<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

不幸と幸福は弥次喜多珍道中が好きなのだ

2016年05月10日 17時59分20秒 | Weblog

不幸と幸福は弥次喜多珍道中をしている。弥次さんと喜多さんなのだ。悪と善も珍道中が好きらしい。健康と病気も弥次喜多道中をする。成功と失敗、堕落と向上もこれをする。貧乏と裕福もこれをする。右手と左手のようなもので、これで1セットなのだろう。片方だけということにはなっていない。両方の手を使わないとうまくものが握れないらしい。

 

相手があってこそなのだろう。ちょっちゅう健康な人がたまさか病気になる。すると七転八倒して苦しむ。これまでの健康を全部質草にして苦しむ。そしてここを克服する。するとそこではじめて健康が健康的感動を取り戻す。健康は病気という相手なしには自己証明ができないのだ。相手が、だから、見えるようになることが大切なのかも知れない。相手を認め合うことで調和がとれるのかもしれない。

 

おれは幸福になりたい。これは善だけをしていたい。おれはいつも健康に暮らしていたい。おれは人が見上げるような成功者でありたい。おれは向上の一途を辿りたい。おれは誰よりも大金持ちでいたい。その願望は願望でいい。でも現実でそうあったためしはない。それもそうであっていいようになっているのだとすれば、救われるではないか。弥次喜多の両者の珍道中だからこそこの世は楽しく暮らしていけるのだから

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そんなものでは嫌だ

2016年05月10日 07時43分57秒 | Weblog

「探る」「握る」「把握する」「掴む」「捉える」「捕まえる」の動作ははいずれも手偏である。手を使うものらしい。目じゃなくて、耳じゃなくて、臭いじゃなくて、こころじゃなくて、あくまで手を使ってするものらしい。五感で言えばそれは触覚である。手に感じるものである。手には感じられないものでも手で感じたい。すると体得した感じになれるらしい。ところがなかなか捕まえられないものがある。この世には掴もうとして捉まらないものがある。捕まえたと思ってもいつの間にか擦り抜けている。手の平には何にも残っていない。

自己とは何か。これもそうである。「生きている自己」とはどう把握が出来るのか。死んでいるのを生きていると勘違いをしているかもしれない。たしかに生きている自己というものをどう手に握るか。実体を鷲掴みに出来るか。生きているとしているが、その実は死んでしまっているのではないか。どうやってこの疑問疑惑を解明するか。これはなかなか手強い。ある日あるときふっとこれに捕まってしまうことがある。大きな手だ。逃げようとする。逃げた方へ大きな手が動いてくる。「お前はほんとうに生きているのか」「お前を見ているとどうもそうとは思えない」という問いかけの大きな手だ。敵も手を使ってくる。

自我ではなくて自己とは己の何処にいるのか。欲望する瞬間瞬間をかいくぐっている野鼠のようなのではなくて、堂々として君臨できている永遠の自己を探り当てて生きているか。これを我が手に握りたいのである。我が手に収めておきたいのである。欲望する自我はその場その場をごまかしている偽り者だ。そんなもので満足が出来ているはずがない。一生をその偽り者と暮らしていくのはご免だ。あるときここに目覚めてしまう。薄っぺらは嫌だと思う。借り物は嫌だと思う。そんなものを脱ぎ捨てた後にあるもの。ヒマラヤのように聳えているもの。それを見たい。そういう自己と対峙していたい。着ている服を自己とするのではなく、そんなものを一切合切脱ぎ捨てた裸身の自己自身に成りきっていたい。

藻掻く。掻きむしる。探りを入れる。手を延ばして掴み取ろうとする。旭日が射してくるように不意にそれが顕わになっていく。それを抱いて触る。撫で回す。遠い遠い旅をしてきたがやっとここが目標地点だ。旭日の自己が我が手の内に燦然と耀いているではないか。しかしそれも束の間である。またもとの黙阿弥になっている。また旅に出るしかない。人はいつもこうして旅に出ている。自己実現すべき両手を振り翳しながら。そんなもんでは嫌だ、そんな薄っぺらな自己がこの世を生きているはずがない。

 

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案じるべきこの世を捨ててしまうと身が軽くなる

2016年05月10日 06時58分20秒 | Weblog

さすたけの君と相見て語らへばこの世に何か思い残さむ      良寛禅師

「さすたけの」は「君」にかかる枕詞。竹は生長が見る見る間だ。だから相手の元気旺盛を願って寝せる言葉の枕にした。お元気なあなたをこうして間近に見ながら語り合うことが出来たのだ。あれもこれもと語り合ってとうとうこの世に思い残すことなどはなくなってしまった。よほどよほどの間柄だったのだろう。

老いの身でありながらなおこの世を案じて暮らしているのがわれわれ人間である。案じたことは人に告げて聞いてもらえばそれでたちまち掻き消えることもある。それが互いに互の前でこころを割って見せられる人であればなおさら。案じるべきこの世を捨ててしまうと身が軽くなる。

あるいはいつも身を案じてくれる弟の由之だったかもしれない。なんでも聞いて聴いてもらえる人を良様はもっていらっしゃったようだ。

さぶろうはどうか。ふっと我が身を思ってしまった。さぶろうももう十分に老いた。夜が明けた。5月10日が来ている。雨は止んでいるが、空はミルクを解かしてけぶっている。

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そんなことを考えているとさみしくなって来る

2016年05月10日 03時15分48秒 | Weblog

そんなこんなを考えているとさみしくなって来る。いきなり雨期になってしまう。乾燥していたわがアフリカの大地に、川が生まれて流れて来るようになる。男性であれば女性を深く愛しているのか。肉体を愛し合うのが愛なのか。まったくそうではない愛があるのか。どこまで深く愛せるのか。暮らしをともにすれば深まるのか。魂までを愛し合えるのか。うすっぺらな愛でも愛に変わりはないのか。老いた者にはそうした生々しい愛はもう不適切で無用なのか。人間ではなく神を愛すべきなのか。そんなことを考えているとさみしくなる。ただたださみしくなって来る。真夜中の3時半を過ぎた。僕はひとりで夜が明けるのを待っている。風邪が気管支をごぼごぼ鳴らしている。せき込みが止まらない。

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互いの胸に愛を埋める

2016年05月10日 02時39分51秒 | Weblog

そうだもんね。この世には男と女しかいないものね。頼りにし、頼りにされる。互いの胸に愛を埋め合う。半分と半分とが合わさる。一つになる。それで安定ができる。こうして互いの不完全さを埋め合っていけるようにしてあるのかもしれない。男女が一つところにいて暮らしていれば、では、それがすべからく満たされているか。成立しているか。完結できているか。別離を来せば愛の流れが浅くなってしまうのか。それもこれも疑問だけど。そこにもまたそれぞれの歌が生まれるのかもしれない。エレジーが。埋め合うことができないまま生きていること、己に不完全を覚えていることにもやはり深い意味がありそうである。愛を己に問いかけることは、たとい一人であっても、できそうである。

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人生は哀切に極まる

2016年05月10日 02時04分56秒 | Weblog

昨夜久々にフォレスタが熱唱する歌の番組を聞いた。酔いが回ったようになった。歌の力は凄いよ。歌う内容は100%男が女を愛すること、あるいは女が男を愛すること、そのいろいろな変形バージョンに終始していた。どの曲もどの曲もどの曲も。それでもうすっかり追い詰められて、そういう哀しい人生の網にかかった小魚のようになった。人生は哀切に極まるのだ。「東京砂漠」なんて曲があったよ。毒を打たれて僕の神経はすっかり麻痺してしまった。それほどに深く女を愛したことがなかった僕の人生。それがいかようにも貧弱にみすぼらしく見えてならなかった。

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