蒼ざめた馬の “一人ブラブラ、儚く、はてしなく”

山とスキー、車と旅、そして一人の生活

アイスランドのお年寄りの映画と「遊行期」

2013-07-31 21:50:34 | 一人ブラブラ

一生を「学生期」「家住期」「林住期」「遊行期」の4つに分けて考える、とお言う昔のインドの考え方を、五木寛之センセイが紹介しておられたのを読んで、自分自身に照らし合わせると、ワタクシ、オフクロの歳まで生きれたとして、今は林住期がそろそろオワリ頃になってしまう。

「学生期」とは字の通り社会に出る前に勉強する時期だから、20歳頃まで。
「家住期」とは、家に住んで、社会で稼いで、税金と年金払って、子供を育てる時期なので、大体55歳位まで、のハズ。
キッチリ4等分するといくらかのズレは生ずるが、いずれにせよ今、「林住期」にいることは間違いない。

「林住期」とは、家庭と社会から離れ、ヒトケのない林に独りで住む時期だそうで、現実、ワタクシ、今独り、ここは林ではないが、周りの団地は空き家が目立ち、隣の部屋もヒトケなく、まぁ林みたいなモン、かも知れない。
隣は10年以上前、奥さんが早逝され、そう言えば下の部屋の奥さんも先日久しぶりに遭遇したので、「最近、ウチのステレオの音、迷惑になってませんか」と訊くと、「イイエ、全然聞こえませんよ、それに最近、ワタシ、いないコト多いし」
母親がいなくなると、子供は立ち寄らなくなる。中には若い世代が引っ越ししてくる部屋もあるが、ヒトケのない部屋が増えているのは間違いない。

ヒトケのない寂しい林で独りで生きる、と言うのは一見暗いイメージだが、見方によれば、家庭と社会から手が切れ、自由気ままに暮らせると言う事になる。正に好きなコトが出来る。
これは「家住期」までの苦役から解放され、その苦労が報われる時、人生のクライマックス、収穫期と言える。現にワタクシ、今、楽しく、清々しく、少し寂しく、穏やかでサイコーだ。
隣の家族も下の家族も、この低所得者救済マンションの完成と同時に入居し、子供達は同級生だった。そして皆さんも今、「林住期」を楽しんでおられるのだろう。
「まだ、ローン済んでへんねン」、と言いながら相変わらず働いている、ナサケナイのもいるけど。

そして、「林住期」が終わると「遊行期」になる。これは死に場所を探して旅をする時期だそうだ。
つまり、旅の途中で亡くなることになる。
お釈迦サンも松尾芭蕉サンも旅の途中で亡くなったそうだ。トルストイも駅舎で亡くなったとか。
しかし、病院で死ぬよりはマシかも知れない。生きる見込みがないのに病院で死ぬ事はないでしょ。

死に場所を探しての旅かどうかは別にして、一度アイスランドには行って見たいと思っていた。
王族が支配した事がない国、ズッと民主主義で軍隊を持たず、冷戦が終わってからは基地もないらしい。
ハッピーリタイヤの後を冬でも温い東南アジアで、女中サン安く雇って暮らしているお金持ちの話しを時々聴いたりする。しかし、そう言う人達とはワタクシ、趣味、教養、育ちが違います。

ハッピーリタイヤ後の暮らしは北極圏に近い島がイイ。女中サン雇うお金も無いし。

先々週、アイスランドが舞台の映画を見た。

066 神戸映画サークル協議会の7月例会。

「春にして、君を想う-Children of Nature」、と言う青春映画を連想しそうなロマンチックな題名。
しかしそのストーリーは、幼なじみの男女老人が老人ホームを抜けだし、今はもう誰も住んでいない、自らが生まれ育った漁村に帰って死ぬ、と言うお話し。
ワタクシには只々、アベックの老人が霞み(霧?)の中をトボトボ、荒涼たる未舗装の道をフルサトを目指して、ひたすら歩いて行くと言うシーンだけがイメージとして残ってます。

この映画、ひたすら死を忘れ、うわべだけの豊かさに悦楽し、軽薄な悲劇に涙するこの国の多くのおバカには理解できない、不思議な作品だと思う。
記憶に残っている範囲でストーリーを書き留めておこうと思う。

主人公のジイサンは、海辺の草原の丘の農夫兼羊飼い(?)、映画は農夫のコーラスで始まる。解説によるとこの歌が、「春にして、君を想う」というようなコトを詠っているらしい。

コーラスが続く中で、羊がトラックに積まれていく。これはこのジイサンが農夫をヤメ、村から離れていくための行為だと、後で連想できる。
ジイサンは写真を燃やし、愛犬の眉間をクラシックな拳銃で射抜き墓場に寝かせ、ヨメハンの遺影をトランクに入れ、ナゼか柱時計を脇に抱えバスに乗る。
都会に着いて、バスターミナルでサンドイッチを噛り付き、タクシーで娘宅へ行く。始まりからこの辺りまでセリフはなかったと思う。
チョット裕福そうな娘ムコはパイプをくわえ歓迎の仕草、しかしティーンエイジャーの孫ムスメにあからさまに嫌われ、結局老人ホームへ。

老人ホームは6畳程度(?)の相部屋。すぐ隣に先輩のジイサンが寝ている。
ジイサンは自分のスペースにヨメハンの遺影と柱時計を掲げ、老人ホームでの暮らしが始まる。
そこで脱走を繰り返している幼なじみのバアサンと遭遇する。
バアサンは、こんなトコで死ぬのはイヤ、生まれ育った村の親の墓のソバで眠りたい、と言う。ジイサンは、戻っても誰もいない、墓があるあの教会も荒れ果ててしまっている、と応える。
同室の先輩ジイサンは、ムスコから送られた花だと自慢げに見せたりするが、ある夜、急に苦しみ出しそのまま死ぬ。死を確認した看護婦に、ムスコさんに知らせてあげないと、言うと、この人は身寄りがないと看護婦は応える。多くの老人は身寄りがないのだ。
周りに積もった雪に、建物の灯りが洩れて、冬の北国の、しかし室内はほの温かそうな老人ホームで葬式が行われる。
春になり、墓地を散歩していたジイサンは、路上駐車のジープを見つける。そして、ジイサンは幼なじみのバアサンをフルサトへ連れて帰る事を決意する。これが、「春にして、君を想う」、というコトなのか。
そしてナント、お揃いのスニーカー(アディダス?)を買って、預金を解約して、ヨメハンの遺影と柱時計は部屋に置いたまま、バアサンの手荷物だけ提げて、夜、二人は老人ホームを脱走する。トラッドな老人男女の服装にモダンなスニーカー、こんな格好で近所を散歩しているお年寄り、よく見かけます。
墓地に着くと、若いアベックがジープの前でイチャイチャしている。ナントハシタナイ、そう言いながら老いたアベックは若いアベックが去るのを待つ。
そしてジイサン、むき出しにしたコードをショートさせエンジンを起動し、二人のフルサトへの旅が始まる。

これはチョットした逃避行でもあるが、ポニーとクライドの逃避行より明らかにウキウキする。ジイサン達はマシンガンを持っていない。武器を持っていないと言う事は、武器でコロされる事は絶対ない。
一応ケイサツは老人ホームから疾走した二人と消えたジープを探す。しかし、ジープが盗まれたとの扱いではない。
車内で一夜を過ごした翌朝、入ったレストランへ二人の警官がやって来た。しかし、別の若者グループの席へ行き、メンバーの1人を逮捕しようとする。逮捕は拒否され、他のメンバーに協力を要請するがそれも拒否され、警官二人はスゴスゴと引き上げる。アイスランドのケイサツはこんなにノンビリしてルの?、ホンマにこんなンでエエの?
そして、工事現場で制止しようとしたケイサツを振り切り、遂に追われるが、フッと消えてしまう。ナ、ナンデ?崖から落ちたの?
しかし、どこかのお祭り(?)現場に無事現れる。
このあたり、とても非現実的、よく状況が判らない。
大体、このお祭り現場、荒涼とした場所にあって、ただ電飾がハデで、周りに集落などがある雰囲気ではない。アイスランドのイナカはこんなに寂しいの?

二人は、これもまた独り住まいの、幼なじみの女性宅に立ち寄る。ここでこの二人の年齢が判る。
ラジオから、78歳のジイサンと79歳のバアサンが老人ホームを抜けだし、ケイサツが探しているとのニュースが流れたからだ。
また、停めてあったジープで逃げていて、時々発見されて追いかけるが、その度に消えてしまう、とラジオもそんな非現実的なことを堂々と言っている。
ジイサンは、ただジープを借りただけと幼なじみに言う。
幼なじみは、どうしてそれ位で追いかけるのかしら、と応える。
幼なじみ宅で休憩した後、二人はフルサトへ向かうが、その後ジープは故障、小屋を見つけその中のフカフカの牧草に包まれてオネンネ。これが、「Children of Nature」、というコトなのか。
翌朝、近くの教会から讃美歌が聞こえて来て眼が覚め、フルサトへ向かって歩き出す。マッサラなスニーカー履いてルし、歩くのに苦痛は無い。
雨か霧か、モャ~っとした未舗装路を老人二人がトボトボ歩いて行く。これは正に「遊行」の姿ではないか。
その二人を時々大型トラックが追い抜いて行く。そして1台に拾われる。
行先を告げ、そこからフルサトへのフェリーは今も出ているか、と訊く。
トラックの運チャンは、出ているがそんなフルサトへ行っても、そこは崖と戦時中のトーチカしか残っていない、と応え、後は自分の周りの世間話(必死に金を溜めた男が使う前に事故死した?とか)を一方的に喋る。老人二人はただ黙っているだけ。
やがて運チャンは二人をフェリー(と言うかボートを曳航した小型船)に乗せてやる。

船はフィヨルドの中を進んでいく。途中でハダカの女性がゴツゴツの岩壁に突っ立っている。
崖とトーチカしかないとトラックの運ちゃんが言っていたのに、あんなナイスバディもおるやン、と思っていたら、船長は、あれは幽霊だと二人に説明する。

二人が警察に追われフッと消えたり、ナイスバディの幽霊が出てきたり、アイスランドは超自然的です。

やがて、目的地へ到着し、曳航していたボートで浜辺へ上陸する。船長が帰った後、映画は始まりと同じ様に、セリフはなくなる。

二人は丘の上の小屋に泊る。
この小屋は北アルプスの森林限界あたりにある古い山小屋の感じ、周りに生えている草木がよく似ている。北極圏に近いから標高数mでも森林限界と言う事か。
翌朝、バアサンは先に目覚め、昔の事を思い出しながら周辺を散歩する。それが映画のポスターの写真だ。
海も野も働き盛りの男女に溢れている思い出は、古めかしい別フィルムの様な感じで映し出される。このあたりの演出は面白い。
やがてバアサンは浜辺に出て、流れ着いた大木を見つける。これはどうもこの辺りの大切な燃料らしい。確かに丘に上がっても森林は無い。
これを昔は若者が輪にしたロープを掛け、それをグルグル廻し上げ回収していた。そう言う光景も古いフィルムで思い出される。
小屋の中では、そんな大木が燃えているストープの側でジイサンが寝ていた。
そしてジイサンも目覚め、表に出て、水際で死んでいるバアサンを見つける。

バアサンは親の墓のソバで眠りたい、と言っていた。
「春にして、君を想う」ジイサンは、バアサンを眠らせる仕事が残っている。
小屋に残っている材木をカットし、キレイにカンナをかけ(西洋のカンナもノコギリと同じ、押してかけるモノだった)、白木の棺を作り、バアサンを収めて埋葬する。
そして讃美歌(?)を歌う。

讃美歌はジイサンの独唱からコーラスに替わり、ジイサンは浜辺をトボトボ歩いている。いつの間にかハダシ。これも「遊行」(?)

やがて、何か廃墟の様な所へ到着する。これはトラックの運チャンが言っていたトーチカ(?)
ジイサンはここで力尽きたかの様にヒザまずく。
そこへナゼか男が現れ、ジイサンのハダシの足の裏を掌でペロッと撫で上げる。
するとジイサンはまた立ちあがり、男はジイサンの肩を手で押す様な仕草。(この男が何者なのかは解説にも載っていない)

そしてまたジイサンは歩きだす。またまた「遊行」(?)

画面はそのジイサンを上方のヘリ目線で捉えている。そして近代的なヘリが映し出され、ジイサンを追う。しかし、ジイサンは、またまたフッと消えてしまい、映画はオシマイ。

ジイサンはこれで死んだ、と言うコト?、それとも又どこかに現れ「遊行」を続けると言うコト?

平均寿命が年々伸びて、元気な年寄り、筋肉隆々の年寄り、精力絶倫の年寄り、美人の年寄りがしばしば紹介されたりする。胃ろうでただ生かされている年寄りもいるけど。
しかしワタクシ、元気で、筋肉隆々で、精力絶倫で、美人のお年寄りはキライです。大体気持ち悪い、美人のババアなんて。
やはり年寄りは枯れかけてヨボヨボがイイと思う。
そして、シブトイのがイイ。
この映画のジイサンはまさにシブトイのだと思う。しぶとくなければ「遊行」の旅は出来ない。

以前、二人のお年寄りの面白いハナシを聞いた。
Aさんはパーキンソン病で行動が不自由、ロレツも廻らない。親友のOサンはAさんの為にタクシーを拾ってそれに乗せ、別れる。しかしその後タクシーが事故に遭い、Aサンは無事だったが、世間では大騒ぎになる。Oサンは心配してAサンにTELする。
TELで喋っていて、Oサンは事故に遭う前よりAサンのロレツが廻っていると気付く。そして、お二人の若い頃からあるラジオは、「故障したら叩けば治る」、と言うオチが付いてこのハナシはオワリ。
Oサンは昨年亡くなられたが、Aサンはまだお元気。
このシブトさは正直、カッコイイと思う。

しかしワタクシはまだ「林住期」で、シブトイ「遊行期」のお年寄りから見るとまだまだコドモ。
しばらくは自由気ままな「林住期」を楽しむことにします。

今夜スピーカーからは、ナット・キング・コールが、~When I grow too old to dream、Your love will live in my heaet~、と唄っている。