<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

便利に出来ているなあ 都合よく造られているなあ

2018年04月15日 23時27分55秒 | Weblog

腰から下に足がついている。それも左右二本。固定されていないで柔軟にしている。互い違いに行動できる。膝が曲がる。足首が動く。腰は歩けないが、これで腰も同伴して歩いて行ける。腰から上は便乗しているだけでいい。自由が確保できる。便利に出来ているなあ。都合よく造られているなあ。我の足なんだけど、ほとほと感心してしまった。

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発見。ズッキーニの種が発芽していた。嬉しい。

2018年04月15日 23時03分01秒 | Weblog

さ、もうやすもうかな。23時を過ぎた。

発見。ズッキーニの種を蒔いていたら、発芽をしていた。にょきにょきにょきにょき。でもまだ1cmくらい。

今日は寒い。新芽がぶるぶるっと震えているのではないかなあ。

明日はお天気が回復して、気温が上がってくれたらいいがなあ。

明日は、お天気になったらだけど、巨大大輪朝顔の種蒔きをしてみようかなあ。小さなポットに培養土を詰めた上に。まだ早いかなあ。

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仏教を弘めるということは安心を弘めるということではないのか その5

2018年04月15日 23時00分18秒 | Weblog

己の誤認識の迷界を後にして、安心の世界に来ていいのである。捏造をして恐がっていることはないのである。

仏陀の教えは安心をしていいという教えである。仏教を弘めるということは、わたしには、安心を弘めるということのような気がする。

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仏教を弘めるということは安心を弘めるということではないのか その4

2018年04月15日 22時52分52秒 | Weblog

それは殻に閉じこもった己の、主観の、でっちあげの、迷いの世界である。迷いの世界の特長は恐怖があるということである。

仏陀の真如界は迷界ではない。迷界は脅す脅されるが、仏陀の涅槃界はただただ安心の世界である。明るい輝きの悟りの世界である。

 

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仏教を弘めるということは安心を弘めるということではないのか その3

2018年04月15日 22時49分46秒 | Weblog

悪人往生というが、仏陀に、人間が差別するときに使う悪人善人の差別はない。仏陀の世界にそれを持ち込むことはない。持ち込んで通用するようなら其処は仏陀の世界とはほど遠い世界である。

極樂往生に善人往生・悪人往生の差別はない。

 

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仏教を弘めるということは安心を弘めるということではないのか その2

2018年04月15日 22時47分31秒 | Weblog

仏陀の世界に,人間界のような差別はない。人間がするような差別をして人を見るようなら、それは仏陀とは呼べまい。仏陀を貶(おとし)めてはならない。

 

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仏教を弘めるということは安心を弘めるということではないのか その1

2018年04月15日 22時32分45秒 | Weblog

仏教を弘めるということは安心を弘めるということではないのか。仏の教えを弘めるということは、施無畏(=畏れなきを施す)を弘めるということなのではないか。恐がらなくてもいいということを伝えて行くことではないのか。

 

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死んで何処へ行くのか その6

2018年04月15日 22時29分23秒 | Weblog

安心をしていい、と。仏陀の世界を離れたことはないのだから、迷い子になることはないのだ、と。

本体はずっと仏陀の世界にいて其処で仏陀とともに暮らしている、のだと。

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死んで何処へ行くのか その5

2018年04月15日 22時24分46秒 | Weblog

ブッダの真如界(涅槃界・お浄土・仏国土・極樂)から来て、此処へまた帰っていくのだ、と。

しかしここは地続きである、と。分断されているのではない、と。

 

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死んで何処へ行くのか その4

2018年04月15日 22時17分36秒 | Weblog

出て行ったように思っているが、仏国土の此処を出て行くことはなかったのだ、と。ブッダとともに此処にいるのだと、と。

仏国土でなければ、われわれの生き死にはない、のだと。仏国土であって始めて、生きることができ、死ぬことができるのだ、と。

恭しくも、肉体の死が、死を代行して、死を見せてくれるのだ、と。

 

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