金儲けは難しい。100円ぽっちも稼げない。それなのにそのさぶろうが420円の掻き上げうどんを喰ってしまった。で、なおさらうまかった。ゆっくりゆっくりむしゃむしゃ喰った。深葱白葱細切りを椀いっぱいにたっぷりかけて。能のない男でも昼ご飯をおいしく食う。能のある顔をして店に連なって。
ふてぶてしい顔をしているさぶろうにも五月の若葉。仏陀にふてぶてしい顔を向けていても紺碧の夏風。人様にふてぶてしい顔をあらわにしていても青空。
若葉と夏風と青空がそのままずっと何食わぬ顔で若葉と夏風と青空をしてくれていたのだった。夕方になってやっと少しばかりさぶろうの顔からそれが消えていた。不思議なことであった。
自ら覚った者も自らは覚ることがなかった者も押し並べて苦しみからお救いになってくださった。これを分けられたらさぶろうなどがお救いにあずかれることなどはなかった。困苦災厄を被っているばかりであった。そこへ市役所の5時のサイレンが鳴った。一日が暮れたのである。
*
衆生被困厄 無量苦逼身 観音妙智力 能救世間苦 妙法蓮華経「観世音菩薩普門品偈」より
*
しゅじょうひこんにゃく むりょうくひっしん かんのんみょうちりょく のうぐせけんく
*
衆生は困苦災厄を被って 無量の苦しみが身に逼るけれども、すかさずそこへ観音さまが現れて下さって 絶妙なる智慧の力でもって 世間に満ちている苦しみからよくよく衆生をお救いになって下さるのだった。
*
それでさぶろうの今日が暮れた。有り難い。さぶろうはのうのうとしていればよかったのである。欠伸して昼寝していればよかったのである。観音さまにすまない。昼寝をしてもらうこともなかった。見えぬように見えぬようにと心配りをされてその実は朝昼夜24時間さぶろうの救出活動にねんごろに当たっておられた。そのことを露知らぬさぶろうであった。おのれ一人の力で生きていると息巻いておった。
さぶろうもとどのつまりは静かになれるところへ来る。それまでだ、わめき散らしているのは。右往左往して迷路を辿っているのも。恐がっていてもやがて恐がらずにすむところへ来る。その導き手が観音菩薩様だ。目には見えぬ。いや、目には見えているが観音さまの姿などはしておられない。諸現象である。それがなにしろ捉まえどころがないので、そのように擬人化して尊敬と感謝を払っているのだ。
*
十方諸国土 無刹不現身 種々諸悪趣 地獄鬼畜生 生老病死苦 以漸悉令滅
妙法蓮華経「観世音菩薩普門品第25」偈より
*
じっぽうしょこくど むせつふげんしん じごくきちくしょう しょうろうびょうしく いぜんしつりょうめつ
*
十方の諸国土あれども (観世音菩薩は)刹(=国)として身を現さざるなし 種々の諸悪趣のところ 地獄界餓鬼界畜生界の その生老病死の苦しみといえども 以て漸くに悉く滅さしむ
*
世界広し、宇宙広しといえども観音さまはどこにでもお姿を現される。地獄界にも餓鬼界にも畜生界にもお姿を現される。もちろん人間界にも。
ここで人間どもは生老病死の苦しみでのたうち回っている。(ときどきこの苦しみを抜けた顔をして金儲けなど、出世ごっこなど、色事などをして楽しんでいる輩も居るにはいるが、ほんのしばらくで、その上に高価なツケまで払わされることになる)
のたうち回ってばかりではならぬ。観音さまはお慈悲を垂れて歩かれる。仏陀の教えを説いても回られる。こういう次第でやっとやっと仏陀の真理に目覚めて人間は静かになる。人間は最後は静かになる。
*
観音菩薩様は阿弥陀如来の教えの説くところその実践を引き受けて下さっている。だから超忙しい。どこへでも出て行かれて救出活動に勤しまれる。「おれはそんな奴らから救出された覚えはない」などと嘯く奴らも出て来るが、それはそれでいいのだ。無自覚を追いかけて行かれることもない。自覚者だろうと無自覚者だろうとお構いなしに救って行かれるのだから、詮議は無用だ。
*
この「滅」は寂滅滅度のことだろうか。人間は終いには大人しく静かになれるようにしてくださっている。これがダンマ=法なのだろう。
あしひきの山田の原に蛙(かわず)鳴くひとり寝(ぬ)る夜のいねられなくに 良寛禅師
「あしひきの」は「山」にかかる枕詞。山麓に田が広がっている。周辺は雑草の茂った原っぱだ。ここに水が引かれてやがて田植えになる。この頃になると蛙がどっさり集まって来て会議を開催する。国際会議だ。議題は「うるさい人間どもをどうしたら静かにさせることが出来るか」だが、けっこう彼らもうるさい。寝付けないくらいにうるさい。喧々諤々。議題が高邁すぎる。だから朝まで結論が出ない。出ても人間どもが水を打ったように静寂平和になることはないのである。テポドンを打つ。戦車を列べて閲兵式をする。地球のどっかは朝でどっかは昼でどっかは夜である。明けても暮れてもどんちゃんどんちゃんやっている。よっぴいて欲望処理をしなければならない。ご苦労様である。禅師はもちろん一人でやすんでおられる。誰も夜伽相手をしてくれる者は居ない。お伽噺をみずからにして聞かせるしかない。禅師は和歌を作っておたのしみになった。
ほう。やけに気温が低いぞ。さぶろうは冬のジャンパーを探し出して来て着込んだ。これだったら外に出ていっても蚊取り線香だって焚かなくてすむかもしれない。外に出ていこうかこのまま家の中にいようか。ともかく左の背中の肩甲骨の付け根が痛い。この頃よくこうなる。時として我慢が出来なくなるくらいになる。どうしたのか分からない。耐えるしかない。家内は大学の県支部会合の会計帳簿をするために午前中から出掛けている。さぶろうがひとり留守番である。留守番はいつものことだから慣れている。さぶろうはまったく社交性がないから出掛けて行くところもない。だからどのみち留守番には適していると言えよう。べつに苦痛ではない。好き勝手をして過ごしていればいいのだから。もちろん何にもならないことをしているばかりだ。寝転がったり本を読んだり音楽を聞いていたり。生きている密度がとっても薄い。味も薄い。気圧も低い。人の充実度の1000分の1くらいしかないだろう、おそらく。さぶろうが1000日を生きてやっと人様の1日に値する。それくらいぺらぺらだ。それをお天道様に恥じる。せっかくの好意を無にしているようで。台無しにしているようで。お天道様はさぶろうにもっと濃く味わい深く生きて欲しいのかも知れない。
おやおやまた雨がひどくなってきたようだ。一日がもうすぐ暮れる。人様の一日はバター入り豚肉入りパンプキンスープのように濃い。これにくらべたらさぶろうの一日は水のように薄いオニオンスープだ。これを飲んで平気な顔をしておいしいと言っているさぶろうである。世話はない。
ふううん。僕の独り言。なんだ、期待してたのか、やっぱり。あの人は来ないようだ。来ないでいいと言ってたのなら、そりゃ来ないさ。強がりするからさ。愛は毒か。こうまで拒絶すべきものなのか。
女が石になっている。その隣で男も石になっている。触れ合う手も石になって冷たい。差し伸べる掌も石になって動かない。何年そうしていればすむのか。でも息が聞こえるから死んではいない。
雨蛙が鳴いている。雨蛙だってもっと素直に、もっと自然に暮らしているのに。こころの赴くままにしていられるというのに。それはいけないこれはいけない。禁じ手ばかりを己に課してどうするつもりなのだ。
雨。ざあざあざあああ。風もあるのか。まだ障子戸を開けていない。げこげこげこ。大袈裟に雨蛙が騒いでる。僕は、起きてもいいのに、だらしない。布団を離れない。ちょっと寒い。肌寒い。半袖シャツだけだから。「つまらないや。今日はこの調子だったらなんなにもできないな」と思う。予定ではオクラ苗を畑に植え付けることになっていたのだが、これはできない。雨の音が一段と高くなった。風が雨を叩きつけている。それに追われるように雨蛙が囃したてる。僕には思う人だっていない。遊びに行くところだってない。
畑を耕して瓜を二株植え付けました。ここまで2時間を要しました。草を取って耕して施肥をするのに2時間も。のろのろののろまなのです。最後は雨になりました。一天掻き曇ってぱらぱらぱら、ばらばらばらと音を立てて。大空を見上げて「ちょっと待って」「もう少し待って」と頼みました。石灰や油粕や牛糞の重たい袋を運び込む間にびしょ濡れに濡れてしまいました。下着まで。でもおれは働いたぞの満足気分に浸りました。
一人の人間は一つの口しか持っていない。一人の人間は一つの胃袋しか持っていない。それなのに、ありもしない百の口、千の口、万の口を、あると思いこむこともできるらしい。ありもしない百の胃袋、千の胃袋、万の胃袋を、あると思いこむこともできるらしい。そうすることで一度に百人分の人生を生きるということは、しかし、できない。千人分、万人分の人生を生きるということもない。一人の人間は一つの口しか持っていない。一人の人間は一つの胃袋しか持っていない。一人の人間が食べる分の贅沢に甘んじていてもいいのだ。欲望の口と欲望の胃袋を満たそうと努力することはないのだ。