<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

畑はお爺さんの遊園地

2021年09月15日 15時02分26秒 | Weblog

3時になりました。そろそろ畑に出ます。

 

まだ暑そうですけど、出ます。汗を掻くだろうなあ。

 

でも風が時折吹いているようです。

 

蚊がいないといいけどなあ。蚊取りベープを肌に塗って行きます。

 

畑が、76歳のよろよろよぼよぼお爺さんの遊び場・遊園地です。

 

移動用丸椅子に座って、ちょこちょこちょこと土いじりをします。畑の一人は無心になれます。

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検証1:年寄りは胃袋が小さい。半分を残す。

2021年09月15日 14時47分03秒 | Weblog

お昼はチャンポンだった。冷凍レトルト食品に、野菜をふんだんに混入してもらって食べた。

 

(この野菜は前日夜の焼き肉料理の余り)

 

野菜が山盛りで、とても丼一杯は食べきれなかった。半分は残してしまった。

 

検証1: 年寄りは胃袋が小さい。そうそうは食べられない。

 

(「レトルト」は蒸留殺菌済み袋詰め食品と辞書にあった)

 

 

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相手は仏陀、悪いようにはされまい。

2021年09月15日 14時36分27秒 | Weblog

わたしの小さな「はからい」を放棄して、仏陀の大きな「おはからい」にまかせてしまう。

 

まかせようと、まかせまいと、結果は同じなら、途中のわたしの「はからい」は、ただの遊び事になってしまう。

 

遊び事になるのが嫌で、四角八面して、蟷螂の斧を振り上げているのかもしれない。

 

己の力を持ってしては死ねないのだ。だから「死なさせてもらう」のだ。「生まれた」ように完全受動態で「死なれて行く」のだ。

 

わたしの死は仏陀のお仕事である。相手は仏陀、悪いようにはされまい。

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死なぬ時には死なぬが宜しく候。

2021年09月15日 14時18分19秒 | Weblog

死ぬときには死ぬが宜しく候。

 

良寛禅師にこういう述懐があったなあ、たしか。

 

死なない努力を放棄せよということでもないらしい。

 

そうなるときには、ジタバタしないで、それに身を任せていて宜しいということか。

 

ジタバタもいいと、僕なんかは、思うけどなあ。

 

すべては仏陀のおはからいということか。

 

仏陀が計らっているのであれば、我が計らいは無用ということか。

 

仏陀は、わたしをいい方へいい方へと導いている、はずである。

 

間違った方向へは誘導していないはず。

 

だからこれは、そうだと信じているしかないのだ。

 

信じていれば信(まか)せられるはず。

 

右へも左へもどちらへでも仏陀の手の平の中。迷うことがない。生きてよし、死んでよしが大往生の相(すがた)なのだ。

 

「仏陀よ、仏陀のお好きなようになさいませ」は自己の努力の放棄ではない。これは大安心の冥利なのだ。

 

 

死ぬときは死ぬが宜しく候。・・・などとはしかし決断できぬなあ、このお爺さんは。

 

死なぬときには死なぬが宜しく候。生まれたときからずっと仏陀の大船に乗っているじゃないか。さぶろうよ、ジタバタするな。

 

常に現在が最高最上最良。常に過去と未来も最高であって最上であって最良なのである。

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勝負にならない勝負からは手を引くのが最良。

2021年09月15日 14時03分12秒 | Weblog

どうにもならないものは、どうにもならない。

 

だったら、どうにかしようとしないことだ。

 

打つ手なし。

 

諦めるしかない。

 

勝負にならない勝負からは手を引いて来る。

 

 

ススキが穂を出し始めた野原に来て、青空を見ている。澄んだいい色をしている。雲が薄くたなびいて広がっている。

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ツクツクボウシ蝉が鳴いていると、別れを惜しんでいるようで切ない。

2021年09月15日 12時51分01秒 | Weblog

ツクツクボウシ蝉が鳴いていると、なんだか、これで夏が終わるような気がする。少し離れたところで、ツクツクボウシ蝉が鳴いている。

 

鳴き終わった蝉は地上に落下して命を果てる。蟻がこれを運んで行く。巣穴に運んで冬越しの餌にする。

 

蝉は卵を産んでいるから、命が果てたわけではない。形を変えて次へ繋いでいく。そういうことができる。

 

蝉の卵は、地中に入ってしばらくの時を過ごすことになる。いのちはすべて死なない。死なないでいいシステムを工夫開発している。

 

でも、死んだと見せかける。一段落を終わったことにしたいのだ、きっと。死ななかった証拠に、次の年、次の季節になると、同種類同族のいのちが芽生えて来る。栄えて来る。

 

ツクツクボウシ蝉が鳴くと切ない。なんだか切ない。別れを惜しんでいるようで切ない。

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後先もなく単独で、あらゆる束縛を解き放って、リラックスる心地よさ。

2021年09月15日 12時41分21秒 | Weblog

外の気温は30℃を超えているというのに、家の中の日陰にいると、それほどでもない。暑くない。

 

風が吹いているせいもあるのかもしれない。ひんやりして涼しい。もち、半袖シャツ半ズボンでリラックスしている。

 

リラックスだけをして過ごすのもいい。そうしていると、生きる意味合いなんかを考えないですむ。

 

なんにもしないでぼんやりしててもいいか、などと自問糾弾するなんて愚かなことだ。

 

後先もなく単独でリラックスするところに妙味があるのだから。自己束縛の縄を切断する。

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蜃気楼見たさに。

2021年09月15日 12時32分08秒 | Weblog

書くことも、createすることなんじゃないかな。

 

ゼロを1にすることになる。

 

書かなければ

 

、そこにはないはずなのに、書いたことで、そこに1が立ち上がって来る。見えるようになって来る。

 

現実に形があるわけじゃないけど、大脳の中ではそれが形を取って見えて来ることになる。

 

創造になる。想像が創造になる。

 

書いた言葉は文字として残る。次へ「残せるもの」に豹変する。

 

これでなんだか一里塚を立てた気分になる。と思って、満足を覚える。

 

書かなければ、しかし、なんにもない。

 

なんにもなかったところに、蜃気楼が立ち上がる。蜃気楼なのに、蜃気楼とは思わずに、こころが踊り出す。

 

よって、我が輩はこのブログを書く。書くことにする。せっせせっせと毎日飽きもせずに。蜃気楼見たさに。

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日が降って降って、大地は大洪水になっている。

2021年09月15日 12時23分48秒 | Weblog

さんさんさんと日が降っている。光が降っている。

 

え? 降っているのが見えるの?

 

ううん、見えはしない。

 

でも、天空から落ちて来ているのだから、降っていることにもなるだろう。

 

擬態語「さんさん」は、どうして「さんさん」?

 

太陽のことを英語ではSUNというからだろうか。じゃ、なさそうだね。

 

擬態語は日本語をやわらかくしている。風景描写をそれらしくするのに役立っている。

 

だから「さんさん」でも「すんすん」「そんそん」でもよかったのかもしれない。

 

他の国の言語に翻訳するのが難しいだろうね。

 

午後から日差しがある。さんさんさんと日が降って来て、大地は大洪水になっている。

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暑さ我慢、寒さ我慢。我慢我慢で日が暮れるのか。

2021年09月15日 11時58分13秒 | Weblog

気温30℃。秋口になっているが、暑い。

 

今日は9月15日。あと半月もすれば10月の声を聴く。霜が降りる。

 

それまでの我慢だ。暑さ我慢だ。

 

我慢が一段落すると次の段落に掛かる。休みがない。今度は寒くなる。

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