12月に入って、小屋の周りはスッカリ枯れ落ちた。
3年前、ここに移住した時は、小屋を建てる時に伐採、伐根した幹、株が庭に積み上げられていた。それらの処理には別に費用が掛かる、と工務店から言われ、自分でヤルことにした。
幹は、薪ストーブを使っている工務店の設計者から、欲しいと言われ差し上げ、残ったのは小山ほどの切株。
それを解体し少しずつ燃やすことにしたが、幹と違って切株はカパッ、カパッと簡単に割れない。
神戸・布引谷の山の家で使っていた手斧では手に負えず、スウェーデン製とドイツ製のゴツイ大斧と電動チェーンソーをネットで購入。3年がかりで全て解体、焼却した。
そして今年はすることが無くなった。何もしなくても、誰も困らんのだから、それでイイ、と隣人の杣人・Мさんから言われ、気にせず、何もしなくなった。
深夜までチビチビ呑んで、昼前に目覚め、午後もウトウトしていると、何もくなくても直ぐ夜になる。
一応、炊事、洗濯、掃除はしているが、"一応"だ。そして何もしなくなると、何もする気がなくなる。誰も困らんのだから、それでイイのだ。
何もする気がなくなって、イスにドカッと沈み込むと、そのまま寝入ってしまう。それはとても心地イイ瞬間だ。何もしなくてイイ、と言う環境はナント気持ちがイイのか。
舶用艤装品メーカーと特殊機械メーカーで、あれせい、これせい、と言われ続け、ひたすらそれらに対応し、そのオカゲで客先からは大事にされ、当然グビにはならず、ン十年。これはそのご褒美なのだ。
しかし、気持ちイイからと言って、この様に毎日、毎日、寝入ってしまうのは、もう死んでいるのかも知れない。
死ぬと言うのは、日々の全ての悲しみ、苦しみから解放される訳でもあるので、気持ちイイのはアタリマエ。
そして死ぬと、生きていて得られるヨロコビとも、オサラバすることになる。
人生には、悲しみ、苦しみとヨロコビ、どちらが多いのか。
ボサノバの名曲には、「幸せは儚く、悲しみは果てしない」と言う歌詞がある。有名な映画の最初シーンにも、これが流れている。
いずれにせよ、何もする気がない生活には、心躍るヨロコビとか言うのはもうない。
今年は春以降、この様に何もせず、何の記憶もなく死んだように生きていた。
12/5、雪が降った。
12/7、燕の稜線もかなり雪に覆われた。雪遊びシーズンも直ぐだ。
しかし何もせずダラダラして過ごして、これまでの様に雪遊びが出来るのだろうか。
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