<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

対岸は詩の岸辺

2021年09月07日 14時06分04秒 | Weblog
こうやって何か文字を書いていると、そのうち僕は詩の岸辺に行き着くことになるだろう。

岸辺は対岸にある。その間には濁流が流れている。泳いではいけないので、僕は小舟に乗る。ぎっこらぎっこら櫓を漕ぐ。小舟はなかなか進まない。

そのぎっこらぎっこらが文字になる。対岸まではなかなか遠い。

やがて、おおいおおいの呼び声が聞こえて来る。川霧の彼方からは、こっちだぞこっちだぞの声もする。呼び声がインスピレーションのロープを投げてくれる。これにつかまると到着はもうすぐだ。
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外には風が生まれているぞ。さてはこれが秋風か。

2021年09月07日 13時57分09秒 | Weblog
おやや、おやや、外には風が生まれているぞ。オクラの葉っぱがそよそよそよしているぞ。さては、秋風か。

いま午後2時。お爺さんはYouTubeで音楽をうっとりして聴いているところ。

3時になったら外に出ていこう。畑仕事をしよう。


9月に入って、めっきり蚊がいなくなっている。まつわりつかれることが少なくなっている。季節が動いてはいるんだ。

もちろん蚊除けスプレーを、手足首回りに、しゅっしゅっしゅっと吹きかけてはいるのだが、それにしても。
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外には風が生まれているぞ。さてはこれが秋風か。

2021年09月07日 13時57分09秒 | Weblog
おやや、おやや、外には風が生まれているぞ。オクラの葉っぱがそよそよそよしているぞ。さては、秋風か。

いま午後2時。お爺さんはYouTubeで音楽をうっとりして聴いているところ。

3時になったら外に出ていこう。畑仕事をしよう。


9月に入って、めっきり蚊がいなくなっている。まつわりつかれることが少なくなっている。季節が動いてはいるんだ。

もちろん蚊除けスプレーを、手足首回りに、しゅっしゅっしゅっと吹きかけてはいるのだが、それにしても。
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畑での農作業は心身癒やしの作業なのに

2021年09月07日 13時33分27秒 | Weblog
外は31・2℃もある。ムシッと暑い。太陽は顔を出していないのに。

で、畑に出て行く気がしないでいる。

出て行けば、まあこんなものかと体が順応してくれそうだが、出ていく気がしない。怠け者をしている。

家の中に籠もっていると、あれこれの煩悩に苛まれることになる。

畑に出て鍬を打っていれば、みなそういう煩悩が居場所をなくしてしまう。

無心とまでは行くまいが、ほぼそれに近付いていける。

農作業は癒やしの作業なのである。

心の中に谷川が生まれてそこに清浄な谷水が流れて行く。

秋野菜の種蒔きをするのは、秋野菜を収穫するためであるが、それだけの成果ではすまない。

心身の健康に一役も二役も買ってくれるのである。


であるのに、このお爺さんは、まだ外に出ていかない。決心がつかないでいる。暑いだろう暑いだろうに阻まれている。
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百千万劫にも遭い遇うことが難しいが、「法」はある。仏陀が悟られた真理がある。

2021年09月07日 11時57分38秒 | Weblog
無上甚深微妙法 百千万劫難遭遇
むじょうじんじんみみょうほう ひゃくせんまんこうなんそうぐう
無上にして甚だ深く微妙(みみょう)なる法は、百千万劫にも遭(あ)い遇(あ)うこと難(かた)し。

仏陀の悟られた法(真如=真理=この世の秩序と調和)はこの上もなく甚だ深く優れているので、われわれが百千万劫の長い時間を掛けたとしても遭い遇うことは難しい。


そういう法を仏陀が説かれているのである。
そういう微妙法がこの世にはあるのである。
われわれが遭い遇うことが難しい法が、しかし、確かに提示されていて、われわれがこれを悟って、ここに辿り着くのを待っていてくれているのである。首を長くして。諦めることなく。


わたしはまだ、その法から、百千万劫の長い長い時間の遠くに離れているが、(仏陀の法に)辿り着けないということはないのである。辿り着けない法であるはずはない。辿り着けない法を仏陀がわれわれに提示されることはないからである。


では、仏陀の法までの、その途方もない時間と空間を一挙に飛び超えることはできないか。

ある。

なければならない。

仏陀がそれを示されているはずである。

仏教は「すべての人を仏陀にする」という教えである。

ないはずがない。

用意されているはずである。


しかし、今日はここで終わる。此処で終わっていい。

このお爺さんは、「ある」という仏教経典を聞いただけで、もう嬉しくてならないからである。

だから、ここで終わっていい。
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そろそろ里芋を掘ってみようかなあ。

2021年09月07日 11時48分09秒 | Weblog
そろそろ里芋を掘ってみようかなあ。

里芋を掘るのは、普通はもっと後、10月ごろ。

でも、ちょっとだけでいいから食べてみたい。

お味噌汁の具にして。薄く切って。とろりとしておいしい。


里芋を今年はいやにたくさん植え付けている。

畑にうわあああああっという具合に繁茂している。

でっかい葉っぱが風に揺れている。大揺れに揺れている。


まだしかし、里芋の芋は小さいかも知れない。ピンポン球くらいしかないかもしれない。
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こころの空虚がそうさせる。

2021年09月07日 11時35分47秒 | Weblog
どうして書くんだろう?

こころの空虚が、そうさせるようだ。

書いたら、じゃ、その空虚が埋まるのか?

埋まらない。


埋まるんじゃないかと淡い期待を持って、そこで終わる。

いよいよ空虚になる。

じゃ、書かない方がましじゃないか?

そうかもしれない。


淡い期待感がマシュマロのようにふんわりして甘酸っぱいので、それを一口食べてみたくなるようだ。


我が胸の峡谷は霧だ。いつも霧に覆われている。もやもやもやしている。生きているのは、厄介だ。おおいおおい、どうしたらいいんだよう。


書く。書いて、空虚とやらを鉛筆の先で潰しに掛かる。そうか、現代は、パソコンの時代だ。キーボードを指先で叩いて、空虚の粟粒を潰す。それっきり。
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クロネコヤマトまで宅急便を送りに。

2021年09月07日 11時25分23秒 | Weblog
気温が高くなった。29・3℃ある。ムシッとして暑い。カンカン照りほどではないけれども、日差しがはっきりしている。風はない。

クロネコヤマトまで行って来た。東京にいる娘宅へ宅急便を出しに。家内は、我が家の畑の収穫物などをあれこれ送るのが楽しみらしい。

僕は運転手をするだけ。車内に待っているのも冷房をしていないと暑かった。家の中にじっとしているばかりなので、ま、気分転換にはなった。
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9月7日、予報では終日曇り。農作業ができそうです。

2021年09月07日 07時21分11秒 | Weblog
おはようございます。9月7日になっています。今日は予報では終日、曇りになっています。雨が降らないのであれば、畑に出て行けそうです。耕して畝を作って土作りをして、秋野菜の種蒔きを続行できます。

もう先日蒔いておいた大根が発芽しています。草丈はまだ数ミリですが、元気よく青青としています。眺めるこちらも元気を分けて貰えます。白菜の種はあまり発芽が巧くいっていないようです。
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