不幸と幸福は弥次喜多珍道中をしている。弥次さんと喜多さんなのだ。悪と善も珍道中が好きらしい。健康と病気も弥次喜多道中をする。成功と失敗、堕落と向上もこれをする。貧乏と裕福もこれをする。右手と左手のようなもので、これで1セットなのだろう。片方だけということにはなっていない。両方の手を使わないとうまくものが握れないらしい。
相手があってこそなのだろう。ちょっちゅう健康な人がたまさか病気になる。すると七転八倒して苦しむ。これまでの健康を全部質草にして苦しむ。そしてここを克服する。するとそこではじめて健康が健康的感動を取り戻す。健康は病気という相手なしには自己証明ができないのだ。相手が、だから、見えるようになることが大切なのかも知れない。相手を認め合うことで調和がとれるのかもしれない。
おれは幸福になりたい。これは善だけをしていたい。おれはいつも健康に暮らしていたい。おれは人が見上げるような成功者でありたい。おれは向上の一途を辿りたい。おれは誰よりも大金持ちでいたい。その願望は願望でいい。でも現実でそうあったためしはない。それもそうであっていいようになっているのだとすれば、救われるではないか。弥次喜多の両者の珍道中だからこそこの世は楽しく暮らしていけるのだから
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