高校の頃に読んだ山の本のいくつかには、丹沢の沢登りを経て谷川岳で活躍した先人の登攀記が載っていた。谷の滝登り~岩登りが関東のクライマーの辿る道と言った感じだった。
ワタクシも六甲山の滝場が続く谷を、岩登りのマネ事をしながら毎週の様に登りに行っていた。
六甲山の沢登りとはハイキングの延長の様なもので、高校生のワタクシはキャラバンシューズを履いていたが、当時、本格的な沢登りの足拵えは草鞋。
それが20年ほど前にクライミングシューズルックのフェルトシューズが出来て、ワタクシも早速それを履き、尾白川本谷を登りに行った。’88年10月の連休、家族を放ったらかしにしての単独行だった。
小雨降る中、初日は黄漣谷を越えた辺りでビバーグ。翌日、日が暮れる前、ガスの中、稜線へ上がると、一瞬ガスが途切れ、右手に白く甲斐駒が見えた。頂上を越え、黒戸尾根を駆け降り、七丈の小屋へフラフラになって辿り着いた時には日が暮れていて、入口が判らなかった。
初体験のフェルトシューズは、その性能を大いに発揮し、滑滝のヌルヌルの流れの中でもスタスタ登れた。他に二人組も登っていた様だが、言葉を交わすことなく、ほぼ独り占めの尾白川をフェルトシューズでジャブジャブ登った。
その後、濡れてもすぐ乾く下着とか色々出来て、大きな滝の滝ツボなどを泳いでも不快ではなく、今や大きな山の長い谷を数日かけて遡行しているらしい。
ところで沢登りにもルート図があり、滝はそれを示す記号と、下からF1、F2、F3、と番号が付けられている。
そして番号とは別に愛称が付いているのもあって、時々あるのは“フルサト”の滝。
これは左右両側の岩盤が均等に狭まって、その奥を水が流れ落ちている様な滝に多い。
要するにワレメ状を流れている。ワレメの周りにはブッシュが生えているケースも多い。
従って、オトコはその形から女陰を連想するのだが、女性登山家サンもいるので、その愛称を“女陰”の滝とは言えない。
“オ〇コ”の滝とは絶対言えないし、“ワレメ”の滝では芸がないし、結局自分達が出て来た所だから“フルサト”の滝となるのだそうだ。
先日観た田端義男サンのドキュメンタリー映画「オース!バタヤン」の最後で、同じ様な事を田端義男サンも言っておられた。
女性が大好きで有名な(?)バタヤンが、楽屋の様な所で、「アソコから我々は出て来た訳で、アソコはフルサトや」と言う様な事を喋っているシーンだった。だから女性がお好きなンですね。その感覚、ワタクシもよ~く判ります。
今年4月に田端義男サンは亡くなられたそうだが、この人の事は全く知らなかった。と言うか興味がなかった。
そもそもオトコの歌謡曲には興味はなかったし、昔、TVで時々見た事はあるが、当時は歌謡界の大オヤブンで大金持ちの体制派、マドロス姿でギターを抱え、「オース!」と登場すると、オトナ達、港などにいる荒っぽいオッチャン達が大喝采、そんな印象だった。
しかし、子供の頃は極貧だったそうで、その生きざまが、彼が歌う曲の主人公と重なり、「バタヤンの声には涙がある」と言われ、その歌声に観客は心を揺さぶられ、そんなコンサートの様子が収められたドキュメンタリー映画が公開中、との新聞記事が眼について、それを観に行った。
内容は、何年か前、バタヤンの母校である鶴橋の小学校でのコンサートを映しながら、バタヤンとオトモダチ、愛好者、後援者の語らいを織り込んでバタヤンをドキュメントする、と言うモノ。
バタヤンは、1919年元旦に10人兄弟の9人目として三重の松坂で生まれ、3歳の時父親が亡くなり、極貧生活の中、兄弟は順次家を離れ、最後に残った母、姉、弟と4人で「赤とんぼ」を歌い、おかゆと紅ショウガでの生活の中、弁当が持っていけず、食事を摂らない二宮金次郎の像の横で昼を過ごし、栄養失調で片目を失明し、兄を頼って今も残る鶴橋(バタヤンはツルハシではなく、トゥルハシと舌を巻いて言っていた)の集合住宅へ引越し、家賃が払えない母親と度々夜逃げをし、コンクールで優勝(?)して歌手になり、修行中居候をしていた家の同居人の相撲部(?)の学生が、会うたびに「オース」と言っていたので、自分もステージに出る時それを使う様になり、板を切って自作したギターをイターと呼び、戦時中はコンサートを監視している警官から「歌い方が暗い」と文句を言われてケンカし、戦地の慰問で前日戦死した兵士の墓標を見て、戦争はタダのコロし合い、絶対ダメと確信し、大阪駅で復員兵が自分が歌う「かえり船」を聞いて泣いているのを見て、「エエ歌を歌わせてもろた」と感謝し、戦前と戦後の歌手が入れ換わる昭和30年頃、呑み屋で偶々聴いた歌に感動し、それを自分も出して、“南国演歌”を確立し、その後も各地で歌い続け、あらゆる女性に声を掛け、それらの女性からは、慰謝料、認知、マスコミに言う、と言われ続け、赤線がまだあった頃ステージの最前列は、近くのパンパンが埋め尽くしていた、そんなオハナシだった。
当時の娼婦は社会の最底辺を生きている女性、ビリー・ホリディも一時娼婦だったハズ。
そう言う人達もバタヤンのファンだった。ナルホド。
映画に収録されていた曲の半分以上は聞いた事があった。ジャズやシャンソンには全く縁がなかったオヤジも、酔った時、機嫌よく歌っていた。
「玄海ブルース」「かえり船」「十九の春」「島育ち」「あなたの小指」、確かにイイ。童謡の「赤とんぼ」「浜千鳥」もイイ。「モナリザ」もヨカッタ。(度々登場しているバタヤンのお嬢さんも、ボーイッシュでヨカッタ、お父さん愛用のギターを弾いているシーン、とてもかっこヨカッタ)
昔から同じキーで歌っている、とおっしゃっていたが、その声がいいのだろう。「バタヤンの声には涙がある」、ナルホド。
ジックリ聴いてみるのもイイかも知れない。出来たら古いLPでも見つからないか、とも思う。
ところで、映画の中のコンサートも、この映画を見ている人も、皆さんシラガのお年寄りばかり、ワタクシなど若いほう。護憲集会の様だった。