お風呂に入った。お風呂に入ったら、くったりした。起きていられない。ベッドに横になる。老爺は他愛ない。砂の彫刻品。
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僕は田舎人。おまけに老人。ほぼ一人です。でも、一人も中々いいものですよ。人に交じっているとどうしても相手の機嫌を伺っています。迷惑を掛けないように万全の心配りをします。
こうして土いじりをしていると、ともかくご機嫌です。単純です。快感を得られるまでには、しばらくでいいようです。
寂しいくせに、さみしさを感じないでいられます。
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モンシロチョウを丁寧に手の平で掬って、遠くへ運んで行きました。雨が降った直後なので、土も乾燥をしていません。適度に潤っています。これで整地をしました。
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終わってから畑の蕗を摘みました。剪定鋏を動かして。夕食後に、筋剥きをしました。柔らかいです。筋を剥きつつ、ぽっきんぽっきんと折っていきました。明日の夕食までにはおいしい料理になっているはずです。
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みるみるうちに、畑がきれいになりました。快感を覚えます。たかだか畑の草取りをしたぐらいで快感が襲います。でれんとします。器が小さいのですね。すぐにあふれます。
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草を抜いているとモンシロチョウが出て来ました。飛べません。草を抜いた後では、土を耕して、作っていた畝を耕して整地して平らにします。モンシロチョウが埋まってしまいます。
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日没まで畑にいました。草を根っこごと抜いて、耕しました。手に握られるほどの小さな農機具を握って。これを動かして。歌謡曲を口笛で吹きながら。辺りには誰も居ませんから、迷惑にはなっていないでしょう。
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椅子に座ってだから、あんまり捗りません。おまけに僕はA型ですから、綺麗にしないと気がすみません。時間がかかるのです。
やや曇って来た。空が暗くなってきた。降り出すのかも知れない。
NHK教育テレビ「宗教の時間」の録画を回して見ていた。岐阜県の禅宗正眼寺の山川宗玄老師(僧堂師家)のお話だった。老師の話は終始淡々としていたが、それを聞いていると、自分の憍慢を叩かれた気がした。
いいお話を聞いた。最初に修業時代のお話を伺うことが出来た。全体の話には「日々是好日」というタイトルをつけてあった。後で,このブログにも、聞いた話を基にしてふくらませて書くかもしれない。
16時半、まもなく。ちょっと畑に行って来たい。草取りを暫くして来よう。しばらく土いじりをしていなかったから。降り出してきたら? その時はその時。
今日の朝ご飯はお粥だった。それもそらさらの。梅干しを加えて啜った。味噌汁は九条葱が具材だった。いがいとやわらかだった。その後、甘い苺ジャム入りヨーグルトを硝子容器に落として,スプーンで掬って嘗めた。老爺はこれでいい。
11時半になったら、おやおや、お腹が空いてきた。まだ一度も外へ出ていない。外は光が溢れている。風が少しありそうだ。向こうの畑のほっそりしたアスパラガスの茎を微かに揺らすほどの。白い蝶々が飛んでいる。老爺はこれを見ている。
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そこを超えてきている。死を超えてきている。これはちょうど闇の夜が明るい朝を迎えているのと酷似しているのかも知れない。すべてはオートマテイカリーなのだ。宇宙的力学によって生死の地球は回転しているのだ。
こうしてわたしは荘厳のドラマを我が身に受けるのである。神秘的神体験をするのである。変身を遂げるのである。向上へ向かうのである。
*
これは、しかし、わたしの独断である。証明されたことではない。各人が各人で判断をすることである。わたしはこのように明るい判断をして見たというだけである。仏智見に委ねてみれば,恐らくこうなるだろうと予感をしただけである。
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これはひとえに仏陀の法力学(真如のダンマ)=宇宙的力動のせしめるところだった。でなければ、わたしは死ねなかったのだった。
わたしの死は完了するのである。これは奇(く)しくもわたしの生が完了したことと一致する。
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わたしの足で、わたしの判断で、わたしの力で死を超えていかねばならないとしたらこれは大変な作業量だったに違いない。難事業だったに違いない。
でもそうではなかった。すべては他力だった。おまかせでよかった。頼んで信じていればすんだ。
念仏が此処へわたしを導いて行く。