3時になりました。そろそろ畑に出ます。
まだ暑そうですけど、出ます。汗を掻くだろうなあ。
でも風が時折吹いているようです。
蚊がいないといいけどなあ。蚊取りベープを肌に塗って行きます。
畑が、76歳のよろよろよぼよぼお爺さんの遊び場・遊園地です。
移動用丸椅子に座って、ちょこちょこちょこと土いじりをします。畑の一人は無心になれます。
3時になりました。そろそろ畑に出ます。
まだ暑そうですけど、出ます。汗を掻くだろうなあ。
でも風が時折吹いているようです。
蚊がいないといいけどなあ。蚊取りベープを肌に塗って行きます。
畑が、76歳のよろよろよぼよぼお爺さんの遊び場・遊園地です。
移動用丸椅子に座って、ちょこちょこちょこと土いじりをします。畑の一人は無心になれます。
お昼はチャンポンだった。冷凍レトルト食品に、野菜をふんだんに混入してもらって食べた。
(この野菜は前日夜の焼き肉料理の余り)
野菜が山盛りで、とても丼一杯は食べきれなかった。半分は残してしまった。
検証1: 年寄りは胃袋が小さい。そうそうは食べられない。
(「レトルト」は蒸留殺菌済み袋詰め食品と辞書にあった)
わたしの小さな「はからい」を放棄して、仏陀の大きな「おはからい」にまかせてしまう。
まかせようと、まかせまいと、結果は同じなら、途中のわたしの「はからい」は、ただの遊び事になってしまう。
遊び事になるのが嫌で、四角八面して、蟷螂の斧を振り上げているのかもしれない。
己の力を持ってしては死ねないのだ。だから「死なさせてもらう」のだ。「生まれた」ように完全受動態で「死なれて行く」のだ。
わたしの死は仏陀のお仕事である。相手は仏陀、悪いようにはされまい。
死ぬときには死ぬが宜しく候。
良寛禅師にこういう述懐があったなあ、たしか。
死なない努力を放棄せよということでもないらしい。
そうなるときには、ジタバタしないで、それに身を任せていて宜しいということか。
ジタバタもいいと、僕なんかは、思うけどなあ。
すべては仏陀のおはからいということか。
仏陀が計らっているのであれば、我が計らいは無用ということか。
仏陀は、わたしをいい方へいい方へと導いている、はずである。
間違った方向へは誘導していないはず。
だからこれは、そうだと信じているしかないのだ。
信じていれば信(まか)せられるはず。
右へも左へもどちらへでも仏陀の手の平の中。迷うことがない。生きてよし、死んでよしが大往生の相(すがた)なのだ。
「仏陀よ、仏陀のお好きなようになさいませ」は自己の努力の放棄ではない。これは大安心の冥利なのだ。
☆
死ぬときは死ぬが宜しく候。・・・などとはしかし決断できぬなあ、このお爺さんは。
死なぬときには死なぬが宜しく候。生まれたときからずっと仏陀の大船に乗っているじゃないか。さぶろうよ、ジタバタするな。
常に現在が最高最上最良。常に過去と未来も最高であって最上であって最良なのである。
どうにもならないものは、どうにもならない。
だったら、どうにかしようとしないことだ。
打つ手なし。
諦めるしかない。
勝負にならない勝負からは手を引いて来る。
☆
ススキが穂を出し始めた野原に来て、青空を見ている。澄んだいい色をしている。雲が薄くたなびいて広がっている。
ツクツクボウシ蝉が鳴いていると、なんだか、これで夏が終わるような気がする。少し離れたところで、ツクツクボウシ蝉が鳴いている。
鳴き終わった蝉は地上に落下して命を果てる。蟻がこれを運んで行く。巣穴に運んで冬越しの餌にする。
蝉は卵を産んでいるから、命が果てたわけではない。形を変えて次へ繋いでいく。そういうことができる。
蝉の卵は、地中に入ってしばらくの時を過ごすことになる。いのちはすべて死なない。死なないでいいシステムを工夫開発している。
でも、死んだと見せかける。一段落を終わったことにしたいのだ、きっと。死ななかった証拠に、次の年、次の季節になると、同種類同族のいのちが芽生えて来る。栄えて来る。
ツクツクボウシ蝉が鳴くと切ない。なんだか切ない。別れを惜しんでいるようで切ない。
外の気温は30℃を超えているというのに、家の中の日陰にいると、それほどでもない。暑くない。
風が吹いているせいもあるのかもしれない。ひんやりして涼しい。もち、半袖シャツ半ズボンでリラックスしている。
リラックスだけをして過ごすのもいい。そうしていると、生きる意味合いなんかを考えないですむ。
なんにもしないでぼんやりしててもいいか、などと自問糾弾するなんて愚かなことだ。
後先もなく単独でリラックスするところに妙味があるのだから。自己束縛の縄を切断する。
書くことも、createすることなんじゃないかな。
ゼロを1にすることになる。
書かなければ
、そこにはないはずなのに、書いたことで、そこに1が立ち上がって来る。見えるようになって来る。
現実に形があるわけじゃないけど、大脳の中ではそれが形を取って見えて来ることになる。
創造になる。想像が創造になる。
書いた言葉は文字として残る。次へ「残せるもの」に豹変する。
これでなんだか一里塚を立てた気分になる。と思って、満足を覚える。
書かなければ、しかし、なんにもない。
なんにもなかったところに、蜃気楼が立ち上がる。蜃気楼なのに、蜃気楼とは思わずに、こころが踊り出す。
よって、我が輩はこのブログを書く。書くことにする。せっせせっせと毎日飽きもせずに。蜃気楼見たさに。
さんさんさんと日が降っている。光が降っている。
え? 降っているのが見えるの?
ううん、見えはしない。
でも、天空から落ちて来ているのだから、降っていることにもなるだろう。
擬態語「さんさん」は、どうして「さんさん」?
太陽のことを英語ではSUNというからだろうか。じゃ、なさそうだね。
擬態語は日本語をやわらかくしている。風景描写をそれらしくするのに役立っている。
だから「さんさん」でも「すんすん」「そんそん」でもよかったのかもしれない。
他の国の言語に翻訳するのが難しいだろうね。
午後から日差しがある。さんさんさんと日が降って来て、大地は大洪水になっている。
気温30℃。秋口になっているが、暑い。
今日は9月15日。あと半月もすれば10月の声を聴く。霜が降りる。
それまでの我慢だ。暑さ我慢だ。
我慢が一段落すると次の段落に掛かる。休みがない。今度は寒くなる。