<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

この肉体は、仏陀に差し上げている肉体であった

2018年04月17日 17時47分55秒 | Weblog

禅宗の修行僧、雲水さんは腰紐を着けている。手巾(しゅきん)と呼ぶ。長さ太さがある。荒縄のようにも見える。これを4つ折りにして臍の処で8の字に結ぶ。と、それが水引に見える。

岐阜県美濃加茂市にある臨済宗正眼寺の老師の話を聞いた。NHK教育放送「宗教の時間」を録画しておいた。それを巻き戻して、昨日ゆっくりと見た。

その話の中に、手巾水引のことがあった。正眼寺は厳しい修行をすることで名を馳せている寺。老師が若い頃、修行が辛くてならないときがあった。兄弟子の人が、腰に巻いている手巾の結び目を指さして、「これは何に見えるか」と問う。暫くしてやっとその答に行き着いた。「お布施を入れる紙袋に巻いてある水引に似ています」と。

それでまた問われた。「そこにあるそのお前の水引は、何に結んであるか?」と。弟弟子は「わたしの体に結んであります」と答えた。「ではその体は誰に布施するのか」と更に問われた。

そこでやっと、「この修行の体は仏陀に差し上げておりました」というところへ到着した。はっと我にかえった。差し上げている修行の身体はもはや我が物ではなかったのかと。そう悟ると辛い修行が楽になった。概略そういう話だった。聞いているわたしにも、老師の話が響いて来た。

仏陀に差し上げたわたしだったのだ。我が物にするわたしではなかったのだ。痛い辛い苦しいと愚痴を発すべき肉体ではなかったのだ。仏陀に差し上げてある尊いわたしの肉体だったのだ。そう思うとわたしも楽になった。

 

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庭に牡丹が咲いた 艶やかな紫色の大輪が15個

2018年04月17日 16時58分34秒 | Weblog

雨が降っている。濡れてもいいくらいの雨。小糠雨。庭に牡丹が咲いた。艶(あで)やかな紫色の大輪。一つの根株の茎に15個の花房がついた。雨を含んで重たそうにしている。茎が折れそうである。それで、負担を軽減してあげようと考えて、剪定鋏でそのうちの6個を摘んで来た。我が家の仏檀に2個、あとの4個は、2軒の近所の家に届けた。仏檀に飾ってもらおうと思って。生憎留守だったが、玄関先に置いてきた。

 

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雨に濡れた新緑の公園を眺めています

2018年04月17日 12時17分22秒 | Weblog

外は雨に煙っています。4階の研修室から、雨に濡れた新緑の公園を眺めています。お昼は、注文していた500円弁当を食べました。いまは昼休み。ゆっくりしています。午後からも研修です。西日本新聞社の佐賀総局長さんが、「国際社会と日本」と題してお話になります。午前中はオリエンテーションを受けました。受講者が多くて2組に分かれています。

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艱難は菩薩の大慈悲心の一手段

2018年04月17日 08時35分56秒 | Weblog

「設(たと)い悪讐(あくしゅう)怨敵(おんてき)と成って、吾を罵り吾を苦しむることあるも、此れは是(これ)菩薩権化(ぼさつごんげ)の大慈悲にして無量劫来(むりょうごうらい)我見偏執(がけんへんしゅう)によって造りなせる吾身(ごしん)の罪業(ざいごう)を消滅解脱(しょうめつげだつ)せしめ給う方便なり」

「菩薩願行文」にこうある。

「讐」は仇(あだ)、敵(かたき)。「悪讐」は悪辣な敵。「怨敵」は恨みを以て襲いかかる敵兵ども。「権化(ごんげ)」は、神仏が衆生済度のために、権(かり)の姿を取って世に現れるときの姿。権現様。神仏の分身化身。「無量劫来(むりょうこうらい)」は、過去世の無限の時間からこの方ずっと。「我見」は、自分だけの偏った狭い見地。我執に同じ。「偏執(へんしゅう)」は偏った見解に固執して他人の言説に対峙すること。偏屈・片意地に同じ。「方便」は方法・手段・方策。

「我が身に降りかかる剣難、災難・病苦・不幸などなどの毒矢は、是はすべて菩薩様権現様が放たれた矢である」という見解が述べられている。「大慈悲心の発露(はつろ)」だという。これがなかったならば、わたしの「間違いに気付かされずにこの世を終わってしまう」ところだった、という。間違いを直してくれるので、それで大慈悲心だという。

間違い直しの時間を与えられていて、それに気がつかないで、そこでまた間違った考え方をして、人を恨んだり世をはかなんだりすれば、そこで間違いの上塗りをすることに成る。恨んではならないのだ,はかなんではならないのである。間違いに気付いたらそこで即座に間違いの罪業は消滅して、清々しい0(ぜろ)になるのである。

言わんとすることは「艱難は汝を玉にする」の諺に似ている。不幸不運はわたしを磨く研磨剤である。これで磨かれたわたしが此処でやっと光輝く玉になるのである。

あくまでわたしの受難の受け取り方である。これで被害者意識が払拭されるであろう。

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嗚呼そうだったのかとあるときにふっと気付かされる その5

2018年04月17日 07時25分24秒 | Weblog

身心軽安。しんじんきょうあん。身も心も軽くなって安心を得る。

安心を得ていていいのに、そうであるのに、駑馬にして鞭を当てていた。それを詫びる。身が心を駑馬に貶(おとし)めて鞭を当てていた。心が身を駑馬に貶めて鞭を当てていた。

そういうこともある。訂正に導かれる。また軽くなる。

「嗚呼そうだったのか」は歪みに歪んだ日常の、身心を軽くするマッサージ術かもしれない。

今朝もまた一つこれを呟いた。ごきりという自己調整音がした。

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嗚呼そうだったのかとあるときふっと気付かされる その4

2018年04月17日 07時22分50秒 | Weblog

あるときまた、嗚呼すまなかったと思う。

身心の心が身に詫びる。或いは身心の身が心に詫びる。これでケリがつく。

仲直りをする。また身心軽安(しんじんきょうあん)して、二人三脚の旅に出られるようになる。

そういう「嗚呼そうだったのか」も訪れる。

 

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嗚呼そうだったのかとあるときにふっと気付かされる その3

2018年04月17日 07時16分56秒 | Weblog

嗚呼そうだったのかは何度でも来る。いろんな「嗚呼そうだったかのか」がある。そしてその訂正訂正が、幾度も幾度も、入る。

訂正が入ってみれば、なあんだということになる。このままのこれでよかったのか、と。そういうことにもなる。

ずいぶんと無理をしていたことも分かる。不相応の無理の縛りが解けて自由の身になる。ほっとする。身の丈に戻る。自己調整がつく。

 

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嗚呼そうだったのかとあるときふっと気付かされる その2

2018年04月17日 07時14分05秒 | Weblog

そこで、ふっと割り切れる。嗚呼そうだったのか、と、すとんと腑に落ちる。腑が拍手をする音を聞く。

 

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嗚呼そうだったなとあるときふっと気付かされる その1

2018年04月17日 06時47分46秒 | Weblog

嗚呼、そうだったなとあるときふっと気付かされる。そういうことがある。

熟したのだ,機が。長い長い長い長い疑念助走を経て(どうせ、よぼよぼのよちよちの助走だろうが)、そこでやっと僅かばかりの力が溜って、よいしょとジャンプして、着地したのだ。

疑念は常に興る。解けないで地下に潜ってしまう。それがるとき機を得て地上に出る。日の目を見る。見上げる春の空が明るい。柳が芽吹いて青々として風を受けている。

疑念様疑念様、煩悩様煩悩様、悪業様悪業様、あなたさまのお陰でありました、と気付かされる。

 

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ええい、新聞でも読むとするか

2018年04月17日 06時38分48秒 | Weblog

いまになって眠くなって来た。どうしよう。夜は明けている。障子が明るい。6時40分になっている。台所の朝餉の,準備の匂いがする。今日は何の味噌汁なんだろう。

ええい、新聞でも読むとするか。「でも」だなんて呼び捨てにしないで、押し頂いて。

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