<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

庭にツツジが咲き出そうとしています

2018年04月05日 23時52分13秒 | Weblog

庭のツツジがちらほら咲き出そうとしています。赤に系統がほとんどです。白いのもあります。これはみな父が育てていたものです。わたしは樹木は買ってきません。わたしの園芸はもっぱら草花です。父が他界してからもう40年です。その間もずっと咲き続けています。大ぶりになった枝葉は剪定をしました。花の色が濃いさつきもあります。ツツジが咲き出すと、ですから父を思い出します。尊敬する父でした。

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エンジェルスの大谷選手はまたまたホームランを打ったのかあ

2018年04月05日 20時54分05秒 | Weblog

そうかあ。すごいなあ。アメリカ大リーグ、エンジェルスの大谷選手は昨日に引き続いてホームランを打ったのかあ。そしてマルチヒットも。自分でも「出来すぎ」と言っているらしい。海を渡っても、そこでも、いまのところはみんなの期待通りだなあ。まだ23歳。臆せず、しっかりしてるなあ。これからがまた楽しみだなあ。

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革袋があれば自己が外へ溢れ出して行かない ラスト

2018年04月05日 20時33分41秒 | Weblog

バスタブに浮かんでいる「わたし」を今夜はしげしげと眺めた。これは、しかし、物体のわたしだった。物質のわたしだった。非物質のわたし、こころとか精神とか魂とか感情とか理性とかもまた、それぞれこの革袋のようなもので覆われ、くるまれ、抱き込まれているのだろうか。

「我」の正体は、案外ビジュアルなのだ。皮膚に守られている小宇宙だったのだ。

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革袋があれば自己が外へ溢れ出して行かない その4

2018年04月05日 20時27分55秒 | Weblog

宇宙には革袋はないらしい。宇宙は自己を持っていないらしい。ふわりふわりしているだけである。そういうふわりふわりでも、生存が可能と言うことなんだろうか? ? ?

「区切るもの」は全体からはみ出した「個」「個体」の象徴なのか? 「全体そのもの」は区切られていない。区切る必要に迫られない。

わたしを外なるものから区切るとわたしがそこに存在を保つ。区切らなければどうなるのか? すぐに全体へ回帰して行くのか? そうかもしれない。

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革袋があれば自己が外へ溢れ出して行かない その3

2018年04月05日 20時25分00秒 | Weblog

自己、「わたし」とは、だったら、この皮膚境界線の内側のうごめきのことか? そこにいっぱいなにやかやが詰まっている。そしてそこでなにやらをしている。

 

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革袋があれば自己が外へ溢れ出して行かない その2

2018年04月05日 20時21分06秒 | Weblog

革袋が外側を遮断して、内側を守っている。ということは? 革袋は自己の守護袋か。これで自己が外へ溢れ出さないで済んでいる。外からの侵入もできないようにしている。わたしを包んでいるもの、革袋は、薄い薄い皮膚でできている。自己は自己で其れで収まっている。それでふしぎと調和と秩序を保っている。

その割りには、重大な任務を着実に遂行している割りには、目立っていない。いや、特別の配慮をしないで暮らしている。そうするのが当たり前という感じで、ずっとわたしに寄り添っている。

 

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革袋があれば自己が外へ溢れ出していかない その1

2018年04月05日 20時01分08秒 | Weblog

わたしは革袋で閉じられている。バスタブの湯がわたしの中に入ってくることはない。一滴の水をも中へ入れないし、内側の一滴も外に漏れない。お風呂に入って、湯船に全身を浸しながらそんなことを思った。

これが苦悩する煩悩当体なのか。悲しんだり喜んだり、恐がったり興奮したり、欲望したり失望したりしている物体なのか? そう思ってしげしげ眺めた。それは革袋によってしっかり閉じられていた。

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みすず刈る南信濃の湯の原は 伊藤左千夫の歌を取り上げる ラスト

2018年04月05日 19時34分44秒 | Weblog

「ミスズ」は篠竹(しのたけ)の一種。山地の斜面に生える。山毛欅の林あたりに群生する。高さ1~3m。7月頃稀に茎の頂きに花の穂をつける。「すず」とも「みすず」とも。南信濃の高山地帯にはこのミスズが群生しているのかも知れない。

伊藤左千夫(1864~1913)は歌人。千葉県の生まれ。1900年(明治33年)、正岡子規の門に入る。子規没後、「馬酔木」「アララギ」などを発刊した。写生主義を強調した。歌風は万葉調。

みすず刈る南信濃の湯の原は野辺の小路に韮の花咲く

写実主義とは写生画の歌ということだろうか。たしかに写生画はものを言わないが、それでしっかり感動をもらうことができる。

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みすず刈る南信濃の湯の原は 伊藤左千夫の歌を取り上げる その6

2018年04月05日 19時22分27秒 | Weblog

わたしはどうだったか、では。此の歌に詩を覚えたのか。覚えたのである。何処に? それは言えない。おぼろおぼろとしか言えない。万葉集の時代に用いられていた「みすず刈る」の枕詞だけでうっとりしたのかもしれない。

信濃は旧国名、いまの長野県。科野。信州。飛騨山脈から発した信濃川が流れている。信濃の南に位置している湯の原は普通名詞かもしれない。湯の湧き出ている一帯なのかもしれない。

 

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みすず刈る南信濃の湯の原は 伊藤左千夫の歌を取り上げる その5

2018年04月05日 19時20分13秒 | Weblog

何処にでもあるあり触れた風景なんて、普通われわれはそこに詩を見出すことはあり得ない。しかし、歌人がそれをまことしやかに歌にすれば、そこに新しい価値が付加されてくるのかもしれない。新しい価値が付加されれば、ありふれた人生だって、いきなり新鮮みを帯びるのである。新しい感慨をもって見直してみたくもなるのである。

 

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