<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

欺したら欺される だったら欺した方がいい

2016年05月03日 20時05分37秒 | Weblog

欺したら欺される。だったら欺した方がいい。健康だと言い含めて置いたら健康になっている。だったらいったい、それまでの体の不調は、あれは何だったのだ。ころりと欺されている。お酒飲むべからずだと言うとそういう体調にもなる。お酒飲んでも差し支えなしと唱えていると体調がそれを聞いて差し支えなしを整えている。これじゃいいなりじゃないか。こころのいいなりじゃないか。言葉でどんなにだって操作できるじゃないか。操作をしてやる。セルフ・コントロールというのは案外有効なのだ。あらためてそれを実感する。そんなシークレットが貫いているのならこのシークレットを無視することはない。大切にするべきだ。欺すという表現もいい加減で真相に即していない。空なのだ。病も健康も、空なのだ。根拠がないのだ。根がない浮き草なのだ。コントロール次第ではどうにでも変化するのだ。だったら寧ろコントロールをしてあげるべきなんだ。手元で操作をしてあげるべきなんだ。そんなことを思った。これがアファーメイションなんだろう。確信を持つ。持たせてあげる。信頼をしてあげる。信頼を当てにする。こころとからだのこの微妙な関わり具合はどうだ。ことばが威力を放つ。三者の相互のベクトル調整ぶりが見事だ。

 

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覚悟をどうつけておくか

2016年05月03日 19時48分00秒 | Weblog

夕方近くに雨は上がり、青空が出て来た。光が跳ねるとみるみる快晴となった。こりゃ、大事件だとばかり外に出て自転車に跨がってサイクリングをした。風が寒くてよほど引き返そうかと思った。そのまま、でも、突き進んだ。坂道にさしかかる。この頃、息が切れそうになる。心臓がどきどきする。力で押せない。これまでになかったことだ。何か体調に重大な異変が起きているのかもしれない。心配になる。普段から痛みを体の各所に感じるようになってきている。それが次第にひどくもなっている。心配を無視する。上り坂は必ず終わる。終わるとそこから下り坂になる。上りと下りはセットになっている。下りは風を切って進んだ。寒い。ようやく寒さがとれるところまで来た。でも、汗は出ない。このままだと風を引くかも知れない。これ以上遠くへは行けない。そう判断した。スピードががくんと落ちる。若葉が美しく見えだしてきた。筍林に来ると若い筍が道路まで倒れ込んでいた。立ち止まって跨いで通る。5段階切り替えギアの一番楽なギアでしか進めない。やっぱりヘンだ。力が出ない。まあいい、まあいい。もう70才を過ぎているのだ。何があってもいい年齢になっている。いつもここへ来る。その通りだ。もう何がいつ来てもいい年齢に達しているのだ。後は覚悟をどうつけておくかだ。

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クレヨンにだって12色があるのだから

2016年05月03日 15時18分07秒 | Weblog

わたしの眼は小さい。わたしの見ている世界は小さい。その小さな世界をぜんぶ悲しい色で塗りつぶしてはならない。悲しい色の合間合間にそうではない色を塗る。クレヨンにだって12色があるのだから。するとそこから悲しい色とは違った光が発せられて周囲が少しだけ明るくなる。

わたしはわたし以外の眼でものを見ることはできないけれど、わたし以外の眼を想像することは出来る。その想像の眼が見た大きな広々とした世界に、今日は悲しい色以外の色を塗ってみた、おもいっきりぜんぶ。クレヨン12色がみんな擦り切れてしまった。

わたしの眼は小さい。わたしの見ている世界は小さい。その小さな世界をぜんぶ悲しい色で塗りつぶしてはいけない。でも、わたしの眼が小さくてもいいように、わたしの眼以外の眼を大きくしてある。それも分かった。大きな眼が見る大きな世界がぜんぶよろこびの色に塗られている、それを想像できることも分かったことだ。

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わたしの眼は小さい 未来を正しく見通せない

2016年05月03日 14時45分59秒 | Weblog

何処を歩いていても、何処に立っていても、そこがわたしにとっては最高最良の場所である。そう思って安心していたい。そこでしかできないことをわたしが見、聞き、思っている。そういう受け取りをして顔を和らげていたい。一見してすぐに不本意なことが進行していると判断できるようであっても、それでも、それはこのわたしにとっては不可避であって、逃れられそうもないが、これはわたしの進むべき道のその中途であって、そこから新しい発展に繋がっている。そういうふうに考え直して穏やかさを戻していたい。

老も病も死もそうである。過酷すぎるし悲しすぎるから、できることならこの試練から遠ざけて下さいと嘆願したい気持ちになるけれども、それはわたしの考えたことである。わたしの眼は小さい。未来は見通せない。見通せる眼で見たらこれが最高最善の方策であるのかもしれない。ここを通って行けば広々とした静かな青い海に出られるかもしれない。そこに到達すれば予期し得ないほどの安らぎと向上があるのかもしれない。わたしはここで一気にオリオン座ほどに耀き出すのかも知れない。そういう無言の約束が出来上がっているのかも知れない。

風が蕗畑の大きな葉っぱ群を揺らしている。それが波のように大きく揺れて一つの大きな意思として伝わってくる。案じることはない。恐れることはない。怯えることは何一つとして起こってはいない。そういう伝言をして来る。今日のわたしはわりかし素直だ。疑い深くない。わたしにはわからないことが植物にはきっと分かっているのだろう。そんなふうにも思えて来る。神々と直接の対話をすることでそれであんなにおだやかな表情を貫いていることができるのではないか、そんなふうにも思えて来る。

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常にそうしていていいという具合には行かない

2016年05月03日 14時31分25秒 | Weblog

雨が少しだけ小止みになっている。雨を受けて重たくなって垂れていた大輪の芍薬の花房が、微風に雫を払ってもらっている。僕はしばらくそのささやかな風の善行を見ている。青蛙の鳴き声がするからまだこの先も降り出すのだろう。そうすれば首の長い芍薬は、人が反省を促されたときにそうするように、頭を深々と垂れて自重をしていることになるだろう。どんなに美しく華やかに咲き出でても、だからといって常にそうしていていいという具合には行かない。それを慰めて、風が花の無念を散らしているのかもしれない。

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これがあなたの最高最善の道です

2016年05月03日 13時57分14秒 | Weblog

寿命というものがある。逃げたつもり、逃げおおせたつもりだったのが、所詮そこも寿命の定めたとおりで、そこで打ち果てる、そういうものかもしれない。それも筋書き通りだったというものかもしれない。死にたくはない。病気をしてもそこで踏ん張って、死にたくはない。死にたくはないから病院へ行って医者に頼み込む。医者に頼みこんだからと言って、しかし、死を逃げおおせた訳ではない。死ぬものは死ぬのである。どっちみち死ぬのである。逃げたって迎え撃ったって、ねじ伏せられたって、泣いたって喚いたって人の最後は来るのである。それでも死ぬという運命に逆らいたい。それがまた人情でもあるから、逃げを謀ったってそれも許せる範囲であろう。ところがどんなに入念に脱出をこころみたって、ただそこにわずかな長短の差があるだけである。神さま仏さまにご赦免を申し出たつもりでも、それでもとどのつまりは詰まるのである。最後が来るまでわざわざ汗を掻きつつ細くなる路地を曲がりくねるだけかもしれない。死ぬというのは人間の運命である。寿命というのは間違いなく来るのである。ある日、死がとんとんと玄関を叩いて「ご在宅でしょうか」「お迎えに参りました」と聞いて来る。しばらくは押し入れにでも身を隠すが、不在を装ったからといって引き返して行くようなヤワではないのである、彼は。土壇場が来て「これがあなたの最高最善の道です」と決心を促して来るときには、その最高最善の道とやらに従うしかないのである。たしかにこれがこの先の最高最善の道なのかもしれないのだ。仏典に「仏に偽りましますぬ」とあった。

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雨は差別をしないで降って来る 平等に潤してくる

2016年05月03日 11時24分22秒 | Weblog

難しいことが書いてあるのではありません。わたしの疑いを解こうとしてあります。愛は無条件で無差別だということが書いてあります。

貴賤上下 持戒毀戒 威儀具足 及不具足 正見邪見 利根鈍根 等雨法雨 而無懈倦         

妙法蓮華経「薬草諭品第五」より

貴賤(の者にも)、上下(の者にも)、持戒(する者にも)毀戒(する者にも)、威儀具足(する者にも)、及び具足せざる(者にも)、正見(の者にも)邪見(の者にも)、利根(の者にも)鈍根(の者にも)、(ブッダは)等しく法雨を雨降らして、しかも懈倦することなし。

身分のあるなしを問わず、地位の高い低いを問わず、戒めを守っているか守っていないかを問わず、礼儀正しい人正しくない人を問わず、ものごとを正しく見られるか見られないかを問わず、理解力がすぐれているかそうでないかを問わず、ブッダはわたしたちにまったく同じ法(ダンマ=この世の真理とその展開)という雨を降らせています。そしてわれわれがそれにどんな反応を返したって、それを疎んだりはなさっていません。そうすることが嫌になったりはなさいません。いつも降る雨が大地を等しく濡らすように、法雨はわたしたちみんなに等しく降って来ているのです。(さぶろうの勝手気ままな解釈)

法雨というのはキリスト教では愛といっているものでしょう。仏教では慈悲とこれを呼んでいます。救済の手といってもいいかもしれません。支援といってもいいかもしれません。エネルギーといってもいいかもしれません。みな戴いているのです、ともかく。それも無条件に。わたしたちがどんな人間であるか、どんな行動をしているか、そういうことは一切問われていないのです。問われていたら大変です。さぶろうなんかは一日だって一時間だって一分だってこの世に存在してはいられないでしょう。ブッダの眼に拾い上げられるようなそんな上等の存在ではないのです。

それを疑うので、ブッダは等しい愛情を差し伸べているということを疑うので、それでここに、誰でもが分かるように雨の例を引いてあります。雨を見ても雨に打たれてもなお疑う人もいるかもしれません。でも雨の日に外へ出て行ったら確実に雨に濡れるのです。濡れたという事実がブッダの救済の事実なのです。

 

  

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危ないものはスリリングでもある

2016年05月03日 10時57分14秒 | Weblog

この秘密は誰にもしゃべれない。(しゃべれないから秘密事項なんだけど)。秘密にしておくっていうのは、しかし、いいもんだ。ひとりでシャツの裏に隠して誰にも分からないようにしてぬくぬくになっている。暴かれることはあるまい。ここへ、だから、よく隠れに来る。人の迷惑にはならない。ならない範囲だと思っている。さほどお金はかからない。色っぽい話ではない。

もしも暴かれたら、一挙に人物値下げになるだろう。なあんだ、そんなことに手を染めていたのか。ということでくだらない男に成り下がってしまうだろう。上昇気流に乗った成り上がり者というのは様になるが、その反対は犬も食わない。それが分かっていたら手を引けと言いたいところだが、秘密にして成り下がっている。下降気流は危ない。地獄に堕ちてしまう。でもこれがいっときスリリングでもあるのだ。

小説家はここを暴いてくれる。読者はこれを面白く読める。スリリングだからだ。成り上がっているように見える人物にも成り下がっている領域がある。成り下がっていた人物がこれを翻して成り上がってくる。そのどちらにも、それまでに秘密にしていた時期が隠れ住んでいる。秘密は上昇と下降の双方の起爆剤でもありうる。それに誰にだって秘密があるのだ。

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何日の休みがあっても己を慰めて過ごすのみ

2016年05月03日 10時24分58秒 | Weblog

5月3日。憲法記念日。休日。雨。日本中が連休を楽しみにして待っていたのに、雨。僕は何処にも行くところなし。訪ねて来る人もなし。するべきこともなし。ぼんやりして過ごす。もぞもぞ動いているのは空想癖という変な虫だけ。

5月4日。みどりの日。休日。5月の山はいいだろうなあ。新緑が匂うだろうなあ。ミヤマキリシマが盛りを迎えて人々を迎えているはずだ。登りたい山はある。あっても一人では登れない。山頂からの眺めを空想してぼんやり過ごす。

5月5日。こどもの日。休日。弟君の長男にはめでたく男の子が誕生した。節句の祝い。招待されている。弟は死んでしまっていない。節句の祝いに参加が出来ない。さぞかし残念だろう。余所行きが大嫌いだが、行って祝ってやらねばなるまい。

サルビアの苗が買って来てある。白と赤の合計7株。この3日のうちのどの日にか花壇に移植をしてあげねばならない。雨はいつになったら止むのだろう。これくらいがさぶろうの関心事だ。さもしいなあ。

何日の休日があっても利他行なし。己を慰めるのみ。人様をよろこばせることなし。意義づけが出来る行動なし。存在を高々に主張できることなし。じゃ、小さくなっているか。そうもならないところはけっこう図太い。

蜘蛛が軒端に来て巣を張っている。午前中、この労働を見ていた。お昼近くにシジミチョウが巣にかかった。地獄を逃れようと抵抗を試みて巣を揺らしている。蜘蛛からすればやっとの極楽だ。己は地獄と極楽のどっちに加担していいか分からない。

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何処にも行かずお金も掛けずに雨を眺めて

2016年05月03日 10時02分22秒 | Weblog

この雨じゃどうにもなるまい。日本中連休なのに日本中が雨。花の溢れる花園、遊園地へ行ったって、わいわい外では遊べまい。貧乏人のさぶろうにはしかしこれでもいい。差し障りはない。何処にも行かずお金も掛けず、目が向く範囲で、雨に若葉が濡れているのを見ているのもこれはこれでけっこう味わえる。しとしとしとと濡れている。潤っている。若葉のこの潤いの分け前を授かることにしようではないか。乾いている日も潤っている日もあっていい。バラエテイがあっていい。老人はこういうふうにその日その場を肯定してすませることに長けている。というより他に手立てがないのだから。

畑にジャガ芋の花が咲いているのが見える。紫色が雨に濡れて溶け出してしまいそうだと心配になる。なにしろ地味だ。目立つほどの大輪ではない。葉に隠れてそっと咲いているという感じだ。それで誰かはこれを見てやらねばならない必要に迫られる。そうする。「わたしを見てくださったのですね」「ええ、美しいあなたを見ましたよ」「この雨の中をわざわざ?」「ええ、わざわざ。あなたの魅力に惹かれて、傘を差して」「そうですか。嬉しいですよ」「こちらも嬉しいのです」 これで交歓が出来る。実に安上がりだ。隼人瓜がそばで会話を聞いている。細い蔓糸を支柱の竹竿にからませながら。

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