伊万里市東山代町の竹の古場公園に行きました。玄海国定公園です。10000本のツツジが咲いていました。標高500mほどの山の中腹でした。山を登っていく途中から伊万里湾が見えました。名村造船所も見えました。コンビニでお弁当を買って行って、公園に敷物を敷いて食べました。
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野菜は偉い。どの野菜も偉い。熟々(つくづく)そう思う。人間を養っているのである。そしてそんな顔をしない。正しいことをして生きているなんて顔をしない。
無心でいる。淡々としている。そういうことができる。
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野菜が、人間を養っているなどという自意識は持たない、だろう。人間が、彼らの成長の極地、満足の境地に入るところを、横取りをしているだけなのだが、それを恨みに思っているふうでもない。そこも偉い。
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種はもうすぐ芽を出すだろう。発芽したら、欲しい人には株ごとお分けしたい。エンツアイはおいしい。貴重な夏の緑野菜である。元気の素にもなりそうだ。
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種もまだどっさり残っている。種から育てたいという人が出て来ればこれもお分けしたい。夏が終わると枯れる。張った根株を掘り上げるのに一苦労する。
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茎ごと地中に埋めておくとそこからまた再生する。やがて隆々となる。ふさふさと緑の葉を着ける。やや臭みがある。
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近所の方に差し上げても、食べたことがないのか、食べて口に合わなかったのか、断られてしまうこともあった。食べたことがない人が多いだろう。
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適度な長さに切り、深鍋に入れる。塩を振って高温のガスの炎でさっと炒めるとおいしい。長く炒めるとべたついてしまう。小さく溶けてしまう。短時間の料理に適する。
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朝顔のような花、小さな薩摩芋のような花を咲かせる。根が張る。南方のガジュマルの木のように根を張る。きっと生命力が旺盛なのだろう。
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エンツアイの種を一袋買ってきた。150円。種がどっさり入っていた。昨日そのうちの10分の1ほどを種蒔きした。別名「台湾ホウレン草」
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野菜が食べられない夏の時季の貴重な緑野菜である。ポキンと音を出して切ると、そこから乳が滴る。音がいい。茎の中は空洞になっている。
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仏道を歩こうとしている人間には思えない。とても。
己の欲望の奴隷をしている鬼の姿を見れば、口にする仏法が焼け落ちてしまう。
仏の法(ダンマ)によって、宇宙の意思によって、長々と守られ支えられ導かれて、やっと生きることが可能になって,ここまで息をし続けてきたのに、その自己の尊厳が、土台もろとも、台無しになってしまう。
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もっともっと生きていたい。そこで、3歳児のように駄々を捏ねてしまう。宗教者のようにして、祈ってしまう。それが正義ででもあるかのように,堂々と懇願してしまう。
知らず知らずそうしている自分を見つける。欲が深すぎるのではないか。
いつまでたっても利己保身を続けている。この煩悩から抜けきれない己がいる。己が可愛い。死ぬまで可愛い。いつまでたっても、こうだ。
生涯ずっとありとあらゆる願望を満足させてもらってきて、今日の日がある。そうであるのに、まだ飽き足りないでいる。己はひたすら欲望の奴隷をしている。
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「わたしから病気を取り除いて下さい」「わたしを死なせないで下さい」と神様仏様に懇願するのは、どう考えても恩知らずのすることである。
或いはそれをご恩と感じないでいた者の、更なるふてぶてしい要求である。
「お待ちしておりました」でお終いにする、そして「長々と有り難うございました」のお礼を申し述べる。それが順当のはずである。
それがそうできない。下腹が覚悟をしたつもりでも、あっさりと崩れてしまう。泡になってしまう。鬼の目がぎらぎら光っているだけになる。
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ここまで経過することが出来て,その上に、「どうか死なないようにしてください」などと祈るのは虫が良すぎるのではないか。虫が良すぎているのである。祈りながらそこに抵抗を感じてもいる。
理論上は、天秤が釣り合わない。
天秤の一方には、長く長く生かされて来たという過去の事実がある。守られて支えられて導かれて来たという重い事実がある。そうであれば、もう一方にはそれに相応しい感謝の重さがあるべきである。それしか釣り合わないはずである。