長和解から薩長同盟を結ぶことになりますが、西郷隆盛率いる薩摩藩は優柔不断だと言わざるをえないでしょう。その後新撰組は、薩長の反幕勢力を相手にすることになりますので。なお新撰組は、徳川幕府からの命を受けた会津藩主松平容保(かたもり)が結成した組織です。
池田屋事件の報復で、同年7月長州軍は京へ乱入し禁門の変(蛤御門の変)を起こします。やられっぱなしというわけではなく、この頃は対になるように必ず報復事件が起きてます。長州藩は禁門の変に敗退し、また四か国連合(英、仏、蘭、米)艦隊下関砲撃事件(馬関戦争)にも敗れ、高杉晋作が講和使節の正使を務めてます。
続いて同年起こった第一次長州征討は、幕府が仏(ナポレオン3世)と手を組み長州を潰すという作戦です。亀山社中(後の海援隊)を営む坂本竜馬は、長州名義で武器を買えない長州を薩摩名義で購入し支援します。亀山社中が長崎のグラバー商会から買った、ゲーベル銃より命中率の高いミニエー銃が戦いを有利にしました。1866年(慶応2年)の第二次長州征討(四境戦争)でも亀山から買った軍艦ユニオン号が役に立ちました。夜襲が成功したりと小気味よく戦ってたのですが、最後の砦小倉城は幕府側へついた肥後藩との戦いになりました。アームストロング砲が手強く苦戦しましたが、ようやく長州藩が落城。なんといっても勝因は、竜馬と中岡慎太郎の仲介で結んだ薩長同盟です。第二次長州征討の失敗により、事実上江戸幕府は滅亡したとみていいでしょう。
1866年(慶応2年)に起った寺田屋事件では、晋作からもらった拳銃で坂本竜馬は難を逃れてます。
さらに世は大政奉還~王政復興の大号令~戊辰戦争~明治維新への変革の道を歩むことになります。
最後に高杉晋作は享年満27歳8か月でしたが、武、栄(はえ)、光(みつ)の3人の妹、周美玲、うの、八雲、望東尼、妻雅と常に女性に囲まれて、その色恋沙汰が本書を盛り上げたことを付け加えておきます。
1861年(文久元年)には、ロシアの軍艦が対馬を一部占拠するというポサドニック号事件が、1856年には清朝政府とイギリスの間にアロー号事件が勃発。1953年(嘉永6年)ペリーが来航して以来、外国船の脅威が増したのが分かる事件です。
そんな折り1862年(文久2年)に晋作は上海へ向かい、そこで鄭成功(ていせいこう)が興した「反清復明」を唱える小刀会所属の女テロリスト周美玲と出会います。小刀会は一年半上海を占拠するも、仏義勇軍が協力した清朝政府軍が再び小刀会を制圧。反清復明は、日本における尊攘にあたると思われますが、そんな外国の圧力、軍事力を肌で感じて開国攘夷へと傾いたのでは!?
その頃、尊攘派浪士の大半が異人斬りが攘夷だと思ってたようですが、1862年(文久2年)に起った生麦事件は意味が違います。リチャードソン一行が、大名行列を乱す行為がいかに非礼かを分かっていなかったからです。結局イギリスは軍艦7隻を鹿児島港へ入港させ薩英戦争に発展しました。
1864年(元治元年)池田屋事件…新撰組が尊攘派志士を襲撃。新撰組は薩摩藩、会津藩が母体で、尊攘派は長州、土佐、肥後。葉室麟著『月神』にも登場した月形洗蔵の提案もあり、のちに薩長和解から薩長同盟を結ぶことになりますが、西郷隆盛率いる薩摩藩は優柔不断だと言わざるをえないでしょう。その後新撰組は、薩長の反幕勢力を相手にすることになりますので。なお新撰組は、徳川幕府からの命を受けた会津藩主松平容保(かたもり)が結成した組織です。
池田屋事件の報復で、同年7月長州軍は京へ乱入し禁門の変(蛤御門の変)を起こします。やられっぱなしというわけではなく、この頃は対になるように必ず報復事件が起きてます。長州藩は禁門の変に敗退し、また四か国連合(英、仏、蘭、米)艦隊下関砲撃事件(馬関戦争)にも敗れ、高杉晋作が講和使節の正使を務めてます。
続いて同年起こった第一次長州征討は、幕府が仏(ナポレオン3世)と手を組み長州を潰すという作戦です。亀山社中(後の海援隊)を営む坂本竜馬は、長州名義で武器を買えない長州を薩摩名義で購入し支援します。亀山社中が長崎のグラバー商会から買った、ゲーベル銃より命中率の高いミニエー銃が戦いを有利にしました。1866年(慶応2年)の第二次長州征討(四境戦争)でも亀山から買った軍艦ユニオン号が役に立ちました。夜襲が成功したりと小気味よく戦ってたのですが、最後の砦小倉城は幕府側へついた肥後藩との戦いになりました。アームストロング砲が手強く苦戦しましたが、ようやく長州藩が落城。なんといっても勝因は、竜馬と中岡慎太郎の仲介で結んだ薩長同盟です。第二次長州征討の失敗により、事実上江戸幕府は滅亡したとみていいでしょう。
1866年(慶応2年)に起った寺田屋事件では、晋作からもらった拳銃で坂本竜馬は難を逃れてます。
さらに世は大政奉還~王政復興の大号令~戊辰戦争~明治維新への変革の道を歩むことになります。
最後に高杉晋作は享年満27歳8か月でしたが、武、栄(はえ)、光(みつ)の3人の妹、周美玲、うの、八雲、望東尼、妻雅と常に女性に囲まれて、その色恋沙汰が本書を盛り上げたことを付け加えておきます。