11月末、1年5ヶ月振りに布引谷へ行った。
もう布引谷での地主ではなくなったので、今後は“戻った”のではなく、“行った”と言う表現にしないといけない。譲った地主に失礼でもあるし。
しかし、譲った人はいなかった。
家の外観も譲った状態と同じ、外壁の板が朽ちて穴があいた箇所は、相変わらず仮付けの蓋が止めてあった。
庭にはツル類が植えられていて、モミジとアオギリはかなり大きな枝まで切り払われていたが、そのせいで全体が明るくなっていた。
しかし人がいないので、中に入る訳にはいかない。
仕方なく、櫻茶屋へ行った。
ナント、櫻茶屋もシャッターが降りて、高い小さな窓の灯りも消えていた。
実はレイコさんとは2年程、会っていない。山の家をM氏に売却したコトも、直接伝えていない。昨年6月売却後、直ぐに信州へ土地を探しに行ってしまって、そのままになってしまっていた。
多分、お元気だとは思うが、翌週、再度行く事にした。
しかしM氏はまた不在だった。
何となく前週と同じ雰囲気、あの後も来ていないンだろうか。南国出身で、冬の布引谷は寒さがキツイとか言っていたが。
ここにはカジカ茶屋があった。峡谷のガケの出っ張りの様な場所に建っていた。しかしもう、ほぼ朽ち果てている。
昔はバンガローを併設した茶店だった。泊り客もそこそこいた。オーナーは造船関係だったのか、店の中には船の写真が沢山飾ってあった。
ワタクシが布引谷にやって来た時のヨメさんは、男を作って逃げていき、次の地味なヨメさんが来て、しばらく経った日曜日、塀の修理をしていたオーナーは、溝に落ちて亡くなった。
ヨメさんはその後、大水害の後もハーブ園が出来た後も、一人で茶店を続け、独りで亡くなった。
その頃、同じく独りで櫻茶屋を維持していたレイコさんは、「立派やった」と、葬式で大号泣していた、とオフクロから聞いた。
それからもう30年近く経っているハズだ。
櫻茶屋はシャッターが開いていた。
何度が声を掛けると、眠りから覚めたばかりのしわがれた声で返事があった。
「いゃ~、アンタ、久しぶりやン、アソコ売ったて聞いたけど、今どこに住んどン、もう信州行ったンかぁ」、レイコさんは相変わらずだった。
ただ秋頃(?)、数回入院したとの事。
自動販売機に缶を補充しようとして、台から落ちて、頭を打って、直ぐ救急車で運ばれたが、脳は異状なく、帰ってきた翌日、起きられなくなって、また救急車で運ばれ、今度は尾てい骨の左右の骨にヒビが入っている、と判明、暫し入院後、また戻って来て、放ったらかしにしていた茶店を、片付けたりしていたら、また起きられなくなって入院。
妹さんが世話をしてくれたそうだが、色々大変だったらしい。
もうどこかの施設へ入った方がイイと、妹さんから資料を見せられたそうだが、結局はそのままになっているとか。
「施設に行ったら、狭い部屋で、好きに出けヘンし、ここは寂しいけど、土日は必ず店、開けて、声掛けてくれる人も時々おるし」、確かにその通りだと思う。
「ところで、U本さんはその後どないしてはりますのン?」
「U本は、去年やったか、死んだ、結局戻ってこなんだ」
U本さんは、レイコさんと同い年、ワタクシの雲中小学校の20年先輩。
彼の祖父(曾祖父?)が土佐からこの谷にやって来たのは、江戸時代の末期、当然布引ダムは出来ておらず、ダム工事が始まって、土佐から仲間を呼んで、その仲間が工事後、布引谷に住みついた、それがこの集落の始まりだったそうだ。
しかしU本サンは、例の大水害で、両親、妻、4人の子供を亡くし、その後、後妻が来て、二人の子供が出来たが、奥さんは先に亡くなって、息子は出て行き、娘が時々様子を見に来ていたらしいが、何年か前に動けなくなって、春日道の施設に入っていた。
「結局、ワタシだけになってしもうた」、レイコさんはそう呟き、その後、ダレが死んだ、カレが死んだなどと、色んな人のハナシが出たが、よく判らなかった。
ワタクシは、来年春までには信州へ引っ越す旨、伝え、工事中の安曇野山小屋のデジカメデータを見せた。
この日は寒かったが、何人もハイカーが櫻茶屋の前を通り過ぎ、レイコさんは顔見知りに手を振っていた。
最近は全縦で、塩屋からやって来て、摩耶山の天上寺近くの宿で一泊、翌日宝塚まで行くハイカーが多いとか。
そう言えば大分前に、国民宿舎摩耶ロッジが、シャレたホテルにリニューアルされていて、泊るのは遠方の観光客だけだと思っていたが、今時のお金持ち中高年ハイカーは、全縦でそんな使い方もするらしい。
1時間半程、お話ししたが、かなり寒くなってきて、「信州へ行っても、年に1回位は神戸へ帰って来ますので、その時は必ず顔ォ出しますワ」、と言って櫻茶屋を出た。
その後、久しぶりに“奥”の様子を見に行った。
この井戸は、“奥”の水源であり、摩耶山へ登るハイカーの水補給所だったが、新神戸トンネルが出来た後、我が家周辺の水源同様、コンコンと湧き出ていた布引ウォーターは、ピタッと止まった。
この道の先に、U本さんの家、タケモト君の家、マーちゃんの家があった。更に左に行くと、別荘と家庭菜園が広がっており、右へ行くと、ゴルフ場従業員の家、通称:ハンバがあった。
ハンバには、同級生が二人住んでいたが、例の大水害で、ゴルフ場が閉鎖され、結局ハンバがあったのは、5年程だった。
U本さんの家、当然誰もいない。
U本さんの家から先は、もう入れない様になっていた。
近くにはまだ、石積みの石垣が残っている。この上にも家があった。
例の大水害で流された旧櫻茶屋付近、この奥には、新神戸トンネルで出なくなった水の補償施設、道路公社が設けた給水設備がある。
祠の中のお地蔵さんは、大水害があった昭和42年の10月に建てられている。慰霊碑はない。
繁みの中に、朽ち果てて行く別荘。
みんな布引谷に消えていく。
貯水池には今年も沢山の水鳥がお越しになってます。
割とガァガァうるさい。
久しぶりに昔の通学路、熊内側へ降る。
雲中小学校前の歩道橋からの景色、東側はそんなに変った気がしない。
しかし西側は、新神戸駅前の高層ビル群、この景色は大きく変わってしまった。