<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

むずむずしだしている

2014年12月23日 10時44分22秒 | Weblog

NHK短歌九月号入選作品からもう一首を拾い出して来て、にたにたをしてみた。これは相聞歌。

ひとつくらい苦手な野菜のあるひとを好きになります あなたはかぼちゃ  東京都 平岡淳子

目の前に居る人がわたしの好きな人だ。この人は南瓜が食べられない。お皿の上に残っている。おやっと思う。学校時代の給食で克服できなかった好き嫌いの、嫌いな野菜をこの年齢になるまで継続している。幼いと言えば幼いが、その不完全の露呈が却って愉快を誘う。母性本能を揺さぶっても来る。で、彼女は告白する、「大きくなってもひとつくらいは好き嫌いを通している人って好き」 その後で彼女は、「よしっ、この後はわたしの料理自慢の腕の見せ所だ。『きみが作ってくれた南瓜が大好きになったよ』と言わせてみせよう」と呟いてその場でにやり、ということになる。そう言わせてみたくなってもう彼女はむずむずしだしている。短歌にはドラマが潜んでいる。

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ダークスーツのアスパラガス

2014年12月23日 09時58分35秒 | Weblog

就活へドアの光を細く押すダークスーツのあすぱらがすは  盛岡市 藤倉清光 (「NHK短歌」9月号 より拾う)

本屋さんに行ったら店番をしていた方が、「これあなたにあげます。読んでもらうと雑誌がよろこびますので」と言って倉庫下から5ヶ月前の雑誌を取り出して、ひょいと差し出された。町に一軒しかない小さな本屋さんである。店番はもちろんここの女将さん。ご年配だ。人なつこい。

で、帰宅してからぱらぱらと雑誌をめくってみた。藤倉さんのこの入選句が目に付いた。お若い方だろうか。かたわらでお若い方の就職活動をご覧になっておられた方の作品だろうか。「あすぱらがす」はいまや面接会場に入っていく若者のことだろう。細くて青々として不安げなアスパラガスを想起する。彼(或いは彼女)はダークスーツに身を包んでいる。スーツは固まってガチガチになっている。

「ドアの光を細く押す」とあるが、ドアを押したらそこに面接会場からの光がほっそりと舞い込んできたのだろう。胸の鼓動が鳴っている。叙景歌でありながら、ここには展開がある。動きがある。感情が弾けている。いい作品だなと直感した。

ふっふ。アスパラガスのような就活生が、そのままアスパラガスになっているというところが愉快だ。表現が直截で新鮮だった。長く伸びたアスパラガスが面談の途中、ぎくしゃくしてその場でぽっきり折れてしまいそうではないか。

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うひひうひひひ

2014年12月23日 09時29分08秒 | Weblog

おはようございます。午前9時半、空は薄曇り。ひんやり寒い。いつものように山からヒヨドリがきて金柑の黄金を突いています。このブログの読者をしてくださっているみなさんお変わりなくお元気でいっらっしゃることと存じます。わたしの腰痛もだいぶん改善してきましたが、まだひやりひやりする場面があります。でも、昨日は外に出て気分転換を図りました。買い置きをしておいたチューリップの球根1袋20球を花壇に植え込みました。やっとやっとのことでした。球根は少し発芽をしています。土の中に座るのが待ち遠しかったことでしょう。牛糞の施肥をたっぷりしました。水も撒きました。生育の条件が整いました。うひひうひひひとよろこんでいるでしょう。

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玄冬薄暮

2014年12月22日 07時35分42秒 | Weblog

若の浦に潮満ち来れば潟(かた)をなみ葦辺(あしべ)をさして鶴(たず)鳴き渡る  山部赤人

これは聖武天皇の紀伊国行幸のおりに献じられた歌。若の浦は和歌浦だろうか。潮が満ちてくると潮干潟がなくなって来るので、飛来してきた鶴が葦の生えているところまで群れをなして鳴き渡っている。赤人は、自然界の、動きを伴った大きな風景を詠じている。玄冬の薄暮どきであろうか。

わが山里には鶴は渡ってこないが、山麓の湖や川の瀬の深くなったところには、鴨が大挙して渡ってきて、朝靄の中で眠っている。冬もここまで深くなってきたようだ。

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またとない楽しい日

2014年12月22日 06時44分53秒 | Weblog

読者をしてくださったみなさん、おはようございます。ご機嫌いかがですか。さぶろうは長い長い夜を過ごしました。年寄りは眠りが浅くて何度も目を覚ましてしまいます。枕元には本が積まれていますが、寝たままで読書をするのも疲れます。夜明け前の5時半、エアコンをオンにして、よいしょと起き出してきました。

今日はもう12月22日。師走も後半になりました。正月元旦まで残すところわずかです。年中が日曜日の老人は、これといってするべき仕事もないのですが、なんだか気分的に追い立てられています。部屋の整理整頓くらいはしておこうと思います。

ここ九州地方にも寒波が襲っています。昨日の朝は、畑には霜柱が立ち、大根の葉っぱは凍傷になってギザギザに縮れていました。

腰痛が改善してきましたので、昨日夕方になって初めて玄関から外へ出てみました。この数日で山から下りてくる小鳥が木の枝に刺した蜜柑を食べ尽くしていましたので、新たに数個の蜜柑を割って、東西の庭の梅の木の枝に刺して回りました。

それから丸椅子に腰掛けて、伸びていた小葱を笊いっぱい摘み取りました。またそれから若い唐人菜(長崎白菜)の根株を剪定鋏で切り取り小さな籠に収獲しました。これは明朝の味噌汁の菜になります。

今日は月曜日です。お仕事のある方は仕事場に出て行かれます。でも、無職には行くべきところもありませんから、家の中にじっとしていることになります。お天気ならば気分転換に外へ出ようと思います。里芋を掘り上げないといけません。地上部の茎や葉っぱは、霜にあたって形を保っていません。

社会人のみなさんは、わたしと違って、社会へ出て行ってするべき用がたくさんあって、お忙しいでしょう。充実して結構なことです。楽しい一日をどうか楽しんでください。

そうでした。年を取っても、訪れて来てくれた今日という日はまたとない楽しい日でありました。エンジョイしないと申し訳が立ちませんね。

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偽物

2014年12月21日 14時28分25秒 | Weblog

どうも負け犬の遠吠えに聞こえるなあ、さぶろうの言っていることは。音量も弱いなあ。打って出るという積極性に乏しい。ドラマチックさがない。裏技をひねり出しているようで、堂々たるところがない。彼は正統派でないぞ。

自分はただ寝っ転がっておいて、たまさか届けてもらう分を宝ものにしてよろこんでかかる。そしてこれを飴玉のようにして長く味わい尽くす。これだ。

さぶろうは、人様のようにふんだんに宝物を獲得できないので、それで宝物と見えないものを宝物に見立てているようだ。他人様の目からすれはこれは偽物だ。偽物でよろこんでいるというところがいかにもみすぼらしい。

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消極実践

2014年12月21日 12時14分05秒 | Weblog

「こちらからは何処にも出て行かぬのだからなあ。向こうから届けられるもので間に合わせないとなあ。だなあ。だなあ」ここはさぶろうの独白。

「さぶろう、今日が今日お前のよろこんでいるものは何だ?」それを聞いて問いを発したのは風神である。雲を動かしている風の神さまである。 

「こちらが外へ出て手にするものはございませぬ」

「だろうな。行くあてもないのだからな」

「へえ、そういう次第で向こうから届けられるもので間に合わせないといけませぬ」

「ほお、向こうから届けてもらうほどにお前はそんなに奇特なのか?」

「へえ、奇特であります」とさぶろうは答えた。所有してもいず、所得しにも行かぬのであれば、届けてもらうしかないのだ。頂くしかないのだ。そしてそうしてもらっているのだ、と。

さぶろうはここへ「以仏神力 利益衆生」の偈を持ち出して来た。これはこう読まねばならなかった。「仏の神力を以て衆生を利益(りやく)すべし」 仏さまがお前さんに神力を提供してくださるとお申し出だから、行って勇気をふるって衆生を利益して来なさい、と。衆生を利益するというのは利他行動のことである。利他の積極実践である。

彼はこれをひっくり返した。自分をその利益を頂く側に立たせてみた。すなわち、多くの衆生がさぶろうを利益してかかっているはずだと推測してみたのである。自分は衆生の一人だから、仏の神力でもって利益をしてもらっている、と受け身に解釈したのである。彼は是を「消極実践」と呼んだ。受領することも実践である、と。

それにしてもさぶろうがよろこんでいることは高が知れている。外へ出て行って活躍している人たちのそれと比べたら、微量だ。みすぼらしいくらいだ。で、彼はこれを嘗めるようにして味わった。味わうというそこの部分を手厚くした。これが奇特の内容だった。さぶろうは縁側で日向ぼっこをしていた。光が彼の足下に届いて彼をあたためた。

 

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これは仏さまのお仕事である

2014年12月21日 11時46分15秒 | Weblog

自帰依仏 当願衆生 体解大道 発無上意

これは三帰礼文(さんきらいもん)のその1である。

みずから仏に帰依したてまつる

まさに願わくば(われら)衆生(みな) 大道を体解(たいげ)して 無上意を発(おこ)さん

衆生とはこの宇宙界に生きとし生きるものすべてだから、人間はもとより虫鳥魚獣、山川草木、流れる水も雲も星々も含まれている。大きな道、大道とは仏道のことである。体解とは身心全体で理解して実践することであろう。無上意とは仏に成ろうという意欲のことであろう。

では、願っていればそうなるのか。大きな道を体解できるのか。無上意を発心して成仏を果たせるか。仏に帰依したものは自ずからにしてこれが成就完成する。いな、そのもっと以前の段階で、この世に誕生する以前から、しかあらしめられているのである。帰依を完了しているのである。完了してはじめていのちあるものとさせられるのである。「自帰依仏」をそういうふうに解釈してみた。これだとみすぼらしいさぶろうでも安心がいくのである。

あとはよろこんでいるだけである。この仕組みをよろこんでいるだけである。これは人為ではなく、仏為である。仏さまのお仕事なのである。仏さまもさぶろうが成仏することをよろこんでおられるのである。だから、ここでこうしてよろこぶさぶろうをよろこんで見守っておられるのである。

生死の中に仏あれば生死なし。わが生死も仏さまの術中であるから、怖れるところはないのである。

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上等上等

2014年12月21日 09時43分56秒 | Weblog

鼻水がとまらないのでちり紙がなくなってしまう。寒い寒い寒い。ふううんふううんと気張るので鼻の奥が痛む。金柑の実漬けを作って、熱湯にこれを浮かせて蜂蜜を注いでふうふうして飲んだらよかろう。庭の金柑の実が今年は太ってまんまるできらきらして上等上等。

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触れて撫でてさする

2014年12月21日 09時28分09秒 | Weblog

触れて撫でてさする。わがスピリット(霊格)に触れて撫でてさする。抽出して手の平に掬ってふうふう息を吹きかける。ゆっくり回して転がして四方から眺めてみる。こうして是をいとしむ。さぶろうのいのちの中心軸上にあって活動する主人公さまを愛しむ。これは宇宙のコアからお預かりしているものである。仏陀から授けられているもの、仏心である。分身である。修行分身である。証拠する験者である。大切にせねばならぬ。成長成育させていかねばならぬ。向上の一途を辿らせていかねばならぬ。これに触れてこれを撫でてこれをさする。

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